2020/01/28

2020年、自分への宿題(のひとつ)

 本エントリは昨年12月中旬に書いたもの、公開が1ヵ月以上遅れてしまった。まぁ、個人的なメモだ。なお、年を越してからWake Up, Girls!(WUG)に関わるテキストとしてよふかしさんのWUG関連のブログ記事を熟読、参考とさせて頂いた。WUG作品は観ていないどころか作品自体の存在すら知らなかったぐらいなので、テキストそのままを読解させてもらった。このため私のWUGに関するコンテクストの理解は、よふかしさんのそれを超えることはないどころか、多くの間違いを含んでいるだろうことを明記しておく。

 さて、

ここ最近は、YouTubeで公開されている岡田斗司夫ゼミを流し観していた。もともとは宇宙開発ネタ、SFネタ、特撮ネタ目当てだったが、私が高畑勲氏の作品が総じて苦手と言うか下品に感じてきた理由(と、「赤毛のアン」だけは例外でむしろ好きな理由)や宮崎駿氏の作品が総じて気持ち悪いというか下品に感じてきた理由(ヒロインに対するねっとりとした視点、とでも例えられそうなものの明確な存在)などが「分かった気になった(≒言語化されたが、自分の中でもまだ検証(validate)されておらず、血肉とはできていない)」など得るものがあった。

 そんな中、「観たけれど自分の中での処理は保留」、より具体的に言うと「登場した人物がしゃべった内容をそのまま理解するに止め、解釈や分析は今はしない(=読解しかしない)」とした回がある。映画・アニメ監督である山本寛氏との2016年における三回の対談()だ。後日知ることになるが、何のかんの言ってこの頃の山本氏の口頭における言葉の強さは2019年7月ごろに比べれば低い。相手が岡田氏ということも影響していたのかも知れないけれど。

 ちなみにこれら対談における山本氏の印象は、「おもろいけど、めんどくさそうなあんちゃん」だ。

 「あんちゃん」の部分は、私の方が明らかに年上ということによる慣用的な表現だ。他意は全くなく、私が年下だったら「おっちゃん」となるだけだ。「おもろい」には二つ意味があって、一つは「関西の間合いが分かってるので、万が一に話をする機会があったらとても楽しそう」、もう一つは「間違いなく頭良さそう」である。関東暮らしの長い関西文化圏出身者である私は「関西の間合い」に常に飢えていると言ってよい。また京都大学出身とのことなので、後は言わずもがな。ただ私はピュアにボケなので、まかりまちがって話す機会があっても上手くテンポが作れない可能性が高い、済まぬ。

 で、「めんどくさそう」は「ポストモダン」といった用語をポンっと使うところにある。若くて今よりも頭の回転が良かった時代にあっても筒井康隆氏の文学部唯野教授シリーズすら消化できなかった私には、文系のアカデミックな用語や概念に対して拭い難い苦手意識がある。つまり「めんどくさそう」の理由はこちら側にある。

 とまぁとにかく、ポストモダンとかについては来年に持ち越しね、とばかりに頭の中は完全に年末年始にのんびりモードに切り替わりつつあったのだが・・・

 今日、YouTubeでrecommendされたポテト元帥さんの動画「万策尽きて延期しまくったアニメ紹介【ゆっくり解説】」から、takaさんの動画「比較動画【メルヘン・メドヘン(9話)】放送版 vs BD版」へ行ったら、OAO OUOさんの動画「Wake Up, Girls! 『7 Girls War!』 PSV版と山本寛版と板垣伸版比較動画」がrecommendされたので観た。

 どのアニメ作品も知らないので、正直どれもなんじゃこりゃぁ状態ではあったのだが、面白がるでも無くとにかく観ている間はほぼ「ほえー」状態だった。ちなみにニコ動発祥と思しきミーム類はどうしてこうも不快なものが多いのだろう、不思議。ま、それはそれとして。

 と、観終わった後に、なんか頭の中で色々とスイッチが入ったような変な感じが。

 「山本氏がポストモダン化と呼んでいた具体的なもの」とか「『画が保っていない』具体的な状態」とか、岡田斗司夫ゼミ中で言及があった幾つかの事項に対する具体例らしきものがフラッシュバックしたほか、「MMDダンス動画が個人的につまらな過ぎる理由のうち、言語化できていなかったもの」など多数の「自分の中で言語化できていなかった概念の具体的イメージ」が一瞬頭を駆け巡った。

 キーワードの一つはやはり「ポストモダン化」で、私の頭を駆け巡った直感的な何かが多少なりとも正鵠を射ているのなら、この世の中、「外部状況・環境とは無関係に内部が多様化するばかりの個が、外部状況・環境下で他の個との軋轢を生む」という状態がより生まれ易くなってきているということだ。多様化とは聞こえが良いが、ここでは勝手な思い込みや妄想による個々間の内部の差も含む。「読解」よりも「解釈(厳密には、個が正しいと信じていること)」が幅を利かすという事態の出来とも言える。

 twitterのアカウントを作ったのは10年以上前だが、結局U-streamで2回呟いた後は放りっぱなしにしている理由も実はこの認識と無関係じゃないな、などと色々と思い出す。その時点でtwitterには絶望していたんだわな。コミュニケーションツールとしてのtwitterは本質的に欠陥品だし、00年代はまだテキストも音声もOKなピア・ツー・ピアのメッセージアプリが幅を利かせていたからね。

 うーん・・・といったんは上のように書いてしまったが、これらはあくまで直感。本当にそう言えるか、適切に言語化できているか、これらは来年への宿題。

アニメ「映像研には手を出すな!」第4話を観る!


 観てて色々しんどかった。

 1/27公開の「攻殻機動隊 SAC_2045」の予告編も大概しんどかったけど、同じ思いの人が多い様なので今回はスルーしたい。とは言えライティングというかダイナミックレンジの確保(特に明度)というか、レンダリング技法が高度化しても画作りが下手な人はいつまでもたっても下手なままなんだなぁ、影が上手く使えてねぇんだよなぁ、と。

 さて、評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かい事はもうでーでもいーや。自走三脚式重カメラのシーンと「そのマチェットを強く握れ!」の本映像(劇中内映像だが)とが全く整合していないとか、「そのマチェットを強く握れ!」映写中の「劇中の観客」の主観描写がめちゃくちゃ過ぎるとか、の2点だけでもうお腹いっぱい。

 前者の例は、自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が「そのマチェットを強く握れ!」の本編映像に含まれていないこと。原作マンガでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台も自走三脚式重カメラのシーンも廃墟内なので、マンガ内の「そのマチェットを強く握れ!」本編描写で自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が描かれていなくとも、この種の矛盾が生じていないことを読者は十分受け入れ可能だろう。

 が、アニメでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台が廃墟ではないので、当然の帰結として矛盾だらけとなる。さらに、アニメ第3話で作品(「そのマチェットを強く握れ!」となる)のために三人で選んだ廃墟っぽいロケーションって何だったの、ともなる。つまり、第3話で作り手自らが描いたものに対して、第4話ではそれと矛盾する内容が描かれている。そう、二重に捻じれているのだ。

 原作では「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「廃墟」で少女と戦車を戦わせた。アニメでは「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「岩場のある荒野」で少女と戦車を戦わせた。台無しですよ、奥さん。結局、第3話の時点で引っかかっていた点の一つはこの可能性だったのかと納得。

 これらの捻じれは、アニメの作り手は原作もちゃんと読めていない、自分たちが以前にやったことも理解していないか覚えていないということを意味していないかな?少なくとも見かけ上はそうだ。

 しんどい。

 まぁ浅草閣下、「屈辱的な背景の繰り返し横スクロール」を本編で使わずに済んで良かったね。あと、横方向に延びるレンズフレアは見栄えが良いからJJでなくてもつい使っちゃうよね、画から想定されるレンズがそうでなくてもさ。

 後者の例は、予算審議会会場(上映会場でもある)内で煙を上げる空薬きょうの描写。観客であるモブキャラの主観シーンだが、予算審議会会場に空薬きょうが実際には存在しなかったことを示唆する描写はなかった。作り手は視聴者にどのような忖度を要求しているのだろう。あの描き方だと、空薬きょうが本当にスクリーンから飛び出して予算審議会会場に存在した、という解釈が視聴者にとっては自然ではないか。モブキャラが目頭を押さえた後に見直したら空薬きょうが無くなっていて、思わず「これは凄い」って感じの表情を見せる・・・なんて方が「まるでスクリーンから空薬きょうが飛び出してきたように感じる迫力ある映像」の演出としてむしろ素直ではないか。「シーンが変われば無かったことに」は、この原作に対して使って良い手じゃない。

 しんどい、しんどい。

 一貫性とか論理性の有無は細かい話じゃないよ、有ることが大前提。作品に一貫性とか論理性を与えるのは知性の一種の発露(か、記憶力ぐらいあることの証明)であって、作品を物語たらんとしたければ踏み外しちゃいけないんだ。

 私の見るところ、原作マンガは時に複数話にわたる伏線未満の細かい整合性にも細かく目くばせしている、繊細だ(ただし、タヌキが武器だったネタみたいに、伏線回収とともにぽいぽい捨てることが多い)。「細かすぎて伝わらないんじゃないの」と思うような描写に、その後の回でさらっと触れている場合もある。マンガのお約束とでも呼ぶべき弾力性の高い(抵抗なく忖度できることが多い)枠組みにサポートされている点もあろうが、それはどんなマンガでも同じことである。

 一方アニメ版は、少なくとも第4話まで観る限り、著しく作り手に繊細さが欠けている。

 あと、劇中アニメ(アニメ中アニメ、となる)では輪郭線を使わない、っていう第1話来の処理の意図や論理がさっぱり分からず、これもしんどい。

2020/01/25

アニメ「映像研には手を出すな!」第3話を観る!

 困った、本当に困った。一貫性が無い、論理が読めない。思わず引っかかるノイズが多過ぎる。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 従来のエントリで繰り返し触れてきたように、「日常」と「最強の世界」、これら二つの世界を結ぶ「遷移過程(トランジション)」 をどのように描くか、具体的にどのように視覚化するか、に興味深々なのである。

 原作マンガ1~4巻は買って読んだし、アニメ版はアニメ版で素直に観ている。それはそれで措いておいて、作り手の考えていることや具体的に提示される画に対するアイディアなども同時に味わってみよう、少しは分析的にも見てやろう、と言うことだ。

 「日常」が指すものについては説明不要だろう。私の呼ぶ「最強の世界」は、「劇中で完成されたアニメーション作品そのもの」または「作中人物が登場する自身らによる妄想」を指す。前者はアニメ版にはまだ無くて、原作マンガにおける作品「そのマチェットを強く握れ!」の完成版がそれにあたることになるだろう。後者は「飛行ポッド・カイリー号が街の上を飛んでいるカット(原作第1話・単行本第1巻 p.32-33見開き)」が典型的だが、何故かアニメ第1話では描かれず、未だにアニメ版に対して私が持つ不完全燃焼感と言うかアニメ版の作り手の考えが良く分からないと感じる原因となっている。ただこの後者については、続く「遷移過程」との境界がちょっと曖昧に見えるのも事実だ。

 「遷移過程」は 「日常」と「最強の世界」を繋ぐ部分であり、アニメ版・原作第1話ならば、「合作作業」開始後に作中人物が着替えたりヘルメットを被ったりして「画の世界」に入ってから、「最強の、世界」と口にするまでがそうだ。この部分は2つの点で「最強の世界」における「作中人物が登場する自身らによる妄想」とは異なる。

 まず、循環的な言い方になるが、「最強の世界」が後に控えていること。アニメ第3話(原作第4話)の「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンはそれ自体が既に「最強の世界」なので、「遷移過程」とはならない。次いで、描写されている画の視点は第三者にあり、描写自体は作中人物の行動のメタファーであること。前述した「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンの描写は作中人物の妄想、つまり主観そのものなので、やはり「遷移過程」とはならない。対してアニメ第1話(原作第1話)の「飛行ポッド・カイリー号の改造作業」などは「日常」における作中人物による作画作業のメタファーであり、作中人物が何か妄想していたとしてもその内容は無視して良い。常に「日常」が侵食、介入可能でもある。別の言い方をすると、描写はあくまでメタファーなので、「日常」が同じでも描写自体は作り手によって(つまりマンガとアニメで)変わって良い、と言うことだ。

 本当に繰り返しになるが、「遷移過程」の描写が原作とアニメで異なるのは当たり前だろうと私は考えているため、アニメ版ならではの描写を当然のように期待し、今も期待し続けていると言って良い。マンガとアニメでは「表現の土俵」が違う、というあの話である。

  なお本エントリ中の画像はTV画面のカメラ撮り画像から起こしているが、水平出しやらモアレを目立たなくする作業とか、撮影時、後処理時ともに色々面倒くさかったのでもう二度とやらない。コントラストが高くなっている理由はそういう面倒くさい作業の影響だ。

 さて、アニメ第3話。

 まずは「最強の世界」たる「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンだが、原作マンガでの描写に沿った描写で特に引っかかりも無く・・・と言いたいところだが、金森に「妄想」を発動させてしまったのは個人的に甚だ疑問だ。金森のキャラクターがかなりブレてしまっていると思う。

 原作における金森の「部室屋根/宇宙船修理ミッションごっこ」への反応は、浅草らに「合わせてやっている」という類の一種の大人の態度にしか見えない。金森の勘の良さ、頭の回転の速さを表しているように見えることはあっても、浅草らのごっこ遊びに一緒にノッているようにはとても見えない。原作第4話の表紙(+1コマ)に描かれた宇宙服姿の金森を出すこと自体は否定しないが、あのようなくどいまでの出し方は明らかに上手くない。

 「遷移過程」に行こう。最初は「部室屋根/宇宙船修理ミッション」の冒頭にインサートされる浅草による部室船計画のイメージボードの説明シーンだ。まずイメージボード全体を見せる、次いでイメージボードの一部をアップで見せつつ浅草がまくしたてる。流れだけ見れば極めて普通、むしろ非凡過ぎると言ってもよいやり方だが、それでも色々と引っかかる辺りがしんどいポイントだ。
  イメージボード全体を見せる時間が短過ぎたり、アップにされたイメージボードの一部の絵の情報量が低過ぎたりが原因で、視聴者に何が伝わるんだ、何の機能を果たすシーンなんだ、と他人事ながら不安になる。浅草の設定マニアぶりは伝わるかも知れないが、浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていない。作画の手間が少なくやけに長いシーンなので、尺稼ぎの意図でもあるのだろうかと勘繰ってしまう。ただ、金森の「長い!」と言うツッコミは、間の良さもあって、「日常」からの介入の描写として上手く機能していると思う。ちなみに、声優さんたちの声や演技には全く引っかかりを感じたことはない、っつーかエラく気に入っている。

 なお、同じ手法が「個人防衛戦車」についても使用されているが、こちらでは絵に動きが加えられているなどイメージボードの一部アップ時の画面内情報量とそれらの整理具合が絶妙に良く、部室船計画と比べて「あからさまに薄い(原作準拠ではある)」浅草の喋りの内容とも良くマッチしていた。テンポ良く、長くもない。頭がぼーっとした状態で観ていた私でさえ、思わず「190km/hって速くね!?」とツッコミ入れそうになったぐらいなので、内容は普通に視聴者に伝わるでしょう。つまり、こっちは全然引っかからなかった。

 ちなみにアニメ第2話のイメージボードシーンの処理は下図のようなもので、アニメだからこそできたものの感があり、面白いとも思った。ただし、枠や矢印を伴う説明文が動き続ける上に表示時間も短く、更にセリフによるサポートも無いため、やはり浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていなかった。また原作マンガでは同じ描写手法を使っているシーンの描き方がアニメでは各話で違い、かつ機能の仕方もバラバラという状態からは、アニメの作り手の「考えていない感」や「一貫性のある演出プランの欠如」を感じざるを得ず、何か色々と損ねている気がする。
 浅草のネタ帳に3人が「入って」からの一連のシーンは原作マンガの描写に忠実ながら、手慣れた感じのアニメの文法への変換によって安心して観ていられる。ページがめくられる様も良い。
 で、第3話のクライマックスにして「遷移過程」でもある「そのマチェットを強く握れ!」の「検討」シーンだ。夕陽、窓に重ねて固定されたスケッチブックのページ、浅草と水崎が次々とページに絵を描き込んでいく・・・という「日常」描写はアニメで導入されたイメージであり、浅草と水崎との「合作作業」を強く意識させる象徴的な描写に(たった2回使われただけだが)既になりつつあるように思う。これは上述した浅草のイメージボードの描写のバラバラさ具合とは対照的だ。

 で、そのような「日常」作業のメタファーとして描かれた「遷移過程」の描写の内容はと言うとアニメならでは、と言えばそうなのだが、「アニメの作り方教えます」ちっくな「アニメスタジオの楽屋オチ」みたいで釈然としないのだ。「夏のアニメ特集 メイキング編 」とか、面白いですか?

 正直、明確に言いたいことはあるのだが、現時点では未だ上手く言葉にできない。「日常」において全く手が付けられていない段階なのに過度に原画撮りっぽい画に違和感があるとか、主人公の少女がセル塗りになるカットの存在の論理性が全く見えないとか、引っかかったところそのものを列挙しても意味がないので本エントリではこれ以上は触れない。

 要は原画撮りっぽい画には「作中人物の妄想」っぽさも感じなければ「日常における作中人物の行動のメタファー」っぽさも感じず、故に楽屋オチっぽいと言うことだ。いくら原画っぽく見えても、劇中ではあくまでスケッチブックに描かれた絵だ、原画でも動画でも絵コンテでもない。なんか中途半端なのだ。加えて、この一連のシーンを描いたアニメーターは「水崎が描いた絵」を描いたのか?(≒水崎を演じたのか?)そうでなければ演出として捻じくれている。感覚や感性のみによりかかり、最低限の論理性や必然性すら獲得できていないようにしか見えない。
 最後に、このような描写を作り手が選んだ理由に関して頭を掠めた幾つかの可能性についてだが・・・

 一つ目は、アニメ版では原作第6話の内容をほぼすっ飛ばし、原作第7話の予算審議会に一気に話を進める可能性。この場合、演出が為された後の原画っぽさの意図は作品制作過程の描写の先取りである。ただ、そのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。原作第6話の内容のすっ飛ばしは、原作26話への伏線を一つ張らないことになる。

 二つ目は、原作第6話に相当する内容によって「実際には描かれることが無くなった原画、動画」である可能性。つまり、次話で浅草らに現実という名のカウンターパンチ(画が上がらない!)を強烈に食らわせるために、「これは!!上手くいってしまうのではないだろうか!!」とばかりにとにかく(視聴者も釣りつつ)浅草を舞い上がらせるための無理筋上等の演出・・・って、やはりそのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。ならば原画とか動画とかではなく、完成時の絵を見せる方が自然だ。

 そして三つ目は、やはり作り手が真面目に考えていないか、作り手当人にとっては面白いのだろう「アニメ屋の楽屋オチ」の可能性である。ならば、アニメ以外のドラマや映画、演劇とか観ない人たちなのかねぇ、作ってるの・・・ってなる。

 はてさて。 あ、こんなこと全話やるつもりはありませんよ。

2020/01/21

「そこを全部引き受けると、二次創作になる」

 たまたま観たYouTube Live番組内でのインタビュー(対談の方が正確かな?)で、アニメーション監督・片渕須直さんが発した言葉。思わず頷く。

 「マンガと劇映画は表現の土俵が違う(=劇映画の監督として違う土俵を設定した)、だからマンガとそれを原作とする劇映画で表現が変わるのは当然」といった文脈下で、「マンガを原作とする劇映画において、マンガと違う表現となるべきところにマンガの表現をそのまま持ってくる」場合を指しての発言だ。もちろん、ネガティブなニュアンスである。

 片渕さんの言う「劇映画」という言葉の指す範囲は正確には分からないし、「表現の土俵」という言葉で表現したものに対する私の理解が適切かどうかにも不安はあるが、ここは「TVアニメシリーズ」でも同じ考え方が適用できる筈ということにしてしまおう。そうすると、私が先行するエントリ「アニメ『映像研には手を出すな!』のPVを観る!」でくどくどと書いたこともかなりすっきりと書き換えられる。

 「TVアニメシリーズには原作マンガと違う表現の土俵を設定することを期待する。マンガとして特異な構造・構成を持つ(マンガ内アニメがある)故にアニメ化においてマンガとは『違う表現の土俵』を設定する必然性がある原作なので、作り手の哲学なり知性なりの発露たるTVアニメシリーズならではの表現を見せて欲しい」、だ。「単なる引き写しだと、二次創作に(過ぎなく)なる。それではツマらん、アニメ化した甲斐がない」、とも。

 ちなみに同じインタビュー内の違う文脈での発言で、片渕さんは「マンガを原作とする劇映画とTVシリーズでは、当然違う表現の土俵を設定することになる。TVシリーズなら回毎、パート毎で違う表現の土俵を設定し得る」ことを明確に示唆していた。筋が通ってる。

 あ、「映像研には手を出すな!」第3話は明日か明後日に観ます。

2020/01/14

アニメ「映像研には手を出すな!」第2話を観る!

 第1話を観ながら感じた「スケジュール厳しいのかな?」感は大幅緩和、作画とアフレコとのミスマッチを感じるカットも無く、そりゃ凸凹はあるけど作画も良かった。原画担当の人数、数えちゃうんだよね。

 ただ、なんか色々と引っかるところはあって、スムースに観れなったのも事実。例えば撮影台の説明の下りや色指定に関する蘊蓄とか、必要だったのかと。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 これらは別に有っても良いんだけど、時間をかけて描いてはいないので、そもそも知らない人には伝わってなかったり、内容を咀嚼する時間が与えられてなかったり、というのが実情ではなかろうか。正直、個人的には「誰得情報?」って感じだ。セル、撮影台ともに今後も出番無いでしょ?雰囲気、気分で良かったのなら、部屋中を見回す金森の背後で、浅草や水崎が「おースゲースゲー」って感じでまくしたてるようにしゃべり続ける様を(音声は当然オフ気味に)描いて置けば十分だろう。

 演出に関しては3カット、影の色や使い方(+目への光の入れ方)が不自然過ぎ、無理過ぎとの印象を受けたが、そこら以外は良い意味で気になったところは無かった。あ、アンビエントオクルージョンという現象の存在は当然知ってますよ、そのうえで不自然過ぎ。ただ影が気になったカット周辺は作画が凸の(つまり良い)部分だったから、気分は本当に複雑。金森の表情とか良かったからね。

 「金森専用の演出として今後も一貫的に使う、形式化する」って言うなら、まぁアリとは思うけど。ただこのレベルの形式化はただのローカルルール、普遍性がほぼ無いですからね、悪手だと思います。「やった本人が思っているほどうまく機能する手じゃない、その癖真似は簡単なので、劣化した形で安易に類似の手を使う人間が現れる」、という流れが発生しないことを祈ります。「いや、80年代から良くある演出じゃないか。マンガでも使う」という意見もあろうが、ならば「影の形が違う、縦方向の輪郭線は左右対称の波型だ」と言いたい。

 で、最大の引っ掛かり点はラスト近く、「最強の風車」のカットだ。風を遮っているビルに穴を開けた後で、何故風車のデザインが変化したのだろう?羽根や軸受け周りなんかは完全に別物だ。「最強の~」のシーンの冒頭時に既に変化していれば忖度の余地もあるけど、途中からってのはその理由や作り手の意図が全く読めないなぁ・・・と思ってもやもやしていたのだが、原作マンガを改めてチェックすると、アニメ程ではないけど風車のデザインが実は変化していた。ありゃりゃ、「読む」ってのはいつまで経っても難しいなぁ。

 でも変化後のアニメ版の風車の羽根のデザインは、実用性の観点からはかなり「最弱」寄りだよね。より回らん形になってるよ。

 今回の一枚は吉田健一氏、想定外でした。水崎の顔がやや吉田キャラっぽいカットが有ったなとは思ったりしていたのですが。ちなみに私がリアルタイムに追い続けた最後のTVアニメは「エウレカセブン」・・・どうでもいいか。

2020/01/13

俺ルールとか正義感とか著作権とか悲しいやら訳分からんやら

 「他者の俺ルールが理解できない、そんなものに基づく非難や攻撃に苦しめられてきた」と過去に言っていた人が、自身の俺ルール丸出しとか見えない無根拠な主張を含む文章を書き。それを読みながら感じざるを得ない一種の悲しみ。あなたもそうか、そうなったか。

 文献資料に基づくオリジナル性・研究性の極めて高いコンテンツを作っている人が、別件では一個人の見解に過ぎないネット上の不確かな情報を無批判にそのまま拡散し。そんな様を見ながら感じざるを得ない一種の悲しみ。あなたもそうか、そうなったか。

 今は一種の悲しみを感じるだけの個人の行為だ。しかしネット上では、類似の行為が相互にエコーチェンバー現象を起こせば直ぐにでも特定の個人、団体の攻撃に変質し得る。起こり得る最悪のシナリオの一つは、攻撃の対象側には何ら非が無いこと、攻撃者の大部分が実は攻撃の理由に対して無関係な人間であること。かくて無自覚の加害者たる攻撃者は勝手に溜飲を下げ、被害者は加害者扱いを強いられる。

  原因は無知やリテラシー不足(主に訓練不足)、そしておそらくは薄っぺらくて純粋な「正義感」。「正義感」或いは「類似の何か」の介在を考えなければ、「大量の無関係な人間が加害者になる」ことは説明しにくい。他方、小集団による攻撃ならば「悪意」の介在がまず考えられるが。あと、「善意」と「正義感」とは別物ですぞ。

 ことネット上においては、どうも日本人は「正義感」を振りかざしてやりすぎることが多いように見える。ネット上で大量の日本人(厳密には日本語の書き言葉を使う人達)が一斉に「正義感」を振りかざす様は、内容の是非に因らず、時に大韓民国での国民情緒法に基づく政策の執行やアラブの春の初期の浮かれ具合に重なって見える。本や映画でしか知らない、紅衛兵たちにも、オンカーに思想教育された子供たちにも。

 「正義感」自体は否定しないが、私は小学低学年時代に意識して使うのをやめた。それまでも、それ以降も、私の周りで「正義感」を振りかざす人間が間違った対象をただただ攻撃だけする様を、リアルな世界でも少なからず見て来た。時に教師も然り。慣習、法よりも感情を優先し、或いは慣習、法を知らないまま感情のみに従い、特定の人間を攻撃する。始まりは「正義感」かもしれないが、結局は「俺ルールを声高に振りかざしているだけ」に直ぐに堕する。大学でのサークルの分裂の原因なんて、大抵はそんなものだ。

 「正義感」だけで始まったものはその初期から論理性も内実も伴わないため、始まりの「状況」とは無関係に行きつく先は同じものとならざるを得ない。「攻撃の手を緩めるな!」か、「飽きたから止める」かだ。シャーデンフロイデや類似の因子が混入すると、更に目も当てられない状況を呈する。

 ただリアルな世界では、薄っぺらい正義感にのみ依拠するような連中自身の薄っぺらさを論理的、直感的を問わずあっさり見抜く人間が多く(多かった)、かつ周囲に影響力があるようなデキる人間ほどそんなもには加担しないものだった。このため、実際のところは真っ赤な顔の人間の数が3人ほどまで減ったところで騒ぎは収まり、リアルなコミュニティ内での自身の立場の変化に気づいて逆に真っ青になるのが常だった。リアルでは「逃げる」と言う手のコストは高い、匿名性は使えない。片やネット上では、「逃げる」こと自体のコストは皆無に等しく、匿名性は当たり前のように行使される。

 少し話は飛躍する。欧米まで含めてのネット上では「正義感」はどのように行使されているだろうか。例えば著作権絡みで、私が具体例を知っているものではどうだったろうか。

 2010年ごろ、私は自作の3DCGモデルデータを米国、カナダのサイトで英文の使用許諾条件テキストファイル付きで無料で公開した。公開におけるデータ使用条件は実効的に一つ、「商用利用をしてはならない」だった(リンク)。が、程なくして「あなたのデータを自作と称して(Mesh theftやModel theftと呼ばれる行為)販売している人がいる」とのメールを受け取るようになった。 経過は省略するが、英、米、カナダ、ブラジルなどの人々(大部分はプロ/アマ3DCGモデラー、アマチュアフィジカルモデラー、プロ/アマCGIアーティスト、コミュニティの管理者など)が許諾条件違反を起こした人間に行使した「正義感」に根ざした行動はせいぜい当人をたしなめるレベルであり、攻撃は全くしなかった。その代り、権利所有者(つまり私)に、とにかく早く、正確な状況を知らせ、情報を共有する努力を尽くしてくれた。

 これは、「許諾条件違反を非難したり、状況の是正を関係する個人、団体、組織に要求する権利を有している人間が居るとすれば、それは権利所有者のみである」という慣習の存在と、関連する法律にその精神が反映されていることについてのコンセンサスが彼らにあったからだ。逆説的に言うと、この時に私が状況を是正する行動を起こさなければ、「許諾条件違反が許される」「私の持つ著作権は無視してよい」といった「前例、先例」を権利所有者自身が作ってしまうことになるのだ。「前例、先例」が重なるとやがて「慣習」と呼ばれる一種のコンセンサスとなる。このプロセスは国際法の成立過程と基本的に同じものだ。かくてほぼ1年の期間内に、4件の許諾条件違反に私自身が対応することになった。自分の権利は自分で守らなければならないのだ。

  許諾条件違反を起こした人間はのらりくらりと言い訳を繰り返し、時に気味悪いがまでにへりくだる、というのが洋の東西を問わずデフォルトだ。これら4件に関しては許諾条件違反を起こした人間の国籍が全て同じだったが、それ自体に意味を見出すつもりはない。ただ、やっぱりドイツとは関わらない方が良いという思いをいっそう強くしたことだけは白状しよう。

 さて、事に当たっての私の対応は単純だ。許諾条件違反者が利用しているサービス(3DCGモデル販売や3Dプリントサービス、例えばSHAPEWAYS社)の提供企業のサポート窓口に、許諾条件違反者が著作権の所在について虚偽の申告をしている旨を証拠(厳密にはネット上の大量のログ類の場所)を付けて通知しただけだった。この手が有効なのは、権利所有者自身からの通知だからだ。

 営利企業であれば権利関係のトラブルを本当に嫌う。どのサービスも対応が早く、テンプレなのだろうが実に丁寧な文章のメールでの連絡とともに、許諾条件違反者へのサービスが停止した。許諾条件違反者は使用していた複数のサービスからほぼ一斉に締め出され、捨て台詞を残して「逃げた」。許諾条件違反者の最初のセールストークから逃亡までのログは、私の具体的な対応のログとともに幾つかのネットコミュニティのスレッドに残った。

 一例としてこのスレッドがある。本スレッドの3ページ目の下端から2つ目のエントリで「私のモデルを使って金銭を得ようとした者」が長々と経過を主張しているが、この内容を信じる理由がなかった。と言うのも、1~2ページ目で彼が内容を編集・削除したエントリが複数あるが、それらの記述と矛盾する内容だったからだ。私の登場は2ページ目の2つ目のエントリだが、その前後で彼の発言内容は一変した。とまれ私の要求は「私のモデルを使って金銭を得るな」の一点のみなので、彼の主張する経過の真偽なんか私にとってはどうでもよいことなのは明らかだろう。スレッドからは分からないが、結局彼は私の要求に従わなかった。故に、彼が利用していたサービスの提供企業に、上述したように私が直接アプローチすることになった。

 ただ、編集・削除したエントリには私を名指しで煽ったり、半ば罵倒するような記述もあったから、私が彼に立腹していなかったかと言えば嘘になる。まさか当人が現れるとは思わず、調子に乗り過ぎたのだろう。彼は引き続いて「自分のアカウントが何者かに利用された」との主張を他のコミュニティのスレッドも含めて始めたが、多数の人間に主張の矛盾点を指摘された上に、私がメールのやり取りを通じて仕掛けた「罠」にも嵌ってさらに矛盾点が露呈、墓穴をより深く掘ることとなった。彼の主張をbollocks(たわごと、でたらめ、キン〇マ・・・)と揶揄する人間もいた。

 で、上述したような経緯を知る人が新たな許諾条件違反者を見つけた際、上記したようなスレッドのリンクを教えると直ぐに「逃げた」こともあったそうだ。許諾条件違反者に「こりゃ面倒くさいことになりそうだな」と思わせるだけの「前例、先例」作りに成功し、結果として「自動的に作動する自分の権利を守る仕組み」みたいなものも形成されたと言うことだろう。私のモデルをレンダリングした画像もネットに多数挙がったし、私のモデルをインポートしたゲームmodもある。全て無料で見たり、入手することができる。ただもう10年モノなので、最近は私のものの方がオリジナルであることを知らない人も増えている。

 これを武勇伝とするつもりは毛頭無い、と言うか、後に書いてあるように大局的には敗北にしかならなかったのだ。私自身が著作権絡みで自ら能動的に動き、一定の結果を得た、ということを分かってもらいたいだけだ。ただの脳内シミュレーションなどではない。外ならず私自身が経験したことなのだ。

 ちなみに、リンクを示したスレッドの中には「(こんなことが繰り返されると)益々モデルデータが公開されなくなる」と言った類の嘆きがある。私も自身のモデルデータの新規公開は止めたし、優れたモデルほど公開されなくなっていった。この辺り、3DCGコミュニティの縮小を早める一要因となったと個人的には考えている。そもそも私が自身のモデルデータを公開したのは、先達が公開してくれたモデルデータから多くを学んだことに対する感謝、恩返しの気持ちからだった。世代から世代へのノウハウ伝達を1サイクル進めることに関与したかった。しかし他の因子も重なり、3DCGコミュニティではその種のサイクルはほぼ失われた。自身の所有する権利を守ることに私や多くの3DCGモデラーは成功した。だがそれらは所詮局地的・一時的勝利に過ぎず、3DCGコミュニティ全体としては行動に移った人間の少なさもあって完全な負け戦となった。当事者である権利所有者が動かなければ、自らや自らの属するコミュニティの権利は守れないのだ。

 で、言いたいことは単純だ。なお以下の内容は法理上は間違っている可能性もあるが、肌感覚・経験則から実効的と信じているものだ。
  • 著作権はどこかへの登録などの如何なる手順をも踏む必要無く創作物に付随して発生し、契約などを介して他者に移譲などしない限り、その所有を認められる。が、それ故に、所有する権利を保護する仕組みはない。著作権所有者は所有する権利を自ら保護しなければならない。換言すれば、コスト(時間、手間、金銭)をかけることなく所有する権利が保護されるとの認識は、法的にも実際的にも誤っている。
  • 著作権所有者が自身の所有する権利を保護するためには、不幸にしてコストを払う必要が生じ得る。あらかじめコストをかける方法の例としては、自作曲の演奏権を管理団体に移管する(金銭支払いというコストが発生)ことが挙げられる。権利管理を他者に移管していない場合や移管できない権利が侵害された場合には、個々の権利侵害事案に権利所有者自身が対応する(時間、手間というコストが発生)必要がある。
  • 著作権の侵害を訴え、望ましくない状況を是正する権利を有するのは、基本的に著作権所有者又は著作権管理者のみである(少なくとも、著作権所有者または管理者ではない人間の権利侵害の訴えに企業等が対応する必然性は皆無である)。俗な言い方をすると、著作権所有者でも著作権管理者でもない人間は、他人の著作権が侵害されている状態に対して何かを主張する「権利」も「理由」も「資格」も本質的に有しない。「正義感」にかられた「匿名の人間」の立場は、まさにそう言うものである。
「解釈」することなく、「読解」して欲しい。 私は誰も攻撃、非難していない。敢えて「正義感」にかられてみた「匿名の人間」として、やりすぎている「正義感」にかられた「匿名の人間」に対して、「やりすぎですよ」、「やり方が違いますよ」と言っているに過ぎない。

 他者の有する権利の侵害に対して「正義感」にかられたのなら、権利所有者に状況を知らせ、状況を正すための行動を促し、具体的に権利者を手助けして欲しい。ネットを介してで十分、権利所有者とともに自らもリアルな世界に関与するのだ。「匿名の人間」のままネット上で完結する形で誰かを攻撃するような「安全圏から石を投げる」だけのような卑怯な行為はしないで欲しい、誰も得をしないから、誰も幸せにならないから。攻撃相手を間違えていると、自身が加害者となるばかりか、権利所有者など関連する人間も巻き込まれて加害者視されるリスクにも留意して欲しい。その「権利」も「理由」も「資格」も本質的に有せずに「匿名性」を保ちつつ他者を攻撃する人間は、リアルな世界では大抵「下劣な卑怯者」、良くても「間抜けなお調子者」とみなされる、と言う点も付記しておこう。

 そして、権利所有者が自ら所有する権利を守るために動かないのであれば、そのような権利は誰にも守られない、と言う「慣習」又は「世の現実」を受け入れよう。ついでに「正義感」なんて捨ててしまおう。「安全圏から石を投げる」ような攻撃は、相手に時間を与えるだけで無益だ。「論理」と「実績」だけが武器になる。「事実」なんて誰にも分からない。ネットは特性として権利侵害を助長するばかりで展開も早いので、「前例、先例」といった「実績」はすぐに積みあがる。「悪い奴ら」ほどネット上のサービスやシステムの利用法に長けている。だから権利所有者側も、少なくとも「悪い奴ら」と同じレベルでネットを利用しなければ負ける。

 例えばNoCopyrightSoundsがYouTubeを楽曲の公開先に使う理由についても一考してみて欲しい。著作権フリーの楽曲を自社サイトで提供するサービスが、自身のYouTubeチャンネルを別途持つことの利点は何だろうか?特定の動画がYouTubeのサービスにアップロードされた日時をYouTube自身が疑うだろうか?片やとあるサイト上のhtmlファイルに書きこまれている日時の信頼性を、誰が、どうやってYouTubeに保証してくれる?

 最後に、上で触れた「リテラシー不足(主に訓練不足)」についてのピンポイントな補足。

 例えばYouTube動画での使用音楽に対する権利侵害通知に関しては、国内の「個人」がネット上に公開している情報だけでなく、Redditなどもチェックして、海外でやり取りされているナマの情報や、それらやり取りの結果を反映して信頼性が高められたまとめ情報も参照して欲しいと思う。特に「権利詐欺団体」などと呼ばれるものについては、まじめにチェックして欲しい。

 Redditの特定のスレッドが例として挙げられるような、知識を収集し、信頼性の高い情報にまとめ、更にアップデートを続けるネット上のコミュニティは、日本には(日本語では)存在しない。従って、YouTubeのような国際的なサービスに関する信頼性が高くて有用な情報は、よほどの幸運に恵まれない限り日本語では得られない。

 ネット上に流通している日本語の「権利詐欺団体リスト」なるものの特定の系統は、例えば30年を超える歴史を持ち実態もある海外の演奏権管理団体を含んでいる。そしてそのようなリストを拡散する者、そのリストに載っているから件の演奏権管理団体を権利詐欺団体とみなして攻撃する者が未だに現れる。その演奏権管理団体が含まれていない「日本語」の「権利詐欺団体リスト」の方が系統としては多いように私には見えるのだが。

 またあるブログでは、100年を超える歴史を持ち実態もある海外の演奏権管理団体を権利詐欺団体と攻撃したり、権利侵害に関する問い合わせ先メールアドレスが同じという一点を理由として複数の団体を権利詐欺団体と見做している。成程、問い合わせ先メールアドレスが皆同じというのは確かに怪しい。が、この段階ではまだ怪しいだけだ。少し考えてみて欲しい。YouTubeにアップロードされた動画で使われた楽曲の権利管理という新しくてコストもかかる業務を、作曲権や演奏権の管理を作曲者らから委託された団体が自身で行っているものだろうか。

 実際のところ、「YouTubeにアップロードされた動画で使われた楽曲の権利管理」をサービスとして提供する会社(大抵はAppleやAmazonなどへの楽曲ライセンス提供および管理サービスも行っている)は無数に存在し、かつそのような会社はそれぞれ複数の顧客を持つ。YouTubeからの権利侵害通知に対する問い合わせ先はまずそのようなサービス提供会社の専用窓口となるから、複数の権利侵害通知に対する問い合わせ先メールアドレスが同じという状況は決して不思議なものではない。加えて「単一の楽曲」に対する複数の権利侵害通知の場合、申告者が複数でも国籍や管理権利の範囲が異なる系列会社である可能性が高く、当然同じ管理サービス提供会社を使っている可能性も高い。権利侵害通知がカナダ、米国、アルゼンチンなど複数国の団体、組織からのものであっても、管理サービス提供会社は米国内の一社ということは十分にあり得る、と言うことだ。この場合、問い合わせ先メールアドレスが同一となるのはむしろ当然と言える。

 音楽の著作権及び隣接権の構成は結構ややこしいためか、「YouTube動画での使用音楽に対する権利侵害通知」に関する日本語で書かれた個人のブログには、(自分に有利なような)誤解や知識不足に基づく誤った記述や、やたらと感情的で実効的に無意味な記述が少なくない。第一の原因としては、(上で既に触れてしまった)演奏権/上演権、編曲権など様々な権利の存在を知らない、理解していないことが挙げられる。

 また「動画中で演奏している楽曲の著作権」の権利侵害通知に対して、やっきになって「動画の著作権」をくどくど主張するというイタ過ぎるブログもある。そもそもの状況が「読解」できておらず、誤った「解釈」にただ拘泥し続ける様は読んでてツラいまでにイタい。

 日本人なら文脈から忖度して話がかみ合ってないことを察してあげられるが、論理のみで忖度などしない米国人なら「動画中で演奏している楽曲の著作権が自分にある」という有り得ない主張をしていると理解するか、主張の一部とて理解できないかのいずれかだろう。ブログに埋め込まれたYouTubeへの不服申し立てフォームのスナップショットを見ると、チェックされている項目は「自分に全ての権利がある」に相当するものだった。この対応、実は「相手をする価値もない、バレバレな嘘をつく変な奴」と思われても仕方ないものなのである。

 念の為に繰り返すが、ここでのYouTubeからの通知は「動画中で演奏している楽曲の著作権」の権利侵害である。件のフォーム入力結果を受け取ったYouTube側の人はビックリしただろうなぁ、世界的にヒットした楽曲の作曲権を、無名の日本人が突如主張した訳だからね。

 あと言うまでもないことだが、捻じれはもう一つある。他者が権利を持つ楽曲を動画中で演奏している以上、動画自体の権利所有者が動画作成者(ここでは演奏者でもあり、アップロード者でもある)のみである筈がない。権利侵害通知がたとえ「動画の著作権」に対するものであったとしても、不服申し立てフォームでチェックした項目は間違っているのである。

 片やネット上で正確な情報にまで至っていながら、その情報の誤読から結論を(自分に不利なように)間違えているという逆に残念なブログもある。日本語文章を素直に読解すれば良かっただけなのだが。

 時に公共の敵の如く嫌われるJASRACだが、彼らのウェブサイトに掲載されている著作権、隣接権の説明はなんだかんだ言って良くまとまっており、音楽著作権の理解が必要と考える向きには一度は目を通しておくことをお勧めする。JASRACはかっちり理論武装しているから、説明はそりゃ正確で簡潔、歪められてもいない。

 以前に音楽教室からの徴収について騒ぎがあったが、JASRACの音楽著作権の説明を頭に入れておけば法的な議論が実質的に発生しなかった理由、「正義感」に基づくような声に全く頓着しなかった理由は直ぐに理解できる。徴収額の根拠はともかく、演奏権に基づく徴収自体は完全に合法だからだ。自身の著作権(演奏権を当然含む)の管理をJASRACに委託した人達、すなわちJASRACが耳を傾け得る個人や法人から成る数少ない集団の一つ、のほぼすべての構成員がそれに異を唱えなかったからだ。

 個人的な理解(=JASRACになったつもりで考えたこと)ではあるが、JASRACが踏み込んだこととは、まず「音楽教室から徴収しないという法的根拠の無い慣習を止めたこと」、そして本丸は「法的根拠の無い慣習は止められる、という実績を作ったこと」である。いやぁ、エグいエグい。

 他方、プロの演奏家/上演者自身の書くブログなどの文章は、自身を守るためにも権利に関する理解が厳密かつ正確であることや実体験も反映しているため、記載内容の信頼性が極めて高い。プロのピアニストという職業が如何に様々な権利侵害のリスクにさらされているのかに驚くとともに、「Vocaloidを使ったカバー曲をYouTubeにアップロードしている自分」が「複数の権利侵害から慣習的に大目にみられているという事実」に背筋が凍る思いもする。替え歌も勝手な訳詞も1声を2声にするようなちょっとした演奏の変更も、音楽著作権・隣接権を杓子定規に適用していくと実はアウト、しかも・・・とかね。

2020/01/08

続・SONY WH-1000XM3、結構ウマくない - Sonarworks Reference 4を使ってみる

 使ってみる、と言っても試用版。

 先行するエントリ「SONY WH-1000XM3、結構ウマくない」を書きながら、「こんな時のために何かソフトがあった筈・・・あった筈・・・」ともやもやしていたのだが、正月にそれを思い出した。

 Sonarworks社のReferenceシリーズだ。

 調べてみると現在はReference 4 Headphone Editionという製品があり、WH-1000MX3もサポートされていることが分かった。Reference 4 Headphone Editionは所謂キャリブレーション・ソフトウェアで、ヘッドホン毎の再生周波数特性を揃えることができる。つまり、マスタリングにおいてターゲットとされる環境での音を、リーズナブルな価格帯のヘッドホンでシミュレートしようというものだ。Windows10であればOSレベルでもキャリブレーションはサポートされ、当然ながらOSレベルのキャリブレーションと排他的に動作するDAW用プラグインも用意されている。

 なお、WH-1000MX3のキャリブレーションデータが用意されていたのは有線時のみだ。

 で、試用版を使ってみた結果なのだが、思わず笑ってしまうぐらい音は別物になった。失笑レベルではなく、思わずのけぞってしまい、椅子に座っていたらそのまま笑いながら後ろに倒れてしまいそうなぐらいの衝撃的な結果だった。ちゃぶ台PC設置環境で助かった。

 まずキャリブレーションしない場合、事前に測定済の再生周波数特性がソフトウェアのウインドウ上に表示されている。40~300Hz、5~15kHzが結構持ち上げられている一方、1~5kHz、15kHz以上が低い。先のエントリで触れた疑われる再生周波数特性は、当たらずとも遠からずと言ったところだろう。「低域盛り過ぎ」という他の方のレビューも基本的に正しい。が問題は、グラフ縦方向の分布幅が±6dbを越えるいう点にありそうだ。この分布幅は、そういう製品であるとの説明が無い以上、大きすぎると思う。±6dbと言うのは、それぞれ音量2倍、1/2倍に相当するのだ。このため、本来は同じ音量で再生されるべき音が、周波数が違うと4倍以上も音量に差が発生し得る。ちなみにSENNHEISER HD599の再生周波数特性は、形状こそ60Hz以上の範囲では似たり寄ったりだが、上下方向ともに6dbを超えてはいない。
  楽曲を再生しながらキャリブレーションをONにし、まずは再生周波数特性をフラットとする。ベース、バスドラ、スネア、ボーカルと全ての聴こえ方が変わる。全体に音の横、奥行き方向の分布の幅が小さくなるが、音の重なりが無くなり音毎の分離はむしろ良くなる。バスドラは奥に引っ込み、ベース音も奥に引っ込むと同時に音自体も変わることがあり、ボーカルは前に出てきてやや広がり、スネアの音は別物になる。1~5kHzの特性がボーカルやスネアに効いている感じだ。iTunesで購入した楽曲も自分のカバー曲も同じ印象で、ピアノ、ストリングス、女声スキャットなどは生まれ変わる。Stelvio CiprianiのMary's Theme(iTunesでも買えるよ!)なんて、ホント別物になる。宇宙戦艦ヤマトの楽曲群も蘇るね!ただし、ベース持ち上げ気味の味付けの音に慣れた耳のせいか、癖の無い分、音に若干味気無さも感じる。
  次いでPredefined Target CurvesをONにする。 ざっくり言ってマスタリング時に参照すべき特性の一つで、見ての通り再生周波数特性は全体としてやや右下がりだ。フラットな場合と比べて音の味気無さは弱まり、「ああ、コ↓レ↑コ↓レ↑」感が出てくる。「グラフィックイコライザーなどで好みの音に加工するのが当然」のリスナーやベースブースト系ヘッドホンのユーザーに聴かれても、この辺りの特性でマスタリングしておけば破綻はしなさそうに思える。

 と言う訳で、SONY WH-1000XM3、より客観的見地からも結構ウマくないと言うことになってしまった。ちなみにReference 4 Headphone Editionは€99、意地張って親戚にお年玉とか出しちゃった金の無い身にはすぐには手は出せないなぁ・・・。

2020/01/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第1話を観る!

 第1話を観る。

 先行するエントリで書いた、気になっていた点については

 「なんか今、とんでもないところへ行ったんじゃ・・・」
 「凄い画が見えた気がしたんだけど・・・」

のセリフで「先送り?」な感じで、個人的には完全なる不完全燃焼。もし「先送り」でないのなら、今後も画的には面白いものは期待できないかも。「あれが・・・最強の・・・世界・・・」とのセリフに値する画は「今回は見せてもらってない」と言わざるを得ない、残念ながら。作品上、「気分」や「思わせぶり」で処理しちゃダメなところの筈なんだよなぁ。

 「完全に逃げた」ろ、ココ。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 先行するエントリで私の言うところの「遷移過程」において、効果音を声だけにしたり声を効果音に重ねたりする音響処理は絶対アリで、いかにも「遷移過程」ぽかった。まさに、飛行機模型を片手に持って動かしながら「ぶ~ん」と言ってるとか、マンガのコマを描きながら効果音を思わず口にしてしまっているといった状況を彷彿させる処理だ。ただ「遷移過程」そのものの描写は冗長、かつ展開は作品の成立性には寄与するような論理性や必然性を伴うものではなかった。つまり、単なる尺稼ぎ、制作作業量の節約としか機能していない。

 作中人物をもっと動かしてやんなよ、「最強の世界」を具体的に画にしてやんなよ。EDの頭辺りのラフ画のようなカットを、本編内で仕上げた形で見せてなきゃいけなかったんじゃないのかな。

 アバンからOPの最初1/4ぐらいまでは「お!」と思いながら観てたんだけど、本編に入ると作画も声も既にテンパってる感(余裕がない感じ)があるのだが・・・実際はそうじゃないことを祈るばかりだ。で、PVの一部作画を観てどっかで来るんじゃないかと思ってたけど、青木俊直氏の一枚絵、いきなり来たか。

2020/01/01

アニメ「映像研には手を出すな!」のPVを観る!

 もう1年以上病気でまともに動けない状態もあって今日になって知った、大童澄瞳さんのマンガ「映像研には手を出すな!」のTVアニメ化。「半年ぐらい前が最初のアニメ化に良い頃合いだったよなぁ」と突如閃いて元旦にググってみたら・・・。

 原作は飛ばし飛ばしで数としても10話も読んでないという体たらくだが、第1話を一読した時点から映像化されたときの「俺イメージ」と言うか、「演出プランもどき」と言うか、が明確にあった。そういうものを喚起させられる、どうすれば良いだろうかと一度は考えてしまう、私にとって稀有なマンガなのだ。健康上の問題が無ければ、少なくとも単行本はリアルタイムで追いかけていただろうと思う。

 で、最新のPVを観る。

 ん~彩度が高めの色彩設計だなぁ、というのが一見しての印象、例えば制服の上着の青さとかね(黒のラインとのコントラストが出なくて、見にくい気もする)。これは批評とか好みとか言う話とは無関係で、要はマンガから喚起された「アニメ化時の俺イメージ」との差分以外の何物でもない。もうちょっと正確に書いておくと、「日常世界」シーンは敢えてもっと色をくすませていてもいいんじゃないかなぁ・・・と言うこと。「日常世界」シーンと所謂「最強の世界」シーンとの演出上の区別のために彩度差も使えるようにしておこう、という意図が裏にあるよーな気もする、我ながら。

 じゃぁ「俺イメージ」の源流はどこにあったんだろうと考えてみると、日常側は16コマ/秒の8mmフィルム(Fuji)のライブ映像、「アニメ内アニメ」たる「最強の世界」側は16mmフィルムで撮影されたかつての普通のTVアニメの映像なんじゃないかなぁと。原作マンガを読んでいた時、8mmフィルムで映画を撮っていた若いころのことを思い出していたのかもね。とは言えあくまで「フィルムの持つ色味の風合い」の記憶を喚起されたのではないかと言うだけであって、実際のカメラやレンズの限界や絵作りは別問題。もちろん日常側で粒子の粗い画を使うという意味じゃない、色だけの話。

 第1話をベースに考えても「映像研には手を出すな!」は、ざっくりと言って「日常世界」と所謂「最強の世界」と両世界の「遷移過程(トランジション)」を連続的に描く必要があり、このあたりをTVアニメがどう取り扱うかには興味を持たざるを得ない。アニメ版における所謂「最強の世界」シーンは言わば「アニメ内アニメ」、「アニメでアニメの画を表現するシーン」であるため、特定の画が「日常世界」のものなのか所謂「最強の世界」のものなのかの正しい判断を、作り手側からのサインなど無くして、視聴者に期待することは必ずしもできない。

 本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?

 「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。

 対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。

 ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。

 ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。

 PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。

 ちなみに「俺イメージ」にはアニメ化版だけでなく当然のように実写化版もある。むしろ「映像研には手を出すな!」は実写の方が演出的なハードルは低い。これはライブアクションによる「日常世界」とアニメによる所謂「最強の世界」とが、その見た目から否応なく別物となる点にある。「遷移過程」はアイディア勝負で、作り手のセンスが問われそうだ。

 出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。

・・・あ、実写版も製作中?えー・・・「遷移過程」は例えば手描き絵と切り抜いたスチール写真での低フレームレートのアニメとかでもいいけどさ、製作費はいくらなんだろう?

追記(2020/1/2):
 NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。

 まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。

 ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。

 もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。

 「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。

 作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。