2014/04/21

アジアワッチ特別編:「反日」の正体が一瞬見えたような…(その1)

 昨夜ふとんに入ってからいつものにように頭をいったん空っぽにし、「無意識に考えている(んじゃないかと私が解釈している)」ことが頭の中を駆け巡るにまかせた。で、ポンっと出てきたのがエントリタイトルの件だ。脱線はするけど本エントリの内容は大まじめだ。

 別段新しい話ではない。けれど、自分も同じ結論に至ったのだな、という点は「主体性は如何なる場面でも重要」、「他人の受け売りは恥(出典を明らかにしての引用はむしろ勉強している証拠)」などの自分の価値観の照らせば重要だ。

 結論から言えば、「反日」には正体なんてない。韓国国内問題である「今日的な反日」と、正統な民族運動に基づく「反日」とは、成立理由や経緯、品位にあっては天と地との差ぐらい違う。「反日」の種は、大和朝廷による日本と言う国の成立直後にまで遡る、ということだ。

 じゃぁ、迷走を始めるよ。

 他者を正当に評価し、自らを精神的に成長させ続けつつ実利としてのアウトプットを出し続けるには、実のところ「自信」が不可欠だ。

 「自信」は自らの精神的成長によっても得るものだが、最初の種としての「自信」は低いレベルで良い。もっとかみ砕くと、「自分で自分を認める(=私も以外に捨てたもんじゃないかも?!)」ことができれば良い。逆説的だが、「自分で自分を認める」ことの繰り返し、認めた内容のレベルアップこそが精神的な成長ってやつだ。ここまでは「他者の視線や評価」は必須ではない、いやむしろあまり望ましくない。

 幼少期の挫折はトラウマとしては最悪なもののひとつで、自力での克服は容易ではない。私が30歳ぐらいまでかなりメタメタだったのは幼少期に耳にした母親の不用意な一言、「あんたなんか産まなきゃ良かった」に起因する。これの解消には、母親の別の一言、「今になってあんたを生んだことが良かったと思えるようになった」が必要だった。全般的にメタメタだったものの、自分のそれまでの生き方が基本的に間違っていなかったことの私にとっての証左だからだ。

 それはさておき、

 従って「自信の種」は、自意識過剰気味な多感なお年頃に至る前に持ってしまった方が良い。「ポケモンの名前全部言える」で十分で、両親や祖父母に褒められるだけぐらいがちょうど良い。ただし、並行して「次の自信のための種」も持っておかないといけない。他者の視線や評価の対象となり得る「より一般的なもの」に対して興味を持ち、のめり込んでみることだ。このとき、親などの近親者の果たす役割は大きい。

 私の場合の興味の対象は、星とSci-Fi、つまり天文学と小説だ。私の両親の偉いところは、「本気か?」と私に確認した上で天体望遠鏡購入に資金的援助をしてくれたり、所謂小遣いと書籍代を別会計にしたことだ。

 のめり込んだ結果、多感なお年頃になる辺りでその分野については他者からも一目置かれるようになる。これは「自信」として良い、なぜならばそれは「自らの行動によって手に入れたもの」だからだ。お勉強は優劣が容易に明確化されるので、個人的にはお勉強「のみ」に絶対の自信を持つのは挫折予備群化する危険性が高いのでお勧めしない。だからって、お勉強をしなくたって良いと言っている訳じゃぁない。お勉強は「さらに次なる自信の種」でもあるからだ。

 さて多感なお年頃末期に、就職するなり高等教育を受けるなりの選択に迫られる。

 技能職、突き詰めていけば「職人」の世界は「腕が命」、つまり一流、せめて二流になるにも「他者の評価に裏打ちされた自信」の獲得が必須だ。ここにきて、「自分で自分を認める」ことができるかどうかは「自信」獲得における必要条件でしかなくなる(「他者による評価」が十分条件を満たす上で必須となる)。サラリーマンになるにしても、セールス業なんて最初っから「ノルマ」とかあれば大変だが、「自らの流儀、強み」を見出せるかもしれないチャンスでもある。

 一方、大学等に進む場合、理想的には「やりたいこと、興味あること」が進学先選択で重要な役割を果たすことになるだろう(この辺りは個人的には紆余曲折があったから内容には触れないけど、ここ4~5年の趣味なんてのは言わば「50%程度不本意だった進学」の代償行為みたいなものだ)。幸いにも「心ある師」を得ることができれば、卒業できたことだけでも「十分な自信」になる。専門性が強くなればなるほど、「どうでも良い1万人」の評価よりも、「認められたいと願う一人」から評価の方が嬉しくなる。「認められたいと願う一人」から何らかの反応があっただけでも十分だ。

 かくて、「自信」は強化の段階に入る。大抵の「良い意味で自分に厳しい人」はおそらくこのフェーズに自覚的に居続けている人だろう。私は辞めちゃったけどさ。

 さて、大風呂敷を広げるよ。これまでの個人の「自信」に関する考察を国家に敷衍してみる。ここから先は異論があっても全く無問題、所謂IMO(In my opinion、私の思うところ…)だからね。

 「国家たらん」とすれば、自主、独立が必須となる。「現在」の日本は両者共に心もとないところもあるのだが、このエントリでの論展開ではいったんうっちゃておく。あくまで「現代」の日本の話だからだね。

 例えばASEAN諸国が比較的「親日」であることは良く知られた事実だが、この中韓との温度差の原因にはやはり「自信」の有無があると私は見る。連合軍だって大東亜戦争の敗者という言説がある。大東亜戦争は、結果として、連合国がアジアに持つ植民地を短期間で失うことになるトリガーを引いたことに間違いはないからだ。

 「絶対勝てないと信じていた支配者である白人種を、黄色人種である日本人があっという間に打倒した。」

 これこそが「自信の種」である。重要なのは「日本がアジアの欧米植民地を解放した」という点よりも、「私達黄色人種って実はたいしたもんじゃないのか?!という意識」の明確な萌芽、共通認識化である。

 で、現在のASEAN諸国の人々が別に「日本人になりたがった訳ではなかった」こともとても重要だ。彼らは彼らの民族的なアイデンティティを維持しつつ、支配国に対して独立運動の刃を向けた。結果として得られた独立は文字通り血も流して「自ら獲得したもの」であり、「黄色人種の自信」を「自らの民族や民族集団の自信」へと昇華、強化するに十分な理由となる。

 だからこそ、それら血であがなった「自信」に裏打ちされた「国家」は「正当性」を持ち、それら国家やその国民は現在の日本人から見れば十分にリスペクトの対象だ。それ故、それら国家に住む人々から日本が好意的に捉えられいることは喜んで良い事だと思う。同時に、これらの国々から「今の日本は…」と言われると本当に頭が痛い思いをすることになる。

 所謂「自虐史観」のまずさは「自虐的であることにあるのではなく」、「現在の日本と周辺国との関係を正しく認識するために必要な文脈を備えていない歴史観」である点と、それが「歴史」と等価に意図的に誤って使われる点に尽きる。現在が過去の延長であり、連続性を持っている以上、件の文脈を備えていない歴史観は「真っ当な『歴史』なら備えるべきものを備えていない」と断言して良い。「歴史観」と「歴史」は別物、両立し得る。ここを分けられないのであれば間抜けにも程があると言えよう。

 さて、「歴史」を紐解くに、朝鮮半島が「植民地化」された事実は無いようだ。少なくとも近代的な植民地にはされたことがない。「朝鮮」という言葉の起源については色々とあるが、韓国ではおそらく教えていない説の例を敢えて挙げると、
  • 真新しく何も無い様を表す言葉。つまり、見るべきものや欲しいものが何もないよ、ということ。
  • 「朝貢是少」(中国への貢物が少ない)を縮めた表記。つまり、見るべきものや欲しいものが何もないよ、ということ。
なんてのがある。要は、朝鮮半島には何もないから「近代的植民地化の旨味がない」と考えられていた可能性が高いということだ。ただし、現在の北朝鮮内には良質の金鉱、炭鉱があることが現在では分かっている。

 実際に日本がやったのは「合邦」であり、朝鮮半島においても大日本帝国憲法が適用されたのである。どう考えたって「近代的植民地」とは状況は程遠い。とは言え、心ある民族主義者もいた訳で、そちらの視点に立てば「日本が朝鮮半島を侵略した」という言説にもうなづけるものはあるが、それでも「日帝による朝鮮半島の植民地化」はきっぱり無い。朝鮮半島の住人の多くは「日本人になりたがった」のである。だって、「朝鮮半島の人々から見た場合」、当時の日本人は朝鮮人より「格上」だったからね。

 が、それも大東亜戦争が終結するまでだ。戦後は「朝鮮進駐軍」なんて戦勝国気取りの連中まで国内に現れるに至る。これに対しダグラス・マッカーサーは「第三国人なり(連合国側でも枢軸国側でもない)」と発言したが、そこは「お前らは日本人だったじゃないか!お前らは負けた側だ!」と言うのが本当だろうなんだけどね。

 戦後、朝鮮半島南部は米国の軍政、北部はソ連の傀儡政権統治下となる。この時点でおそらく最も「自信」を持っていたのは、南部では金九氏らのガチの抗日活動家や日本で教育を受けた軍人、北部では中国系、ソ連系などの抗日活動家なのだが、結局彼らは現在の韓国、北朝鮮の成立にほぼ関わっていない。金九氏は米軍軍政下で臨時政府主席を務めるが暗殺され、日本で教育を受けた軍人達は優秀故にクーデターを恐れた李承晩氏の下で冷遇されることになる。李承晩氏は金九氏とも協調した時代もあるが、どうも民族主義とは相容れない行動、言行が目立ち、民族活動家としては「なんちゃって感」がぬぐえない。北は北で抗日勢力同士が内部抗争を繰り返して自滅、結局ソ連が連れてきたたどたどしい朝鮮語をしゃべる若い男(伝説的な抗日パルチザン、金日正氏とされる男)が実権を握る。

 つまり、南北朝鮮の国家の成立は「自らが手にした独立」という「自信」も「正当性」も欠いているのだ。そいう意味では韓国のパパ朴大統領は数少ない「自信」ある大統領ということになるし、やはり「自信」ある軍人によってクーデターが起きるという李承晩氏の判断はたまたまとは言え妥当だったということにはなるのだろう。

 パパ朴大統領は「克日」を唱え、韓国に「自信」を与えようとしたし、北朝鮮は「主体思想」により「独立の正当性」の後付けを試みた。彼らは彼らなりに自国の弱みを理解し、克服を試みたと言って良いだろう。が、パパ朴大統領も暗殺され、「克日」は忘れられ、韓国は「自信」も「正当性」も欠いたまま現在に至る。もちろん、「正統性」なんかありゃしない。北は北で「正統性」をねつ造するだけでなく、政権の「世襲」まで行い、これまた国家としての「正当性」をうやむやにしたまま現在に至っている。ちなみに「正統性」は、中共が過敏に成らざるを得ない概念だ。

 以上、ざっくり纏めると朝鮮半島国家の正当性に関わる事項は以下のようになる。
  • 日本による合邦時、朝鮮半島の住人の多くが「日本人になりたがった」。
  • 南部の抗日活動経験者は韓国成立時には排斥されていた。つまり、血であがなった結果として独立への「自信」を持つに至った人間は韓国成立に主要な役割を果たしていない。
  • (パパ)朴大統領時代に韓国が本当の「自信」を手に入れるチャンスはあったが、朴大統領暗殺後にはそのような意識改革のチャンスを設けた指導者は現れていない。
  • 金日正氏(とされる人物)には「独立のための正当性ある指導者」としての根拠に欠けるとされる。その資格のある人間は内部抗争の過程や他国の干渉で北朝鮮成立時には排除されていた。
つまり、純粋に自他ともに認めるガチな「抗日家」「反日家」は南北朝鮮国家成立時には、軍人の一部を除いて居ないということになる。極論すれば、南北朝鮮国家の国民の大部分が、かつて「日本人となることを受け入れた人々」と「それらの子孫」なのである。故に「反日」とは、「かつて日本人だった自分達との戦い」の筈なのである。「内なる日本人と戦え!」、まるでイスラム教における本来の聖戦の如き一生をかけても終わらないかもしれない戦い(修養)なのである、本来は。

 が、何の「自信」も「覚悟」も無しでそんな「厳しすぎる戦い」、「修養」に挑める筈もない。結果、それがもうどうしようもなく捻じれてしまうことになる。「殺した相手の事は気にしなくても、殺した相手の主張は益があるからそのまま使いましょう」と蝙蝠的態度を繰り返すうち、「殺した相手の功績、覚悟、資格、自信も自分達のもの」と勘違いするに至る。或いは意図的にそう信じることにする。「光復」なんて言葉、喜んで日本人になった人が使う筈無いでしょうよ。

 つまり「反日」とは、「かつて日本人となることを受け入れた自分達へ向けるべき刃であったのだが」、「『資格が無い』にも関わらず自分達を『反日』の主体に置き換えた結果、刃を向ける先を失い」、「日本に刃を向けることにした」ということだ。

 「自分達は悪くない、自分達には非が無い」という、「歴史的にはほぼ誤っている願望とでも呼ぶべき嘘」を「集団的につくこと」から「国が始まっている」のである。

 嘘をつく必要がないガチな抗日活動家は当然邪魔となるので粛清、排除済みだから、国内に異を唱える人間はもはやいない。その時点で、「反日」を唱える人間はすべからく「親日」を根として持つ者だけなのだ。国内においては、皆が親日罪人故に難癖付けて他人を親日罪人として強烈に吊るしあげずにはおられない。

 「ガチな抗日活動家」、すなわち他の多くのアジアの国々では「建国の父」や「独立運動の英雄」となるべき資格を持つ人々は、「自分達は親日ではなかった」ことにした人々によって構成された国家の「欺瞞と嘘を白日の下に晒す」だけの力、資格を有するが故に「国家の敵」となるのである。李氏朝鮮もそうだったが、「真に愛国者たる者」は国や国民に裏切られ、殺され、忘れさられるのである。

 これらの苛烈な反応は、「抗日が民族的運動ではなかった」という歴史的事実認識を、少なくとも当時の人々は共通認識として持っていたことに起因しよう。

 「なんちゃって反日活動家(なんちゃって抗日活動家、似非民族主義者、権力亡者)」が「なんちゃって」故におびえて「真の反日家(抗日活動経験者達)」を粛清し、「根拠ある『自信』を持つ日本で正式な訓練を受けた軍人達」を「親日罪人」を理由に冷遇し、なんちゃって反日活動家」から世代交代の後は親日罪人やその子孫」が親日罪人」を吊るしあげる。

 本来「論理的には国民総懺悔(総修養)」の筈が、何故かこうなっている(日本語文法にも「過去開始・現在進行形」が欲しいね)。これはとっても恐ろしい構造だ。

 「和解ではなく、他者を全て潜在的な敵とする」、それが韓国の選んだ道だ。「自分達は悪くなかった」という嘘を守るにはそうするしかなかったのだ。まぁ極論だけど、そんな国家的アイデンティティを継承する国に「過去の歴史を直視せよ」なんて言われても全く説得力が無い。

 日本も自虐的に「一億総懺悔」なんて言ってたけど、これはこれで国家としての禊、結構深い知恵に基づく反応と言えなくもない。「水に流す」には「かつての自分達には非があった」ことを嘘すれすれであっても認める必要がある。和解のために「非があった」ことを認める余地を与える文化的仕組み、それが「水に流す」だろう。

 故に、「あの国はどんだけコンプレックス(劣等感)が強いんだw」という言説は、上記の点を理解している人間に対してだけ正しい。大抵の場合は悪い意味でコンプレックスすら持っていないと言って良い。「コンプレックスを持つ資格すら無い」がより正確だ。だから韓国は「嘘なんかついていない」。韓国は「本当の事を言える能力を持たない」ことを暗黙の国是として成立し、それを維持することで「国家の体」を維持し続けているだけなのである。

 本来、「反日」の対義語が「親日」であってはいけない、「愛国」でなければならない。「親日」があるということは「愛国」不在の証左なのである。

 それは仕方がない、といえばその通りなのだ。だって彼らはかつて「日本人」であった時代があり、その時の「愛国」行為は、現在の尺度での「親日」行為に他ならない。だからと言って、それは「親日」の一応の説明にはなるけど、今日的な「反日」には何らの意味付けも存在理由も与えない。ここで存在が許されるのは「反親日」でなければならない。論理的ではないのである。

 既に別エントリで触れた通り「恨という他者から見れば理不尽な自虐史”観”」に飲み込まれるまかせ、甘え切ることで、それまでの自らの振る舞いの総括(左翼用語?)もしないまま、現在に至っているということだ。大東亜戦争の終結は、かろうじて中華思想のくびきから逃れた状態で自分達の有様を総括し得る千歳一隅の機会だった筈だ。だが、米国を新たな宗主国に奉ることに汲々とし、韓国はその機会を無為のままに失う。一方、北朝鮮では「伝説の抗日パルチザン、金日正とされる若い男」が狡猾にもその機会を逃さなかった。

 今日的は韓国の「反日」は、「抗日」、「民族主義(活動)」の正統な後継概念ではない。故に、その起源に歴史的な正統性を求めることはできない。今日的な「反日」と「光復節」や「三・一運動」を結び付けることの一種の奇異さ、ちぐはぐさは、割と普通の日本人でもなんとなく感じてるんじゃないだろうか。今日的な「反日」、それは「光復」よりも後に生まれたものだ、の状況を「光復」に命をかけた人々はどう見るだろうか。情けなくて、死んでも死にきれないんじゃないだろうか。

 対して、北朝鮮の「反日」には、その真偽の程は別として、日韓併合以降の「抗日」や「民族主義(活動)」の正統な後継概念としての資格がちゃんと与えられている。だから、「反日」といっても現在の韓国のそれとは全く異なる。少なくとも「反日」に関しては、北朝鮮の方が筋が良く見えることがある、或いは「北朝鮮の方がマトモに見えてきた」などと表現される事態の発生にはちゃんとした理由があるのだ。北朝鮮が韓国を「馬鹿にする資格」がそこにはちゃんとある。

  韓国の「反日」に正体がないという理由は、「日本が存在しなければ、自国すら存在しないことになる」という帰結を当然のように招くことになる、極めてねじくれたひたすら非現実的なロジックの上に成り立つ、かつ大東亜戦争終結後に生まれた概念だからだ。そこには「独立」も「自尊」もない。だから「他者を認める、愛する」こともない。米国は「反日」ではないから、残念、宗主国失格なのだ。

 おそらく「克日」とは、「日本に依存することを克服する」ではなかったのではなかろうか。自らの有様を「日本」との比較や相対的な位置付けで捉えるという甘え体質の克服、つまり「独立」と「自尊」の獲得、ただ無用に自意識過剰で多感な少年、少女から大人への成長だ。だから「火病」の原因は子供の反抗期の原因といっしょ、とってもとっても面倒で迷惑だけどさ。

 では中共の「反日」はどうか?こちらは逆に「大人の事情」の様相が強いんじゃないか、というのが私の見立てだ。

 続く!

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