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2022/10/14

水星の魔女、初見

 Amazonプライムビデオで2話まで観る。何故"The Witch from Mercury"ではなく"the Witch from Mercury"だったりするのかはかなり謎だが、特に意味が有るとは考えていない。

 まとめサイトをチラ見していたら、本作について「これはガンダムなのか?」とか「ポリコレがどーのこーの」みたいな話もあったようなのだが、私個人は「最初のエウレカセブン+トップ2やん」としかならなかった。まぁ、エンドテロップのスタッフ名を眺めていれば、さもありなんとなる要素には事欠かない。要は、そういう描写や演出をやるのはやっぱりお前(ら)かよ、ってこと。変わらないねぇ。

 少なくとも現時点ではliliumな要素はあくまで要素に過ぎず、ほのめかしの類も感じない。エンディングで使われているイメージ群も特に何らかの機能を果たしているようには見えない(まぁ、本当にliliってもらってもかまわんけど、ファッションでやると作品を毀損する可能性はある。"witch"自体にはlilium絡みのシンボルはないから、タイトルに偽りがなければ作品の出来不出来への影響は無い筈だけどね。なお、私は「声(声優や声の持つ特徴そのもののキャラへの割り当て)」から何かを読むことはできない)。特に何か新しいとか、一線を越えたとか、そういう感じも全くない。要は、私みたいなアニメに肯定的でも否定的でもなく、面白ければ観る、という人間の快感則にそうやって沿わせて来られるのはやっぱりお前(ら)かよ、ってこと。でも15年前と同じやり方、な。

 つまらなくないレベルより更にちょっと上のレベルで堅実にまとまっている感じはあるが、第2話にして2、3か所作画に不安を感じさせられたところが有ったことには触れておきたい。演出も合わせてがたついた。ここで言いたいことは作画崩壊がどうのこうのといったものではない。作画の問題は目立つ(質の良し悪しが誰にでも分かる)故に、作画の問題への対策に作り手のエネルギーが注がれがちな面は否定し難いと思う。作画のクオリティへのエネルギー投入が原因で、作品としてのクオリティが下がることが無いことを本気で祈る。「うる星やつら」の第1話なんて作画的には全く見るべきところがなかったけど、第2話以降も同じ感じでやっていくんでしょ?(ラムの髪の色の処理は、作画マターではなく演出マターというのが私の認識だ)とは言え、最終話までラムが髪をかき上げる動作を入れられ続けられるかには多少の興味はある。ちなみに音楽は終始つまらなかったな。

 話戻って水星の魔女、第3話がめっちゃ楽しみです、と二心なくここに書けるくらいには面白い。セクシュアリティを押し出してこないこの種のキャラデザ(主人公はタヌキだよなぁ)も大好きですよ。思わせぶり要素はタイトル中の「魔女」だけでもうお腹いっぱいだが、同時にこの部分の処理を誤ると駄作に落ちるよ、きっと。

2021/02/22

アクシズ落下をどう止める?

 岡田斗司夫ゼミを観ていて、紹介者された視聴者の疑問の内容に頭の中で何かがが弾ける感覚。そう、当時その画面を見ながら全く別の解釈をしていたことを思い出した、っつーか「嗚呼、そういう風に考えていた(いる)人が居たのか、それも少なくなさそう!」と言う一種の驚きだった。

 紹介された疑問の内容は、「逆襲のシャアで、地球に落下するアクシズをアムロらは『押し戻そう』或いは『持ち上げよう』としていた。落下を防ぐなら、後ろから押すようして加速させるべきだはないか?」というもの。なるほど、アクシズがまだ大気圏上層に接していなければ有りな考えだと思う。加速されればアクシスの軌道は地球から離れる方向に行く筈だ。

 だが、作品を観たことのある人は知っている通り、アクシスは大気圏上層に既に接している。画的に断熱圧縮加熱現象(アクシズ表面の赤熱化)が描かれている。この段階に至ってはアクシズは大気による強い減速を受けており、いくらνガンダムらと言えどもその減速力に打ち勝ってアクシスを加速することは不可能だろう。

 では、当時の私はアムロらの行動をどう解釈していたか。

 アムロらの行動の意図は、アクシスの落下角度を浅くし(より大気表面との角度が浅い落下軌道とし)、大気自身にアクシスを弾かせようとするものではないかと何の躊躇も無く考えていたのだ。またアクシスは球形ではないので、進行方向に対して回転させることで大気からの抵抗の鉛直上向き方向成分(地球から離れる方向成分)を大きくし、やはり大気に弾かせようとしているのではないかとも考えた。

 とすればアムロらがアクシズを押す方向は鉛直上向きで良い。ただ、実際の画面ではアムロたちは「押し戻す」ような行動をとっているようにしか見えなかった訳で、「まぁ、見た目を優先すれば仕様が無いのかなぁ、真面目にやってもわからんもんなぁ」などと思ったものだ。

 さて初見かつ人生一回きりの視聴故、直後のサイコフレームの発動?に頭の中は「???」で上書きされてしまい、上記のような当時考えていたことは全てつい1時間ほど前まで忘れてしまっていた。約30年前にほんの数秒間だけ考えていたことを急に思い出したことになる・・・やれやれ。

 動画の中では岡田さんも「大気で弾く」という方法にちゃんと言及しているけれど、もう大気圏に接している段階では、大気による抵抗も利用した方が効率が良いと思うんですよ。

2021/01/23

岡田斗司夫さんの「Netflixオリジナルアニメがダメなのは理由があった!」

  岡田斗司夫さんがYoutube動画「Netflixオリジナルアニメがダメなのは理由があった!」内で語られた日本国内のアニメ制作業界の状況が、約1年前のエントリでの私の予想の枠内でちょっと笑った。とは言え、私の予測のベースには岡田氏が約4年前に語った内容があるから、予測時の状況認識に差が無く、かつビジネス的に妥当な展開を想定すれば、現状の見え方が似ているのは仕方無い。ただ、これは想定外事象が無く、面白い新しい展開も当然無かったと言うことにもなる。


 ポイントは、①かろうじて新しいOccupied Japan(支配下の日本、今回の岡田氏の表現で言えば奴隷または奴隷労働など)は避けられたこと、② NETFLIXのビジネス流儀自体が、NETFLIXが面白い日本製アニメ作品を手に入れられない原因となっている可能性が高いことだろう。ただ、①が実現できている原因は現場レベルのビジネス視点ではあろうけれども(肯定的意味で)かなり動物的直観も寄与した判断の積み重ねと私は解釈しており、状況自体の持続可能性は低い・・・現場の疲弊を緩和できても解消はできない。また、私が期待した「外資を利用してかつ儲けさせることはあっても、決してまつろうことのない挑戦者であり、国内業界全体の利益を念頭において動ける調整能力も持つ卓越したプロデューサーの登場」の気配は無い。まぁ、たった1年間の話しであるからして、逆にそのような人材が名指しできる状況が現時点で出来している方がどうかしていると見做すべきだろう。

 私の言う「登場して欲しいプロデューサー」に対応するような存在について、今回の動画内で岡田氏の直接の言及は無い。その代わり、「NETFLIXのアニメ班は本社と交渉し、知的所有権など扱いなどを変更させないと日本から面白いアニメ作品は手に入らないと本社を納得させるしかないのではないか」といった旨の提案をしている。ただこの提案、「まさにそれをNETFLIXの対抗馬が現れて実践、成功する」といった展開の方が熱い、見たい。が。どうもその手の動きは噂レベルですら聞かない、見ない。

 あと意識が高い(らしい)クリエーターは何人もいるのだが、志の高い(と唸らされる)クリエーターってのは本当に現れないね。

2020/03/23

アニメ「映像研には手を出すな!」第12話を観る!

 まぁ今回は「どうにかします。」ときっぱり言う以外に金森に見せ場無しも致し方なし。「納品ネタ」は下らないだけの只のネタとしての機能しかないから見せ場にもならないですよ、この程度の逆境下で損害賠償要求が来ること必至の手段を使う金森なんて存在し得ない。よってあれは金森ではないか、アニメの作り手は最終回に及んでも金森を理解していないかの何れかである。 Q. E. D. ・・・ってな金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

  作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら・・・いや。今回はつら・・・くらいかな。

  結局、アニメ版の作り手は「芝浜UFO戦争」を「(劇中で)それだけの価値があるもの」と見えるように描けなかった。どう見ても、作り手自らが原作に「足した」部分の処理すらできていないところが第一、かつほぼ全ての原因だ。こういう込み入った話を画と音響効果のみで見せるのはただでさえ難しいのに(前述の通り、わざわざ難しくしたのはアニメ版の作り手自身だ)、アニメ版の作り手はその困難を克服する姿勢すら見せない・・・或いは克服する必要性すら認識していないのか、克服する能力が実は無いのか、それともそれともまさかまさか克服できているつもりなのか!?、一視聴者である私はその判断に頭を抱え込まざるを得ない状況に追い込まれた。

  こんなもの見せられても、水崎や金森の「これは・・・」と言うセリフ、浅草の「まだまだ改善の余地ばかりだ」のセリフに説得力が宿る筈もなく、一視聴者としてもカタルシスは感じない。一貫性や客観性を伴う論理や必然ではなく、誰かの主観でしかない気分に従って組み立てられたとしか思えない今話は、先話と併せて本TVシリーズの持つ悪い部分の凝縮物と言える。「足した」ものは全て浅草に語らせる、では芸が無いどころのレベルの話ではない。本エントリでは敢えて直接は書かないけど、作り手の〇〇〇〇といったような下品な表現はかなり適切かと思う。一般的にかなりネガティブな表現、エゴの発露、ではまだまだ褒めているに等しい。

  最終話という視点から見れば、伏線(結果論から言えば、無意味なノイズ)の放りっぱなしがあちらこちらにしんどいほど目立つ。例えば、声優オーディションって何だったんだ?一貫性って何だ?論理性って何だ?何だ何だ何だ?シリーズとしてのアニメ「映像研には手を出すな!」については、改めて全体を俯瞰して別エントリ書くかもね、ここまでアレだとね、さすがにさ。

  唯一の救いは実はED最後のカット、掛け値なしに何の誇張もなく観てて「はっ」とさせられたのだ。観た人なら誰が描いたかは知っているでしょ?

 そこにあったのは「全力疾走する浅草の後ろ姿」、アニメ版の、特にこの数話で顕著だった「『(アニメ版の)作り手の天井』に頭がつっかえて窮屈そうな浅草」とは全く別の生き生きした浅草だ。原作、アニメを問わず第1話にはまだまだだったが、アニメ12話分の経験を経て達した境地に相応しい(本来劇中で描かれるべき)姿に見える。足の運びは止められない、倒れてしまうから。倒れるなら全力のまま前しかない、が、今はまだそれで良い。浅草の成長にだけフォーカスするなら今話はこの1カットだけで十分、と本気で思ってしまったのはなんとも皮肉なものだ。少なくとも私は、ちょっとだけかも知れないけどこのカットに救われた。
 「映像研には手を出すな!」・・・手を出してはいけなかったのは誰なんだろう。今回手を出した人の中には、明らかに「手を出すべきではなかった」人も交じってるよなぁ。

2020/03/16

アニメ「映像研には手を出すな!」第11話を観る!

 金森たるものこんな表情を見せてはいかん、いかんなぁw。金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今話ばかりは小さいことどころか大きいこともどうでも良いんだぜ、困ったもんだの残念回。やっつけ感満点で「それで何か上手いこと言ったつもり?」的なサムシングだ。言い訳がましく小ネタと辻褄合わせと説明不足な描写が時間方向に連続的に並べられているだけとしか思えない今話、何か言えることがあろうか・・・個人的には「あ、あの女性教師は教頭だったのか」ぐらい?

 盛り込み過ぎだったのでは?と言われれば成程とも思わなくもないけれど、ならばこそ原作由来のエピソードの一部を切るなり捨てるなり、アニメ版オリジナルの部分についても遅くともシナリオ段階での整理が必要だったんじゃないか、とはならないか。

 アニメ版では完全に切ってきていたと(捨てられていたと)思っていた百目鬼の「河童の声・・・」ネタとその周囲のエピソード、このタイミングでは最終話(!!)である次話の展開(≒ピンチ解決)の伏線ぐらいの機能を与えられてでもないとホントに存在意義が無い、時間の無駄でしかない(原作では百目鬼の実質登場エピソードとしての機能があるが、アニメ版ではその機能は当然必要ない)・・・河童そのものには前話まででも十分触れてるし、別に水中に飛び込まなくても風邪をひくことはある・・・万事、そんな感じなのが第11話。アトランティス連合ネタの仕込み?・・・とにかくセリフで説明、絵もとにかく見せただけってレベルでしょ、視聴者に対するネタのインプットとして十分に機能してるかな?百目鬼に関わるシーンをカットする「だけ」でも、3~4秒分はインプットを丁寧にできる。この時点で水崎に「河童の住む・・・かぁ」とか「アトランティス連合かぁ・・・ちょっと面白そう」とか金森の提案や浅草のアイディアの説明に対する反応として言わせておけば、後で生きる。

 水崎「河童?ラフはもう人間で描いちゃってるよ」→浅草「小さな皿を描けば良い」の展開も、「敵の設定とストーリーの説明」の後ではなく、説明の早い段階で入れるべきだったと思う。少なくとも水崎の「え、追加?」より前に、だ。そうしておけば、視聴者にとって画面内の河童(敵)と人間の見た目の区別はより容易(皿の有無だけ見ていれば良い)となり、「敵の設定とストーリーの説明」の内容をより分かりやすく伝えられたのではないかと思わずにはいられない。いや真面目な話、「敵の設定とストーリーの説明」の冒頭で浅草が「河童と人間が戦い、・・・・するストーリーなんだ。」と全体像の説明から開始すればなんてことない、一種のプレゼンテーションとして見做せば、浅草の説明はまず内容のしゃべる順番から見直した方が良い。上記の水崎のツッコミと浅草の対応は、その直後に入れられるでしょ?そうして誰か不幸になるかしらん?ん~、先行する話で触れられており、原作でも「**UFO大戦争」の肝となる「音だ!百目鬼氏!」辺りの内容はもう扱いがノイズレベルで、果たして次話でまっとうに扱われるのかも怪しい感じ。

 原作から持ってきたエピソード内のディテールも含めて必要な要素の幾つかが明らかに描かれず、必要なのかどうか分からない、少なくとも今話内だけでは何の機能もしていない(或いは、明らかに演出などが上手くなくないため機能させ損なっているようにしか見えない)要素が少なくない数、それなりの時間をかけて雑然と描かれる。が、今話の問題のふっとい根は、間違いなく演出やシナリオよりもさらに上流にある。もちろん、シナリオも酷い方だとしか思ってないけどさ。

 本作では以前から気になってはいたのだが、「構成」や「監督」の仕事って何だ?

 あと浅草の使う「マニ車」の例えなんだけど、マニ車が何か、どういう意味や宗教的機能を果たしているか、機械的構造や機能はどうなっているかを知ってる人ほど受け入れ難い(=この例えの所為で浅草の説明内容が逆に分からなくなる)のではないかと思う。まぁ、「(アニメ版の)浅草ってのはそういうことに不勉強なキャラなんですよ」ってことで意図的ならまだ良いんだけどさ、作り手もこの浅草と同レベルですよでは切ないわな。マニ車はチベット仏教系なので問題が起こることはないと思うけど、仏教系であっても民族対立・宗教対立を煽り、一般的にはテロ行為言える行動に出ている集団はある(ミャンマー国内969運動など)。作り手内には米国企業・クリエイターと一緒に仕事をしているスタッフもいるだろうに、そういう宗教絡みのネタを安易に使う(大抵において不正確か大きな誤りを含み、かつ原因は不勉強や怠惰にあるようにしか見えない)ことのリスクに気が回ってない感じは本当に情けなく見える。

 で、ラストの水崎のセリフ「全然合ってない!」は、「曲がシーンに合ってない」の意味なのか「曲とキャラの動きが合ってない」の意味なのか、あのカットでの「水崎」の発言だけに解釈に困る。まぁ、「曲調と作品の画のつくりとが合ってない」といったざっくりとした意味で、水崎のセリフだからといって特に水崎のキャラ(作画へのこだわり)を反映した言葉選びはしてないんだろうなぁと、今話のシナリオに関してはねぇ・・・

2020/03/09

アニメ「映像研には手を出すな!」第10話を観る!

 夕方のシーンで終わる回は当たり確率が高いのか?夕方シーンの導入と使いこなしぶりは、個人的にアニメ版の超プラスポイントなのだ、大抵ちゃんと機能してるからね。相も変わらず金森めっしゃスキー、もとい金森目ss茶スキー、もとい金森めっっちゃスキーもとい、金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 体調がすこぶる悪いので、細かいことはほっといてサクっと行こう。作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 ラストの河原のシーンは原作では陽はまだ高い、夕方としてきたのは意図的だろう。「夕方の河原」は学園モノのラストシーンでは一種定番ではあるのだが、まぁ、その辺りの「型」に頼り切ったシーンの作りではない。間に百目鬼のエピソードを挟みつつ、でも全体としては何気に金森回ではと思った今話、幸いにして金森のキャラブレ感はほぼ無し。ただしアバンタイトルで浅草のスケブを軽くとは言えテーブル上に放り出したのは私の金森像からは×。せめて浅草の腕の中へ、無造作に見えてちゃんと浅草が受けとれるような速度、軌道でお願い。それ、価値の流れの大事な上流源だからさ。回単独では良作感があり、アニメで「足してきた」要素については他話との不整合も無いが、原作由来の部分は他話との不整合がちまちまと有る。そこら辺が、私目線での今話の見え方、捉え方(「評価」じゃないよ)を複雑にする。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」に関するかつてのエントリで自分の立ち位置を「物語至上主義」としたが、結局それは作品を選ばず、時が経っても変わっていないみたい。カットやシーン、第*話とかのローカルな要素は全てシリーズ全体といったグローバルな要素(≒物語)に従属、或いは整合すべきである、という考え方であり、「作品全体レベルで一貫性や論理性を重視する」と言い換えても良い。結局のところ、そういうことができる、或いはそういうことが大事だと考える作り手が決して多くないと言うことでもある。作品の出来の向上に寄与しない作り手のエゴ丸出しや楽屋落ちは悪いシグナルだ。本作も駄目だったな・・・とほぼ私の中では確定しつつある、残念ながら。

 小ネタはいちいち拾っていかないけど、あのカットは個人的に見てられなくてね、もうね、痛々しい。「アニメの監督」のステレオタイプって今はああなのか?なら良いけどさ。そういうイメージが無く、特定の人物がモデルとしか見えなかった私にはしんどい。これは私が悪いのか?第1話のアバンタイトルやアニ研特別上映会のシーンのように浅草に色々語らせるのは良い。それが浅草の設定でもあるから、アニメ版の作り手が自らの思いをそこに乗せていくのもかまわない。が、アレは違うとしか思えない、作品の質の向上に何か寄与してるだろうかと首を傾げる。

 「これは音っす。」・・・百目鬼周りのエピソードは削られ気味なので、今話のエピソードを削ってこなかったこと自体は嬉しい。今話の百目鬼エピソードは、第1話で「(学校の)対岸の時計」が紹介されていた以上、出てこない筈の無いエピソードだった。が、第9話、第10話(今話)と百目鬼のエピソードの順番を原作と入れ替えつつ、それぞれのエピソードの展開自体はほぼ原作のままとしたのは余りに拙い、プロフェッショナル「の」仕事とはちょっと思えない。当然、プロフェッショナル「な」仕事にも届かない感じ。

 結局、先の段落冒頭に記載した百目鬼のセリフ含め、順番を入れ替えたことによって生じた不整合と言うか、百目鬼のキャラ立てに絡む要素の登場順のちぐはぐさと言うかの調整が為されていないため、色々と不自然極まりない。引っかかる、というやつだ。これは、以前のエントリで危惧しつつ書いた「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」という状態に極めて近い。とは言え、さすがに怪力線砲/く号に関しては無理が過ぎると判断してか、「これは導かれている・・・」という「信じるか信じないかはなんとやら」的な、或いは某アニメ監督なら「とんち」と呼んだかもしれないレベルの辻褄合わせのためだけとしか聞こえない浅草のセリフが「足されて」いる。なお、ここで言う「とんち」にはめっちゃネガティブなニュアンスが込められている。

 「これは音っす。」と言うセリフは数カット足してでも第9話で出すべきであったのは言わずもがな、「音の可視化」も第9話はグレースケールだが今話はカラーという違いも意味というか、作り手の意図が全く不明だ。っつーか、とにかくシリーズ内での一貫した演出プランの欠如としか思えない状況が頻出する状態は、本当に観ててしんどい。

 「音」の時間軸が2つ有る、波形の横方向はもちろん波形自体が時間変化している、とか言うのは無粋過ぎですかねぇ・・・まぁ、横方向については何処が「今」か分からないのでなんとも、百目鬼の「鐘の音の音出し操作」の描写も純粋に理系視点で見ると理解不能(=論理的におかしい)となって詰む。もちろん、シンセやDAWなどを触っている人なら本当にイメージに過ぎないことは分る筈・・・まずこの種の鐘の倍音構成はですね・・・「操作」の単位の波形は1周期分だけに見えますねぇ・・・とかね。が、「操作」のイメージとしては直感的で、「他にやり方あるかい?」級にめっちゃ良く分かる。

 ただ直感的な表現の効果を高め、表現自体が視聴者にすとんと落ちるようにするには、やはり先行して百目鬼の異能者ぶりなりのキャラ立てをしっかりしておく必要がある。そういう要素が足りないから、表現なり演出なりに良い意味での押しが効かない、間が持たない。この期に及んでも、少なくとも私は、描写される百目鬼自身の行動から(アニメ版における)百目鬼が如何なるキャラかを読み取ろうとしてしまう。良くも悪くも「原作マンガとアニメ版は別物」との視点に立っているから、アニメ版で語られていない部分を原作マンガに基づいて補うようなことはしない。

 「これは音っす。」と言う百目鬼の両手の間には「音」がある。絵面として、周囲の「音」は既に「どこからともなく」やって来ている。そして、百目鬼は「このように書割の様に重ねてあるんです。」と言葉を継ぐ。ならば、周囲の「音」も「どこからともなく」やってこさせるのではなく、百目鬼の両手なりから出てくる、溢れてくる、配置するといった描写を「足して」「見せて」も全く問題なかろう。むしろアニメでこそこの種の描写は映えるのではないか。演出しきれるのなら、百目鬼が魔法の杖を振った瞬間に周囲の「音」が突如現れても良いし、なんならその脇で箒が踊っていたって良い。まぁ原作の百目鬼の描写は「職人」寄りなので、原作に従うならこのようなマジシャンちっくな描写は選択肢にもならないだろうけれどね。

 斯くの如く、百目鬼が音をコントロールする過程すべてを「鐘の音の音出し操作」と同レベルでちゃんと動かして描写しきってしまう、という選択肢も作り手にはあった筈だ。「鐘の音の音出し操作」の描写の出来に照らせば、それらは十分可能だったと信じる。そしてそういうアプローチを取ることで、これまでの百目鬼のキャラ立ての不足を「今話だけで」かなり補うことができたと思うのだ(私だって、論理性に乏しく、直感的な描写、演出であっても「良い」と受け入れる場合はある。このエントリ内では、TVアニメシリーズ「ラーゼフォン」の第19楽章をそんな例のひとつとして挙げている)。

 繰り返すけど、回単独では良作感がある。細かいところまで目が行き届いて作られている印象が強く、例えば無くても良さそうな「女性教師がスマホ画面を見ながら表情を曇らせる」カットなどは、一連のカット内のアクセントとして絵的にもストーリー上の意味的にも実に良く効いている。百目鬼の「鐘の音の音出し操作」も、アニメならではでちゃんと動かしつつ見せてくれている。作画に引っかかりが無かったおそらく初めての回でもある。(本ブログで言うところの)「遷移過程」の描写も手慣れたものである。

 ただ小ネタ絡みには一つ疑問があって、水崎のカバン(バックパック)を今回は公衆電話型にしたのは何故なんだろう?アニメ版でこれまで出てきたことあったっけ?とあるカットではカバンの所為で「これ水崎だよね?」って観てて+ワンテンポ入りましたよ。ちなみに原作ではこのカバン、印象に残るぐらいには出てきてるけど、単行本でしか読んでない身には色は分からんのよね。根拠無く黄色だとばっかり思ってた。
 
 2枚の絵を合成したため、右上の窓枠の整合が犠牲となっておりますが・・・。OP明けだったかのシーン内でカメラがテーブルの下から上へ緩急持って移動しつつ金森が足を組む様から顔(顎?)含む上半身までを追うカットや、上図のカメラを横移動させて3人の「いかにもな状態」を順々に見せていくカットなどは、ホント良かったね。ちなこのカットの浅草、何気に可愛いじゃねーか。

2020/03/05

アニメ「映像研には手を出すな!」第9話を観る!

 原作の「私はその昔、一軒の酒屋が消滅する現場を見た!」のセリフと表情に「金森の原点を見た!」と思った面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 原作のこのセリフのコマでの金森は珍しく奥歯まで歯が一本一本描かれていて、「初めて見る表情(の描き方)だなぁ、なんか熱い!」と思っちゃった訳ですよ。改めて原作をざっとチェックしてみても、近い描写は「あんたがこのロボットに満足できないなら、『更に好き勝手描く』以外の選択肢はないんすよ!」のセリフ時とか、やっぱり「熱い!」じゃないですか。でも、アバンタイトルでの「新作を作りますよ!DVDを売りまくりましょう!貴様ら!」というセリフ中の「貴様ら!」はねぇなぁ、要らねぇなぁ・・・私の中の金森像とは完全にマッチしないんだな、これが。例えば「設定や物語を作らない浅草」や「絵を描かない水崎」に対してならともかくね、ここはドス利かせ気味で「お嬢さん方?」の方がまだ俺イメージ寄り。あ、ホワイトボードの微かな光の反射描写は良いね。

 で、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回はネガティブな引っかかりは小さなのが一点のみ。やっぱり百目鬼の扱いが雑ですよ。怪力線の発砲前後の音に関して(本ブログで言うところの)「遷移過程」中で百目鬼が独自の音を提示しつつ映像研3人の会話に割って入ってくるけど、唐突過ぎてちょっとしんどい。実は展開そのものは原作通りのなんだけど、原作では先行する話(第20話、水力の鐘みたいなもの(祭具)が登場)で「音の可視化表現」も含めて「遷移過程」中での百目鬼の描写が既にある。アニメ版ではこの先行するシーンが無いため、原作のままの展開では唐突感は出ざるを得ないんですよ。ちなみに、既に百目鬼もいるよ~ってことが分かるカットが先行して有れば、それだけで良かったんじゃないかなぁ。

 んで、浅草のセリフ「そして音だ!百目鬼氏!」から百目鬼の顔のアップの流れは原作では回の最後の3コマなので、アニメ版でも十分に「ばばーん!」となっても良い画作りになってます。このシーンもほぼ原作のままの展開、画作りなので、最終カット感のある百目鬼の顔アップのカットから次のカットへのつながりがイマイチ悪い感じ。百目鬼の顔アップカットでは、どうせなら「よし、やったろうじゃん」みたいな表情変化ぐらいもう付けてやんなよって思いました、正直。

 アニメで「足してきた」スポンサードがらみのシーンや関連する展開、UFOの目的などの金森や水崎の疑問の提示などはすっと受け入れて、とにかく先を期待。「芝浜UFO大戦争」がアニメ版の最終作品になるんだろうから、アニメ最終話に向けて色々仕掛けを「足す」のは必要でしょうね。原作の潜水艇から次元潜航艇への変更は成程&納得、螺旋商店街は裏表逆だろうと違和感バリバリだけど、確かにコレの扱いは難しいから事前の仕掛けは必要だよね。

 ただ、フルーツ担々麺屋の食事スペースから見える厨房の描写はちょっと悩ましいなぁ。何らかの伏線とかなら良いんだけど、単なる引用だったらツマらんな、と。プロによるプロの作品の引用っつーのが心底大嫌いなのでなんとも。作品内で機能していれば無問題なんだけど、「ピュアな引用」、「引用でしかないもの」は大嫌いなんですよ。自分の中で幾つか保留にはしているんだけど、本アニメシリーズでは「引用でしかないもの」っぽいカットや描写が個人的な感触として目立ち気味、少なくとも「引用される側が引用なんてしない」ことには意味があるように見えるんですがねぇ。「リスペクト」って言えば言葉の響きは良いですが、本来それは相互的なものであるべきで、一方的でかつ作品中で機能していない引用はセンスも意味も無いパクリに過ぎないとしか思えないんですね。プロがファンフィルム作っちゃいかんでしょ、それ誰得なんですか派なんですよ。

  あと、アニメ版では学校が面してるのは「芝浜湖」じゃなくて海なのかな?

 ちび森氏のシーンは期待以上の出来、大事にして欲しかったシーンなのでとっても嬉しい。冒頭に原作には無い追加設定の説明があったり、一部の客の見た目を原作から変えてきたりとかあったけど、これらは完全にプラス。原作通りの展開をあの絵のスタイル(「遷移過程」のアニメ版での描写スタイル)できっちりやりきっちゃた上で、アニメ版の武器とも言える「間のコントロール」によって雑貨店の運命を知って呆然とするちび森氏の心情が痛いまでに伝わってきてね、いや、切ない、切ないなぁ。

 作画の凸凹については、今回は「いかにもTVアニメだよね」な動かし方(悪口ではないよ)の多用や、原作の絵に作画を寄せて来た感じがひときわ強い。前者の端的な例としては、浅草が「百・・・八十万円!」と絶句するカットが挙げられようか。見開いた目の位置や大きさはほぼ不動で、それら以外の要素のみ明確に動かすという手慣れた感じの処理で見せる。小さな黒目の大きさもピクピクと変わるなど手は入っていて、手抜き感などは感じないよ。ここでの「手慣れた」は「見慣れた」の裏返しでもあって、視聴者には優しい、理解しやすいってことでもある。

 あと一見して「どのようになってんだ?」「あ、やっちゃうんだ!(褒」と思ったのが、最終カット前の浅草のトランスフォーム。マンガなら大抵コマとコマの間のものとして直接描かれることは無く、アニメでもコマ割りに対応したカット割りを使いそう・・・ん、原作に直接対応するシーンはあったかな?

 頭身の変化だけざっと追っかけると下のような感じになるけど、当然間にある絵の中には微妙なものもあるように見える。動画データが手元にあったら(ご存知の通り入手方法が無い訳ではないんだけどさ)、一度はフレーム単位で絵をチェックしてみたいね。今回使用した絵は、YouTubeに個人が上げた2分ぐらいの動画からのキャプチャしたもの、思い通りのところでは止められんよ。

2020/02/24

アニメ「映像研には手を出すな!」第8話を観る!

 原作からキャラがブレてない金森はやっぱり良いね。Канамолимєтцаский(仮)(カナモリメッチャスキー)の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かいことはまずは良いんだぜ。第8話でついに来た、ほぼ手放しで取りあえず言っておこう「アニメ化して良かった!」回。 半分以上はアニメ版で「足してきた」ロボ研メンバーの大活躍によるものだが、第7話と違い色気ある「アニメ」の作画も要所要所で効いている(「色気」については先行エントリ(長い、くどい)内の記述を参照くだされ)。

 段ボールを着て逃げる水崎を金森が誘導するシーンとか、ロボ研小野がジップラインを使って「飛ぶ」シーンとか、マンガでは表現しにくい、効果的な表現には手間がかかって勢いやスピード感が死に易そうなシーンが、TVアニメならではの手際でさらっと効果的に描かれている。良いね。いやマンガでもできるんだけど、クライマックスならともかく、途中で「さらっ」てのはやっぱり難しいと思うんですよ。

 作画に関しては上述のように色気があり、なんちゃって感が多少あってもそこは気にならない。キャラの表情の豊かさ、動画枚数に見合った演技のさせ方・見せ方はTVアニメのある意味真骨頂だ。理想的には「水崎の描いたアニメーション」との対比も出せることになる筈なのだが、そこは後述する視聴者に対する様々なフックなどのせいで、まぁ、良くも悪くもうやむやな感じになっている。ホント、良くも悪くも。

 作画の色気について多少具体的に触れておくと、まず運動途中の物体の移動を表す効果線やブレを模したギザギザの輪郭線の使用がある。例えば、本エントリ上端に示した金森がボードをさっと持ち上げるカット(1枚絵として見ると、「手はどうなっとんねん」とかツッコミどころはあるが)、映像研3人が「気合だー!」と文字通り気合を入れるシーンに先行する水崎が握りしめる手のアップのカットだ。高速で動いて(いるように見えて)ピタッと止まる、観ていて気持ちの良いメリハリある動きだ。まぁ、第7話の「ダンスも動きの・・・」辺りのシーンでとっても欲しかった要素と言える。

 次いで表情の豊かさ、変化はほぼ全てのキャラに及ぶ(百目鬼や1カット?しか登場しないソワンデなどは残念ながら除く)。敢えて1カ所取り出すならば、ラスト近く、水崎が両親と話をし、「さすが役者夫婦・・・」のセリフをしゃべるカット内での表情などの変化だ。定番の軽い驚きを表すような表情と(今度はゆっくりと)首が伸びるような作画(実際の人間では首を後ろに引いたり、姿勢を正したり後ろに反ったりに相当する動きか)に続き、下図のような原作には無いなんとも微妙な表情を見せる。良いね。第7話に欠けていた動きとは別の要素は、まさにこういうところなんだ。あ、ロボ研のロケット発射のカウントダウンのシーンでの、浅草と金森のカウント時の身の乗り出し具合の差や動きのタイミングの微妙な違いも良いね。そしてこういうシチュエーション下では勢いや熱を焚きつけることはあっても、それらを削ぐようなことは絶対しないのが実は熱い奴、金森なんだぜ。
 最後に目に付いた作り手側からのフック、小さな目くばせの類や、個人的な引っかかりをざっと流していこう。

 まず百目鬼は映像研所属ではないということで、今後も扱いはこれまで通りのぞんざいに見えるもののままなのだろう。話数などとの関係で百目鬼主体のエピソードは切らざるを得なかったのかも知れないが、第2シーズンは無いとしておかないと色々と禍根を残すことにはなる。セリフのある登場シーンはアバンタイトルの音声編集シーンだけだが、その後の食事シーンにはカップ麺が4つあるし、火の周りには誰も座っていないクーラーボックスが1個(その前に未開封カップ麺)あるので、いないことにされている訳ではない。まぁ、空いたクーラーボックスの横に入口があるテントで寝ているのかもしれない、原作では昼寝を(一度しか)したことがない百目鬼ではあるが。

 すっごく淡白な描き方なのだが、百目鬼の不在こそアニメ版の百目鬼の性格や行動を反映した描写なのだろう。ただこうも徹底的に映像研3人から百目鬼不在に関する言及が無いと、いよいよ不自然さの方が目立ってくる。アバンタイトルを見る限り、浅草が百目鬼に感じている距離感は、美術部メンバーに対するそれよりも明らかに近い。この辺をサポートするような描写はやっぱり欲しい。ちなみに百目鬼用と思しきカップ麺はカレー味、名はパーカーと英米っぽい。と言うことで、アニメ版では英国系1/4、インド系1/4辺りを想定しているのかねぇ。
 水崎の走りのフォームについては、第1話のカイリー号のシーンでの俯瞰で描かれたちょっと癖のあるフォームが記憶に残っている。第1話での腕はむしろ常に身体の外で開き気味で振られており、本話のそれ、特に段ボールを着ているときの前方で内側に閉じるような腕の振りとはかなり違う。ただ、後方に腕をほとんど引かない点は共通している。なお、第1話では使用人(メンインブラック)との絡みでも走るシーンがあった筈だが、そちらは特に記憶に残っていない(ので、おそらくありがちな走りの表現だったのではないか)。本話内での整合性には問題無いが、「あれが水崎の日常的な走り方ですよ」といきなり言われても、第1話から見てきた一視聴者としては「はい、そうですか」とは言いかねる。
(2020/3/4追記:第5話アバンタイトルでの水崎の走りのフォームも新たに見直すと確かに「癖がある」けど、う~ん、 第1話と本話のそれらの中間か第1話のそれ寄りかなぁ・・・駆け出した瞬間ってのもあるので、多少姿勢や腕の振りが変だったりしても視聴者はそのまま受け入れがちなんじゃばいかな。ちゃんと以前から描写してたのは確かなのだが・・・本話でのフォームの方が「極端な描写となっている」と見做すべきか・・・次話以降での描写次第ってことですかねぇ。)

 「じゃぁ水崎の箸の持ち方は?」と問われるとさすがに困る。第6話のラーメン屋のシーンでテーブルのメニュー表がラーメンを食べる水崎の口元を隠している点については先行するエントリでちゃかしつつ触れているが、「実は水崎の箸の持ち方を視聴者から隠していたんですよ」とかだったらどうしましょうかねぇ、いや伏線の観点からならむしろ見せるべきだったんじゃないかと(確認すると、別回のラーメン屋での静止画による食事カットで確かに見せているのだが、箸がクロスした状態で麺を挟んでいるので持ち方以前に変な絵なのよ)。っつーか、この時点で水崎だったら浅草や金森と箸の持ち方が違うことに気づいても良い様な、音曲浴場ザリガニもあったし学食にも3人で何回も行ってる訳だし・・・水崎家族も使用人達もこれまでの友人達や読モ関係者もどうなのよって考えると、ちょっと無理のある設定ではないですかねぇ。こういうのをご都合主義って言うんじゃないですかね、シリーズ全体の整合性は誰もみていないんですか!ちな、ラーメン屋では水崎はライトブルーのマイ箸持参だったかもです。

 これまで触れてこなかったけど、作画や演出には既存のTVアニメシリーズのDNAと言うか、雰囲気と言うかを感じることが極端に多いのが私にとっての本作の特徴だ。今話は「四畳半神話体系」を思い出しました。「監督いっしょやん」っちゃぁそうですけどね、非常にネガティブな意味で思い出した訳で、そこは言わない方が良いかと。

2020/02/19

アニメ「映像研には手を出すな!」第7話を観る!

 金森の性格はきっついが悪くはない、基本冷静だが時に熱く、怒ることはまずない・・・という認識の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回は出先で書いているので、原作マンガが手元にありません。視聴も出先。
⇒ 2020/2/21:帰宅後に原作マンガの内容を確認。追記などはしたけど論旨変更は無しです。

 アバンタイトルはアニメで「足してきた」水崎のエピソード。アニメーションの作画ってそういうものなのか、必要な観察眼ってのはそういうものなのか、とそのまま受け入れてしまえば無問題、画も良く、動きや展開もテンポも良く、おそらく作り手の意図通りの出来であり、面倒くせぇ私も黙らせた。OP突入時には「うむ、今回は水崎フィーチャー回か」と思った。まぁそうなんだけど、OP後は結構ノイジーで、水崎フィーチャー感は大幅にスポイルされている。アバンタイトルの優等生的な出来の良さ感は消失し、良くても「平凡」としか言えない出来となる。水崎の熱い言葉を支える画も結局視聴者に提示されないままで終わり、EDを観ている(恐らく困惑顔の)私の耳元で何者かが水崎の声で囁く。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。

 ここで言うノイズとは、金森のキャラのブレ、百目鬼の描写の原作とのギャップの大きさと見てて悲しくなってくるような扱いのぞんざいさ、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カット、動いてはいるけどなんちゃって感の凄い作画などである。

 なお「巨神なんたらvsウルトラなんたら」的なサムシングはどうやってもあーなっちゃうのは避けられそうにないので、私は最後の最後まで「アニメではやらない」ことを期待していた。妄想シーンなので、前フリの追加やBGMのサポート、光線やバリヤーの描写を「浅草らの手描き風」にするなど、他の妄想シーンとの整合性は最低限取らないと、ね。でも、そこまでやっても馴染んだかは分からない。

 さて、

百目鬼の登場が早くなったり美術部が登場してしまったりしているため、映像研内での打ち合わせのシーンはどうしても原作そのままとはいかない。今回の打ち合わせ時の金森の描写は、やたらイライラしているように見えてしまって個人的にはいただけない。舌打ちにもいろいろニュアンスはあるんスよ。イライラ状態というのは一種の思考停止状態だから、浅草らの状態に対して常に「どうしたものか、どうすれば良いか」と考えているという私の金森像と全く一致しない。さすがの金森でも「あんた何してくれてんだ!」となる描写は原作にもあるが、今回の内容はまだそうなるレベルのものじゃない。今回の金森の描き方は、全体として薄っぺらで、頭悪そうに見える方向にブレている。

 百目鬼についてはキャラデザ、声ともに原作よりは可愛い方に寄せてきていて、登場時には違和感が凄かった。そのうち慣れるだろうと思っていたが、制服をちゃんと着ているという見た目から始まり、どうにも原作のキャラからアクを抜ききったような淡白な描き方に違和感がぬぐえない。よりにもよってロボットの歩行「音」に関するシーンにも登場させてもらえず、扱いがどうしようなくぞんざいに見える。

 百目鬼は原作中、最もアクが強く、実世界にいても扱いにくいキャラだろう。そういうところが描写に全く見えてこない。「連れション文化圏の人ではない」という言及すら無い。かといってアニメ独自のキャラ付けがあるかと言えばそんなものも無く、原作には出ない久保(美術部)の方がより丁寧に扱われているようにすら見える。金森による直接の言及も有るし、打ち合わせシーンのとあるカットの思案顔の金森の視線の先には明らかに久保がいる。

 今話の美術部との打ち合わせシーンは、レイアウト固定で汗ダラダラな描写(浅草自身は「よくある演出なのでワシは嫌い」と言いそう)と分かり易いまでに浅草の試練シーンとなっていた。前話では数カットを使った天候の変化で表現したと思しき要素が、今話は汗ダラダラ1カットで終わりである。本シリーズにおけるこの種の描写に対する一貫した演出プランの不在は間違いない。「美術部との打ち合わせ+浅草の試練」はアニメ版で「足してきた」要素だが、一貫した演出プランの不在は、その要素のシリーズ全体やストーリーの中での重要度が、作り手内で曖昧なまま共有もされていないということだろう。逆に言えば、ストーリー展開や浅草以外も含む今後のキャラの挙動などに影響しないというレベルということか。ならまだ良いが、「久保の為」なんてことだったら、「いや、百目鬼に手をかけてやれ」ってなりますよ。

 次いで、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カットについてだ。

 銭湯で金森が浅草にお湯をぶっかけ、お湯でゆがんで見える浅草の顔?を水崎が観察するシーンがある。「浅草の顔?」がポイントである。この時点で私の記述に引っかかりを感じたり先の展開が読めた人は、私より面倒くせぇ奴に違いない。

 マンガの場合、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」をコマで見せてから水崎が「もう一回!」と金森に声をかけるコマで、「水崎はお湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔を観察しているのだな」と大抵の読者は解釈するだろう。マンガのコマを追うタイミングは読者に委ねられており、更に続くコマの解釈の有無も同様である。一般的に同一のシーケンスを表す一連のコマ運びが繰り返された場合、読者による各々のシーケンスの意味の解釈は最初のシーケンスを読んだ時点で為され、2回目以降のシーケンスで新たに解釈し直すことは稀である。つまり、2回目以降のシーケンスのコマに視線を送ってはいても、流し見しながら「同じことが繰り返されている」という確認をしているだけというのが普通だろうということだ。だから、本エントリ先頭に示した絵が3回目ぐらいのシーケンスで現れても、高確率で読者はさらっと流してしまって、絵を改めて解釈はしない。まぁ再解釈する人がいない訳じゃないんだろうけど、少なくとも原作を読んだ際の私は、マンガで発動しがちなこの一種のマジックに完全にかかっていた。

 しかし、具体的な画であるカットの連なりをリアルタイムで見せざるを得ないアニメでは、マンガでは高確率で発動するその種のマジックは発動しにくくなる。結果、本エントリ先頭に示したカットが現れる(つまり、一定時間強制的に見せられる)と、面倒くせぇけれどもピュアで素直な側面をも持つ視聴者は、それまでの解釈に引きずられることなく新たに明確に認識する・・・「水崎は、実はお湯でゆがむ浅草の『後ろ頭』を観察している」と。これ、アニメの作り手の意図通りなんですかねぇ・・・いや有りがちと言えば有りがちな事態なのだが、プロならば予測可能だと信じたい事態でもある。受け手視点でのマンガとアニメの文法の違い、土俵の違いってやつの一端かも知れない・・・とまで書いたところでオチなのですが、水崎の見ていたのは実は「水の動き」でした。少なくとも水崎はそう言っている。いやぁ、原作を読んだときから始まってアニメ版初見時まで、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」に引きずられて二重に勘違いしちゃってたなぁ・・・と水崎のセリフを聞いて一瞬で気付いた時の絶望感たるや、「勘違い野郎」かつ「面倒くせぇ奴」はホント迷惑ですよね、そして「あ、アバンタイトルの内容と(後で分かるが最終カットとも)そう繋げてくるのか」とも。

 あと、お湯の作画には手間をかけたと思しきところが多かったけれども、この種の癖のある描写は視聴者の記憶とのミスマッチから不自然に見えてしまうリスクがある。ミニチュア特撮が水を苦手とした理由と同じだ。一応流体力学分野の技術で飯を食っている身としては、密度が低そう(結果として粘性がより低そう、表面張力がより高そう)に見えるカットが多かった。「原作マンガのお湯の描き方も微妙じゃん」と言われれば確かにその通りなのだが、極端に言うと原作マンガではコマによって表面張力などの水の特性も違って見える。この辺りを説明すると長くなるので詳しくはしないけど、TVアニメではフレーム固定でアップ~ロング(引き)があるだけだが、マンガでは更にフレームに相当するコマの大きさも変わるからねぇ、とだけは書いておこう。で、高速度ビデオカメラのレンタル費用も10年代後半から安くなってきたし、スタジオは一度レンタルして色々撮影してみてはいかがだろうか、エドワード・マイブリッジの馬の連続写真並みに発見があるかもしれませんよ。ちなみに、分裂した水やお湯の塊の大きさや気泡の寸法や形は、主に粘性力の温度依存性の影響で25℃付近より低温か高温かで変わるんだなこれが。と言う訳で、水を使った実験ではちゃんと水温管理をしよう(誰得情報

 さて、

アニメの作画というのは不思議なもので、キャラ達の作画に凸凹が多少あった方が観ていて面白かったりする。これは良し悪しとは別の話なので念の為。ここで凸凹とは、動いたり動かなかったりとか、特定のキャラがやたら可愛かったり可愛くなかったりといったことを指す。例えば第2話について「水崎の顔がやや吉田(健一さん)キャラっぽいカットが有ったな」と以前に書いたが、まぁ、そういうところも楽しみどころになり得るのがアニメのTVシリーズだ。作画の凸凹と言うと、キャラのアップのカットは作画監督などの筆がきっちり入っていてちゃんとしているが、ロングのカットは作画崩壊寸前というケース(視聴者として、心意気だけはきっちり受け取らさせてもらう)もあるが、今話のケースはもちろん違う。

 OPより後は悪い意味で凸凹が無かった。特定のキャラがより可愛く描かれるでもなく、基本的に動いてはいる(これ自体は良いことなんだろう)けれどメリハリある動かし方はほぼ皆無で、無難ではあるんだけど特筆すべきところも無い。動かし方のなんちゃって感も強い。こういうのは説明しにくいんだけどね、魅力が無いとでも言うか、色気が無いとでも言うか。ここでの色気は「セクシー」という意味では当然ない。所謂「色気を出す」といった表現に使われる、現場の判断によるほんのちょっとした一手間の付加や、不自然さは出るかも知れないけど視聴者に対するフックになる意図的なキャラの芝居タイミングのズラしなどに相当するものである。アバンタイトルにはそれらの存在が感じられた。なんちゃって感は「取りあえずこんなもんでしょ感」と言いかえても良い。歩いているけど接地感がないとか、本来動きにラグが生じるような要素の動きにラグがないとかが例に挙げられようか。ダンスのカットとか見るに実は動画枚数少ない?この辺りは良く分からんけど。

 なんちゃって感は、個人的にロケットの打ち上げシーンで極まる。ロケットのハードウェア構成がモデルになった実際のロケットと同じなら、色々と描写が不自然でかなり淡白だ。ブースターの噴射炎の有無などカット間の描写の不整合もある。不自然な点について具体的に細かくは書かないけど、この辺りをどうして本エントリで取り上げるかについて簡単に触れよう。

 このロケット打ち上げシーンは、見せ方という意味で作画と演出について語るシーンなのだが、同時に、浅草のロケットや打ち上げ施設に関する知識や水崎の観察眼の発露の描写でもある。つまり、このシーン内の不自然な描写や誤魔化しは、浅草の知識不足や勘違い、水崎の観察力や観察自体の不足や観察力やこだわりの限界を描写していることに等しい。敢えて極端で酷い書き方をさせてもらうと、浅草や水崎が能力不足に見えるならば、それはアニメの作り手が能力不足であるからだ、となる。或いは、アニメの作り手は無数のこだわりの塊であろう水崎の作画を再現しない又は再現する気が無い又は再現できない、となる。いや、アニメの作り手は、水崎のこだわりなんてこんな程度、と考えているということか。そんなことどうでも良い、と考えているのなら余りに悲しい。

 細かくは書かないとしたけれども、煙を引きながら上昇するロケットの姿を「1枚のロケットの絵を縮小しながらスライドさせて見せた」としか思えない(Flashアニメには失礼ながらFlashアニメかよって)カットには唖然とした。カメラ視点から見たロケットの向きの相対変化(つまりロケットの三次元的な見た目の変化)は当然表現されず、上昇に伴う縮小具合も、水崎がこだわっている筈のロケットの角度も不自然だ。こだわりの作画とは程遠い。こんな画では、浅草や水崎のセリフはただただひたすらにひたすらにどうしようもないまでに空しい、嘘になってしまっている。いや正しいのか、濃厚さの欠片もない作画は視聴者に濃厚さなんぞ伝えない。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。そんなの誰の目にも分かってたことじゃんか。だからアニメの作り手がどう挑むのかを見せてもらおうと、第3弾PV以降から毎回観てる訳ですやん、こんなエントリもシリーズ化してしまってる訳ですやん。

 私が以前のエントリで書いた「アニメ化に覚悟がいる原作だ」の理由の一つがここにある。水崎が作画したシーンに相当するシーンは、「水崎が作画したシーンに見える」ようであるべきだ。水崎のこだわりを、或いは限界をも「演じた」作画が必要なのだ。そういう画作りになっていないから、特に原画撮り相当の画を使ったシーンは、私にはアニメの作り手の楽屋落ちにしか見えない。

 幼い水崎のスケッチやクロッキー(つまり、動きの観察結果だ)が、おばあちゃんがベッドから立つことや水崎に手を引かれながらではあるが自分の足で歩くこと繋がるアバンタイトルの展開やシーンは良い。でも劇中の映像研の作品に直接繋がる要素は未だ無い。成程、アバンタイトルの最後で「ロボットのチェーンソーを使った移動カット」のラフが「水崎が車椅子に乗って方向転換などをした経験」に基づいて描かれた様子が示唆されており、その種の作り手からの目くばせが無い訳ではないことはさすがの私でも気付いている。が、現時点ではそこまでだ、

 実は、おばあちゃんがカニを食す様子を幼い水崎がスケッチするシーンがでもあれば、劇中で映像研が製作中のアニメを表現する「原画撮り相当の画を使ったシーン」の見え方や意味は違ってくる。「そんなのギャグになっちゃうじゃないか!」と思う方は、「カニを延々と食う」じゃない場合でもそう思うか考えてみて欲しい。例えば、大型ロボットの人間大縮小版の自立型ロボット(人が操縦しない人型二足歩行ロボット)に、人が補助しながら立つことや歩くことを学習させているシーンだったらどうだろう。仮にもロボ「研」なんだから、そういうのもアリなんじゃないか。

 「カニを延々と食う」シーンがロボ研のリクエストでなければ、それすなわち映像研乃至は浅草の選択ということになる。アニメの作り手の考える浅草のセンスと、原作マンガから私が解釈している(すなわち極めて主観的な、ということ)浅草のセンスとの乖離は大きい。私の中の浅草はもっとセンスが良い。「カニを延々と食う」シーンって、「ロボットvs巨大ガニ」において見せられて面白いものなのかな?劇レベル或いは劇中アニメレベルで何か機能しているのか?

 同じ視点から言えば、実は原作の音に対する百目鬼のこだわりのアニメによる描写は本質的に水崎のそれらより格段に難しいだろう。アニメに全く向かない。原作第5巻の最後の4ページには思わず唸るとともに眩暈もした。どの程度成功していると言えるのかは分からないが、「音のつくる場」のマンガにおける表現方法としての一つの選択、或いは解が具体的に示されている。最終ページに至っては音は飛翔する粒子の如く描かれ、映像研メンバーと相互作用までする。原作ではそんな表現にまで繋がっていくことになる百目鬼の音へのこだわりを描く・・・アニメ版の作り手に覚悟はあるか、挑むのか、必要な力はあるか、それとも自覚的、無自覚を問わず逃げるのか。積極的な逃避はこの期に及んでは見識ある選択肢ではある・・・本作に手を出したことを除くと、その選択に何か問題があるようには思えない。

 手書きアニメによる大型ロケット打ち上げシーンには、幸か不幸か映画「王立宇宙軍」のまさにそのままのシーンがマイルストーン、或いは一種のベンチマークとして存在する。作画陣の執念と気迫を感じるカットの連続だが、同時にロケットの打ち上げ映像などの観察の賜物でもある(筈)。前者はともかく、やる気があったのなら後者に関して多少の気概は本作でも見せられたんじゃないかと思う。私自身がそういうところには敏感なつもりだし、そういうところを感じられなければ面倒くせぇ奴なんて自称することは止める。モデルになったロケット(または先行形式)の打ち上げシーンの動画なんて、ネット上にいくらでもあるでしょうに。

 サターンⅤロケット打ち上げシーンやロケット下段構造物の分離シーンを日常的にTVで観て育ち、映画「王立宇宙軍」のロケット打ち上げ準備から有人カプセルの軌道投入までを「コレコレコレ」と思いながら劇場のスクリーンで眺め、大学生時代には液体窒素や液体酸素を実験で扱い、ドラマ「Form the Earth To the Moon」と「Space Race」を年に一度は必ず見返す現役の宇宙開発オタクはホント面倒くせぇんだぞ。

2020/02/11

アニメ「映像研には手を出すな!」第6話を観る!

 ラーメン屋では上着をちゃんとハンガーに掛け、眼鏡を使って髪を上げる金森が大好き面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 原作同様、いざラーメンを食べる時には金森が髪を下ろしていて残念でした。ちなみにハンガーは金森の私物なのか?それと女子高生がラーメンをすする姿はやっぱりはしたないのか?ならば水崎の口元を隠すメニュー表はレビュワーズ的にとかBPO的にとかGJということなのか!?それとも作画(ry

 今回は初見1回のみの記憶に基づいて勢いで書いてるので、事実誤認はお許し下され。

 今回は原作から色々「引く」こともやってきたなとの印象。で、結局観てて引っかかったのは1カ所だけで、金森が音響部退去の強制執行の代行を生徒会から受ける経緯を全く見せなかったところだ。浅草が金森から遅れて音響部部室に現れるのも不自然だ。1、2シーン抜けているのではないか、と感じた視聴者もいたのではないか。この辺りの経緯は、多少説明的でもソワンデとの口頭でのやり取りぐらいで見せても良かったのではないか、原作を知らない視聴者には不親切じゃないか、と正直思った。あれでは、金森が生徒会の一員か、使いっ走りっぽく見えてしまうのではと懸念を持つ。

 金森とソワンデとの関係性は少しピリピリしてるぐらいがやっぱり良い。そういう様子が見えるシチュエーションは回避せずにきちきちと見せて欲しい、と言うか見たい。原作に無くても見たい。ちなみに、対面状態で笑みを見せることがあるのはソワンデだけ、対して金森が笑みを見せることがあるのは二人が別れてから・・・と言うのが私のイメージだ。あと浅草登場の件は、金森が音響部部室に向かって廊下を歩いているシーンの冒頭で、歩きながら浅草とスマホで何か話している様を、それも金森が「じゃぁヨロシク、浅草氏」と言って電話を切る、ぐらいの1カットで示せば十分解決できたのではないかと思う。スマホをポケットにしまった金森がふと顔を上げると、そこには音響部と書かれた札が・・・でOKでは?(自画自賛
2020/2/24追記:金森から浅草への連絡は何らかのSNS使ってたっぽいですね、音響部部室への移動時に金森がスマホいじってたよ・・・ orz

 と、ここで百目鬼の登場が原作より相当早い事にやっと気付いた。音響部引っ越しの猶予が原作の当日中から当月中となったのはリアルだが、百目鬼の登場が早くなったことが原因か、それとも退去猶予にリアリティを与える必要性から逆に百目鬼の登場が早まったのか。ま、どっちでもいいや、どっちにしてもそれら以外の理由にしても全くの無問題。ただ、ちゃんと理由あっての、アニメの作り手が考えた上での変更であればそれに越したことはない。「ちゃんと考えてない感」が見えると、ホント観ていて引っかかる。なお百目鬼絡みの初期エピソードを省略した分、原作より百目鬼登場のインパクトは弱い。ここは本来は何か「足す」べきだったのではないかと思う。私個人は原画丸出しシーンが楽屋落ちにしか見えなくて全く楽しめないので、面白くもなんともないカニ食うカットなんぞを削ってでも、百目鬼のキャラ立てに時間を割り振って欲しかった。

 それはそうと、この流れ、タイミングだと、原作と違って百目鬼は「ロボットvs巨大ガニ」に参加できる・・・ここが重要なところなのかな。仮音入れした水崎のラフのカットはそんな展開への伏線っぽいが、そうなると原作とは違う形で百目鬼のこだわりを描く必要があり、アニメ版の作り手の腕の見せどころとなるのか。まぁOPが付くとか、主人公達から音楽や声への言及があったとか、アニメ版の「ロボットvs巨大ガニ」は原作より3ステップぐらい完成度を上げたものとして描かれるのかなぁ。マンガと違い、アニメでは効果音の質などは誤魔化せないから、百目鬼の参加が早まるのは当然の展開なのかもしれない。

 スーパーランニングマシンのシーンの出来は出色、100点満点で1000点は堅い。ただ、仮音入れした水崎のラフのシーンの前に見せた方が良かったのか後から見せた方が良かったのかはちょっと悩む。これは両者を並置で見せることだけが前提ならブラッシュアップの余地があるかどうかというレベルの話に過ぎないのだが、仮音入れした水崎のラフのシーンだけが今後の展開の伏線と意味付けされるならば然るべき順番があろう。あと音響部部室内の1カット、百目鬼のヘッドホンのヘッドバンドの形がエラいことになってましたね。今回はちょっと作画に凸凹、または力の入り抜きが目立ちました。

 原作に「足してきた」要素である美術部との打ち合わせシーンは、観てて引っかかりこそは無かったものの、美術部あるある的に捉えれば良いのか、浅草の試練と捉えれば良いのかは未だに悩む。ウサギのぬいぐるみが浅草の上着ポケット入っていたから後者っぽいのだが、乏しい金森の表情や視線の動きはこの判断に関わるようなヒントをくれない。なお、このシーン付近での降雨も含む天候変化の描写は後者の解釈を支持するようには見え、浅草の気分や機嫌の反映なんだろうなぁと何の抵抗も無く観ていた。頑張れ浅草!踏みとどまれ浅草!続くシーンの夕日も、自然に同じ文脈で捉えられるしね。

 ちなみに美術部との打ち合わせ、アニメ版での今後の展開の伏線張りもしてるんでしょうかねぇ?せっかくのアニメ化です。原作を知る者も「お!」となっちゃうような要素の追加は、キャラがぶれなければ私は大歓迎です。もちろん、アニメという技法ならではというものであれば、尚更歓迎です。

 でもんーと、あそこはカニではなくザリガニを食べさせた方が、「浅草にとっての地続き感みたいものが出せたかも」です。ハサミもあるでよって、あ、アニメではまだザリガニ要素登場していないのか。こちらの慣れもあるんだろうけど、今回の「遷移過程」の描き方のなんという安定感よ、っつーかまんま原画か。

 で、それはそうと、

ロボット警察について口頭で触れる浅草のカット、髪をいじりながらしゃべる姿がやたら愛しかったんですけど、そう感じるのは世界で私だけですか?ま、いじる側の髪が異様に長いし、原作よりも可愛めに寄せてきた浅草の顔をPVで観た時点で予測はできてたんだけど。

岡田斗司夫さんのアニメ業界「ゴールドラッシュ論」について、2020年2月なりに考えてみる

 2016年末ごろ、岡田斗司夫さんは2017年以降の日本アニメ業界の展望として「ゴールドラッシュ論」を展開した。

 私のつたない理解でこの論を説明すると、「NETFLIXなどの配信業者兼新規の出資者の登場により、TV放映権を持つことなどの既得権益に胡坐をかいた既存の出資者達が軒並み倒れ、アニメ制作の現場にもっとお金が落ちるようになる」ことを発端とし、「企画力があったり機動力のあるアニメスタジオだけが同じ土俵内で競争できる、下剋上上等の群雄割拠な戦国時代、乱世の到来」それも「誰もが何度も上洛できる楽しい戦国時代の到来」というものだった。ただし、「乱世となると、既存の中間層、例えば既得権益に胡坐をかいた出資者達や動きの重い中堅以上のアニメスタジオといったものが消えていくことも避けられない」とも言及している。

 これらの考えは、「当時の製作委員会方式の在り方」に対する山本寛さんの批判的な見方や、クラウドファンディングの活用など製作資金調達方法の多様化も(結果として)踏まえてのものとなっている。後段まで読んで、それでも岡田さん自身の語る「ゴールドラッシュ論」に興味があれば再生してみよう。再生開始位置は「ゴールドラッシュ論」に関わる部分に合わせてある。以降は私の戯言だから、ここで読むのを止めるのも一考の価値あり、っつーか、岡田さん自身による現時点での総括が聞きたいなぁ。一から動画を作る必要は無く、動画資本論の適用先として結構良いネタではないですかね。
 さて昨年末ごろ、果たしてこの「ゴールドラッシュ論」はどのくらい妥当だったのかと急に気になりだしていた。「映像研には手を出すな!」の時もそうだったが、PVの冒頭にワーナーブラザースなどの海外の会社のロゴが出る事にも慣れて久しい。明らかに資金の流れに変化が起きていることは感じてきたが、現場に落ちるお金が増えたという話には触れることが無かった。

 が、ついに「乱世」が来たのかもしれない。ほぼ「ゴールドラッシュ論」そのまま、でもちょっとだけ違う過程を経て。毎日新聞の記事、「動画配信急拡大でクリエーター争奪戦 テレビ局守勢『ネトフリは信じられないお金を…』」を読んでそう思った。

 細かい話は記事を読んでもらうとして、まずは「人材の奪い合いと人件費の上昇」への言及がある。これは「乱世」突入のシグナルとも言え、まさに現場によりお金が落ちるようになったことを意味する。さらに「流通側と制作側の力関係は逆転している」と来る。この流れは「ゴールドラッシュ論」での岡田さんの言及そのものだ。

 ここで注意点を一つ。以降の記述は「ゴールドラッシュ」≠「乱世」≠「楽しい戦国時代」という私の考えを反映したものとなっている。より具体的に書くと、まず「乱世」は先行する「ゴールドラッシュ」発生の結果として現れる状態であり、両状態は併存できる。次いで、「ゴールドラッシュ」は必ず終わるが、「乱世」は持続可能性が維持される限りにおいて文字通り持続可能である。そして「楽しい戦国時代」は「乱世」が取り得る状態の一つに過ぎない。進行する「ゴールドラッシュ」と「乱世」の併存状態下でこそ、「楽しい戦国時代」は最も現れ易く、維持し易い。これらは私の文章内での用語の定義であって、岡田さんの「ゴールドラッシュ論」における各用語の定義とはまず間違いなく異なる。このため本来は違う用語を用意すべきなのだが、岡田さんが選択した用語の余りにキャッチーで生き生きしたニュアンスの魅力には抗えなかったため、そのまま拝借させて頂くことにした。

 なお、私の定義においても「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」は上述したように併存可能であり、第三者視点でも業界にとってもそのような併存状態が一種の理想状態、面白くてわくわくさせられるような状態であると言える。岡田さんは「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」という用語を一つの状態に対する別表現とも解釈できる使い方をしている。ならば、「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」の併存状態に対しては、岡田さんも私も実質的には言っていることは同じと見做せるかも知れない。

 では、私が言う「ちょっと違う過程を経て」における「違い」に具体的に触れよう。なお、私に岡田さんらの発言に対する上げ足取りの意図など全くないことを明確に述べておく。私が見るところ、岡田さんや山本さんの語った内容には、ちょっとした仮定、或いは話を分かり易くするための簡略化があったように思う。私の言う「違い」は、お二人の発言内容を私なりに咀嚼したものと、毎日新聞の記事内容から後付けで導き出したものだ。ただ、「ゴールドラッシュ論」について以前から薄ぼんやりと引っかかりがあった点が、今だからこそ言語化できたという側面もある。

 まず一つ目の違いは、アニメスタジオを業界の最小単位としていたことだ。

 毎日新聞の記事を読めば分かるのだが、実のところ海外からの資本流入は、いきなりアニメーターなどクリエーター個人をも対象にしていたのだ。思えば「THE ANIMATRIX(2003)」の時点で、そのような事態の出来の素地は出来ていたようだ(日本のアニメスタジオが米国アニメの下請けで食っていた時代も先行してあったが、あくまで下請けだ)。その後、カートゥーンネットワークで放映するシリーズのうち数話を日本人スタッフが担当するまでになる。

 そして「ゴールドラッシュ」は、サイレントインベージョンの如く静かに始まり、静かに進んだのだ。とは言え、特定のクリエーター(と言う事らしい)の挙動を見ていればそんなことは直ぐに予測できた筈なのだ。疑問は、何故ハズレしか作ってこられなかった彼らにそんなに投資が続くのか、クリエーターに対するちゃんとした目利きはいないのか、ぐらいだった。結果論として、上記の疑問は煙幕みたいなものとして作用し、実際に起きていることを見えにくくしていた。少なくとも私は完全に目くらましを食らってしまっていた。

 が、このような経過を経た結果、アニメ制作現場「全体」の人件費の底上げは遅れた。つまり、全体が「負け組」だった業界内にごく少数の「勝ち組」が現れるところから実は「ゴールドラッシュ」または「乱世」は始まっていたのだが、やっと「勝ち組」だけでなく、「勝ち組」から仕事を受けている「準勝ち組」の割合が目に見えるレベルまで増えてきたのだろう。

 トリクルダウン?結局外資?経〇省のクールなんとかが(以下、自粛)

 今にして思うと、「才能に金を出す」という考えに従えば至極普通の展開であったと分かる。そして、目端の利く既存スタジオ、或いは目端の利く人間が新たに立ち上げたスタジオはとっくの昔に「乱世」に対応しており、配信業者や海外スタジオなどによる囲い込みの対象となっている。反面、人件費の上昇は、業界のコントロールが既存の日本人プレイヤーからかなり失われた結果とも見ることができる。コントロール力を失なったのは自業自得とも言えるが、彼らにとって状況の変化はそこで終わりではない。

 二つ目の違いは、少なくとも短期的には、プロデューサー(資金調達と宣伝などに責任を持つプロデューサー) として日本人が関与、中心的役割を果たすことを想定していることだ。いや、実際にもそうだったのだが、プロデューサー当人たちが当時から「ゴールドラッシュ」に気付いていなかったならばちょっと話は違ってくる。気付いていたならしかるべきタイミングで傷が浅いうちに倒れることもできたのに、気が付くと倒れ損ねていたという状態の出来である。今後は、倒れるときはもれなく致命傷を負っている。

 件の記事のタイトル中にある表現「ネトフリは信じられないお金を…」は、2年前ならともかく、何を今更レベルの耳を疑う発言であり、NETFLIXなど海外資本の動きに対して発言者らが如何に愚鈍だったかのかを如実に表しているようにしか見えない。まぁ、記者が大げさに書いている可能性もあるんだけど、彼らの一部が業界のコントロール力を失いつつあり、かつ状況に追従できていないのは確かなようだ。

 NETFLIXは全額出す、映画だろうがTVシリーズだろうが少なくとも全額出せるだけの資本力がある。その代わり、全ての権利を持っていく、すべてをコントロールする。資金調達や関係者の利害調整・利権配分調整を仕事とするプロデューサーというプレイヤーはもういらない、業界をコントロールする力も当然失う。広告代理店もいらない。中間マージンは極限まで圧縮される。契約、金の流れ、意思決定の流れは米国流にリプレイスされ、日本特有の商習慣は本当に合理的なものを除いて打ち捨てられる。現場をコントロールできる監督は重宝される、中小規模のプロジェクトなら現場プロデューサー(製作進行などに責任を持つプロデューサー)を別途置く必要がないからだ。或いは現場プロデューサーは完全に職業化される、まるで米国大企業の「社長」のようにだ。

 上記の内容も踏まえて2016年以降の状況を脳内シミュレーション、いや妄想力を単にぶん回してみたところ、以下のような結果を得た。消費者目線で歓迎すべきものもあるが、立場によっては悪夢のようなものもある。何れにしても、業界のゲームチェンジ、プレイヤーチェンジは避けられそうにない。とは言えこれらはあくまで私の頭の中の世界、果たして実際はどうなのか、今後はどうなるのか。なお、私の妄想における重大な問題点の一つは、AmazonなどのNETFLIX以外の大手資本の動きを私がほぼ知らないことだ。一方NETFLIXについては、全く別の文脈(経営論、組織論)で色々自身で調べたことがある。
  • 「ゴールドラッシュ」の発生或いは「乱世」への突入は2016~2017年ごろにあった。ただしそれは、岡田さんの言ったような「奴隷の革命」ではなく、海外からの「静かなる侵略」とでも呼べそうな小規模で見えにくいものだった。なお「静かなる侵略」とは呼んだものの、それら外資の行為は「才能に対する投資」という合理的で当然なものと言え、倫理的な問題も無い健全な経済活動の範疇のものである。
  • 「ゴールドラッシュ」は業界のごく一部、クリエーター個人を単位として始まったため、それに当初から気づいていた人間は限られていた。
  • 「ゴールドラッシュ」突入から約3年、やっと業界全体で「人件費の上昇」が見られるようになった。と言うか、主に次項に示す状況の出来により、業界として人件費を上げざるを得なくなった。10年代前半の流儀に基づく製作員会方式では、人件費上昇の結果である製作費の上昇に柔軟に対応できない。これに対して海外資本の導入額増大などにより出資総額を上げる方法もあるが、当然プロジェクトのグリップは海外側に有利となり、既得権益者から見た製作員会方式の旨みは下がる。実際、幹事会社が外資と思われる製作委員会が現れて久しい。製作委員会の在り方自体も、2016年ごろのそれから変質しているかもしれない。
  • 一方、「ゴールドラッシュ」が見えにくい時間が長かったため、誰もが「ゴールドラッシュ」に気付くことになるよりも早く、米国流の資本、契約、意思決定の流れなどが広く普及した。先例も積みあがった。魅力ある人材、スタジオの囲い込みも進んでしまった。
  •  「ゴールドラッシュ」は終わり、やがて「乱世」本番の次フェーズに入る。単独出資や外資主体・支配型の製作委員会が増えることで、まず資金調達、関係者間の利害及び利権調整を仕事とするプロデューサーは余ることになり、淘汰される。次いで、いったん囲い込んだ人材の再選別が始まり、切られる人間も現れる。つまり、上がった人件費に見合う人材とその人数規模に最適化の手が入る。人材と資本とが紐づけされれば、スタジオ再編や人材の流動化がさらに進み、横方向に動く資金量はいったん増える。同時に、資金力が無い或いは投資を呼べる人材を繋ぎ留められないスタジオは淘汰される。極端なケースとして、人材確保のための資金の横移動だけで経営体力を使いつくすも、確保した人材の価値によって他社に吸収されたり新規投資を得られたりすることも考えられる。岡田さんの述べた「京都化」は、淘汰をマイルドにしたり、生き残りを増やすことに寄与し得るが、いずれにしても「楽しい戦国時代」はほとんど見えないままに何時終焉を迎えるかも分からない危うい状態となる。後述する自社権利(原作権や商標権、それらの周辺権)の確保や国内資本の再奮起・競合などの因子が存在しないと、「楽しい戦国時代」の持続可能性は海外からの投資が一定レベル未満となった時点で簡単に失われる。
  • ここで「勝ち組請負人」のような凄腕クリエーターが現れ、スタジオを転々としたりすると面白いことになるのだが・・・ゲームやCPU設計の様に。または「乱世」に対応し、少なくとも国内業界全体の利益を念頭において動ける調整能力も持つ卓越したプロデューサーの登場にも期待したい。このような存在は、現在も存在するマーケティング主体の手法に長けたヒットメーカーと目されるプロデューサーとは、全く異質、別レベルの能力を要求される存在である。このような異能の存在は、外資を利用してかつ儲けさせることはあっても、決してまつろうことのない挑戦者であり、外資べったりの「勝ち組」とは一線を画すものでなければならない。さらに外資に(良い意味で)面従腹背な、腹に一物持つような「勝ち組」が多数加わると、「楽しい戦国時代」出来の芽もある。そうでなければ、「乱世」は業界全体を疲弊させるだけとなる。そのような存在が無いまま「楽しい戦国時代」が維持されるならば、それは見かけだけのもの、外資が何枚も上手であるということに過ぎない。新たなOccupied Japanにようこそ。
  •  日本のアニメ業界には組合が無いので、資本側の意向でのスタジオ再編やスタジオ内の人切りがやり易い。「提携」による囲い込みは、いつ切られるか分からないドライなものと考えておいた方が良い。そもそも「提携」が指すものが「対等な関係」なのか、はたまた「隷属」なのかは部外者には全く分からない。「乱世」なのだ、国内外のゲームスタジオの状況を見よ。逆に組合を作るチャンスは「ゴールドラッシュの終焉」≒「乱世本格突入」より前にしかない。が、「ゴールドラッシュの勝ち組」はおそらく組合など作る気もないだろう。
  •  NETFLIXの出資の流儀だと、クリエーターやスタジオには制作物に関する権利が一切残らないと聞く。それ故に出資額も大きくなっていると言えるが、買い取りみたいなものなので、長期的に見た場合はクリエーターやスタジオの再生産能力に枷を嵌めることにもなり得る。「勝ち組」と言えども仕事を受け続けなければスタジオは維持できない、という状態に陥る可能性はかなり高い。今後NETFLIX一強と言える状態が崩れた場合、配信業者などとの交渉において権利帰属条件を変更できるかは、業界が持続可能かどうかを考えると重要な要素かと思う。まぁ、権利確保と製作費はトレードオフとなるのが通例だ。まぁ、権利を親会社に握られた国内外のゲームスタジオの状況を見よ。制作着手時点では多少の損はしても良いという判断ができる人材や、権利に対して的確な目利きができる人材が育たないと、権利に関して日本は完全に狩場、植民地状態化する可能性がある。例え今後グローバル化への揺り戻しがあっても、より自由になるのは資本の移動だけだ。資本の源泉たり得る権利が囲い込みの対象であることは変わらない。
  •  岡田さんが似たことを言っていたが、スタジオ運営では配信向けの仕事と国内TV向けの仕事をともに受けるのが良いように思う。自社権利は捨てるが前者で確実な利益を得、その利益も使って後者で自社権利を持つコンテンツを生む、というのが一つの理想だ。後者に対しては製作委員会方式も有効だろうが、その場合はスタジオ自体も投資者として参画する必要がある。配信業者を儲けさせつつ、それでも配信業者に一矢報いたい、一目置かせたいと考えるなら、最低でもそれぐらいしないと。或いは外資が消えても生き残れる体制を作るとか、スタジオ自体を高値で売り抜けたいのなら。
  •  人件費上昇に伴う製作費上昇は、クラウドファンディングによる製作プロジェクトの立ち上げの敷居も上げてしまう。従って資金調達方法の多様化は、「ゴールドラッシュ」以前より現実的には後退してしまっている可能性が高い。

2020/02/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第5話を観る!

 金森好きの面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。本エントリの内容が伝わるか伝わらないかはあなた次第(丸投げ。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 アニメ版もきっちり楽しんでいるので念の為。第一人格?が無邪気にストーリーを楽しみ、第二人格?がリアルタイムで演出意図などを分析しているような視聴法になっているのだ。通常、第二人格?は劇中設定そのものや設定を反映した画面中の要素を追うことに使う。アニメーターの遊びなども第二人格?が大概拾う。発見や面倒くさい見方の担当とも言え、視聴回数が限られる映画鑑賞経験を重ねて培った一種の視聴テクニックっぽい。これまでのエントリで何回も触れた通り、原作マンガはアニメ化にひと工夫もふた工夫も必要な特殊な構造を持つ。だから作り手の工夫や考えの発露たる演出や原作からの変更点などに第二人格?の視線を向けている。ちなみに第一人格?だけに従うと褒めっぱなしになっちゃうよ。

 さて、

最後の4分程の「ロボットの改造」シーンは画もテンポも良く、展開を知っていてもワクワク感がたまらなかった。声優さん達も良い。背景を白一色で通し切ったのもプラスに働いていたと思う。原作マンガでは数コマだけだけど背景が描かれたコマがある。このシーンではロボットも前景だから、同じテイストの絵での背景があると画が煩雑になっちゃっただろう。あの絵でロボットの一部を動かしたり、多少とも入り組んだ構造となっている関節部むき出しで立ち上がらせたりするのだから尚更だ。

 とは言え、残念と言うかもったいないと思う点が無かった訳ではない。

 浅草の「シートベルト忘れた!」や水崎の「あ~だけど関節全部隠して良いかな?」などのセリフに合わせて、静止画でも良いから対応する画を見せるカットが欲しかった。特に後者のセリフ前後はドリルをゆっくりスライドさせながら見せる長いカットなので、「セリフで説明するだけかいっ!」と突っ込まずにはいられなかった。別にドリル好きでもない私には、流石にこのカットは長過ぎ、観てて結構しんどかった。新品のドリルなんだから、「反射光キラーン!」ぐらいしてくれて良いのよ。

 対して、アバンタイトルの浅草の「なんじゃぁこりゃ!」の後からミサイルが浅草に命中するまでのシーンは、観ててこっちが「なんじゃぁこりゃ!」となった。テンポがなんか悪いし、演出意図も掴みかねたからだ。この一連のシーンは暗い(透明度が比較的高い黒一色のレイヤーが重ねられている感じ)のだが、私はこの見せ方を浅草の主観の反映と解した。

 しかし、カメラがかなり客観的視点から浅草、水崎を追うのでチグハグ感が半端なかった。「なんじゃぁこりゃ!」までの3カットは徐々に浅草の顔に寄せていくので、例えば「浅草の不安感」の反映と解することができ、観てて全くチグハグ感を感じなかったのとは対照的だ。「浅草の知らないところで進行する、金森、水崎も関わる陰謀の進行」感の反映ならば、それこそ浅草の主観となり、使われているカメラワーク(ほぼ原作準拠?)は明らかに相応しくない。また、画面が通常の明るさに戻るのが、ミサイルの浅草への命中と同時と言うのもおかしい。万が一、「トンデモない陰謀が進行中」と視聴者をミスリードしたかったのであっても、視聴者にカタルシスを与える瞬間は「浅草が状況を正しく理解した」時でなければならず、やはり浅草にミサイルが命中した瞬間ではない。

 じゃぁアンタならどうすんのと問われれば、薄暗いのは「なんじゃぁこりゃ!」まで、または浅草がミサイルに気付いて目を丸くした「え?何?」ってなった瞬間までだろう。ミサイル接近から命中までは可能な限り笑えるもの、または視聴者が「は?」となるものにしたいから、命中過程のカメラワークは浅草の主観を強調した派手なもの(例えばスローモーションや背動駆使、○○サーカスみたいな)とし、命中直後または命中直前の浅草の顔のアップの後にOPに入りたい。OP開け以降は、最初から通常の明るさとしたうえで現行のままの命中シーンから始める。つまり命中シーンは浅草の主観的なカメラワークと客観的なカメラワークで2回見せることになる。これは「解決編」とでも言うべきパートにこれから入りますよ、転換点ですよと、視聴者に明確なキューを送りたい意図の反映だ。くどくやりたければ、OP開けはスコーンスコーンスコーンって感じで、ミサイル命中カットを3回くらい繰り返しても良い。ま、素人にそんなこと言われたくないよってなるでしょうけど、そりゃ当然そうですよねぇ分かります。

 結局、暗く見せた意図はどのようなものだったのだろうか。あ、古代芝浜文明の設定画もなんか「見せただけ」って感じになってたなぁ。他の回でもそうだけど、ちらりと見せるだけみたいにしか出さないなら、その浅草の設定画はいっそ端から見せない方が良いと個人的には思っている。設定画をチラ見するだけにしようが文字を全部読もうが読者次第のマンガと、時間が強制的に進んでいくアニメとの違いを踏まえれば、有り得ない選択肢とは思わない。大型ロボットを含む古代芝浜文明の設定を考えている時の浅草はむしろワクワクしていた、と原作を読みながら思っていた私なら、当然前後含めて薄暗いシーンなんかにはしない。古代芝浜文明の設定画を見せてしまったことも、暗く見せた意図が分からない原因の一つと言える。

 地下探検シーンは「日常」なので、アニメ文法への置き換えの手際は危なげない。水崎のフレーム内妄想シーンも自然で、ここでも声優さんが良い。「遷移過程」であるテッポウガニの設定画の説明も、ロボットとテッポウガニとの絡みも、何の引っかかりも無く観られた。「ロボットの改造」シーン同様、ここでのロボット周りの見せ方はとにかく楽しい。ただし、こちらでは背景は白一色で押し切ったりはせず、時折背景が、時に画面内の一部分だけに、描かれた。ロボット全体が吹っ飛ばされるようなこともあるアクションシーンもあったから、さすがに背景無しでは無理だろう。繰り返すけれど観てて引っかかることは無かったから、手放しで褒めてしまおう。

 ロボ研との打ち合わせシーンで手書き文字で見せた心の声、浅草の「定番の矛盾を・・・心が痛む」や金森の「死ぬほど面倒くせぇ。・・・」はそれぞれ浅草っぽい、金森っぽいと思えてしまう字体が使われていて面白く、凄く良いな上手いなと思いながら観ていた。

 が 、「突然の和解」が手書き文字で画面に表示された瞬間に、頭の中の第二人格?部分がクエスチョンマークだらけになった。いったい誰の書き文字なのか、誰の視点なのか。浅草なのだろうけど、画に、カメラに、浅草主観の要素が皆無だ。上述した暗いシーンと共通するチグハグ感がある。あ、大童さんか!?監督か!?演出か!?メタいがチグハグ感の原因は論理的にすっきり消える。

 ここは小野、浅草、水崎のハモった「同士よ!」という原作には無いセリフだけの方が、面倒くせぇ奴フレンドリーだったと思う。「同士よ!」というセリフの導入に合わせた「突然の和解」の表示の削除は、原作に対して「足す」ことが多いアニメ版において明確な「引く」チャンスだったのでは、と残念感がある。今回アニメ版で追加された要素はこのセリフぐらい(現時点で他には思い当たらない)なので、その思いは尚更強くなる。まぁ上で触れた「ロボットの改造」シーンの白一色の背景の徹底は、アニメ版でも「引く」ことはやってるよってことではあるのだが、ドリル長回しカットも伴うとなると制作現場の状況について勘繰りたくもなる。

 で、

昨日原作マンガ第5巻を入手、早速読んだところ・・・アニ研メンバー登場の1、2コマ目でコーヒー吹いた。そして最後の4ページ、そういう表現で来たかと思わず唸ってしまった。映像化したときのイメージが全然作れない、私の想像力では追っつかない。無念。音絡みの知識はほとんど持ってないから、百目鬼絡みのネタは半分も分からない(感覚的にでも良いというならほぼ全部分かるが)。エコーロケーションってそういうことなのか、絶対できない。こっちも取りあえず無念。

2020/01/28

アニメ「映像研には手を出すな!」第4話を観る!


 観てて色々しんどかった。

 1/27公開の「攻殻機動隊 SAC_2045」の予告編も大概しんどかったけど、同じ思いの人が多い様なので今回はスルーしたい。とは言えライティングというかダイナミックレンジの確保(特に明度)というか、レンダリング技法が高度化しても画作りが下手な人はいつまでもたっても下手なままなんだなぁ、影が上手く使えてねぇんだよなぁ、と。

 さて、評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かい事はもうでーでもいーや。自走三脚式重カメラのシーンと「そのマチェットを強く握れ!」の本映像(劇中内映像だが)とが全く整合していないとか、「そのマチェットを強く握れ!」映写中の「劇中の観客」の主観描写がめちゃくちゃ過ぎるとか、の2点だけでもうお腹いっぱい。

 前者の例は、自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が「そのマチェットを強く握れ!」の本編映像に含まれていないこと。原作マンガでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台も自走三脚式重カメラのシーンも廃墟内なので、マンガ内の「そのマチェットを強く握れ!」本編描写で自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が描かれていなくとも、この種の矛盾が生じていないことを読者は十分受け入れ可能だろう。

 が、アニメでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台が廃墟ではないので、当然の帰結として矛盾だらけとなる。さらに、アニメ第3話で作品(「そのマチェットを強く握れ!」となる)のために三人で選んだ廃墟っぽいロケーションって何だったの、ともなる。つまり、第3話で作り手自らが描いたものに対して、第4話ではそれと矛盾する内容が描かれている。そう、二重に捻じれているのだ。

 原作では「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「廃墟」で少女と戦車を戦わせた。アニメでは「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「岩場のある荒野」で少女と戦車を戦わせた。台無しですよ、奥さん。結局、第3話の時点で引っかかっていた点の一つはこの可能性だったのかと納得。

 これらの捻じれは、アニメの作り手は原作もちゃんと読めていない、自分たちが以前にやったことも理解していないか覚えていないということを意味していないかな?少なくとも見かけ上はそうだ。

 しんどい。

 まぁ浅草閣下、「屈辱的な背景の繰り返し横スクロール」を本編で使わずに済んで良かったね。あと、横方向に延びるレンズフレアは見栄えが良いからJJでなくてもつい使っちゃうよね、画から想定されるレンズがそうでなくてもさ。

 後者の例は、予算審議会会場(上映会場でもある)内で煙を上げる空薬きょうの描写。観客であるモブキャラの主観シーンだが、予算審議会会場に空薬きょうが実際には存在しなかったことを示唆する描写はなかった。作り手は視聴者にどのような忖度を要求しているのだろう。あの描き方だと、空薬きょうが本当にスクリーンから飛び出して予算審議会会場に存在した、という解釈が視聴者にとっては自然ではないか。モブキャラが目頭を押さえた後に見直したら空薬きょうが無くなっていて、思わず「これは凄い」って感じの表情を見せる・・・なんて方が「まるでスクリーンから空薬きょうが飛び出してきたように感じる迫力ある映像」の演出としてむしろ素直ではないか。「シーンが変われば無かったことに」は、この原作に対して使って良い手じゃない。

 しんどい、しんどい。

 一貫性とか論理性の有無は細かい話じゃないよ、有ることが大前提。作品に一貫性とか論理性を与えるのは知性の一種の発露(か、記憶力ぐらいあることの証明)であって、作品を物語たらんとしたければ踏み外しちゃいけないんだ。

 私の見るところ、原作マンガは時に複数話にわたる伏線未満の細かい整合性にも細かく目くばせしている、繊細だ(ただし、タヌキが武器だったネタみたいに、伏線回収とともにぽいぽい捨てることが多い)。「細かすぎて伝わらないんじゃないの」と思うような描写に、その後の回でさらっと触れている場合もある。マンガのお約束とでも呼ぶべき弾力性の高い(抵抗なく忖度できることが多い)枠組みにサポートされている点もあろうが、それはどんなマンガでも同じことである。

 一方アニメ版は、少なくとも第4話まで観る限り、著しく作り手に繊細さが欠けている。

 あと、劇中アニメ(アニメ中アニメ、となる)では輪郭線を使わない、っていう第1話来の処理の意図や論理がさっぱり分からず、これもしんどい。

2020/01/25

アニメ「映像研には手を出すな!」第3話を観る!

 困った、本当に困った。一貫性が無い、論理が読めない。思わず引っかかるノイズが多過ぎる。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 従来のエントリで繰り返し触れてきたように、「日常」と「最強の世界」、これら二つの世界を結ぶ「遷移過程(トランジション)」 をどのように描くか、具体的にどのように視覚化するか、に興味深々なのである。

 原作マンガ1~4巻は買って読んだし、アニメ版はアニメ版で素直に観ている。それはそれで措いておいて、作り手の考えていることや具体的に提示される画に対するアイディアなども同時に味わってみよう、少しは分析的にも見てやろう、と言うことだ。

 「日常」が指すものについては説明不要だろう。私の呼ぶ「最強の世界」は、「劇中で完成されたアニメーション作品そのもの」または「作中人物が登場する自身らによる妄想」を指す。前者はアニメ版にはまだ無くて、原作マンガにおける作品「そのマチェットを強く握れ!」の完成版がそれにあたることになるだろう。後者は「飛行ポッド・カイリー号が街の上を飛んでいるカット(原作第1話・単行本第1巻 p.32-33見開き)」が典型的だが、何故かアニメ第1話では描かれず、未だにアニメ版に対して私が持つ不完全燃焼感と言うかアニメ版の作り手の考えが良く分からないと感じる原因となっている。ただこの後者については、続く「遷移過程」との境界がちょっと曖昧に見えるのも事実だ。

 「遷移過程」は 「日常」と「最強の世界」を繋ぐ部分であり、アニメ版・原作第1話ならば、「合作作業」開始後に作中人物が着替えたりヘルメットを被ったりして「画の世界」に入ってから、「最強の、世界」と口にするまでがそうだ。この部分は2つの点で「最強の世界」における「作中人物が登場する自身らによる妄想」とは異なる。

 まず、循環的な言い方になるが、「最強の世界」が後に控えていること。アニメ第3話(原作第4話)の「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンはそれ自体が既に「最強の世界」なので、「遷移過程」とはならない。次いで、描写されている画の視点は第三者にあり、描写自体は作中人物の行動のメタファーであること。前述した「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンの描写は作中人物の妄想、つまり主観そのものなので、やはり「遷移過程」とはならない。対してアニメ第1話(原作第1話)の「飛行ポッド・カイリー号の改造作業」などは「日常」における作中人物による作画作業のメタファーであり、作中人物が何か妄想していたとしてもその内容は無視して良い。常に「日常」が侵食、介入可能でもある。別の言い方をすると、描写はあくまでメタファーなので、「日常」が同じでも描写自体は作り手によって(つまりマンガとアニメで)変わって良い、と言うことだ。

 本当に繰り返しになるが、「遷移過程」の描写が原作とアニメで異なるのは当たり前だろうと私は考えているため、アニメ版ならではの描写を当然のように期待し、今も期待し続けていると言って良い。マンガとアニメでは「表現の土俵」が違う、というあの話である。

  なお本エントリ中の画像はTV画面のカメラ撮り画像から起こしているが、水平出しやらモアレを目立たなくする作業とか、撮影時、後処理時ともに色々面倒くさかったのでもう二度とやらない。コントラストが高くなっている理由はそういう面倒くさい作業の影響だ。

 さて、アニメ第3話。

 まずは「最強の世界」たる「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンだが、原作マンガでの描写に沿った描写で特に引っかかりも無く・・・と言いたいところだが、金森に「妄想」を発動させてしまったのは個人的に甚だ疑問だ。金森のキャラクターがかなりブレてしまっていると思う。

 原作における金森の「部室屋根/宇宙船修理ミッションごっこ」への反応は、浅草らに「合わせてやっている」という類の一種の大人の態度にしか見えない。金森の勘の良さ、頭の回転の速さを表しているように見えることはあっても、浅草らのごっこ遊びに一緒にノッているようにはとても見えない。原作第4話の表紙(+1コマ)に描かれた宇宙服姿の金森を出すこと自体は否定しないが、あのようなくどいまでの出し方は明らかに上手くない。

 「遷移過程」に行こう。最初は「部室屋根/宇宙船修理ミッション」の冒頭にインサートされる浅草による部室船計画のイメージボードの説明シーンだ。まずイメージボード全体を見せる、次いでイメージボードの一部をアップで見せつつ浅草がまくしたてる。流れだけ見れば極めて普通、むしろ非凡過ぎると言ってもよいやり方だが、それでも色々と引っかかる辺りがしんどいポイントだ。
  イメージボード全体を見せる時間が短過ぎたり、アップにされたイメージボードの一部の絵の情報量が低過ぎたりが原因で、視聴者に何が伝わるんだ、何の機能を果たすシーンなんだ、と他人事ながら不安になる。浅草の設定マニアぶりは伝わるかも知れないが、浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていない。作画の手間が少なくやけに長いシーンなので、尺稼ぎの意図でもあるのだろうかと勘繰ってしまう。ただ、金森の「長い!」と言うツッコミは、間の良さもあって、「日常」からの介入の描写として上手く機能していると思う。ちなみに、声優さんたちの声や演技には全く引っかかりを感じたことはない、っつーかエラく気に入っている。

 なお、同じ手法が「個人防衛戦車」についても使用されているが、こちらでは絵に動きが加えられているなどイメージボードの一部アップ時の画面内情報量とそれらの整理具合が絶妙に良く、部室船計画と比べて「あからさまに薄い(原作準拠ではある)」浅草の喋りの内容とも良くマッチしていた。テンポ良く、長くもない。頭がぼーっとした状態で観ていた私でさえ、思わず「190km/hって速くね!?」とツッコミ入れそうになったぐらいなので、内容は普通に視聴者に伝わるでしょう。つまり、こっちは全然引っかからなかった。

 ちなみにアニメ第2話のイメージボードシーンの処理は下図のようなもので、アニメだからこそできたものの感があり、面白いとも思った。ただし、枠や矢印を伴う説明文が動き続ける上に表示時間も短く、更にセリフによるサポートも無いため、やはり浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていなかった。また原作マンガでは同じ描写手法を使っているシーンの描き方がアニメでは各話で違い、かつ機能の仕方もバラバラという状態からは、アニメの作り手の「考えていない感」や「一貫性のある演出プランの欠如」を感じざるを得ず、何か色々と損ねている気がする。
 浅草のネタ帳に3人が「入って」からの一連のシーンは原作マンガの描写に忠実ながら、手慣れた感じのアニメの文法への変換によって安心して観ていられる。ページがめくられる様も良い。
 で、第3話のクライマックスにして「遷移過程」でもある「そのマチェットを強く握れ!」の「検討」シーンだ。夕陽、窓に重ねて固定されたスケッチブックのページ、浅草と水崎が次々とページに絵を描き込んでいく・・・という「日常」描写はアニメで導入されたイメージであり、浅草と水崎との「合作作業」を強く意識させる象徴的な描写に(たった2回使われただけだが)既になりつつあるように思う。これは上述した浅草のイメージボードの描写のバラバラさ具合とは対照的だ。

 で、そのような「日常」作業のメタファーとして描かれた「遷移過程」の描写の内容はと言うとアニメならでは、と言えばそうなのだが、「アニメの作り方教えます」ちっくな「アニメスタジオの楽屋オチ」みたいで釈然としないのだ。「夏のアニメ特集 メイキング編 」とか、面白いですか?

 正直、明確に言いたいことはあるのだが、現時点では未だ上手く言葉にできない。「日常」において全く手が付けられていない段階なのに過度に原画撮りっぽい画に違和感があるとか、主人公の少女がセル塗りになるカットの存在の論理性が全く見えないとか、引っかかったところそのものを列挙しても意味がないので本エントリではこれ以上は触れない。

 要は原画撮りっぽい画には「作中人物の妄想」っぽさも感じなければ「日常における作中人物の行動のメタファー」っぽさも感じず、故に楽屋オチっぽいと言うことだ。いくら原画っぽく見えても、劇中ではあくまでスケッチブックに描かれた絵だ、原画でも動画でも絵コンテでもない。なんか中途半端なのだ。加えて、この一連のシーンを描いたアニメーターは「水崎が描いた絵」を描いたのか?(≒水崎を演じたのか?)そうでなければ演出として捻じくれている。感覚や感性のみによりかかり、最低限の論理性や必然性すら獲得できていないようにしか見えない。
 最後に、このような描写を作り手が選んだ理由に関して頭を掠めた幾つかの可能性についてだが・・・

 一つ目は、アニメ版では原作第6話の内容をほぼすっ飛ばし、原作第7話の予算審議会に一気に話を進める可能性。この場合、演出が為された後の原画っぽさの意図は作品制作過程の描写の先取りである。ただ、そのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。原作第6話の内容のすっ飛ばしは、原作26話への伏線を一つ張らないことになる。

 二つ目は、原作第6話に相当する内容によって「実際には描かれることが無くなった原画、動画」である可能性。つまり、次話で浅草らに現実という名のカウンターパンチ(画が上がらない!)を強烈に食らわせるために、「これは!!上手くいってしまうのではないだろうか!!」とばかりにとにかく(視聴者も釣りつつ)浅草を舞い上がらせるための無理筋上等の演出・・・って、やはりそのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。ならば原画とか動画とかではなく、完成時の絵を見せる方が自然だ。

 そして三つ目は、やはり作り手が真面目に考えていないか、作り手当人にとっては面白いのだろう「アニメ屋の楽屋オチ」の可能性である。ならば、アニメ以外のドラマや映画、演劇とか観ない人たちなのかねぇ、作ってるの・・・ってなる。

 はてさて。 あ、こんなこと全話やるつもりはありませんよ。

2020/01/14

アニメ「映像研には手を出すな!」第2話を観る!

 第1話を観ながら感じた「スケジュール厳しいのかな?」感は大幅緩和、作画とアフレコとのミスマッチを感じるカットも無く、そりゃ凸凹はあるけど作画も良かった。原画担当の人数、数えちゃうんだよね。

 ただ、なんか色々と引っかるところはあって、スムースに観れなったのも事実。例えば撮影台の説明の下りや色指定に関する蘊蓄とか、必要だったのかと。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 これらは別に有っても良いんだけど、時間をかけて描いてはいないので、そもそも知らない人には伝わってなかったり、内容を咀嚼する時間が与えられてなかったり、というのが実情ではなかろうか。正直、個人的には「誰得情報?」って感じだ。セル、撮影台ともに今後も出番無いでしょ?雰囲気、気分で良かったのなら、部屋中を見回す金森の背後で、浅草や水崎が「おースゲースゲー」って感じでまくしたてるようにしゃべり続ける様を(音声は当然オフ気味に)描いて置けば十分だろう。

 演出に関しては3カット、影の色や使い方(+目への光の入れ方)が不自然過ぎ、無理過ぎとの印象を受けたが、そこら以外は良い意味で気になったところは無かった。あ、アンビエントオクルージョンという現象の存在は当然知ってますよ、そのうえで不自然過ぎ。ただ影が気になったカット周辺は作画が凸の(つまり良い)部分だったから、気分は本当に複雑。金森の表情とか良かったからね。

 「金森専用の演出として今後も一貫的に使う、形式化する」って言うなら、まぁアリとは思うけど。ただこのレベルの形式化はただのローカルルール、普遍性がほぼ無いですからね、悪手だと思います。「やった本人が思っているほどうまく機能する手じゃない、その癖真似は簡単なので、劣化した形で安易に類似の手を使う人間が現れる」、という流れが発生しないことを祈ります。「いや、80年代から良くある演出じゃないか。マンガでも使う」という意見もあろうが、ならば「影の形が違う、縦方向の輪郭線は左右対称の波型だ」と言いたい。

 で、最大の引っ掛かり点はラスト近く、「最強の風車」のカットだ。風を遮っているビルに穴を開けた後で、何故風車のデザインが変化したのだろう?羽根や軸受け周りなんかは完全に別物だ。「最強の~」のシーンの冒頭時に既に変化していれば忖度の余地もあるけど、途中からってのはその理由や作り手の意図が全く読めないなぁ・・・と思ってもやもやしていたのだが、原作マンガを改めてチェックすると、アニメ程ではないけど風車のデザインが実は変化していた。ありゃりゃ、「読む」ってのはいつまで経っても難しいなぁ。

 でも変化後のアニメ版の風車の羽根のデザインは、実用性の観点からはかなり「最弱」寄りだよね。より回らん形になってるよ。

 今回の一枚は吉田健一氏、想定外でした。水崎の顔がやや吉田キャラっぽいカットが有ったなとは思ったりしていたのですが。ちなみに私がリアルタイムに追い続けた最後のTVアニメは「エウレカセブン」・・・どうでもいいか。

2020/01/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第1話を観る!

 第1話を観る。

 先行するエントリで書いた、気になっていた点については

 「なんか今、とんでもないところへ行ったんじゃ・・・」
 「凄い画が見えた気がしたんだけど・・・」

のセリフで「先送り?」な感じで、個人的には完全なる不完全燃焼。もし「先送り」でないのなら、今後も画的には面白いものは期待できないかも。「あれが・・・最強の・・・世界・・・」とのセリフに値する画は「今回は見せてもらってない」と言わざるを得ない、残念ながら。作品上、「気分」や「思わせぶり」で処理しちゃダメなところの筈なんだよなぁ。

 「完全に逃げた」ろ、ココ。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 先行するエントリで私の言うところの「遷移過程」において、効果音を声だけにしたり声を効果音に重ねたりする音響処理は絶対アリで、いかにも「遷移過程」ぽかった。まさに、飛行機模型を片手に持って動かしながら「ぶ~ん」と言ってるとか、マンガのコマを描きながら効果音を思わず口にしてしまっているといった状況を彷彿させる処理だ。ただ「遷移過程」そのものの描写は冗長、かつ展開は作品の成立性には寄与するような論理性や必然性を伴うものではなかった。つまり、単なる尺稼ぎ、制作作業量の節約としか機能していない。

 作中人物をもっと動かしてやんなよ、「最強の世界」を具体的に画にしてやんなよ。EDの頭辺りのラフ画のようなカットを、本編内で仕上げた形で見せてなきゃいけなかったんじゃないのかな。

 アバンからOPの最初1/4ぐらいまでは「お!」と思いながら観てたんだけど、本編に入ると作画も声も既にテンパってる感(余裕がない感じ)があるのだが・・・実際はそうじゃないことを祈るばかりだ。で、PVの一部作画を観てどっかで来るんじゃないかと思ってたけど、青木俊直氏の一枚絵、いきなり来たか。

2020/01/01

アニメ「映像研には手を出すな!」のPVを観る!

 もう1年以上病気でまともに動けない状態もあって今日になって知った、大童澄瞳さんのマンガ「映像研には手を出すな!」のTVアニメ化。「半年ぐらい前が最初のアニメ化に良い頃合いだったよなぁ」と突如閃いて元旦にググってみたら・・・。

 原作は飛ばし飛ばしで数としても10話も読んでないという体たらくだが、第1話を一読した時点から映像化されたときの「俺イメージ」と言うか、「演出プランもどき」と言うか、が明確にあった。そういうものを喚起させられる、どうすれば良いだろうかと一度は考えてしまう、私にとって稀有なマンガなのだ。健康上の問題が無ければ、少なくとも単行本はリアルタイムで追いかけていただろうと思う。

 で、最新のPVを観る。

 ん~彩度が高めの色彩設計だなぁ、というのが一見しての印象、例えば制服の上着の青さとかね(黒のラインとのコントラストが出なくて、見にくい気もする)。これは批評とか好みとか言う話とは無関係で、要はマンガから喚起された「アニメ化時の俺イメージ」との差分以外の何物でもない。もうちょっと正確に書いておくと、「日常世界」シーンは敢えてもっと色をくすませていてもいいんじゃないかなぁ・・・と言うこと。「日常世界」シーンと所謂「最強の世界」シーンとの演出上の区別のために彩度差も使えるようにしておこう、という意図が裏にあるよーな気もする、我ながら。

 じゃぁ「俺イメージ」の源流はどこにあったんだろうと考えてみると、日常側は16コマ/秒の8mmフィルム(Fuji)のライブ映像、「アニメ内アニメ」たる「最強の世界」側は16mmフィルムで撮影されたかつての普通のTVアニメの映像なんじゃないかなぁと。原作マンガを読んでいた時、8mmフィルムで映画を撮っていた若いころのことを思い出していたのかもね。とは言えあくまで「フィルムの持つ色味の風合い」の記憶を喚起されたのではないかと言うだけであって、実際のカメラやレンズの限界や絵作りは別問題。もちろん日常側で粒子の粗い画を使うという意味じゃない、色だけの話。

 第1話をベースに考えても「映像研には手を出すな!」は、ざっくりと言って「日常世界」と所謂「最強の世界」と両世界の「遷移過程(トランジション)」を連続的に描く必要があり、このあたりをTVアニメがどう取り扱うかには興味を持たざるを得ない。アニメ版における所謂「最強の世界」シーンは言わば「アニメ内アニメ」、「アニメでアニメの画を表現するシーン」であるため、特定の画が「日常世界」のものなのか所謂「最強の世界」のものなのかの正しい判断を、作り手側からのサインなど無くして、視聴者に期待することは必ずしもできない。

 本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?

 「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。

 対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。

 ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。

 ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。

 PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。

 ちなみに「俺イメージ」にはアニメ化版だけでなく当然のように実写化版もある。むしろ「映像研には手を出すな!」は実写の方が演出的なハードルは低い。これはライブアクションによる「日常世界」とアニメによる所謂「最強の世界」とが、その見た目から否応なく別物となる点にある。「遷移過程」はアイディア勝負で、作り手のセンスが問われそうだ。

 出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。

・・・あ、実写版も製作中?えー・・・「遷移過程」は例えば手描き絵と切り抜いたスチール写真での低フレームレートのアニメとかでもいいけどさ、製作費はいくらなんだろう?

追記(2020/1/2):
 NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。

 まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。

 ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。

 もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。

 「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。

 作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。