2013/06/30

2013/06/29 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」

 さて、観るとどうしてもシンセがいじりたくなる「電磁マシマシ」、今回もノーゲストのいわゆる「電磁ノビノビ」。終わってから「ありがちなシンセベースの音」の"z3ta+2"(ソフトシンセ)による大量生産に挑んでしまい夜更かし気味。"Retrologe"(やはりソフトシンセ)はなんか音が濁らないんだよなぁ。

 文脈は省略するけど、"The Shamen"とか"Deee-Lite"とか90年代初頭のグループの名前が飛び出したりして、ほぼ同世代なのだなぁと実感.。(とは言え、個人的には90年代初頭と言えば"LFO"なのだ。)

 シンセいじりは発売されたばかりのKORGの"Volca Beats"と"Volca Bass"。パーソナりティ佐野電磁氏が連発する

 「イイねぇ!」

の声の張り具合が半端ない。"Beats""Bass"ともに「成程納得の音」なのだが、「パラメータ振りきっちゃった時どこまで行くんだろう」って辺りはハードウェア故に気になるところ。ホント、どこまでイケるのかなぁ。

 パラメータ範囲のエッジ付近で「どうしてでも使いたくなる面白い音」が出るようなハードウェアが昔は結構ありましたよね。大学の実験室に持ち込んで電源に変圧器挟んだりして、「吹っ飛ぶ(壊れる)か、唯一無二の音か」みたいな…今に輪をかけて馬鹿でした。今ソフトシンセを使う理由の一つは「コンデンサが吹っ飛ぶ心配をしなくても良い」からなのかもなぁ…

 それにしても、"z3ta+"と"z3ta+2"のフィルタ特性違い過ぎませんかねぇ?レンダリングレベルの問題?ん~?

2013/06/29

バンダイVF-1A/S完全変形プラモデルの股関節部移動

 人づてに「バンダイからVF-1A/Sの完全変形プラモデルが出る。ガウォークからバトロイドの変形過程での脚部付け根(股関節)部の移動も再現されてるよ。」という話を聞く。

 股関節部の移動機構は以前に頭が沸騰するかと思ったぐらい考えていた時期があるのだが、3DCGモデルならいざ知らず、プラモではとても強度が確保できんだろうと思わずにはいられない。ヒンジ、駆動シリンダーともに物理的に配置可能な寸法は極めて限られているのよ、実際。

 で、実際どうだったかというと「ヒンジはない」。まぁ観てたもれ。初期の設定に固執するつもりは毛頭ないけど、この部分「だけ」は「再現」じゃない別の表現が相応しくないかなぁ。もちろん良い意味でだよ。

 股関節部の移動のシーンで機首が後方に移動する様子も分かる。この機首の移動が結構重要で、バトロイドモード時の胸~背方向の厚みの適正化に寄与していると思う。自分がかつて作った3DCGモデルでは胸に相当する部分が機首側に動く。このため、胸と背を結ぶパーツが長くなりすぎて、そのままではバトロイドモード時のプロポーションが酷過ぎた。故にズルをせざるを得なかったのだが、今回のバンダイの変形機構を観て「ヒンジの親側の部材は機首パーツに固定という考え方から俺は逃れられなかったのだな。」と目から鱗の思いですよ。

 だからもしもう一度VF-1Aの3DCGモデルに取り組むなら、「ヒンジあり+機首が後ろに移動」で挑みますよ。3DCGでやる限りはやはり初期設定の無謀さに挑みますよ、ということ。今回の変形だと、ヒンジを含む部材の段差などの形状に意味が無くなる訳で、やはり上手くないと思うのですよ。

 いい歳した大人(ただし、マクロスをリアルタイムで知っている必要はあるかもしれない)までも熱くなっちゃうことがあるという点で、VF-1の存在感はやっぱり凄いのだ。

2013/06/27

相対性理論は難かしくない(その2):補足

 「時空」の概念については、ちょいとややこしい話が絡む。この宇宙の誕生を我々の存在する時空の誕生と見なすことは良いとして、じゃ、「未来」は何時できたのか?

 時空の外から見る限り、過去も未来もこの時空の誕生とともに既にあったと考えるのが自然だ。つまり、「我々一人々々の人生の始まりから終わりまでもが、この宇宙の誕生とともに存在した」ということだ。

 では「未来は全て既に決まっていて、我々個人の自由意思ってのは幻想なの?」ということかというとちょいと違うらしい。ここではあくまで「らしい」とだけしておこう。キーワードは「量子力学」と「並行宇宙仮説」だ。

 アインシュタイン博士は死ぬまで「量子力学」を認めなかったとされるが、「一般相対性理論」でこの宇宙の全てが説明できるとすると「自由意思は幻想」となる。「時空」はその誕生時に明確な単一の構造を持つことになるからだ。我々の人生は一本道でしかあり得ない。

 他方、量子力学の考えに従えば、誕生した時空は様々な可能性の重ね合わせとなる。つまり、「時空」は「我々個人の自由意思に対応できる構造」を持って誕生したと見做せるということだ。ここから先は輪をかけて異論も多いので踏み込まないけど、ともかくも「自由意思は幻想ではない」という考えは魅力的だよね。

相対性理論は難かしくない(その2)

 我々は「真空中の光速」よりも速い速度では移動できないという。NASAにはワープ航法の実用化を真面目に検討している人もいるし、少なくとも2本の論文、真面目にワープ航法の実現可能性を考察したもの、は読んだことがある。ワープ航法に立ち入る前に、我々が「真空中の光速」よりも高速では移動できない理由について、面白いモデルがあるので紹介しよう。

 アインシュタイン博士は「時空」という概念を用いた。英語では"Time-Space"、そのまんまである。我々は三次元空間内に存在する、少なくとも認識できている空間次元は三次までだ。ここに時間を加えて四次元の空間を考える、それが「時空」だ。

 我々は時空の中に存在し、実は「真空中の光速と同じ速度で移動している」。文章的には「常に」とか使いたいところだが、如何せん時空は時間も含んでいる。「そのころ未来は…」という言い回しは某SF小説家の名前を一躍有名にしてしまった爆笑ネタだが、図らずも「時間」という概念の認識の曖昧さを端的に表した事例かと思う。

 さて、「真空中の光速と同じ速度で移動している」ということは、時間が我々の周りで流れているのではなくて、我々自身が時間軸に沿って移動しているということだ。今あなたはPC画面を目の前にしてじっとしているかもしれない、つまり三次元空間内を移動はしていない。が、それでも時間軸にそって「真空中の光速」で移動しているのだ。結論から先に言うと、「我々が真空中の光速を超えた速度で三次元空間内を移動できないのは、我々が時空(四次元空間)の中で真空中の光速でしか移動できないからである」ということなのだ。ん?

 議論をより厳密に取り扱うために数式を導入しよう。ただし、以下の式が成り立つのはあなたが我々が存在する時空を「外」から見ている場合である。

 我々の三次元空間内での移動速度を U 、時間軸に沿っての移動速度を V 、真空中の光速を c とする。ここで U はベクトルで、速度だけでなく速度の向きの情報を持っている。他方、V 及び c はスカラーと呼ばれ、大きさ(ここでは速度の絶対値)だけを持つ。気を付けて欲しいのは、V は正味の速度を表す量だからマイナス値は取らない。

 時間軸に沿っての移動は向きが決まってしまっている。これはエントロピー増大の法則から決まる向きで、ざっくりと言えばビッグバンによる我々の存在する時空の始まりから遠ざかる向きと理解してもらえば良い。時間軸に沿った移動の向きを与えるベクトルを e としよう。e は長さが1のベクトル(単位ベクトルと呼ばれる)なので、Ve が時間軸に沿っての移動速度及び向きを与えるベクトルとなる。基本的な道具立ては終わったので本題に入ろう。

 上記の定義から下記は明らかだ。

 (我々が時空内を移動する速度と向き)
 = (三次元空間内を移動する速度と向き)+(時間軸に沿って移動する速度と向き)
 = U + Ve

 さて、 (真空中の光速) = (我々が時空内を移動する速度) だから次式が成り立つことになる。ここで"| |"は絶対値を与える演算子で、何をやっているかと言うと「移動の速度と向きを持つベクトル」から「移動の速度だけを取り出してスカラー量に変換する」ことをやっている。

 c = | U + Ve | = ( | U  |2 + V2 )0.5

この関係式は、3つの辺の長さが c 、| U  |、V の直角三角形の辺の長さの関係を表す式と同じ形、斜辺の長さが c だよ。上式の両辺を2乗して項の順番を入れ替えると次式が得られる。

 V2 = c2 - | U  |2

 改めて確認しよう。右辺第1項中の c は「真空中の光速」であり、変化しない一定値だ。右辺第2項中の U は「三次元空間内の移動速度」であり、我々が物理的に可能な範囲で自由に選べる速度と向きの組み合わせだ。そして左辺が曲者、我々が「時間軸に沿って移動している速度」だ。従って上式の関係は、「我々が時間軸に沿って移動する速度 V は一定ではなく、三次元空間内の移動速度 U によって変わる。」ということを表している。

 それでは「真空中の光速」で三次元空間内を移動してみよう。つまり、

 | U  | = c

 すると、

 V2 = c2 - | U  |2 = c2 - c2 = 0

となる。 V = 0 ということは「時間軸に沿って移動している速度が0」、つまり「真空中の光速で三次元空間内を移動すると、移動者の時間は全く進まなくなる(時間が無限大に伸びた状態となる)」ということだ。時間が経たないとなると加速はできないから、「三次元空間内の移動速度は真空中の光速を超えられない」ことになる。「三次元空間内の移動速度」と「移動者の時間」との関係は、「特殊相対性理論」の範囲内では上で示した式で計算できる。

 ちなみに三次元空間内の移動速度を真空中の光速より大きくするとどうなるだろうか?時間を逆行する?…それは残念ながら間違い。計算上は時間軸に沿って移動する速度が「虚数」と呼ばれる特殊な値となる。虚数を表すためには別の新たな次元が必要となる。つまり、これまで考えてきた四次元の時空の外へ飛び出してしまうということだ。「伝説巨神イデオン」の「亜空間航法(デス・ドライブ)」は割とこの考えに馴染む設定だと思うよ。

 繰り返すけれども、この関係式は「時空の外から我々の移動の様子を見ている」場合に成り立つものだ。見られている当人は「時間軸に沿っての速度自体やその変化は認識できない」のだ。

 式を使ったせいで逆に分かりにくくなったかもしれないが、頭の体操のつもりで一回考えてみて欲しい。なかなかに目から鱗な話だと思うよ。

 最後にワープ航法について簡単に触れておこう。実は「特殊相対性理論」の枠内では常に上の関係が成立するため、ワープ航法が可能となる見込みはない。ワープ航法を可能とするには「一般相対性理論」の枠組みが必要だ。「特殊相対性理論」では「時空は均一でゆがみや捻じれはない状態」しか取り扱えない。「一般相対性理論」では「時空にゆがみや捻じれがある状態」も取り扱いが可能となる。

 「時空にゆがみや捻じれ」を発生させる原因は重力だ。ブラックホールは「時空が極端にゆがんだ状態」と考えてもらって構わない。光が太陽の周辺で曲がるといった「重力レンズ効果」は太陽の重力によって周辺の空間が歪んでいるために発生する。光は直進しかしないから、その航路が曲がって見えるということは空間が曲がっていると考えるしかない。

 で、ワープ航法。

 「時空内を移動する」のではなく「宇宙船の出発地と到着地の間の空間だけをギュッと圧縮」すれば良いのだ。宇宙船は三次元空間内を移動していないので、「真空中の光速」による制限は受けない。問題は「出発地と到着地の間の空間だけをギュッと圧縮」することができるとしてもそのためには膨大なエネルギーが必要なこと。とある仮定に基づく計算では、必要なエネルギーはビッグバン時に宇宙全体に放出されたエネルギーと同等と見積もられている。仮定によって必要エネルギー量は減少できるけれども、とてつもなく膨大であることには変わりがない。さらに、「ギュッと圧縮された空間」をどうやって宇宙船が横断するか、という問題はまだ解決はされていないのだ。う~ん。

 ワープ航法に要するエネルギー量の低減の可能性を示唆する宇宙論として「ブレンワールド」がある。詳しくはググッて頂戴。ブレンワールドの考えは、重力が物体間の距離の増大にともなって余りに急激に減少することの説明に使われたりする。つまり、重力は「時空」の外へ漏れているが故に「三次元空間内の距離の増大」に対して急激に弱くなるのではないか、ということだ。ブレンワールド仮説が正しい場合、人工的にブラックホールを作るために必要な正味のエネルギー量が大幅に低減できる可能性がある。要は時空外に漏れた重力波の航路を曲げるなり反射させるなりして時空内に戻してやれば、膨大なエネルギーが入手できてしまうということ。この時空が壊れちゃうかも知れないけどね。

 ブラックホールの形成はすなわち「時空のゆがみ」の形成に他ならないから、人工ブラックホール形成が可能となった先にはワープ航法が見えてくるという訳だ。ちなみに「超時空要塞マクロス」の「フォールド航法」は時空を重力が漏れ出る方向を加えた五次元空間内で曲げて、漏れた重力と一緒に移動しているイメージかも知れない。まぁ、劇中の描写からは「船の周囲の時空を引きちぎって三次元空間内の別の位置に縫い付ける」というかなりめんどくさいこともやっているようだ。

 また「キャプテンフューチャー」の「振動ドライブ」も同様に五次元空間内で四次元空間である時空を幾重にも折りたたみ、やはり漏れる重力と一緒に移動しているイメージに近いように思う。ただ「振動ドライブ」の場合は何度も「四次元時空」を突き抜けることになる訳だけど。「振動ドライブ」が可能なら任意の空間に様々な空間位置からの重力波を集めることも可能ということで、とてつもないエネルギー源を手に入れられることになるよね。

 どうやるかって?

 材料が豊富な空間を選んで、そこに新たな太陽を作れば良いだけですよ。

2013/06/26

今さらながら 「『オタク・イズ・デッド』@ロフトプラスワン 」を観る。

 Youtubeにupされている岡田斗司夫氏の「『オタク・イズ・デッド』@ロフトプラスワン」を観る。話の分かり易さは両刃の剣だが、真面目に聞く限りは誤解は生まないだろう論展開はやはり見事。

 コメント欄に「(最後で)なぜ、泣いてるんだろうか?」とのコメントがあるが、「オタク」でありながらそこが分からない或いは理解できないというなら、やはり「オタク(という文化的グループ)の消滅」は本当なのだろう。

 岡田氏の話の中で、「オタク」は三世代に分類される。
  • 第一世代:貴族的、求道的。「かくあるべし」という有様が共通認識としてあり、グループ内での切磋琢磨もある。グループ内に共通認識に基づく結社的な結束が存在し得、かつグループ外部に対しては閉鎖的な傾向も持つ。後者故に「差別的」扱いを受けることがあるが、当事者は「貴族の気持ちは貴族にしか分からない」と基本的に気にしない。他方、一部のメンバーがグループ間のコミュニケーション及びグループ外への情報発信を積極的に開始、旧来の「かくあるべし」との有様への反発も含みつつ第二世代への移行を加速することになる。
  • 第二世代:選民的(エリート的)。「かくあるべし」という有様が多様化、相対化するとともに、求道的な態度は消滅していく。「なぜ、***の良さ、面白さが分かってもらえないのか」といった類のグループ外部とのコミュニケーションギャップ故に「差別的」扱いを受けることがあるが、当事者は「***の良さ、面白さが分からないなんて可哀想だな」と自分を納得させられるだけの理論武装、主張は持つ。評論家などにより主張がすくい上げられ、グループ外部の人間による代弁すら起きた世代。
  • 第三世代:「かくあるべし」という核となる共通の価値観は消滅し、「萌え」に代表される曖昧な概念でカテゴライズされる。包括的な類型化はもはや不可能。
第三世代では核となる共通価値観がないことが、他の世代との重要な違いだろう。ある歴史学者は「10歳までに自分の民族に伝わる神話を教えなくなった民族は100年内に滅びる。」と書いたと聞く。ここで「滅びる」という言葉が指すのは「固有の民族文化の消滅」、周囲との同化である。

 岡田氏は「かつて『オタク文化』と呼ばれた、個人が『好きだ、面白い、素晴らしい』と感じたものへの接し方、取り組み方のひとつの作法」が消滅していしまったことを悲しんでいるのではないかと思う。第一世代はひたすら高みを、先端を目指して研鑚し、その多くは自分の得たものを次世代に向けて披歴した。第二世代は同人活動などを通じて対象に能動的に迫ろうとし、自分の言葉で語るべく、時に悶々とせざるを得なかった。これら両世代の有様に共通するものは、「なぜそれが好きなのか?」という自己への問いを不可避とする態度である。

 理由も語らず「だって好きなんだも~ん。」という一言で片づける人達の登場は、個人的にも衝撃だった。今の自分の大部分が「一銭にもならない、生きる上では必要ない、他人にとっては意味が無い事ごと」に対する思索でできているような身としては、「自分の好きなものについて何も考えない、手放しで自らの嗜好を肯定するのみ」といった態度は解せない。「自分探し」なる理解不能な行動が陽に語られ始めたのと同時期のことである。

 個人的には、図らずも「オタク文化」として突出して語られた態度は、程度の差こそあれ如何なる分野にでも存在する作法だと考える。プロフェッショナルな仕事というのは、少なくとも私のような凡人にあっては、「オタク文化」的なアプローチを対象に適用しない限りは達成できない。

 「オタクの死」という状況を一般化することの愚は承知の上だ。だが、「自分の好きなものに対して何らの考えを持たない」人間に、「興味の無いことについて考えられる」ことを期待できるだろうか。上から下までのあらゆるレベルにおける創意工夫は、かつての日本の高度経済成長を支えた一要因と信じるに足る証拠がある。いわゆる"Kaizen"である。

 「オタクの死」は致し方ないとしても、「オタク文化」とかつて呼称された「対象に向きあう態度」までも死んでしまったとなれば失なわれたものは余りに大きい。「ネ申」を平気で頻出させる態度、またリクルーターとしての活動経験にも照らすと、少なくとも「考え、行動する者」と「考えない、行動しない者」との二極分化は最近とみに顕著になって来たやに見える。

2013/06/24

百足は怖いよ。

 定期的に閲覧しているウェブページで百足の話を読む。

 アレは怖いよ、今でも怖い。デカいやつはホントにデカい。赤いやつは文字通り赤い。

 幼少期、宮崎県の親戚の家で寝ていると顎のあたりに落下物を感じて目が覚めた。くすぐったい感覚に反射的に手で落下物を払おうとすると首に激痛、痛いったらない。落下物とは天井を這っていた百足だったのだ。結局、顎がどこだか分からなくなるぐらいに首が腫れあがり、暫くは首も回せない有様。医者の驚き様というか面白がり方は充分にトラウマになった。

 そんなに腫れあがることなんてないなんて言うことなかれ。おそらく何らかのアレルギーも発症したに違いない。百足を払おうとした右手は指が膨れあがり、二日程はまともに指も曲げられなかったのだ。なんたって、職場の女性の慣れない香水の使い過ぎが原因で失神、瞼の裏に炎症まで起こしてしまったような人なのよ。

2013/06/23

2013/06/22 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」

 今回はゲストなしの電磁ひとりマシマシ。放送開始も21:45からで、U stripでだらだら展開で開始。

 佐野電磁氏はNHKテレビ小説「あまちゃん」にどハマりとの由。個人的にはクドカン(宮藤官九郎氏)の脚本やキョン2を苦手としてきたこともあって完全に食わず嫌い状態。クドカン脚本の苦手どころは一種の分かり易さと、物語の前提として持ち込む非日常性への肌の合わなさ。もうちょっと具体的に書くと、脚本の狙いどころや物語に持ち込んだ前提が見えてくると、エピソードのひとつひとつにあざとさが感じられがちとなってしまうこと。

 だからといってクドカン脚本を否定する意図は全くなく、むしろ「物語全体とエピソード間に一貫性が感じられる」という点で常にクオリティは高く、キャッチ―さ具合も含めて「上手いなぁ。」と唸ることも少なくないのだ。単に、脚本家が面白いと思う点と私のツボとがずれているだけの話、致命的と言えば致命的なのだが。

 さて、佐野氏が挙げた電磁マシマシリスナー向けの「あまちゃん」キーワードは、「YMOの『君に胸キュン』」、フィーチャー具合が半端じゃないそうな。能年玲奈さん演じる主人公がヘッドフォンでこの曲を聞きながら、歌詞の「キュン」を曲に合わせて呟くシーンなんかもあるそうですよ。電磁マシマシだから「能年亭」なる表現が飛び出るのはお約束。

 紹介のあった機材はRoland JV-1080音源モジュール(1994年)。同時発音数64音というのは、1985年後半の同時発音数がせいぜい16音の機材をいじっていた身としては夢のような音数。「なるほどね」という音が次々飛び出すと感じる辺りは世代的に致しかたない。

 いわゆる「オーケストラヒット(オケヒット)」という音色は、今となってはやはり恥しい、というか余りに一気に流行り過ぎたということなのだろう。だって、80年代後半ですらネタと化していた訳("TOPS"のアルバムの確か「ディスコ鎮魂歌」(タイトルうろ覚え)とかね)ですからねぇ。

 ちなみに「オケヒット」はもともとオーケストラが「じゃん!」と鳴らした音をサンプリングしたもの、ティンパニやら管楽器やら弦楽器やらの奇麗なアンサンブルの一瞬を切り出した様なものなので音程は一つではない。音楽雑誌にはよくヒット曲の楽譜が載っているのだが、佐野氏によれば「『オケヒット』という音色が認知される以前には、含まれる音程ひとつひとつが採譜されていた(アンサンブル自体が再現されていた)」なんてことがあったそうな。

0:24あたりの「ゃん(休み)でれでれでっ」ってのが「オケヒット」。当時初めて聞いた時は、既存の曲の一部を逆回転再生したのではないかと推測したものだ。


 あと、先週配信回の過去ライブが公開されていたのは「事故」だったそうな。確かに見られなくなっている、っつーかそれより古い分もですか!

2013/06/22

相対性理論は難かしくない

 中学生の親戚から突如「相対性理論について教えてくれ。」と来たもんだ。じゃ、ってんで自己流の入口論を一発ぶってやると、なんか伝わっちゃた感が感じられる微妙な表情に。そりゃそうだ、誰もがすっと理解できるはずがない。が、決して難しくはないのだ。ちょいと纏めておこう。

 相対性理論の産みの親は言わずと知れた知の巨人の一人、アルバート・アインシュタイン博士だ。相対性理論には一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、まずは簡単な方、特殊相対性理論に限定した話だけに触れることにする。

 ここで「特殊」とは「特別な場合」ではあるのだが、実際のところ「理解が面倒くさくなる要因、条件を排除した場合」とも言い換え可能だ。逆に「一般」は「めんどくさいけどどんな場合にも適用できる」ということになる。実際、アインシュタイン博士が論文として発表したのは「特殊相対性理論」の方が先だ。

 「特殊相対性理論」を表す方程式を導くためにアインシュタイン博士が行ったのは「思考実験」だけだとされる。「思考実験」とは「もし***だったらどうなるか?」を論理的に考えること、頭の中でシミュレートすることである。ま、実際のところ、「もし***ならば」の***の部分が重要で、ここを踏み外すとどんな頭の良い人だって意味ある結果が得られやしない。アインシュタイン博士の凄さは、この***が適切だったことだ。ではアインシュタイン博士の***とは?

 「光の速度は観察者によって変わらない。」

 厳密には水中と真空中で光の速度は違ったりする訳だが、ここではその差には目をつむろう。条件をより「特殊」にするために、以降では真空中の話と限定しよう。例えば宇宙空間を思い浮かべればかなり良い近似だ。

 さて、真空中に二人の観察者がいるとする。観察者が何を観察(測定)するかと言えば、ずばり「光の速度」だ。どうやって測るのか?例えば距離1mを光が通過するために要した時間を測れば良い。つまり、

 速度=距離/時間 (メートル/秒)。

 一人目の観察者Aは真空中でじっとしている、或いは一点で「じっとできている」。宇宙空間でじっとできているということは、周囲に惑星などが無く、何かの重力に引っ張られていないという実際にはあり得ない理想的な状態だ。(重力の影響を取り扱うためには「一般相対性理論」に踏み込まなければならない。)

 観察者Aが目の前を通り過ぎた光の速度を測定したとする。観察者Aは気付かなかったのだが、その光が目の前を通過している際、光と同じ向きに高速(ただし、光の速度よりは遅い)で移動している観察者Bも同じ光の速度を測定していたとする。

 観察者Cは「あなた」だ。観察者Aの背後にじっとしていて、肩越しに同じ光の速度を測定する。得られた速度は「真空中の光速」となるだろう。観察者Aが得た速度もやはり「真空中の光速」となるだろう。では、観察者Bが得た速度はどうなるだろうか?アインシュタイン博士の***に従えば、やはり「真空中の光速」とならなければならない。ん?

 あなたから見た観察者Bは、光と同じ向きに高速に移動している。つまり、観察者Bが得た速度は

 (真空中の光速) マイナス (観察者Bの移動速度)

になっても良さそうだ。なんか矛盾してるように見えるよね。実はこの矛盾を解決するのが「特殊相対性理論」だ。光の速さの測定方法を思い出そう。つまり、

 速度=距離/時間 (メートル/秒)。

速度を直接測定している訳ではないのが何気に重要なところ、あなたを含めた三人の観察者は、実際には「距離」と「時間」しか測定していない。「特殊相対性理論」が告げる内容は単純、「光の速度は観察者によらず変わらないが、距離や時間は観察者によって変わる。」ということだ。

 距離も時間も「真空中の光速」を基準にして決まると考えるべきなのだ。1秒とは「光が1秒間で進む距離の通過に光が要する時間幅」、1メートルとは「光が1メートル進むに要する時間幅に光が進む距離」なのである。距離や時間は変わる、つまり絶対的ではなく相対的なものに過ぎないという訳だ。

 あなたの立場からは、観察者Bが得たであろう光の速度は

(真空中の光速) マイナス (観察者Bの移動速度)

である。が、「観察者Bにとっての1秒間」が「あなたには1秒未満」に見えれば観察者Bが得た光の速度が「真空中の光速」であっても矛盾は発生しない。この場合、あなたの時間に対して観察者Bにとっての時間は伸びている。これがいわゆる「ウラシマ効果」と呼ばれるやつだ。

 ちょっと単純化し過ぎたかもしれないけれど、特殊相対理論が語る我々の住む世界の仕組みの一端はそういうことらしい。ちなみに次のステップは「我々は常に光速で移動している」というものだ。いわゆる時空、三次元空間+時間の四次元空間内で我々がどのように動いているかを考察すれば、「複数の観察者」という込み入った思考実験よりも時間の伸び縮みを実は理解し易いのだ。(その2)が書かれるかどうかは気分次第だけどね。

2013/06/16

2013/06/15 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」

 ゲストは松武秀樹氏。

 「4人目YMO」として知られているが、YMOを細野晴臣氏のソロの延長で仕方なく聞き始めた身としては、"Logic System"、"Akihabara Electric Circus"の人だ。

つまり、私は
ってことですよ、20年以上前からね。

 "Akihabara Electric Circus"の"TV(1989)"は米国TVシリーズのテーマ曲カバー集で、今日チェックしたところでは日本のiTunesで購入できるようになっていた。残念ながら"Logic System"の全てのアルバムはiTunesではまだ購入できるようにはなっていない。「音色は"TV"がカラフルな感じ、"Logic System"の『東方快車』がモノトーン気味とかなり対照的」というのが個人的な印象だ。「Tansu(Moogモジュラーシンセの愛称)だけに(音色の)引き出しが多い!」なんつって。

 松武氏のお話の多くは田中雄二著「電子音楽 in JAPAN」などでも触れられていた内容だが、やはりディテールのレベルが上がっているし、文章では伝えにくいが故に書籍では涙を飲んで割愛したに違いない本人の感覚に根ざした言葉が伝えるニュアンスは豊潤だ。

 印象深かったのは、やはりMoogIII-Pシンセに関する冨田勲氏がらみのエピソード。音色を作っている過程を(身体で隠すようにして)見せてくれなかったとか、その日の仕事を終えるとパッチ(シンセモジュール間の結線)を外すのみならずツマミも全て0にしてしまうとか、冨田氏の有り様を伝えるエピソードかと思う。特に後者はデキる人の机上にありがちな光景、仕事中は結構散らかっているように見えて、帰宅時には奇麗に片付いているみたいな。

 シンセサイザーポリッシャー(本人談)として重要な曲、アルバムとして、ガーション・キングスレイの"Popcorn"とウェンディ・カルロス(当時は男性だったのでウォルター・カルロス)の"Switched-On Bach"を挙げたのは普通過ぎて意外なぐらいなのだが、「徹頭徹尾王道を貫いた」ということなのだろう、少なくともここまでは。なんたって「シンセの音を変えなきゃいけない!」って言っちゃったんだから、ワクワク。


 まぁ、観てつかぁさい。

 あ、松武氏が編曲した上坂すみれさんの「テトリアシトリ」のイントロが猛烈に刺さりましたよ(2:07:00辺りから)、これは発売されたら買っちゃうなぁ。


Video streaming by Ustream


2013/06/15

「ボラリティ」ってなんぞや

 !今回は軽い下ネタを含んでいます!

 職場の昼休みにとあるニュースサイトをチェックしていて、最近TVでも使われることのある「ボラリティ」とい言葉に出会う。化学の世界だと、「揮発性の高い」ことを「ヴォラタイル、ヴォラティル(Volatile)」と表現する。それもあって、これまでは「消えちゃう」とか「すぐ変わる」のぐらいのニュアンスで捉えてきたのだが、一度真面目に意味を調べておこうと。が、なんてことなさそうで、そこそこ笑劇的(変換ミスに非ず)な展開となった。

 そもそも、英語に「ボラリティ」なんて単語はない。おそらく「ヴォラティリティ、ヴォラティラティ(volatility)」が正解で、別のニュースサイトでは「ボラタリティ」を使っていた。この単語、経済学では株式や為替の変動率、つまり時間当たりの変動幅を指すらしい。つまり「ボラタリティが高い」というのは「乱高下する状態」と言い換え可能で、別に新たな単語を導入するまでもなかろうと思うのだ。

 想像力を逞しくすると、「個人的な株取引の過程で、なんかカッコ良さげな"volatility"という言葉に出会い、他人に対して使いたくて使いたくてたまらなくかった。ところが、いざ使う段で『ボラリティ』とう具合に間違って使ってしまった。」とか、発端としては有りそうじゃないですか。気取ったつもりが赤っ恥。若いころにありがちな「痛いパターン」ってヤツですよ。

 「シミュレーション(simulation)」ではなくて「シュミレーション」とか、おそらく日本語としての発音のし易さが原因で変なことになっちゃうってのは分からなくもない。かといって英語としても発音しにくい単語とは思えないから、発音がおかしいところは「カタカナ表記した際に違うところ以外」にあるとも考えられる。どーも、というかやっぱり「L」の発音が鬼門なんだろうじゃないかと思う。つまり、「L」をちゃんと「L」で発音すれば、「シミュレーション」の方が発音し易いのではないかということだ。

 "english.com"じゃなくて"engrish.com"というサイトがある。英語ネイティブが奇異に感じたり、苦笑せざるを得ない英語の誤用や上手くない使い方を紹介するサイトだ。アドレスは「L」を「R」にしか聞こえない音で発音する様を揶揄していて、当然ながら日本はネタの宝庫である。

 カレル・チャペックの小説「山椒魚戦争」では、人語を解する山椒魚が突如東洋に現れ、人類(実際には米、欧~露と言って過言ではないが)相手に戦争を仕掛ける。山椒魚達は英語をしゃべるも、「L」と「R」の発音を区別しないのが特徴だ。あれ? 中学生時代の英語の授業でやたら「R」の発音を練習させられたのだが、日本語のラ行の発音が英語ネイティブには「R」と聞こえるならば、むしろ「L」の発音の練習をすべきではなかったのでは?ん~?

 ついさっき久しぶりに"engrish.com"を覗いてみたら、いきなり袋詰めナッツ"My Nuts"の写真で苦笑。"Nuts"にはスラングとして「イカれたヤツ」みたいな意味もあるが、ここでは「オレのキ○タマ」が妥当な訳だろう。「ついつい手が出る」、「カリッと香ばしい」といったパッケージ記載のコピーとも併せると、「オレのキンタ○」では二重三重に痛いよな、痛そう。ちなみに「ポケットモンスター」は海外では"Pokemon"だ。"Pocket monster"は普段はズボンに隠れているモンスター、「男性のイ○モツ」の意味があるからだ、いや~ん。

 はい、軌道修正。

 とは言え単語の中の音の入れ替えは別に日本語固有ではないようだ。「イスカンダル」は「アレキサンダー(大王)」がアラブ語圏でなまったものとされる。良く使われる説明は、アラブ語の定冠詞(英語なら"the")である"al"が頭に付いていると誤解され、その部分がまず取り去られたというものだ。つまり「イキサンダー」とか「イキサンダル」になる。次いで「キ」と「サ」の順番がなんかの拍子で入れ替わると「イサキンダル」、かなり「イスカンダル」に近付いたよね。このような音の入れ換えの原因は「言い間違いの発生頻度が高い」せいと考えることもでき、それぞれの言語における発音のし難さ/し易さと無関係とは思えないのだ。

 "volatility"は「V」と「L」という日本語に無い音を含んでいて、発音が化け易い単語とは言えそうだ。確かに、「ボラリティ」という発音は余りにも「英語的では無さ過ぎる」気もするんだなぁ。

2013/06/14

クロスオーバーってつまらない

 ここで言う「クロスオーバー」とは、本来別々の物語を組み合わせて新しいストーリーを作ること。映画で言えば「アヴェンジャーズ」が典型的な例で、製作側が版権を持つヒーロー総出演みたいな様相を呈するに至っている。

 個人的には、このクロスオーバーってのは罵り言葉の5つぐらいはすぐに思いつけるほど嫌いでつまらない。理由は簡単で、そもそも相互に一貫性が取れる筈もない複数の物語や世界観を一本の物語に押し込めてしまえば、全体として「一貫性のある物語、世界観」なんて獲得できないのが道理だからだ。「夢オチの方がまだ潔い」と思うことすらある。

 片や、ジャンプアニメコラボは面白がったりする。この場合は作り手の技量、懐の深さ具合をみることになる。「真面目にやったら破綻する」という前提にどう挑むか、実際のところ真面目にやるには極めて難度の高い話なのだ。大抵の「クロスオーバー」のつまらなさは、「真面目にやったら破綻する」という点に製作側が挑みもしないところにある。プロでもそんな塩梅だから、アマチュアとなれば本当に節操がない。

 3DCGアプリなどのコモディティ化が進み、TVシリーズ級のVFXは個人レベルで達成可能となってきている。だが、一定以上の技量を持つアマチュアモデラーはまだ限られているのが実態らしく、海外のアマチュアフィルムメーカーから良く声がかかる。が、その半分はスタートレックと何かのクロスオーバーだ。昨日もまさにそういうプロジェクトへの参加依頼があったばかりなのだが、もちろん丁重にお断りするしかない。さっぱり興味ないんだからどうしようもない。

 守秘義務があるから具体的なプロジェクト名は挙げられないけど、商業プロジェクトへの勧誘も二度ほどあった。もちろん報酬はあるのだが、私にとってモデリングは純然たる趣味、自分が作りたいと思わないものなんかにかかずらわってる時間なんてない。

 でも個人的な信条をうっちゃれば、こうも言える。

 もしあなたが3DCGがらみのキャリアを望んでいるのなら、プロも参加している海外の3DCGコミュニティに積極的に参加しよう。武者修行みたいなもので、本気で挑む限りは無駄になることなんてない。ムービーは「ニコ動」ではなくて"Vimeo"に上げよう。世界中のプロの声を聞こう。世界中のプロを唸らせてやろう。

 世界は広い、が、分野を絞れば「これは!」という人材は決して多くない。これは真面目な話だ。

2013/06/11

ギガバイ子ちゃんってのがいたよね。

 職場の喫煙室でバカ話。

 昔、PCクラスタを職場で組んだ際、Gigabyte社製マザーボードを使った。グラフィックチップにはオンボードのIntel Graphicsを使ったのだが、まだLinuxのどのディストリビューションもドライバをサポートしていなくて苦労した…という話をしていたらふと思い出したのが…

「昔、ギガバイ子ちゃんってのがいたよね?」

と。で、帰宅後に早速ググッてみて分かったことは、私が知っているギガバイ子ちゃんは「新ギガバイ子ちゃん」であること、「旧ギガバイ子ちゃん」もいたということだ。

 残念ながらギガバイ子ちゃんはもう使われていないが、ニュースサイトのアーカイブから拾った新旧のギガバイ子ちゃんの画像を転載しておこう。

 二人ともデザインはるかぽん(瑠沢るか)さんだ。
旧ギガバイ子ちゃん (C)るかぽん

新ギガバイ子ちゃん (C)るかぽん

 ちなみにグラフィックスドライバ問題は、Intelのウェブサイトの奥底から非公式のソースコードをサルベージ、configure一発で解決した。OpenPBSとかMauiとかの設定ファイルを嬉々としてviで書きまくってたなんて、まだ若かったのな、オレ。

2013/06/09

"Pacific Rim"オフィシャルメイントレーラー

 先月のうちに公開されてました。壮大などつき合い、としか言いようがないよ。

近況、五度。:補足

 書き忘れていたのでここで追加。

 本ブログにたまに出てくる遠方の友人より「なんで『遺憾ですとも』なん?」との質問あり。

 引用元は、荒川弘氏のマンガ「鋼の錬金術師」第1巻(の筈)の表紙カバー折り返し部記載の著者コメント。加えて、英語としてどうなのよという点では心もとないのだが、"It can (be) death tomorrow."とも掛けてある。ここで"it"が指す内容は「今日の思考停止」であり、「今日の思考停止は、明日には死にも比すべき致命傷となるよ。」という自分への戒めを込めている。

 真面目な話でスマぬ。

2013/06/08 U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」

 遠山明孝氏をゲストに、特別講座「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」を開催。前番組の野球中継が延びたので、結局ラジオ放送は無しとなり、U-stripのみという展開。

 CBCラジオでは「放送無し」となった場合はお酒とおつまみが出る決まりらしく、シャンパンと紙コップがスタジオに登場。シャンパンは瓶を完全に空けてしまい、パーソナリティの佐野電磁氏の挙動、言動には途中からアルコールの影響が露わ。まぁ、面白かったからイイヨイイヨ~、ということで。

 1曲目は佐野氏が約20年前に「ハウスってなんだろ?」などと考えながら作ったという曲「ソード・ダンス」。ハチャトリアンの「剣の舞」を素材にした本人曰く「勢いネタ一発」。だいたい18:00~23:00。



Video streaming by Ustream


 1990年ごろは、私もほぼ同じ疑問を持ちながらやたらめったらにCDを買って聞いていたころで、今になってみれば現在の主要なダンスミュージックの主要ジャンルのご先祖様はだいたい出揃っている。実際、「ソードダンス」のドラムパターンには、一瞬とはいえドラムンビートや他ジャンルの典型的なパターンが度々現れる。後半の特別講座「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」の良い前振りにもなってたんじゃないかなぁ。

 で、「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」。(過去ライブに収録なし)

 スタジオでFL Studioを使いつつ、まずいわゆるリズム隊(キック(バスドラム)、ベース、ハイハット、スネア、ベースと同時に鳴るようなシーケンス)の遠山流骨格作り法を具体的に説明。具体的さという意味では伝授に近く、サイケデリックトランスに取り組みつつ「なんかイマイチ」って感じで悩んでいる人には絶対突破口に成り得る内容。

 個人的にはトランス系は聞かないし作りもしないけど、キックなどのリリースを削ったり裏拍を積極的に使ったりキックの位置でベースを抜いたりすることは日常的にやっている。これは、トランスなどのジャンルが確立される直前の「なんでもあり時代の楽曲の記憶」から、おそらく無意識にピックアップした「自分にとって気持ち良い音」なのだろうと思う。

 現在の自分が聞かないジャンルに若いころの自分が「気持ち良い音」と感じた要素が強く引き継がれている、というのは何とも奇妙な感じ。じゃあ今後トランス系の曲を聞こうと思うかと問われれば答えは「ノー」だ。「リズムがしっかりしていれば上モノは最小限で良し。」というのが立ち位置だからだ。「トランスを、スーパーソゥ(有名な音色)とリバーブ抜きで。」というオーダーは実際問題として現在では成立しないだろうと。

 ひとつ「えっ?!」と思ったのは、紹介された遠山流ではベースに類似の音色でシーケンスを二音重ね、一音目はセンター、二音目は左右に振るという点。二音目相当の音を一音目のディレイで作るという方法を良く使う身としてはちょっと意外な感じがしたのだが、空間の広がり感の表現には「二つの音色が似てるがちょっと違うことが重要」という考え方には説得力がある。もちろん、左右に振る二音目に深めリバーブを利かせるという点も忘れちゃいけない。ちょっと人力ディレイ(ディレイ成分も打ちこんじゃう)っぽいと言えばぽいけど、本質は違う。

 結局、曲は「FLMASK」の名で完成(?)。仔細は省くけど、「(会社で)佐野さん!取れましたぁ!」に大爆笑。ちなみに「QなんとかMASKとかFLMASK」が分かる人は現在どのくらいいるのかなぁ…現在のインターネットは(ほぼ)国境無き実質的な無法状態だからね。若い人はきょと~んだろうねぇ。

 来週のゲストは松武秀樹氏。分かる人には直ぐ分かる、何なのこの一連の凄い展開は!来週も逃せませんよ。

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。:補足の補足

 「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来についてネガティブな態度を取ると、ごくたまに「オリジナル原理主義者」なるレッテルをすぐ貼る人がいる。実に困ったものだ。

 私は少なくとも「オリジナル原理主義者」ではないし、そういう態度に出る人に限って「宇宙戦艦ヤマト2199」の良さや好きなところを「自分の言葉」では語ってくれない。引用を用いて権威主義的な態度に出てくる場合もある。「オリジナル原理主義」なんて曖昧な言葉を使うのは独裁政権のスローガンを鵜呑みにするようなもので、思考停止を正当化する誤魔化しにしか思えない。「オリジナル原理主義者」と「そうでない者」との二分法、相対化は分かり易さにおいては究極的なのだが、ほぼ例外なく間違いであるため、それを選択的に用いる場合は確信犯でない限り嘲笑の対象にしかならない。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来については、ちゃんと追っかけてる人でも結構もやもやしてるんじゃないかなぁ。私は最初っから最後まで見届ける覚悟だから、声無き途中脱落者の思いの一部なりとも言葉にして代弁できれば本望なのだ。

 敢えて私の立場を表明すれば「物語至上主義」。ヤマトのファンでもアニメ好きでもないから視点はかなり客観的なつもりだし、作品の好き嫌いで言えば「宇宙戦艦ヤマト2199」は好きなのである、個人的にはイマイチ面白くないとか光るところもトンと見かけないとか思いは複雑なのだが。「好き嫌い」、「良し悪し」、「好みとかツボ」はそれぞれ別次元の話であり、私の中ではこれらは完全に切り離されている。

 私の視点は、全ての設定や考証は「一貫性のある物語性の獲得」の観点から選択されるべきであり、逆に影響がないなら別の観点からの選択で良いということにすぎない。以前に「三式弾」への引っかかりについて触れたことがあったけど、これは上げ足取りのつもりは全く無く、作品タイトルにも冠されている西暦2199年との整合性があまりに取りにくいからだ。同様の観点から、「コスモゼロ」という呼称を単なるペットネーム(宇宙零戦)とするのか、まさに零年(2200年)採用の機体故とするのかは、作り手側の態度や立ち位置を考察する上での重要な手掛かりなのである。

 「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は基本的に誉めまくるけど、他の映画やTVシリーズにはヤマトであろうが苦言を呈せざるを得ない。オリジナルTVシリーズは、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」を成立させるためのプロローグに過ぎなかったのではとすら思うぐらいだ。

 私の意見は、「一貫性のある物語の構築」という「一種の知的作業の完成度」という尺度で較べた場合、「宇宙戦艦ヤマト2199」はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」やヤマト以外の他の作品と較べても低い部類に入りませんか、ということだ。ちなみに、私は「駄作」という表現はよっぽどのことがない限り使わない。自分の中に「駄作」の明確な定義が無いからだ。まぁ「金返せ」「時間返せ」と言わずにいられない場合は、個人的な尺度では「駄作」ということになるのだろう。

 プロフェッショナル「の」仕事というのは基本的に結果の世界だ。私はプロフェッショナル「な」仕事と呼べる結果を極めて尊ぶことを基本としているだけで、「全てのプロフェッショナル『の』仕事」が「プロフェッショナル『な』仕事」とはなっていないのではないか、という極個人的な問題提起を出発点としている。

 じゃ、近いところで高評価のTVアニメとかあるの?と問われれば…「天元突破グレンラガン」かなぁ。最終話の最後にふらっと出てくるオッサンのセリフの重みとその重み自体をひらりとかわす距離感の取り方ってのは、第一話から積み重ねてきた物語があってこそ合点がいくし、説得力を持つことになるんじゃないかなぁ。あ、全然最近の作品じゃないですね。

2013/06/08

近況、五度。

  • 現在の抗うつ薬は合っているみたいで日中はかなり好調。一方、睡眠導入剤はなんか効き目が無くなってきたみたいで早朝覚醒が再発、毎日昼間が眠い。酷くなるようなら来週は病院に行こう。
  • 昨日は人間ドック。身長は1cm伸びた(笑)。血中のコレステロール値がやはり高いが、体脂肪率は昨年より低下して20%を切る。まぁ、昨年が酷過ぎたといえば酷過ぎた。
  • 職場の課内会議で課長曰く、
    「分からないことを分からないままとする人が多い、『~的』という表現を使う人はきっと分かってない。
    さすが、分かってらっしゃる。
  • 同僚の一人がいつまで経っても「誤差」の本質的なところを理解してくれない。まだ若いのに頭が固いのか、頭の良い人にありがちな一種のグズなのか。早く一皮剥けないと今の職場には居られないよ、マジで。同世代のデキる人間にはもうプロフェッショナル×プロフェッショナルという立ち位置で接しているんだけど、そこら辺は気付いてるかな?あせらず、慌てず、単純に自分を変えていこうよ。
    俺はまだまだ変わるよ。
  • 愛用のDAWアプリ Cubaseをバージョン6から7へ発売から半年遅れでアップグレード。遅れた理由は「勘違い」。競合製品Sonar X2のX1からの変更点をネットで調べた際、とにかく使いにくそうとの印象を持ったのだが、何時の間にやらCubaseの変更点と頭の中でごっちゃにしていたのだ。
    アップグレード後の最初の起動でカラースキームの変更に愕然、お世辞に見易い配色とは言えない。だが、新しいミキサーは良い、というか私の使い方なら絶対こちらの方が便利だ。イコライザーにリアルタイムにスペクトラムが表示されるのも便利。
    ちなみにバージョン7.0.4にアップデートするとカラースキームは穏当なところに変更される。やはりバージョン7のカラースキームは評判が悪かったんだろうなぁ。
    Win 64bitでまだバージョン6を使ってるなら、バージョン7へのアップグレードを真面目にお勧めする。チャンネル読み込みや動作全般はむしろ軽くなってるよ。

2013/06/07

奥さん、論文査読お願いします。:アフターサービス

 さて、査読したうえで私が「掲載不可」と回答した論文が、某学会の論文誌に最近になって掲載された。何処をどう直したのか気になって、面白くないことは知りつつも内容をチェックした。というか、タイトルが査読時と同じで馬鹿丸出しのままだったので、何が起きたのかを確認する必要があったというのが正しい。

 結論から言うと、論旨破綻は解決されておらず、論文としては失格だ。このような論文が掲載されたという事実は、論文の出来を遥かに超えた高いレベルの問題を浮き彫りにしたと言える。

 論文では、ある現象をモデル化する際に、「パレメータAの影響は無視できる」と仮定した上で独自のモデルパラメータを決めている。まぁ、ここまでは良い。実際にパラメータAの効果が小さいのは40年以上にわたる試験データの積み重ねから明確だ。問題は、「開発したモデルは、パラメータAの影響を*%以内で予測できる。」と結論に誇らしげに書いていること。はい~(↑)?

 百歩譲っても、執筆者は技術的或いは科学的な見地からは「馬鹿」である。

 纏めると、
  • この論文の主筆者は(自粛)だ。名前は覚えたぞ。
  • この論文の連名者は(自粛)だ。良く知ってるぞ。(自粛)先生、あなたの名前を連名にして、酷い論文が出されましたよ、知ってますか?
  • この論文誌の担当編集委員は(自粛)だ。そんなんじゃだめだよ、ちゃんと査読手順に従わなきゃ。査読時の著者への質問の回答を、私は見せてもらってないぞ。
  • この論文を掲載した論文誌は、日本のごく一部でではあるが大きく信頼を下げた。今後、商売上の価値がない限り、私はこの論文誌には論文を投稿しないだろう。
って辺りだ。
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 このブログを読んでる人は、私を「直ぐに他人を馬鹿扱いする」人間と思うかもしれない。しかし、とある女性に「人の悪口をほとんど言わない珍しい人、人の良いところを見つけるのが上手いよね。」とまで言われたことがある、という事実は明記しておこう。私が「馬鹿」と呼ぶ相手は、本当にどこに出しても「恥ずかしいぐらい底抜けの」馬鹿だと思ってもらっていい。

 とはいえ「馬鹿、馬鹿言う奴が馬鹿。」というのも世の理の一端を上手く捉えている。「馬鹿」という表現を使うことで楽しちゃいかん、と言うことだ。ここはきっちり反省した上で、今後の姿勢を明確にしておこう。

 本エントリでの文脈における「馬鹿」は、「研究者失格」や「技術屋失格」とでも言い換え可能で、「プロフェッショナルでなければならない人間がプロフェッショナルではない行動、言動を取ることで良しとしており、かつ、それを当人が自覚できていないとしか見えない」状態を指す。個人的には「自覚の有無」がとても重要で、多少なりとも自覚があればそれだけで将来に期待して良いし、「馬鹿」と呼ぼうなんて思いもしない。

 また、今後書かれるブログエントリでは、「馬鹿」という表現は「馬鹿としか表現できない」場合しか使わないことにしよう。これまでのブログエントリにおける大部分の「馬鹿」は、「プロ作家失格」「プロクリエーター失格」などのように、文脈に沿っての上記の考え方に従う解釈をお願いしたい。もちろん、これまでも、これからも本ブログで個人の人格を攻撃することは有り得ない。この点、明言するとともにご理解を重ねてお願いしたい。

2013/06/06

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。:補足

Q.ビーメラ4は辺境か?

 まず事実を確認しよう。

 第15話「帰還限界点」の開始時点で地球滅亡まで最長310日、終了時点で298日である。つまり、第15話のストーリーは最長12日間内の話となる。劇中でドメル上級大将はバランで作戦を部下に説明しているから、ガミラス艦のバランからビーメラ4周辺宙域への移動時間は12日以下ということになる。また、ヤマトは60日プラスアルファで地球からビーメラ4周辺宙域に到達していることにもなる。

 これらの数値に間違いはないよね?

 テロン、すなわち地球はガミラス帝国の版図の中では辺境とされる。つまり、ガミラス帝国から見て辺境と呼べる宙域までの航宙時間は、ゲシュタムジャンプを使えばバランから60日とかからないことになる。ヤマトの航宙は紆余曲折を伴ったものだから、トラブルなく移動できれば30日でもお釣りがくるのかも知れない。実際、島大介は「35日の遅れ」を劇中で口にしている。

 て~ことは、「バランから到達に30日かかる宙域は辺境」で間違いないだろう。では12日かかる宙域はどうか?航宙に要する時間の観点からは判断材料が無い、というのが実態だ。が、天の川銀河への版図拡大を図りながらビーメラ星系内の亜空間ゲートを使用していないということは、バラン~ビーメラ星系の移動にはさして苦労は無いと考えるのが合理的だ。

 つまり、ビーメラ4はガミラス帝国にとって辺境とは見なし難い。で、本題。面倒臭いので遠まわしはやめよう。

Q.「イズモ計画派」は馬鹿ばかりなのか?

 少なくともヤマトに乗り込んでいる連中は馬鹿ばかりとしか思えない。想像力に欠けるか、自分で考えることを止めて(誰かの言うままに動いて)いるかのどちらかに見える。

 ガミラス軍はバランに1万隻の戦闘艦艇を簡単に集結させられるのみならず、バランからビーメラ4への移動も苦にしない。となれば、地球からビーメラ4に地球人類が移住したとしても、発見されれば2週間と保たずに壊滅させられるのがオチだ。壊滅を免れるためには軍の再建が必須だが、移住開始までの猶予はせいぜい270日、最初の移民のビーメラ4到達からどのくらいガミラス帝国の目を逃れられるかは全く分からない。というより、逃れられる筈もない。軍の再建に使える時間など無いのだ。おそらく、大型ミサイルの20発もあれば地球人類はこの宇宙から消え去ってしまう。つまり、ビーメラ4への移住を考えるという一点だけで、「イズモ計画派」の理性や想像力の欠如を指摘するに十分なのである。

 まぁ、ヤマトクルーがガミラス帝国の勢力範囲を把握していないだろうことは間違いないのだが、そういう状況を視聴者に陽に伝えるような描写は劇中になく、逆にガミラス帝国の勢力範囲をクルーが気にする描写もない。ただし、新見情報長がガミラス帝国の勢力範囲を把握できていないことや、ヤマトの航宙がガミラス帝国の勢力圏により深く入っていくことと等価である可能性を考えていないことは、劇中の行動や言動から明らかだ。亜空間ゲートの情報が、ガミラス帝国の中心宙域、或いは支配宙域のコア宙域の推定に使える筈で、今後の真田副長の分析に期待しよう。

 ついでに地球はどうなってるの、という点にも思いを巡らしてみよう。

 ヤマトとの戦闘で太陽系内のガミラス軍の拠点は全て壊滅した。遊星爆弾が落下することは無くなり、人類滅亡まで1年の猶予を確実なものとしたことになる筈だ。で、次は?

 確かに地球人類は絶滅の危機に瀕しているのだが、それは地球に居る限りにおいてのみ正しい。火星のテラフォーミングがどの程度のレベルなのかは不明だが、劇中で火星の海ははっきりと描かれ、総監督がオーディオ・コメンタリーでもそれに触れたことは無視できない。少なくとも火星の一部では人類が生存できる可能性が大なのだ。

 もう言いたいことは分かるよね?

 「大局的視点からの物語への一貫性、論理性の付与」、その踏み絵のひとつは踏まれるどころか大きく踏み外され、新たな踏み絵も先に控えているのである。

2013/06/05

ウルトラホーク1号発進できず。

 冬木透氏によるウルトラセブンの音楽はそりゃもう最高で、当然iTunesのライブラリに加えてある。ちなみに音源はアナログレコードだ。サッカー日本代表のブラジルワールドカップ出場決定を見届けた後、ふと聞きたくなって今まさに聞いている。

 で、曲名を何気に眺めていて、突如重大なことに気付いて愕然としてしまった。

 ウルトラホーク1号の発進シーケンスでは、なんかもっともらしく英語のアナウンスが使われている。分かる人はすぐ分かるだろうけど、「フォース・ゲート・オープン!」で始まるなんかカッコいい一連のアレだ。私の持っているウルトラセブンのアルバムには、SEとしてウルトラホーク1号の発進シーケンスの全ての英語アナウンスが入っている。タイトルは「ウルトラホーク発進(SE Forth Gate Open!)」である。

 ……………………ん?!

 中学で英語を習って以降、実は「フォース・ゲート・オープン!」はずっと"Fourth gate open!"だと思っていたのだ。"Forth(前へ)"ではなく"Fourth(4番目の)"である。

 まぁ、"Fourth gate open!"でも厳密には翻訳不能なのだが、"(The) Fourth gate (will) open!"とか、"(The) Fourth gate (is about to) open!"とか補えばなんとか文脈上の解釈は可能だ。しかし、"Forth gate open!"ではそれすらも不可能なのだ。 "Forth(前へ)"は副詞なので"gate(ゲート)"を修飾することはない、むむぅ。

 聖なる牛!

 我々の世代の中学英語なら、"(A) Front gate (will) open!"または"Open the front gate!"という辺りが本当のところなのではないかな。山手線とか乗ってると、"Car's doors on the left side will open.(左側のドアが開きます。)"って感じの英語アナウンスが聞こえるよね?うろ覚えで申し訳ないのだが。

2013/06/03

映画"EUROPA REPORT" トレーラー

 全くノーチェックだった映画"EUROPA REPORT"のトレーラーが公開に。カット切り替え時に「でーーーん」って音を入れるのは最近のトレーラーでは定番、観てる方は飽きちゃうよね。

 近未来、リアル指向のSci-Fiとのこと。タイトル中の「エウロパ」は木星の衛星のひとつ。表面を覆う氷の下には海があると考えられており、太陽系内で地球以外に生命が発生するならばまずエウロパだろうとの見解を持つ人は少なくない。

 トレーラーでは、人類初の有人エウロパ探査機「エウロパ・ワン」の打ち上げから船内の様子、エウロパ表面やエウロパの海中から見上げた氷原などのカットを見ることができる。最後付近の処理はリアリスティックなそれまでのカットとは少しちぐはぐなホラータッチだが、やや似た構造の「プロメテウス」のトレーラーと較べても、こっちの方が面白そう。

 とはいえ、トレーラー中で使われているモニタリングカメラの映像を本編でどの程度用いているのかは気になる。別エントリで書いた通り、カットのリアリスティック感をこの種の映像に頼る作りだと、映画体験としての面白みには欠ける可能性があるからだ。

 "3D"との表記が出てこないのは好感。TVで観た「バイオハザード/アフターライフ」が余りに「映画ではない」ことに実は驚かされたのだが、冷静に観てみるとカメラアングルやカット割り、音響効果や視覚効果に至るまでが「3Dに奉仕させられている」様が露わでガックリしてしまった。「映画たらしめん」とする意思と行動が作り手側にないと、3Dはすぐにアトラクション映像になってしまうということかな?

 まぁ、観てちょ。

2013/06/01 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」

 ゲームの音楽にはとんと疎いので、今回のゲストのお二人、来兎氏と山岡晃氏については全くの予備知識なし。どんな感じになるかと思えば、お二方ともお話が面白い!充実の2時間ですよ、U-stripライブを視聴しててほんとに良かった。

 とても名古屋のタクシー運転手さん達向けのAM放送の内容じゃない。パーソナリティの佐野電磁氏、ディレクターらスタッフ一同を称賛すべきなのか、や、どうなのよ!って話ですよ。初の配信フル参加で私の「奇妙な喪失感」もあっさり発動。名古屋に土曜日に出張したもののラジオを持ってくるのを忘れ、仕方ないので9:00PMごろにタクシー捕まえて「2時間、適当に流してくれ。ラジオはCBCで頼む。」とか、さらっと変な妄想。タグも追加。

 来兎氏は沖縄在住のゲーム音楽作曲家とのことだが、そもそもトラック自体をクライアントに納入する訳だから、編曲、音色編集/選択、音声/MIDIデータ編集、ミキシングほかもやってることになる。肩書きと実態との乖離が激しいのはフリーランスのプロでは良くあることだが、実態に即した相応しい肩書を誰か思いついてくれないものか。

 来兎氏のお話は、ゲーム製作に関わる同人活動から現在に至る経緯、パッケージが凄すぎる「もえちん(萌えるちんすこう)」への関わりなど多岐にわたり、ステムミックス、とろ美氏、ベーマガ(Basicマガジン)、Basicのmusic文、SHARP mz-1500、クイックディスク、NEC PC-88、カモンミュージックなどの濃いキーワードが飛び交う展開。

 某学会の大会を沖縄でやってくんないかのぅ、「もえちん」買ってくるから。あ、ひらがな4文字なのな、やっぱり。

 ちなみに「ステムミックス」は言葉は知っていたが、実際にどういう形態なのかが分かったのはちょっとした収穫。ステムミックスというのは、クライアントに音楽を納入する際にドラム、ベース、メロディなど個別のパートを独立した音声トラックデータとしておくことらしい。いったんステレオなり5.1チャンネルなりでミックスしてしまった音声トラックデータだけを納入した場合、「ここではドラムパートだけ使いたい。」といった時にクライアント側では対応できないからだという。「クライアントは神様です。」というのは悲しいかな事実ではあるのだが、ステムミックスを納入した場合は、作った人間の意図しない使われ方をされる可能性もあるということだ。

 Stemは名詞としては「茎」、動詞としては「茎を接ぐ」或いは全く逆の「茎を取り去る」という意味がある(動詞の場合の両者の意味は目的格の前置詞で決まる)。ざっくり「剪定」「草刈り」或いは「枝葉を取り去る」というニュアンスで捉えれば、ステムミックスとは特定のパートのミックスのみを取りだしてきたものと解釈するのではなく、特定のパートだけとなるように完成品のミックスからそれ以外のパートを取り除いたものと解釈すべきなのかも知れない。まぁ結果は一緒なんだけど、この種のニュアンスを曖昧にしない癖を付けておくと、外国語の学習は少しは楽になるよ、実際。

 閑話休題。

 面白かったと書きながら、来兎氏のパートの話の中身に踏み込めないのには理由がある。二人目のゲストである山岡氏のお話がさらに面白かった、というか、どう言や良いんだ?

 山岡晃氏はPSゲーム「サイレントヒル」の音楽、効果音などサウンド全般に関与、続編へ進むにつれて肩書きはプロデュース寄りに変わりながら、実態はよりゲームの具体的中身に関与を深めていったということらしい。来兎氏に輪をかけて肩書き不明、挙句にはパーソナリティの佐野電磁氏から「『人間』・山岡晃氏をゲストに迎えてお送りしております。」と紹介されることになるのだが、それもむべなるかな。

 「誰でもフェラーリが買える」(実際の話ではピンク色のランボルギーニ・ガヤルド?のオープンカー)の話は触りの触りということと、この話の大枠は自分も20年以上前からやってることにほぼ等しいので置いておくとして、UnityやUnreal(ともに3Dゲームエンジン兼ゲーム製作ツール)を触るのが大好きだとか、コード(和音)名や楽譜も読めないのに作る音楽のレベルや完成度の高さが半端無いとか、「サイレントヒル」の関わっていたころは1日20時間働いていて「時給はマクドナルド(のバイト)より安かったんじゃないか。」とか、とにかくデキる人が大抵二つぐらい備えている資質や有り様を五つも六つも備えている「ある種トンデモない人」であることが良く分かった。

 「え、未だにそんなことやってンですか?」という佐野氏の問いにさくっと「だって、楽しいじゃん。」って返せる辺り、私の目指してる有り様がそのまま目の前のPC画面内で展開されてるのは、いやはや、愉快を通り越してただただ驚愕するのみである。お話の内容についてはキーワードぐらいは書けるけど、とても文章では伝えられない濃さと痛快さ、本ブログなんかでは絶対伝えられないのでそれに挑みもしませんよ。

 一つだけ山岡氏の発言に触れておくと、「グラフィッカーなので、4、5分の音楽は絵みたいに捉えられる。」とのこと。一種の可視化、見える化であって、言葉(音楽では楽譜が相当するのだろう、少なくともクラシカルは。)に頼らないが故に全体と部分を一気に把握、理解できるということだろう。加えてのポイントは、頭の中に既にあるものを我々が聞くことができるサウンドの形に落とし組む作業を「楽しむ」ことが当たり前にできるところだろう。

 デキる人の一部は、頭で分かった時点で当人にとっては終わってしまい、具体的な出力は面倒臭がってやらないことがままある。そういう人といっしょに働いていると、そりゃ聞き上手になっちゃいますよ。気持ち良く出力させることさえできれば周囲も本人も幸せですからね。そういう観点から見れば、山岡氏はまさに生き物でありながら価値発信装置、価値を生み出すだけではなくそれを周囲に送出し続ける(しかも本人は楽しい)というやっぱりトンデモない人としか思えないのだ。

 来週のU-strip配信も楽しみですなぁ。

2013/06/02

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。

 内容盛りだくさん+新たな伏線張りに終始する感じで、Vol.3や4みたいにダレたところがなく、全体としては好印象。総統暗殺事件はやっぱりやったか。

 森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。

 第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。

 ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。

 艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。

 個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)

 「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。

 詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。

 念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。

 以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。

 ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。

 オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。

 細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。

 ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。

 あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。