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2021/03/22

「児童の性的搾取」による販売停止が米Amazonに来た

 "Kawaii"に分類されそうなフィギュアから来たのは実は予想外。文字通り、「【悲報】米Amazonが『俺妹』『ハルヒ』『らきすた』など美少女フィギュアを『児童ポルノ』に認定し販売停止へ」ってことらしい。

 2年ほど前のエントリで、「日本の漫画やアニメ(のスタイルの絵作り)を”性の搾取”の観点から敵視している勢力」が存在することに触れたことがある。このエントリでは、当時Youtubeに氾濫していた【紳士向け】や【R-18】のMMD動画について触れ、これきっかけで今や世界に通じる"HENTAI"の枠組みでの「日本の漫画やアニメ(のスタイルの絵作り)」のポリコレ化の懸念について思うところを書いた。

 個人的に今回の話の意外どころは、"HENTAI"ではなく、むしろ"Kawaii"の枠組みに分類されそうに思えるフィギュアから販売停止になっていることに尽きる。現時点では情報が少なすぎて断言はできないものの、背景に「具現化された"Kawaii"もの=児童ポルノ」というロジックの意図的な拡散や固定化の動きが存在している可能性を懸念する。特に固定化は、ステルスで認知だけは広げておいて、いきなり「デファクトスタンダードな考え方、常識ですよ~、もう*年も言われてましたけど、誰も文句を言ったり反論したりしてこなかったじゃないですか~(ニッコリ)」みたいなやり方をとるのが常道だ。いったんこうなると、「いや、このキャラは24歳ですから児ポにはならないですよ」と言っても、「これ、"Kawaii"ですよね?」と聞かれて「Yes」と答えてしまったら負けなのである。そして、後戻りはほぼ不可能である。

 このロジック(厳密には屁理屈、言いがかりだが、何らかの意図を持つ者達はより権威的な表現を好む)では、「"Kawaii"もの=子供、児童」であり、「自身(絵やフィギュアそのもの)が"Kawaii"ことを視覚的に主張すること("Kawaii"を露出/アピールすること)=ポルノグラフィ」と見做すこととし、「具現化された"Kawaii"もの=児童ポルノ」との結論に一気にもっていくのである。いやはや、思考内容が"HENTAI"なのはどっちだ。今の米国大統領は<自己規制>好きらしいがどうなのか。

 それはさておき、私が「"Kawaii"もの=児童ポルノ」主義者なら、自分の主張を通すためにうまく使えないか一考の価値ある(バカによるバカの為の)論法ではあるね。あれだ、左巻きとかが大声に頼って押し通そうとするような類の、筋の悪い論法なのよな。私の見たところ誤魔化しは最初にあり、本来有り得る命題「大抵において、子供達は可愛い存在である」を表す「子供、児童≒"Kawaii"もの」の「≒」の左右を入れ替え(論展開の順番を逆にし)、更に「≒」を「=」としたところにある。 更に言えば、日本語における「可愛い」と英語使用者の使う"Kawaii"との明確な関係性、或いは"Kawaii"の明確な定義(現時点でもまだ普及過程)が確立していないこともつけ入る隙となっていると考える。

2020/01/21

「そこを全部引き受けると、二次創作になる」

 たまたま観たYouTube Live番組内でのインタビュー(対談の方が正確かな?)で、アニメーション監督・片渕須直さんが発した言葉。思わず頷く。

 「マンガと劇映画は表現の土俵が違う(=劇映画の監督として違う土俵を設定した)、だからマンガとそれを原作とする劇映画で表現が変わるのは当然」といった文脈下で、「マンガを原作とする劇映画において、マンガと違う表現となるべきところにマンガの表現をそのまま持ってくる」場合を指しての発言だ。もちろん、ネガティブなニュアンスである。

 片渕さんの言う「劇映画」という言葉の指す範囲は正確には分からないし、「表現の土俵」という言葉で表現したものに対する私の理解が適切かどうかにも不安はあるが、ここは「TVアニメシリーズ」でも同じ考え方が適用できる筈ということにしてしまおう。そうすると、私が先行するエントリ「アニメ『映像研には手を出すな!』のPVを観る!」でくどくどと書いたこともかなりすっきりと書き換えられる。

 「TVアニメシリーズには原作マンガと違う表現の土俵を設定することを期待する。マンガとして特異な構造・構成を持つ(マンガ内アニメがある)故にアニメ化においてマンガとは『違う表現の土俵』を設定する必然性がある原作なので、作り手の哲学なり知性なりの発露たるTVアニメシリーズならではの表現を見せて欲しい」、だ。「単なる引き写しだと、二次創作に(過ぎなく)なる。それではツマらん、アニメ化した甲斐がない」、とも。

 ちなみに同じインタビュー内の違う文脈での発言で、片渕さんは「マンガを原作とする劇映画とTVシリーズでは、当然違う表現の土俵を設定することになる。TVシリーズなら回毎、パート毎で違う表現の土俵を設定し得る」ことを明確に示唆していた。筋が通ってる。

 あ、「映像研には手を出すな!」第3話は明日か明後日に観ます。

2016/12/24

【のっソロ The DIvision】 【番外編】 「自称」オープンワールドが可能性を殺す?

 毎度ご愛顧ありがとうございます。本年最後の【のっソロ】として番外編をお送りいたします。

 さて「オープンワールド性」とはなんでしょう?

 以前のエントリで書いたように、私は「サンドボックス性を備えている」ことを必要条件に挙げました。

 では「サンドボックス性」とはなんでしょう?

 大上段に振りかぶれば➀プレイヤーが用意されたフィールド内で何でもできる」ということになるでしょうか。更に「②プレイヤーのフィールド内でのそれまでの行動が以降のプレイに影響する」というのも加えられるでしょう。とは言え➀も②も実現できるレベルには様々な制限があります。ですから、ここでは「オープンワールド性、サンドボックス性」と敢えて「性」を付けてあります。

 ならば「リアルなフィールド」は「オープンワールド性」にどう寄与していることになるのでしょうか。私の見解は単純です。

 まず、「リアルなフィールド」は「オープンワールド性」にとって「必要条件ではない」、はっきり言えば「サンドボックス性」がそれを要求している場合にしか意味がありません。つまり、「リアルなフィールド」が物理演算を含めて幾らリアルになろうと、「オープンワールド性」の向上には寄与しません。ですから、いくらフィールドが精緻であっても「サンドボックス性」に欠けるものは「オープンワールド性」にも欠けている訳で、オープンワールドを名乗るに値しません。

 そして、現行の大部分のオープンワールドを名乗るゲームはオープンワールドゲームではなく、「自称オープンワールドゲーム」に過ぎないのです。ですから、「自称オープンワールドゲーム」を叩くことで「オープンワールド」へのヘイトを垂れ流すのは実に馬鹿げた、事の本質を理解していない間抜けな恥ずかしい行為と言えるでしょう。ましてや、一家言あるゲームプレイヤーたる者なら「マーケティング用語としてのオープンワールド」を真に受けるような魯鈍であってはいけません。更に加えるなら、ゲーム制作者たる者が「自称と本当のオープンワールドを区別していない、区別できない、そんな問題意識すらない」なんてのは論外で、ましてや「わざと区別していないふりをして、自称オープンワールドゲームの欠点をさもオープンワールドの欠点のように論(あげつら)う」なんて卑怯なことはしてはいけません、

 この記事内に記載のとある人の発言は、「オープンワールド」を全て「自称オープンワールド」に読み替えれば全く同意です。しかし、もし本気で・・・ならばその立場の人間としてただの無能か時代遅れに過ぎませんね。

 私にとって「オープンワールドに最も肉薄したと言えるゲーム」は"Far cry 2"です。

 スナイパーライフルを抱えて敵の小拠点に近づきます。スコープの中には間抜けにも一人で巡回している敵が見えます。脚を撃ちます。撃たれた敵はのたうちながら仲間を呼びます。また間抜けにも一人で駆け寄ってきた敵の仲間は、撃たれた仲間を抱え上げます。駆け寄ってきた敵のやはり脚を撃ちます。二人の敵がのたうち回っています。追加の敵は現れません。そこですかさず、二人の内の元気の無い方の頭を撃ちます。さぁ、新しい敵が現れそうな位置とまだのたうっている敵が同時に捉えられる位置に移動しましょう・・・あ、ライフルが故障した・・・

初弾次第で以降の展開が変わり得ることが分かるでしょう。これは初歩とは言え「ダイナミック(動的)なサンドボックス性」のたまものです。雨が降っていれば?夜ならば?早朝なら?ほんのわずかですがそれぞれプレイの展開に影響しますよ。「動的なイベント発生」は「サンドボックス性」のごく一部の要素でしかありません。逆説的に言えば、動的イベントが発生が一切発生しなくてもオープンワールド性は損なわれません。動的イベントが発生しないのはオープンワールドだからではなく、単に作り手がイベント自体を用意していないか、イベントが発生する仕組みを組み込んでないだけでしかありません。

 ただ結果として、"Farcry2"は誰得難易度なちょっと変なゲームになってしまいました。私に言わせれば、ある意味オープンワールド性を一気に進め過ぎたのです。当たり前のことが当たり前に起こる環境の構築は、それを作り上げる手間は大変なもののゲームの面白さにはなかなか繋げられません。ですから一種の合理化は避けられませんでした。

 プレイヤーが利用できるリソースの制限を無くし、アイテム発見の手間を省略し、更にストーリー性を強化して確信犯的にプレイヤーの自由度を制限するなどして、ゲームとしてはバランスが良い"Far cry 3"のシステムが生まれました。ただし、オープンワールド性は大幅に後退しており、個人的にはオープンワールドゲームを名乗れる現実的な最低ラインを決めてしまった側面もあると思います。そしてこれ以降、オープンワールドを名乗るゲームのオープンワールド性は、マーケティングや開発者の都合や無理解により下げられ続け、ほんの数年で 開発者すらオープンワールドの本質を忘れたり、理解しないままにしておいても問題無いという低レベルな環境すら生み出してしまったようです。"MGSV"はその種の低レベル環境(≒低レベル集団)が生み出した「(オープンワールドを名乗るという意味において)勘違い」の最たる例ですね、オープンワールド性なんか欠片も無い。

  とここまで書けば、私が"Ghost Recon Wildlands"に何を期待しているかが多少は分かってもらえるんじゃないかなと思います。そして、「本当にオープンワールドゲームが終わる」にしても、少なくとも「本当の、よりオープンワールドの理想に肉薄したオープンワールドゲーム」の登場をまず待たねばなりません。

 「自称に過ぎない似非オープンワールドゲーム」が「まだ生まれてもいない本当のオープンワールドゲーム」誕生の芽を潰すなんて事態は余りに悲しい・・・

2016/01/30

で、結局のところTom Clancy's The Division - Betaはどうだったのか?

 今日の0:15ごろ(つまり昨夜)に"Tom Clancy's The Division - Beta"の起動に成功した。プレイできるミッションは1つで、サイドミッションと合わせてソロでも1.5~2.5時間ぐらいのボリュームだ。このプレイ時間でのプレイヤーのレベルアップはせいぜい+2なので、RPG要素はほぼ味わえない。

 最初のうちは「案外つまんねぇ~、購入は失敗かな」 なんて思っていたが、操作に慣れてくると印象はポジティブな方に振れていった。手放しで人には勧められないが、これはこれでアリなゲームではないかと思う。

 カバー(障害物に身を隠すこと)位置を変えながらの移動の操作は、類似のシステムのゲーム"Tom Clancy's Ghost Recon - Future Soldier"よりはこなれていて、移動先の選定ミスはほとんど起こさずに済んだ。このゲームはある意味「カバー&シュートゲー」なので、思う通りのタイミング、位置でカバーできるかどうかは結構クリティカルだ。

 なお、デフォルトのグラフィック設定におけるGeForce GTX 960 (ブースト無)、1Kでのフレームレートは、ウルトラ: 27-35fps、高: 47-55fps、中: 56-60+fpsだった。マウスでエイミングする観点からはやはり60fps程度は必要で、30fps程度だとオーバーシュートしがちになる。

 ダークゾーンは昼間の牧歌的な雰囲気から夜は一転、検問抜けたところや回収地点でプレイヤーを待ち伏せ攻撃するグループ(ローグ(ならず者、のニュアンスかな?)エージェントのグループ)が現れてやや剣呑な雰囲気に。ウザいというか気分悪くなるばかりなので早々に離脱。まぁ、予想通りでうんざり。

[ 1/31追記:
 今日の午前中のダークゾーンは剣呑さはかなり和らぎ、どちらかと言うとむしろ「優しい世界」、だんだんとバランスが取れてきたようだ。具体的にはグループ間の相互支援や回復が日常的となってきていて、特に回収地点付近では複数グループが協力してローグエージェント/グループに対抗するシチュエーションが見られるようになった。ソロでふらふらしている私も他プレーヤーに回復してもらったことをきっかけに、積極的に他プレーヤーを支援するようになった。
 とは言え、回収地点で待ち伏せしているようなローグエージェントは居る訳で、私も1回倒されて集めたアイテムも失った。一連のシチュエーションについては省略するけど、余りに手段を選ばない行為にさすがにカチンときてしまった(それこそ、相手のプレイヤー名を覚えてしまったくらい)。その後の私のとある行動の内容は秘すけれど、「人を呪わば穴二つ」とは良く言ったものだ。

 ベータは今日で終わるけど、プレイしての私の結論は「リリースが楽しみ!」の一言。正式版はボリュームが違うからプレイに「作業感」が出ることもあるだろうけど、ベータの範囲ではプレイするほどプレイが楽しくなっていったのは本当だよ。

 約6時間のプレイでレベルは4から7へ。アサルトライフルはM4からAK-47、サブマシンガンはH&K MP5からMP7に更新。頭が寒そうだったので帽子も被せたよ。
]

 スクリーンショットは、グラフィック設定: 中、1Kのもの。

2016/01/29

続・SteamのThe Division - Betaフォーラムが大炎上中!

 件のフォーラムに歓喜の声が!

 「Steamクライアントを再起動したら動くよ!」との投稿に、世界中で私と同じくSteamクライアントを再起動中の人は果たして何人?

 取りあえずプログラムのアップデートは始まったけど… 

 切ないのは10分ほど前の「もうPC電源落としてベッドに入る、ぐっすん」という投稿だ

SteamのThe Division - Betaフォーラムが大炎上中!

 UBIソフトのゲーム、"Tom Clancy's The Division"のクローズドベータが昨日より始まった。まず昨日はXBOX ONE版のみ、今日からはPS4版とPC版だ。私はSteamでプリオーダーしたんだけど、その後「UBIソフトの日本オフィスではPC版のベータテストはサポートしない」と知ってへんにゃりしていたのだ。が、ベータ版プリロード(プログラムがインストールされるが起動はリリースまでロックされる)の通知があったので、ダメ元半分期待半分でプリロードしておいた。

 で、ベータ開始時間が来た。もちろんと言うかプログラムはロックされたままで起動できなかった。まぁしょうがないやという事で、盛り上がりぶりでも確認しようかとSteamの当該フォーラムを覗いてみると…

 大炎上中!

Steamでプリオーダーしたユーザーは軒並み起動してもオンラインにならないらしい。UBIソフトからの投稿によれば、
We've noticed on the forums that some Steam players are unable to access the beta for Tom Clancy’s The Division. We are actively reaching out to Steam to resolve the issue and will keep you updated as we know more. Thank you for your patience and understanding. 
という事らしいのだが、 既に"Some Steam players? No! No Steam Players!"といった突っ込みが多数投稿されている。

 投稿は英語はもとよりロシア語、韓国語、日本語、中国語(繁体及び簡体)などと実に国際色豊かな状況だ。「10%返金嘆願書」なんてスレッドもあるし、何より読んでて切ないのは「ベータ開始のカウントダウンで盛り上がっていたスレッド」だ

 少し投稿に目を通してみると、UBIソフト+Steamの組み合わせで以前にも別のゲームのベータで同様のことをやらかしていたらしい。これはちょっとまずいなぁ。

 はたして、世界中のSteam playersはベータに参加できるのか?!私も参加できるのか?!乞うご期待、みたいな。
ファッ、なんで今日見たらGold Editionの値段が下がってんの?!

 あ、「明日再びチェックしてね」ですか。Waitlistの問題?いやいやSteamユーザー以外では不具合出てないみたいなのでそれは違うでしょう?

2016/01/15

The Division(PC版)、予約してもーたわ

 米国のサウジアラビアガン無視、中華人民共和国の国内石油価格の統制開始(そうきたか!)、米国GE社の一般家電部門のハイアール社への譲渡決定など、ここ2日程だけでも経済、政治に関わる無視できない事案や状況が発生している。

 ちなみにGE社の件は、不適切経理処理のダメージ回復に未だのたうつ東芝社の企業体質改善アクティビティに強く影響する可能性がある。少なくともハイアール社が東芝社の家電部門を買収することはもう無いだろうからだ。

 それはさておき

 購入どうしようかな、と悩んでいたゲーム"The Division"(3月発売)なのだが、最近公開されたトレーラーを目にしてPC版を先ほどあっさり予約してしまった。何故?と問われると実は困るのだが、これまでのほぼマルチプレーヤー戦闘シーンのトレーラーと違ってシングルプレーヤーモードの雰囲気が割と良く伝わってきて、かつそれに好感を持ったからだ。もちろん、豪快な地雷の可能性を危惧する人達の気持ちも良く分る。まぁそうなった時には見事に散ってやろうと腹が決まったとも言える訳です。

 人を殺して回るゲームなのは間違いないが、それ故にこそ救いというか、やむにやまれぬ事情とでもいうものがゲームの世界感にきっちりと取り込まれていて欲しいという思いは個人的には偽らざるものだ。特定の人間や集団、勢力のみの独り善がりな「正義」には、ゲームと言えども今ひとつついていけないのである。我ながら面倒くさい奴とは思んですけどね。

 一方、同時期に発売開始予定のゲーム"Farcry Primal"には手を出さなさそうだ。単純にプレー内容に新規性が無さそう・・・

 10歳若ければ間違いなくプレーしただろうな、と思うのが"Home Front: The Revolution"、ハイテク共産軍に占拠された米国が舞台のFPSだ。前作と同様に強力な武器による力押しが可能なゲーム性が予測されるのだが、そういうのが面白く感じられなくなってきているのが正直なところだ。「敵弾が1発でも当たれば行動不能、ヘッドショットなら即死」ぐらいの勢い故に「作戦を練る、状況を全力で把握しようとする、タイミングを選ぶ」必要がある、と言う感じのゲームに最近は好みが変わったといったところでしょうか。 

2015/11/23

Hide and seek

 "Hide and seek"とはかくれんぼだ。

 現在、PCゲーム「アサシン クリード シンジケート」をのっそりプレイ中だ。「のっそり」に込めたニュアンスは「面白いのだがやや冷めた感じにプレイ中」という事で、具体例としては「今日はここまで、とサクッと中断できる」という感じだ。ちなみに私はアサシン クリードシリーズ初心者である。

 本ゲーム の舞台は産業革命当時のロンドンだ。オープンワールドにはロンドン中の名所旧跡がちりばめられていて、当然ながら現在もほぼそのまま存在する場所もある。ロンドン好き(?)な人であれば至る所に知った場所を見つけることができるだろう。だが、残念ながら私はロンドン好き(?)ではないのでそうもいかない。とは言え、「ここ知ってるぞ」とばかり思わず(プレイヤーキャラクターが)周囲を見回す場所が無かった訳ではない。
そう、ここはかの有名な「オリンピックかくれんぼ競技」のスタート地点ではないか!
 
 ちなみに、このモンティ・パイソン・スケッチ(コント)のオチは、「同タイムにより、明朝再試合!」と言うもの。

2015/05/09

FARCRY3、これは数学だ!

 これまた何周遅れですかって話。

 "FARCRY3"はオープンワールドベースのFPS(プレイヤー視点シューティング)ゲーム、2010年のゲームだから丸4年前のものだ。とりあえず難易度"Survivor(通常)"でクリアしてから"Master(最高難度、選択時の説明曰く「マラリアより酷い」)"で2回目に入った。成る程、評判が良いのもうなずける出来、されど既に"FARCRY4"がリリース済だ。

 オープンワールドのミソは自由度。昔からのFPS好きなのだが、"DOOM3"や"Halo"はつまらなかった。これはハードウェア能力の限界などからプレイヤーは一本道を進むしかなく、左右上下の空間を使ったような戦術をプレイヤーが使えなかったせいだ。先行する"DOOM"では左右前後だけでなく攻める順番も選べたことを思えば、残念ながらゲーム的には退化としか思えなかった。対して"FARCRY3"はそのような不満とは全く無縁だ。

 オープンスペースを実現する"CRY"エンジン(厳密には全面改訂版の本流とは別ブランチだ)については特に触れないが、 すこぶる出来が良い。どのようなメモリ管理をやっているのか技術的にも気になる。メタルギアソリッド用に開発された"Fox"エンジンは明らかに"CRY"エンジンの影響下にあるものだろう。

 最高なのはノンプレイヤーキャラクター、特に動物達の振る舞いだ。

 コモドドラゴンやサメやワニには食いつかれ、バッファローには谷底へ弾き落とされ、クマには引掻かれ、鳥には突っつかれ、トラやレパードには飛び掛られる……時に腹立たしく、プレイヤーキャラクターが死んでしまうことも少なくない。が、それはプレイヤーが敵対するノンプレイヤーキャラクターである海賊や私兵集団にとっても同じだ。野犬の群れに追われるままに(自棄になって)海賊のキャンプに突入したら、野犬と相打ちで海賊たちが全滅なんてことが起きてしまう。リアルとは言わないけど、「プログラム上起き得ることは起きるんだ」という意味でちょっとした驚きだった。海賊の所有する武器の構成が違えば、また違う結果にもなっていただろう。

 なんともカオスティック、単純な局所的ルールの適用結果が相互作用し より大局的な結果を引き起こすとは!これは数学だ!…なんちゃって。

 これは上手くまとめてるなぁ。

2015/04/12

Tomb Raider: Underworldをへらへらとやってます

 5年以上チェックしていなかったSteamのウェブページをふと覗いてみたら隔世の感が凄くてびっくり、何時の間にやら日本語ページも用意されている。

 Steamと言うのはゲームの購入、ダウンロード、インストール、アップデート、ライセンス管理、コミュニティなどの機能を提供する狭義ではプラットフォームアプリ、広義にはサーバーも含めた環境とでも言うべきものだ。

 ポイントの一つは、Steam上で購入したゲームのライセンス管理はSteamアカウント単位で行われる点、つまり「同時にプレイしなければ」複数のPCに同じゲームがインストールできるということ。仕組み上ゲームの実行にはSteamアプリの実行とインターネット接続が必須となるが、このご時世、これら必須用件はコストとは感じられないだろう。メディアやシリアルナンバーなどの管理は面倒、つまりユーザーは自らの権利維持に一定のコストを強いられる訳だが、Steamはこの部分のコストをばっさりカットすることに成功している。また、ゲームが対応していれば、セーブデータやカスタマイズした操作設定などもサーバー側に保存することも可能のようだ。

 一方、ゲームの進捗具合やゲーム関連のハードウェアなどの情報もサーバーに送信される。これは(ジョージ・)オーウェル的監視社会を彷彿させるものだが、「まぁ、それぐらいの情報は渡しても良かろう」とユーザーに思わせるだけの利便性がサービスとして提供できるかどうかと言う問題でしかない。その辺りをSteamは上手くクリアしたものと見える。また、今年末にはAlienware Steam Machineと言うゲームコンソール"風"DELL製PCの発売もアナウンスされている(AlienwareはDELLのゲーム向けPCのブランドだ)。これは明らかにPlay StationやXBOXといったコンソールゲーム機への対抗軸であり、Microsoftがことごとく失敗してきた「リビングの覇権獲得」も狙った製品かと思う。今年のクリスマス商戦時期には、Steamが提供するサービスにラジカルな変更がおそらく加えられるだろう。AppleのiTunesエコシステム(音楽、映画、iOSアプリ)とも競合するものになるかも知れない。

 「リビングの覇権」は勝者が無いまま消耗戦が繰り返し続けられるセットトップボックス競争に始まり、「トロイの木馬的セットトップボックス・キラー」として投入されたゲームコンソール機のやはり勝者無き消耗戦として続いている。「リビングの覇権」とは、音楽、映像、ゲームなどを提供するサービスとリビングのテレビと接続されてこれらサービスを独占的に処理するソフトウェア及びハードウェアのデファクトスタンダード争奪戦と言える。現行のSteamにおけるライセンス管理は既に十分に分かり易く、極めて公正に見える。一度購入したものは再ダウンロードが何時でも可能であり、サブスクリプション(例えば月極め払い)で利用できるアプリも既に存在する。音楽や映像のレンタル、販売への技術的障壁は既に無いと言って良いだろう。これで購入したライセンスの委譲が、ユーザー側、提供側がともに納得できる形で処理できるようになれば、Amazon.comすらダメージを受けかねないエコシステムとなり得る。ただし、現行のゲーム、アプリ総数約3700は決して大きな数字ではなく、音楽、映像コンテンツ提供を含めたエコシステムを構築するとなると、一気に1000倍以上のアイテム取り扱い能力を持たねばならない。と言う訳で、今年末のSteam動向には色んな注目しているのである。

 さて、かつてのゲーマーにとっての現行Steamの魅力のひとつは、昔遊んだような古いゲームが1000円以下ということ。Armored Fist 3とかComanche 4とか10年以上前の懐かしいゲームもラインアップされている。ぐっとこらえてみたものの、やっていなかったTomb Raider: Underworld(2008)は思わず購入してしまった。初Steamである。

2015/03/01

「魂のルフラン」、MegpoidカバーWIP!

 Work in progress、略してWIP。要は製作途中版という事だ。

 「魂のルフラン」はけだし名曲で、かつ私的にかなり思い入れのある楽曲だから、手を出すにはかなりの度胸が個人的には必要だ。今回はarlie Rayさんの英語版カバーの歌詞を使うということでワンクッション置くこととしたが、これが一筋縄ではいきそうにない。

 arlie Rayさん版の楽曲自体はiTunes Storeで買ったので、所謂歌詞カードが無い。ネットを探すとそれっぽい歌詞は見つかるのだが、英語的にかなり????なのでそのままでは使えそうにない。そのため、ネットで拾った歌詞をベースに空耳に挑むこととした。だから、本WIP版はサビを除くとまだ[la]ばかりである。

 歌詞を追うにはコンテクスト(文脈)も考慮しなければならない。実際、歌詞のIやyouをどう位置付けるかで、空耳結果は異なってくる。現時点ではIやyouについては特定していない。故にそれっぽく歌詞が入っていてもそれはあくまで現時点での仮バージョンに過ぎない。 サビの部分も仮であり、yourが何時aやtheに代わるかは現時点では神のみぞ知るだ。

ちなみにネットで拾った歌詞の冒頭はこう。
Get back to me when you were not here.
You ruin the clear sky.
The word filled with love, dream and your tears.
Under this star you will be called again.
Recalling your memories, realise a soul.

You were scanning poly once, they are in a truly shadow...
WIP版の歌詞の冒頭はこう。
Get back to me when you were not at here.
You ruined the clear sky.
The word filled with loves, dreams and your tears.
Under this star you will be called again.
By recalling your memories, realise your soul.

You scanned polymaths, they are in a foully shadow...
 現時点では英文法からの要求と、メロディーにちゃんと載るシラブル(音節)数からの要求で全体を整えている段階だ。例えば最終行では"poly once"が"polymaths"になっている。"poly"単体では名詞となり難く、また可算名詞なら冠詞か定冠詞が必要だ、続く文ではtheyで受けられているので、"poly"の部分には可算名詞の複数形が入らなければならない、といった具合だ。"polymath"は「博識な人」を意味する比較的新しい(といっても17世紀ごろ)単語で、レオナルド・ダ・ヴィンチといったルネサンス期の傑出した才人を指すために生まれたものだ。ちなみに"foully"は副詞だからWIP版の歌詞も英文的にはまだおかしい(追記2015/3/2:取り敢えず"foggy"にしました)。

 "Full Strings Attached"はバックトラックのバージョンの仮名称で、サンダーバードなどの音楽で知られるバリー・グレイ氏の作品集アルバムタイトル"No Strings Attached"をもじったものだ。サンダーバードなどで使われた人形には多数の吊り糸(strings)が付けられている(attached)が、アルバムタイトルはそのような状況を逆手に取って付けられたと推測している。対して"Full Strings Attached"に込めた意味は、ドラム、コーラスを除いて、全てストリングス(弦楽器) のサンプリング音源のみで構成している点だ。ピアノも弦楽器だし、シンセサイザーによるシーケンスっぽい音にはバイオリンのピチカート奏法のサンプリング音を使っている。最近のサンプリング音源は弦楽器の様々な奏法の切り替えも簡単に指定できるので、左寄りに聞こえるストリングスではトレモロも含めた4種類の奏法を切り替えながら使っている。ベース音はKarplus-Strong String Synthesisという物理モデリングを用いて生成したものだ(関連エントリ)。

 あと、楽曲にエフェクトっぽい音を使う場合はコンテクストをつい持ち込んでしまうのがどうしようもない性(さが)だ。 2:42辺りの「どん」という音は木製のドアを閉じた、或いは力一杯開いた際の音をイメージしている。エヴァンゲリオンではドアの開閉やドアを介して出入りする行為を象徴的に取り扱うことが多かったので、それに倣ったという側面もある。それがシンジが閉めたドアの音か、幼少期のアスカが開いたドアの音か、それとも全く別のシチュエーションか、それはまだ定まっていない。

おまけ、なんともタイムリーな。

2015/02/22

Megpoid Whisper、「神様のいうとおり」のカバー

 「神様のいうとおり」は「四畳半襖の下張」、もとい、アニメ「四畳半神話体系」のED曲だった。原作の某先輩がらみのエピソードには無難に触れるだけで、まぁ、原作小説を上手く料理していたとの印象が強い。いやあ、これはほぼ手放しで褒めているといると言って良い。キャラクター原案はイラストレーターの中村佑介氏だが、今この文章を打っているPCのWindow起動画面、壁紙、車用のiPod Touchの壁紙も中村氏のイラストを一部加工して使わせてもらっている。もちろん、画集も持っている。

 楽曲「神様のいうとおり」には通常のバージョンと「バージョン Z80」という別ミックスがある。

 Z80はほぼ間違いなく、組み込み分野では未だその末裔が幅を利かすCPU/MPUのことだろう。私が学生のころはZ80はマイコン(今で言うところのパソコン)でも使われており、8-bit処理時代を代表するCPU/MPUのひとつと言えよう。しかし、今やPCのCPUは16bit、32bitを経て、64bit処理が当たり前となった。「バージョン Z80」の意味はおそらく古い時代の音(音色)を使っている、ということだろう。ただ、ファミコンやNEC PC-8801などのPSG音源やFM音源を思わせるような古い音色ではない。チップチューンのレベルまでは行かないという微妙なところだ。

 今回はコンセプト重視で、手順から何からそのコンセプトに沿ったアプローチを採った。これは別に自分の行為を自慢したいるとかカッコ良いとか言ういたい訳ではなく、単に「趣味でやってるんだから自由なんだよ」と言いたいだけなので為念。

 で、コンセプトとは「バージョン MOS6510」である。MOS 6510はコモドール64という古いPCに使われたCPUで、要はZ80より古いというぐらいの記号としての意味しかない。ただし、コモドール64は独自の音源チップSIDを採用しており、言わば「SIDっぽい音」というのは歴然と存在する。故に「バージョン MOS6510」とは、「SIDっぽい音」を取り込みつつ、同時発声音数も抑えた音数節約バージョンとでも言い換えられる。要は「スタイル」を理由に耳コピをサボったということだ。それと、SIDは8-bit処理チップであること、フィルタを持っていること、サンプリング(録音)とその再生ができるという点も忘れてはいけない。ちなみに完全に「SIDっぽい音」のみで構成された楽曲は一般的にチップチューンに分類される。

 バックトラックの作成手順は、コモドール社が後に発売するアミガ(アミーガ)で花咲く音楽用ファイルフォーマットmodを強く意識したものだ。modフォーマットは、サンプルした音源をも含む音色データ、と言うか波形データ群と、どの波形データをどのタイミングで、どの音程で、どの定位(左右の位置)で鳴らすかという演奏情報を含んでいる。演奏情報だけならMIDIデータもそうだろうと言う事になるが、もう一歩踏み込むと、modフォーマットでは数小節の演奏データを再生単位として、それら再生単位をどういう順番で何回再生するかという形で演奏データを管理する。

 このようなmodフォーマットのデータ管理方法を踏まえ、今回のバックトラックの音はまずソフトシンセZ3TA+2とNI Massiveで全て自分のイメージに沿って作り、wave形式で単音毎に書き出した後にサンプラーBattery4のパッドに割り当てるというとっても面倒な事をしている。つまり、3音の和音は3つの異なるwaveファイルを同時に再生(パッドをトリガーする)して作った、ということだ。もちろん、本当に面倒だから間違いなく2度とこんなことはやらない。どうせ音数節約バージョンだからやろうと思った、と言うのが本当のところだ。なお、音色作成では、使える基本波形を矩形波とノイズのみと縛ったが、フィルタやLFOによるピッチや左右の定位制御は積極的に行った。

 最後はポスト処理だ。ボーカルも加えてDAWからwave形式ファイル(ビット深度24-bit、サンプル周波数48kHz)で書きだした後、波形編集ソフトを介してビット深度8-bit、サンプル周波数22kHzのwave形式ファイルにコンバートした。本来無音となるべきところでノイズが聞こえるのは、このように意図的に音を劣化させたのが原因だ。実際のところ、ビット深度やサンプル周波数の変更はDAW上でもシミュレートできるのだが、今回ばかりはそうはしなかっただけに過ぎない。

 出来はともかく、手間だけはかかっているのだよ。

2013/06/02

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。

 内容盛りだくさん+新たな伏線張りに終始する感じで、Vol.3や4みたいにダレたところがなく、全体としては好印象。総統暗殺事件はやっぱりやったか。

 森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。

 第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。

 ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。

 艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。

 個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)

 「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。

 詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。

 念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。

 以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。

 ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。

 オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。

 細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。

 ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。

 あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。

2013/05/11

今さらながら「伝説巨神イデオン 劇場版」のこと

 「今さらながら」シリーズは評論でも批評でもありませんよ、念の為。


 Youtubeで「伝説の巨神 イデオンの絶望と希望」というタイトルの5分ほどのビデオがレコメンドされた。おそらくファンが編集したビデオなのだろうが、個人的に引っかかったのだタイトル中の「希望」という言葉。

 「イデオン」の何処に「希望」があったのか?


 地球人とバッフクランがまさに接触しようとしたとき、「イデ」は「希望を期待」したかもしれない。が、その期待は地球人とバッフクランの「殺し合い」の発生という形であっけなく裏切られる。しばらく様子をみていたものの両者の敵対関係に改善の兆しはなく、「イデ」は両者ともに「種」としては滅ぼすことを決断する。我々が漠然と口にする「命」というものに「イデ」が頓着している風情はない。映画「発動編」のラストが示唆する内容は、「知的生命体の命とは生命体個人の死をもって失われるもの」ではないと、少なくとも「イデ」は認識しているということである。イデオンでは「種の有り様」と「イデの価値観に基づいて善きものか否か」とがほぼ等価に取り扱われている。劇中で使われる言葉、「業」の位置付けも同様である。

 「イデ」は地球人とバッフクランという「種」に対してはおそらく絶望した。「メシア」の存在には「次世代の種」への「期待」を持ったかもしれないが、「希望」と呼べるものではない。まだ誕生もしていない「メシア」はそれでも「悪しき種」の一個体に過ぎず、かといって「善き有り様」を示す機会も与えられない。「イデ」は問答無用に二つの「種」を葬り去るのである。

 地球人とバッフクランとの不幸なファースト・コンタクトは、カララ・アジバの軽はずみな行動が原因となっている。理想家肌で「善きもの」に近い存在であったかもしれないカララの行動が「二つの種の殺し合い」、ただし「イデ」の立場からは両者は「単一の種」に過ぎない、を引き起こすという発端は誰もが考えるように極めて皮肉なものである。が、ラスト近く、「メシア」に『皆を導いてあげなさい』と語る資格があるのはカララだけである。それは「メシア」の母であるためではなく、「善きもの」であろうとし続けた存在だからである。

 だから、敢えてイデオンの何処に希望があったかと問われれば、「カララは死んでもやっぱりカララだった」という点を挙げよう。「業」とは「こだわり」である。カララのともすれば天然っぽく見えるまでの「こだわりの無さ」は、「メシア」を体内に宿すことになるまでに純粋だ。ただし、「業」を「業」として理解したうえで、さらに「己れの業」を互いに乗り越えるべくドバ・アジバと対峙する。これこそ「善きもの」としての一つの有り様である。ドバ自身も「業」を理解しているものの、カララとは対照的に「己の業」に従う道を選ぶ。

 イデオンにおいて、「業を持つこと」は「知的生命体」にとって不可避のものとして描かれる。「イデ」は「知的生命体」に「業」を持つことを求めつつ、それでも「業」を乗り越える「種」の誕生を望んでいるようだ。それは「イデ」自身を超える存在への希望だからだ。

 「善きもの」の希求…それは「イデ」の「業」じゃないですか。

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 「イデ」が「知的生命体」の「業」を喰うことで存在できるなら、強い「業」を持ちつつ「業」に縛られない「知的生命体」は良い食料ですなぁ。

2013/03/09

GyaoでTVシリーズ「うる星やつら」の第一話を観る

 タイトルの通りです。映画監督になる遥か前の押井守氏がチーフディレクターを務めた作品ですね。

 デジタルリマスター版とかいう話なので、第一話に関しては「乳首」が残されているかを気にしつつ視聴しました。はい、残ってました。

 TVシリーズ初期の「うる星やつら」と言えば、OPとED、小林泉美氏の曲と南家講二氏のアニメとのコラボの半端ない素晴らしさが光ります。タイトルロゴの後にまずピンク色を持ってくる南家氏のセンスには今観てもシビレます。キャラ達の動きも小林氏の曲のリズムを上手く活かしていて、相乗効果の良い見本じゃないかと思いますよ、ええ。

 小林氏の曲はリズムにクセがあるものが多く(時に変態的)、ビートはジャストを基本をしつつも「やっぱちょっと跳ねてないかい?」といった感じを曲全体で出すのが上手い印象があります。作曲家として、キーボディストとして、そしてシンガーとして、間違いなく私の中のエバーグリーンの一人。小林氏はキティフィルム繋がりで鶴見辰吾氏主演の映画「翔んだカップル」の音楽も担当、サントラ盤は良質のインストテクノポップアルバムの感すらあります。

 まぁ、ザラつき感も無いけど芯も無い「如何にもフェアライトCMIって音が好き」っていうのもあるんですが。敢えて名づけるなら「8ビットチップチューン」(ファミコンは実は4ビットだったらしいが)ならぬ「擬似16ビットチップチューン」(モトローラ6800/8ビットCPU×2台)みたいな。

 「翔んだカップル」と「フェアライトCMI」、どっちも分かる人って今の日本にどれくらいいるのかなぁ(笑)

2012/12/24

今さらながら「鋼の錬金術師」のこと。

 先のエントリで「魔法陣」という単語を使って、少し思い出したことがあったので言葉にしておこうと思う。マンガ・アニメの「鋼の錬金術師」のことである。

 「鋼の錬金術師」の最初のアニメシリーズの初回を観たのは単なる偶然である。夕食を作って何気にTVを点けたらちょうど始まった、というのが正しい。冒頭から一気に引き込まれた。「語るべき物語がある」という表現がぴったりだと感じた。ここ10年ほどで何らかの映像作品でそう感じたのは2回だけだ。放映後、近所の大型書店に文字通り走り、既刊の原作コミックス全巻を大人買いした。

 本当の衝撃は原作コミックスを読んでいる途中に訪れた。主人公の兄弟に対する周囲の人間の視線は掛け値なく優しい。そしてそれは半端な優しさではない。個人的にはマリア・ロス少尉のキャラクター造形において強く感じたが、極めて母性的かつ大きく強い(とても実際には有りそうもない)優しさである。

 著者は「荒川弘」、どう見ても男の名前である。当時私は30代後半に入ったころだったが、それなりに苦労してきた自分に照らしてもとても40才前の男にそんな表現が出来るとは思えなかった。もし「20才代の男」がこんな作品と表現をモノにしているとなれば、そいつは大の付く天才である。一度でも創作の道を志したことのある人間なら嫉妬すべき才能である。クロード・ルルーシュが映画「男と女」を製作したのが20才代後半であったことを彷彿させられた。

 実体はご存じの通り、荒川氏は女性とのことである。この事実を知った時、正直ほっとしたことを良く覚えている。女性となれば上記の「優しい視点」を作品で表現できるかどうかに年齢はほとんど関係ない。必要な人生経験と表現者としての才能があれば十分である。著者が女性だったからどうだ、と言いたい訳ではない。「著者が男性だったら異常かも」という状況に一人で取り乱していたに過ぎない。

 ただ々々作品が著者の望むように育ち、完結することを願った。

2012/12/16

「エウレカセブンAO」第23/24話で終了ですか…

 Gyaoで視聴。

 先行作である「交響詩篇エウレカセブン」は最終話でガックリの実に良い話であった。私がDVDボックスを全て持っていたりするのは色々な流れがあってのことなのでここでは置いとくとして、「エウレカセブン」には製作者側の趣味に基づく余分な情報が多かった。なぜアッシェンダでなくハッシェンダなのか、といった辺りも含めて分かる人には苦笑い、分からない人には世界観の一部を与える雰囲気としての機能を果たしていたと言って問題はないだろう。幸か不幸か、私の立ち位置は苦笑いばかりする方だった。

 「エウレカセブンAO」第23/24話を観終わっての感想は、「あぁ、今度は第22話までの7~8割が余分な情報だったか」。

 「エウレカセブンAO」については「製作者が何したいのか分からない」といった意見がネット上などで多々見られたが、「製作者が何をしたかったのか」ということについては個人的には最初のクォーツガンの発砲以降には思うところがあった。もし私の思うところと製作者の意図とが一致しているなら、「エウレカセブンAO」でのそれの取り扱い方は小説などでの一般的な物語構成方法の観点からは最初っから間違っている。というか、最初での取り扱い方が間違っている。

 つまり、「物語上は何ら機能しない意味のない余分な情報」を「舞台とする多数の世界それぞれ」に「もっともらしく大量に」与えなければ「最後が語れない」、という製作側にとっても視聴者側にとっても上手くない事態の発生である。観てて面白い筈が無いし、結局のところ主人公のキャラクター付けに重要な「最初の世界」とオーラスで主人公が飛び込んでいく「最後の世界」以外の世界の有り様には論理的な必然性がない。結局、主人公の決断、行動を方向づけるためにご都合主義的に途中の世界の有り様が選ばれるのが必然だ。また、この観点からの「トゥルース」の導入の意味は、製作者が途中の世界にディテールを与える苦労をしなくとも主人公の決断、行動を方向性付けられるという便利な機能の導入に過ぎない。主人公は「トゥルース」の言葉に耳を傾けなければならない(製作者により強制される)が、視聴者にとっては彼の語りに何の意味も無い。彼の語りには物語展開上の「そのときに必要な情報」しか含まれていないから、彼の言葉から物語上の何かを読み取ろうとしても無駄である。

 それはおそらく致し方ないことで、本来4~6話分程度のネタで24話分のストーリーを作るにはああするしかなかったというのが実態なのではないか、残念ながら。

2012/09/18

「宇宙戦艦ヤマト2199」のどうでもいい所が気になるという話

 タイトル通りのお話です。オリジナルのヤマトを知ってる年齢なのですっかりものぐさ者、本編(BD)と公式サイトしかチェックしてませんので為念。うっかり「コスモファルコンは1式」などとボケてしまわないようにチョイとググっててみたのがきっかけです。

 コスモファルコンは実は99式、2199年正式採用の新鋭機ですね。エンジンノズル形状は約200年前の古いデザインに見えなくもないですが。零式のコスモゼロと100式偵察機は2200年正式採用決定済みで、ヤマトには最新鋭機として初期生産機をとにかく搭載した、というあたりで個人的には納得。零式と100式の呼称の混在についてはここでは取り合えずスルー。あ、SC97輸送機は2197年正式採用ですね、きっと。

 で、3式実体弾。

 2103年正式採用のほとんど100年前の設計ってことで宜しいでしょうか?それならそれでも良いですけどね。「3号弾」だったらミリタリー系に詳しくない者としてはスルーしてましたが。

 ショックカノンが捻じれたり捻じれなかったりより、3式弾という呼称が引っかかる今日このごろ。