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2021/06/17

メインPC、CPUのダウンクロック(その2)

 先行するエントリで、Intel i7-10700を搭載したメインPCのCPUをダウンクロックしたことについて述べた。 全力動作時にCPUパッケージ温度が100℃に達することを嫌い、TDP最大値を120Wから80Wに下げたのだ。そもそもの原因はCPUクーラーの冷却能力不足なので対処療法に過ぎないのは悲しいことだが、最大パワーを約10%捨てる(最大クロック4.1GHz→3.6~3.7GHz)ことで、CPUパッケージの最大温度を90℃以下とし、CPU冷却ファン作動音の1ランクの低下を得た。

 が、その後更にTDP最大値を70Wまで下げることにした。これはIntel i7-4790を搭載した先代のメインPCではパッケージ温度が85℃を越えなかった結果を受け、CPUパッケージの最大温度ターゲットを85℃以下に見直したことによる。結果、最大クロックは3.5GHzとなって更に4%弱パワーを捨てたことになるが、全力動作時のCPU冷却ファン作動音は更に低下した。Cinebench R23(マルチコア9296)を信じるなら、それでもマルチコア性能はIntel i9 9880H(マルチコア9087)を超える。

 まぁ全力動作時のパワーとして、ついに1コア分を捨てたことになった。

 アプリによっては使用スレッド数やコア数を制限できるものもある。しかしCPU温度制限によるサーマルスロットリングで最大パワーが決まる今回の状況下では、アプリで使用コア数やスレッド数を減らすよりも各々のコアのパワーを若干削ってでも全コア或いは全スレッドを使った方がより大きなパワーを確保できる。同時にCPU温度も下げられるし、PCの静音化もできる。

 あと用途によって大事なことは、これらのクロックダウンはTDP制限を下げた結果に過ぎないことだ。これは、TDP制限やデフォルトのCPU温度制限(100℃以下)に引っかからない場合、コア単体の最大能力は下がらないということを意味する。Cinebench R23のシングルコア性能測定時は、次々と使用するコアを切り替えながら常に単一のコアしか全力では動作させない。このようなコアの使い方をした場合、CPUパッケージのTDPはせいぜい40W程度だし、パッケージ温度も80℃すら越えない。換言すればスロットリングは一切行われない。結果としてベンチマーク中のコアクロックは4.6~4.7GHzに維持され、ベンチマークスコア(1230前後)も基本的にTDP制限が120Wでも70Wでも変わらない。MS比は7.5だったので、現行設定では0.5コア分のパワーを捨てていると評価されたような感じだ。

 ただマルチコア/スレッドとシングルコア/スレッドとにおける単一コア/スレッドの計算パワーの関係は、単一コア/スレッドに割り当てられる計算量(所謂、粒度)や同時に使うコア/スレッドの総数、更に各種レイテンシによって変わるので単純ではない。この辺りの機微は、12~15年間に並列科学技術計算に関わった経験がある人には良く分かるのではないかと思う。

 以下雑談。

 当時の議論対象は、①そこそこの大きさのメモリと高速なCPUを組み合わせたものを多数並列化したシステム(分散メモリシステム)と、②大きな単一のメモリにそこそこの計算速度のCPUを可能な限り多数接続したシステム(共有メモリシステム)の2つのシステムの利点・欠点だったものだが、もはやこの種の議論に意味は無くなっている。①はPCクラスターを経て、②はGPGPUとニーズに合わせて並列共存する形で、計算機技術としてはともにクラウドコンピューティングに収れんしてしまった。計算速度特化と言う意味でスパコンは未だ特殊だが、傍目からの素人目線では、とにかくデータ転送・通信のレイテンシの低減、隠ぺい(物理的には分散メモリだが、動作は限りなく共有メモリに近くする)にコストがかけられる最後の技術分野と言ったところだろう。クラウドコンピューティングではレイテンシ低減の代わりに闘いは数だよ兄貴!数にコストをかけ、併せて冗長性も確保する。 

 なお①はDAWや3DCGIのモデリング向け、②は3DCGIやあらゆるコンポジット(合成)プロセスのレンダリング向けだ。動画エンコーディングは②のほぼ最終のプロセスに当たる。

 爺さんになりつつ身の私から見ると、今のPCは色んな意味で①と②のキメラになってしまった。マルチコアCPUを搭載したシステム概念として既に①と②のキメラであり、グラフィックス機能のCPUへの内蔵は物理的にも①への②の内蔵だ(Intelのララビー・アーキテクチャを覚えている人はいるかな?)。グラフィックボードの導入は①+②のシステムの具体的な実装であり、①と②のどちらを選ぶべきかと言ったかつての真面目な議論をあざ笑うかのような状況以外の何物でもない。DAWやCGI、そしてグラフィックリッチだったり最善手を常に追い続けるような対戦ゲームのためのハードウェアだ。だから現在のPCはとても「皆のもの」と呼ばれるものではなくなった。だからPCを使えない、触ったことが無い若者が居るなんて話を聞いても驚かない。要らん人には要らんでしょ、こんなもん。だからと言ってChromebookはセンス無さすぎでしょ。

2021/04/07

MAIKA、敗北す。おまけ

 先行するエントリを書きながら、ちょっと思い出したことがあったので書いて置こうと思う。ただの思い出話だよ、と言う点は重ねて強調しておく。加えて、もしかしたら同じ話を以前のエントリでも書いてるかもしれない。本ブログの存在意義はほぼブログ主の知人への生存報告だから、まぁ、そう言うこともあるよと言うことで。

 で本文。

 就職してから10年も経たないころ、上司命令で英語研修(初級・二週間)に強制的に放り込まれたことがあった。私の余りの英語力の無さから、社内での私の将来を憂いたものと思われる。とっつきにくいところのある静かな上司だったが、不景気な時期に仕事を探して黙々と組織、ひいては部下を維持していたなど、実は部下思いで熱いところのある人だった。定年後もその技術や知識を見込まれて働かれていたが、最近ついにリタイアされたと聞く。

 さて、思い出したのは研修初日での事で、日本語で言う「シ」の発音にまつわる話だ。

 8名ほどの生徒が先生の前に列を作り、列の先頭で先生と対面状態となった生徒が先生に指定された英単語を発音するということをやった。英単語自体は中学校教育レベルのものだが、おそらく発音に癖があるものが選ばれていたのだろう。私も含め、とにかくダメ出しを喰らっていつまでたっても次の生徒と代われない。行列が進まない。

 私に指定された英単語は"machine"、所謂「マシーン」だ。上述の通り、ここでの「シ」の発音は日本語のそれとは全く違う。日本語における「シ」は口の開きは中くらいで、やや横に広げ、若干開いた上下の歯とそれらの直ぐ後の舌先の間の空間付近で音を出す。口の横方向をほとんど開かずに発音する人もいる。この場合は多少聞き取りにくいが、時に不愉快に感じる摩擦音が小さいため、上品に聞こえることもある。卒業式での「仰げば尊し」の歌唱は定番だが、中学生ぐらいだと自意識などが邪魔をして小声で歌うことしかできなかったりしたことはないだろうか。このような場合、「シ」の音ばかりが体育館にやたら響くことになる。

 さて、20回以上のダメ出しを喰らった辺りで、先生の「私が発音する時の、私の口の形を見て」の意味が分かった。結論を書いてしまおう。まず口は思いっきり横に開く。上下の歯はむき出しとなり、上下の隙間もほぼ無くなる。ここで上下の歯の間辺りで音を出す。この音は純粋に空気が上下の歯の間を抜ける際に発生する摩擦音であり、日本語の「シ」の発声の要領で若干音を整えても良いのかもといった感じだ。むしろ「ス」や「スィ」に近い音になる。つまり、全くの別の発音なのだ。とにかく口を横に開く先生の口の形を真似たら、それだけで悪くない音が出た。更に発声を繰り返すこと数回、"Excellent"を貰って次の生徒と代わって列の一番後ろに並んだ。

 この経験は、COVID-19禍下であってもマスクの使用を嫌がる欧米人が多い理由の一つを説明出るのではないかと思う。

 周囲の雑音などが原因で耳で子音が区別しにくい状態での会話でも、相手の口の形が見えていれば音を特定し易いからだ。日本人と比べて、彼らは会話において口の形など視覚情報をより活用している可能性が高い。上記の「先生の口の形を真似たら、それだけで悪くない音が出た」は嘘ではない。私の例では、下手をすると口の形、歯の位置、歯の間から空気を出しているような体の素振りといった視覚情報だけで、ネイティブスピーカーレベルなら音を特定できるかも知れない。歯がむき出しになっているかどうかだけでも、結構重要な情報になり得るようなのだ。

 そう言えば、ディズニーなどによる劇場アニメーション作品は元より、TV向けカートゥーン作品でも会話時の口の描画へのこだわりは日本のそれとは全く別物だ。それは母音だけでなく、子音にも及ぶ。きっと口の形と発音が一致していないと、観ていて違和感があるのではなかろうか。

2020/11/21

自分が使ってきたGPUの歴史を紐解いてみる

 Youtubeのホーム画面で「さつまいもの物置部屋。」さんの動画「GPUの歴史シリーズ 総集編【ゆっくり解説】」がレコメンドされる。「GPUの歴史シリーズ」はリアルタイムで既に観ていたから流そうかとも思ったが、「なんと総集編とな!」、と言うことで拝見。「等速で観ているだけで視聴者の貴重な人生から約1時間を奪っていく(気づくと奪われていた!)」という凶悪?とも言える大作である。

 で、動画を拝見しながら思ったのが、「自分はどんなGPU(およびグラフィックアクセラレータチップ)を使ってきたのかな」だった。と言う訳で、まだ病気療養中なれど多少の体調改善が見られてきているので、自分の記憶を探りつつ文章を紡ぐ、と言う健康ならなんてことないんだけど現時点では地味にキツい負荷を自らに課してみようと思う。ただほぼ30年間にわたる話になるので、適宜ネット上の情報でチェックはするものの、記憶違いや勘違いが含まれているだろうことは明記しておく・・・ごめんなさい。

 「こんなエントリ、誰が読むのか?」との疑問はごもっとも。本エントリは誰にも読まれなくても良いんやで。

 さて、時代は90年代初頭、バブル崩壊直前のことである。私の部屋の机上にはNEC PC-9801DXがあった。本機、後に沖縄方面にドナドナされる。CPUはintel 80286 10または12MHz(スイッチ切替)、グラフィックは内蔵チップによるアナログ16色・640×400ドットだった。バブル崩壊後、EPSON PC-486(詳細型番失念)を購入。この時期にしてPCIバスを備えながら、コネクタの形状、寸法は独自規格と言う困ったチャンだった。CPUはIntel 80486DX4 100MHzとパワーアップされるが、グラフィック性能はNEC PC-9801DXと変わらなかった。そしてここまでは、正直のところPCとは和エロゲー専用機だった。若かったんやでしゃーない。

 転機はMicrosoft Windows 3.1(3.0ではない)の登場とAT互換機の日本への本格上陸(≒DOS/Vの登場)で訪れた。まず、前者はNEC PCおよびEPSONの互換機向けにグラフィックアクセラレータなどと呼ばれたグラフィックカード製品を生んだ。その一つが「I-O DATA GA-1280A」である。チップは「I-O Data ZF-16」で、16bitカラー(65,536色)・1280×800ドットをサポートし、Windows 3のグラフィック描画サブシステムであるGDIをアクセラレートする。加えて対応したゲームなら、DOS環境からでも利用できる。16bitカラーやMacやPCで絵を描いたことがある人には分かってもらえると思うけど、人間の目の色の分解能はやっぱりすごいね。16bitカラーなんて色数としては十分じゃない。

 さて、

このカードを使って遊んだゲームの代表としては、カジュアルコンバット3Dフライトシミュレータである「ストライクコマンダー」がある。辛い点は拡張バス(Cバス)が16bit幅と狭いため、16bitカラー・1280×800ドットだとフレームを下から上へと(Bitmapデータの並び順)1ライン単位で書き換えている様子が分かってしまうところだ。おそらく6~8フレーム/秒ぐらいのフレームレートしか出ていなかったろう。だが、色数、画面解像度の向上(とCバス用サウンドブラスターの追加によるオーディオ機能の画期的レベルの向上)の魅力は余りに大きく、「Windowsに進むにしても(実はMacintoshユーザでもあった)ゲームをやるにしても、次に買うのはAT互換機だ」との意を強くした。

 そしてAT互換機が本格上陸、国内でも流通し始める。加えて職場には元々米国製機器が多かったため、制御用としてAT互換機を普段から触る機会が多かった。あまつさえそのころには、勝手にLANケーブルを張り、昼休みにはFPSの「DOOM」の対戦プレイまでするようになっていたのだ。ちなみに会社のAT互換機でメジャーだったグラフィックチップは「S3 Trio 32」だった。

 初AT互換機(以下、PC)はプロサイドのBTO機で、CPUはIntel Pentium 100MHz、グラフィックチップは「S3 Trio 64」だった。まだ駅前に大きな駐車場があったころ、同期入社の同僚と車で秋葉原まで出かけての購入である。購入タイミングは実はPentium 120MHz発売の翌週で、予算的理由から一種の型落ち品を選んだ形となった。S3 Trioシリーズにはドライバも含めて優等生的な印象がある。ドライバのサイズが小さめでロード時のメモリ使用量が少なく、それだけゲームにメモリを割り振りやすかった。また同時に購入したゲームは、FPSの「DOOM II」、コンバットフライトシミュレータの「TFX」だった。その後もVGAの海外製ゲームを多数プレイした。あ、当時としては基盤がめちゃでかかったISAバス用サウンドカード「Creative Sound Blaster AWE32」もPC購入の同日に別途購入した。

 ちなみにマザーボードはASUS製だった。「エイサス」やで、「アスース」ってなんやねん。あ~今は「エイスース」なんか。

 90年代も後半に入るころ、「Geocities」などのホームページ、今で言うところのウェブページの無料ホスティングサービスが普及し始めた。趣味のページを立ち上げてみたりしつつ、タブレットで絵を描く機会が増えた。そこで憧れの「MGA-2064W」チップを用いた「Matrox Millennium」を購入した。正直お財布には厳しい買い物ではあったが、評判通りの発色の良さ、色にじみの無さに大感激したのは忘れられない。こいつは傑作だ。一方、このころに一旦PCでゲームをしなくなるが、それはSEGAとかSONYの所為である。

  さて、再びPCでゲームをし始めたのは、アクションゲームの「Tomb Raider」、FPSの「Quake」、コンバットフライトシミュレータの「Eurofighter 2000(EF2000)」の登場による。これらの共通点は何だろう?そう、3dfx社のゲーム向けOpenGLサブセットであるグラフィックライブラリGlideに対応させるパッチが早々に公開されたVGAグラフィックスのゲームだ。そして私のPCのMillenniumの隣の拡張スロットには、すぐさま「Voodoo」チップを積んだ「3dfx Monster 3D」が刺さる。ちなみにMonster 3Dはゲーム以外に用途が無いのだが、Glide登場時の衝撃は余りに大きく、パッチを当てたゲームの見栄えやフレームレートは別物という価値は何物にも代えがたかった。

 Voodooは今でもお気に入りのチップと言って良いのだが、結局Monster 3Dカードは更新されなかった。3dfx社の迷走も原因だが、Microsoft社のDirect3Dの普及、高機能化と、所謂GPUの登場が止めとなった。例えば「EF2000」のアップデート版「Super EF2000」はDirect3D対応のWindows専用版として登場し、「nVIDIA GeForce2 MX」上で快調に動作した。ここで唐突なGeForceの登場となったが、これはWindows98からWindows2000への移行と機を同一として新PCを自作した際、既存パーツがほとんど引き継げなかったことに起因する。最近は落ち着いているけれど、このころはグラフィックカード用の拡張バス含め、様々な規格が頻繁に更新されていたのだ。AGP!、AGPって何だ?引き継げたのは、おそらくフロッピードライブぐらいだったのではなかろうか。

 ところで「nVIDIA GeForce2 MX」については特に思い出がない。繋ぎのつもりで中古品を使ったことや、特にトラブルを経験しなかったからだと思われる。では、繋ぎの先として何を予定していたのか?そう、nVIDIA社に吸収された元3dfx社チームが開発を主導したとされるGeForce FXチップ使用のカードであった。「Voodooの夢、再び」・・・の筈だったのだが、最初の「nVIDIA GeForce FX 5800」は有名な「爆熱爆音」チップとなり、さすがにこれは購入を躊躇せざるを得なかった。結局「nVIDIA GeForce FX 5900 Ultra」チップを用いたMSI社のカードを導入したのだが、ハードとしての性能的なリープ/ジャンプは常識的な範囲に収まっており、「Voodooの夢、再び」とはならなかった。ただ発色は良く、色にじみも無く、画質には文句なかった。そして再びPCでゲームをしなくなるのだが、おそらくインターネットへの接続コストが低下して所謂ネットサーフィンしている時間が伸びたことと、仕事が忙しくなったことが原因ではなかったかと思う。

  件の「nVIDIA GeForce FX 5900 Ultra」のカード、結構長く使っていたのだがゲーム用途では使っていなくてもやっぱりファンが五月蠅めではあった。その後会社の後輩から貰った中古の「nVIDIA GeForce 6800 GT」チップ使用のカードを経て、「nVIDIA GeForce GTX 640」チップ使用のカードに落ち着いた。これはもうゲーム使用を考えてはいない選択だ。「五月蠅いのは嫌、追加電源は嫌」と言った意思が透けて見えるではないか。チップのアーキテクチャーも電力効率重視のKeplerである。

 ここで何度目かの転機が来る、趣味の3Dモデリングの本格化だ。

 対象となるアプリケーションは「Newtek Lighwave3D」だ。3D描画速度命っぽいアプリなのでGPUにも投資すべきと考えるだろうが、それは半分正しく、半分間違っている。この種のアプリではDirect3DよりもOpenGLでの描画性能が重要で、nVIDIA社製品なら「GeForce」シリーズではなく「Quadro」シリーズのチップを積んだカードを選ぶのが正道と言える。だが、「Quadro」シリーズはめっちゃ値段が高い。次いで、3Dモデリングでの3D描画は間欠的、部分的であり、高フレームレートで常に画面全体が再描画され続ける3Dゲームとは描画挙動が異なる。故に、当時は3Dモデリングのために高価なゲーム向け高性能カードを選ぶことは、コストパフォーマンスが決して良いとは言えなかった。アプリの設定でチェックを一つ外すだけで、数万円高いカード使用時よりも動作が軽くなるとなれば、色々考えてしまう。もちろん、高性能カードの方がモデリング作業のストレスが小さいことは認めるし、性能が低くても問題無いといっても限度はある。

 ただこのころから多くの3DアプリがCUDAコアを描画以外の用途で積極的に使い始める。指数演算が速かったからだ。別の言い方をすれば、PCでもGPUコンピューティング的な使い方がされ始めたのだ。ならば、電力効率やメモリ帯域幅、CUDAコア数などでGPUを選ぶと言う考え方も有りとなる。3DMarkのスコアでは直接見えない指標だ。「nVIDIA GeForce GTX 640」はCUDAコア数的には大いに見劣りするものの電力効率は高く、CUDAコアの利用が始まったばかりの過渡期にはコストパフォーマンス的には(たまたま)悪い選択肢ではなかった。

 ここで「(CUDAコアの無い)AMD(ATI)のGPUはどうなの?」と思った方も多かろう。はっきり言って、上記の視点からはAMD製品は選択肢になり得ない。この分野はnVIDIAの一人勝ちだったのだ。あと、そうでなくてもAMD(ATI含む)のGPUが出てこないことは気になっていたかもしれない。実はAMD(ATI)のチップは最初から選択肢としてこなかったの実態だ。理由は単純で、Windows3.1時代に仕事で使っていた会社支給PCのATI社のドライバの出来が余りに悪すぎて苦労したため、AMDを含めて印象が悪いのである。

 より厳密に言うと、Windows3.1時代の経験からという今や不合理としか言えない理由によって、3Dゲームと言ったチップの最大性能を引き出すような尖った使い方ではAMD(ATI)製品は信用できない、と言うことだ。逆に、大解像度2画面でMicrosoft OfficeとメーラーとUnixサーバーを動かす、と言った業務遂行などで求められる緩めの条件下ではむしろAMD(ATI)のチップを選んできた。これはメモリ周りの処理がATIの方がnVIDIAよりも圧倒的にスマートで、かつ省電力で安かった時代(ただし性能も低い)の経験が尾を引いている。GPU予算をケチって、メモリ増やストレージ容量増に予算を振り向けられた訳だ。

 次の転機はゲーム絡みである。SteamでDOS時代の古いゲームを漁っていたところ、Ubisoft社の「Farcry 3」が大幅値引きされて売られているのに出くわした。「FPSもHalo以来だねぇ」などと思いつつ気軽に購入ボタンをぽちったのが、今回のその転機ってやつである。結論から言おう。

 「Farcry 3」は面白かった、来月発売の「Farcry 4」も買おう。そして「nVIDIA GeForce GTX 640」は能力不足も甚だしい。ここでは関係ないけど便乗しておくと、「Farcry 5」は完全なる糞だ。

 で、会社の後輩に「どうしよう?」と相談したところ、後輩が余らせていた「nVIDIA GeForce GTX 960」チップを積んだカードを、翌日の朝、オフィスの私の机の上に不法投棄してくれることになった。翌日回収されたカードは、さっそく私のPCで再利用されることとなる。気が付くと、3DCG業界の定番ツール、アプリのCUDAコアの利用は一気に加速していた。またCPUの能力不足も顕著となり始めていた。

 説明順が逆となったが、「Matrox Millennium」を使い始めるあたり以降からここまでのPCは全て自作機だった。ただ歳を喰ってくると、悲しいかな自作もちょっと面倒臭くなってくる。新しいBIOSも今ほど簡単に入手できなかったし、相性問題の情報も今ほど充実してないし、とにもかくにも「情熱とでも呼ぶべき何か」が要る。各種規格が乱立し、将来の主流規格が見えにくいとどうしても腰が重くなる。私の場合、メモリの規格にいまいち追いていけなくなった(≒記憶していることだけでは店頭で判断できなくなり始めた)のがきっかけと言って良い。その4年ほど前には5台のPCを自作、LinuxをOSにケルベロス型クラスターを独力で構成して仕事に使ってたのにね・・・ちゃんと通信頻度を考えて作ったプログラムによる並列計算はやっぱり速かったなぁ(遠い目)

 と言う訳で、以降のPC本体は全てDell社のXPSシリーズとすることになる。昔からXPSシリーズのミソなのかクソなのか分からないところは、電源自体が悪いと思ったことは無いものの、電源容量に本当に余裕が無いことだ。このため、キャンペーン価格だとお得感あるぐらいの安めの価格で入手できる反面、電源容量的に無茶な構成への機器交換は最初からあきらめた方が良い。Dell社の「やや安かろう、やや良かろう」具合は、私の感覚では長期にわたり絶妙なところを突き続けている。

 最後は駆け足で、特に面白い話も無いので、直近のDell XPSシリーズでのCPUとGPUの組み合わせの変遷を列挙しておこう。

  • Intel Core2 Duo E6600 + nVIDIA GeForce GTX 960
  • Intel Core i7-4790 + nVIDIA GeForce GTX 960
  • Intel Core i7-4790 + nVIDIA GeForce GTX 970
  • Intel Core i7-4790 + nVIDIA GeForce GTX 1070
  • Intel Core i7-10700 + nVIDIA GeForce RTX 2070 Super

 直近での「もう*TX *70で良いやん」という割り切り感が我ながら凄いですな。

 ちなみに「nVIDIA GeForce GTX 960」はSONY PS2とともに自治体の電子機器類リサイクルボックスに行き、そのごく一部は東京オリンピック?!のメダルに含まれている可能性がある。「nVIDIA GeForce GTX 970」はオフィスの同僚の机上に不法投棄され、その後はその同僚の自宅にて暗号通貨のマイニングに短期間ながら従事したと聞く。「nVIDIA GeForce GTX 1070」は処分保留中であり、私の自室にあって最凶の鈍器のオーラを纏いつつ、モニタの前からすぐ手の届くところに現在横たわっている。特にバックプレートが頼もしい。

 んじゃ、GPUと言えばやっぱり3DMarkベンチなので、結果が残っているものだけ。

2020/04/06

We'll meet again.

 またお会いしましょう。

 同タイトルの曲を知ったのはスタンリー・キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情」のエンディングだ。そして、その曲が第二次世界大戦開戦の年に英国で作られたことや、戦後にはソビエト連邦による核攻撃後の英国政府の国民向けラジオ放送のオープニング曲に選ばれていたことを後に知る。"We'll meet again."または"We will meet again."という表現は、英国や英国民にとって「直面した危機に、多くの死も伴いつつも全力で立ち向かい続ける自らの姿」と不可分なものとなっているかのようにも見える。もしそうなら、この表現の持つ重みは実は半端なものではありえない。数え切れない数の犠牲が避けられないことへの覚悟、といったような様々な意味を言外にまとっているだろうからだ。

 BBC News JapanのYouTube Channelに、英国エリザベス女王のメッセージが日本語字幕付きで公開された。その表現はメッセージ終了の最後の10秒でやはりと言うべきか使われた。

2020/02/15

「オルレアンの女」というタイトルのマンガの記憶

 初老親父の独り語りである。

 都市伝説を紹介するYouTube動画を観ていて、英国の「ブラックジャック」という怪物が紹介された。要するに「巨大な黒い犬」である。と、突然「オルレアンの女」というタイトルのマンガを読んだことがあったような・・・という記憶が蘇った。

 「オルレアンの女」だからジャンヌ・ダルクがモチーフっぽいのだが、オルレアンという土地そのものが重要なモチーフで、とにかく「黒い犬」が出ていたような気がしてしょうがないのだ。掲載はマイナー雑誌かおそらく同人誌、絵は諸星大二郎風、読んだ時期は1985~1990年だ。

 ググってみると、長谷川哲也さんが同名の作品を、「えとわす」という媒体に描いた可能性を示唆する個人の文章がひとつだけ見つかった。大量の情報が有るように見えてダブりが多く、90年代前半以前の情報がほとんど無いのが実に日本のインターネット的である。この辺り、ドキュメント化文化(文書の作成、改定、登録、整理、保管、公開の徹底)を欧州よりも一段と先鋭化させた米国とはインターネット上の情報の蓄積具合が全く異なる。とにかく「えとわす」には引っかかるものがあった。

 で、長谷川さんのWikiページからいくつかページをたどると、漫画サークル「ぷーるぐえとわす」とか、くら☆りっささんや、徳光康之さんといった漫画家の名前など、記憶にある(ただしすっかり忘れていた)固有名詞に久しぶりに出会えた。

 Wikiによれば長谷川さんは、佐賀大学の学生を中心とした創作系漫画サークル「ぷーるぐえとわす」の元メンバーであり、九州工業大学出身ということである。また、絵に諸星大二郎の影響がみられた時代もあったとされる。上記の時期は私が福岡県に住んでいた年度であり、おそらく長谷川さんが大学におられた時期とかろうじてダブる期間がある、かろうじて。

 結局のところネットをさらっただけでは、件のマンガが長谷川さん作である可能性が「ゼロではないこと」ぐらいしか分からなかった。掲載誌は私自身が購入したものではなく友人などが既に持っていたものだったなら、発表時期は1985年から2~3年前までは遡れそうではある。

 はたして実際はどうだったのだろう。まぁ解決する必要があるような事案ではないんだけど、今後この種の「あいまいな記憶が突然蘇る」事案は増えそうなんだよね、歳には勝てぬ。