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2021/07/01

「秩序」を与える存在である限り、中国共産党の存在は人民により是とされる

  今回は紛れも無く爺の戯言。

 とある人が自著で「『民族自決の原則』なんて唱えた人がいたもんだから地獄の窯の蓋が開いた」旨の 文章を書いた。それを始めて読んだ私は、成程、と膝を打った。本日100周年を祝っている中国共産党(中共)の中華人民共和国支配がどうしてこんななに続くのか、米国はアフガニスタンをいずれ失うだろうという直観的な未来像、それらの一因を見た気がしたからだ。

 どこで読んだか聞いたか忘れたが、「中華の人々(≠中華人民共和国人民)は基本的に秩序を与えてくれる存在を求める」という言葉を記憶している。ここで秩序とは、極端な話で言えば「食えること」、つまり食料品市場に常に(塩を含む)品物が並び、屋台が商売をしていて朝食を食べたり買ったりできる状況を指す。背景には中華の長い歴史、風土とその土地の大きさが挙げられるが、直近では国共内戦の記憶もあるという。国共内戦の時代は流通は麻痺し、食うのにも困った人々が溢れた。故に、「食える状態」を与えてくれる権威的存在は無くてはならないものとなる。それが中共である必然性は全く無いが、逆に中共ではダメな理由も無い。

 国共内戦後、中共は支配地域に秩序を与えた。支配地域内の人々の多くはその秩序を受け入れた、或いは受け入れることを自ら決めた。共産主義を嫌ったり、国民党を支持したりと様々な理由で中共の「秩序」を受け入れなかった人々の一部は香港や台湾へ逃げた。今は無き香港九龍城が生まれた一因である。

 このような視点に立つと、亡命した元中共エリートが「共産党は張り子の虎であって、時を待たずして自壊する」と語ろうと、その発言は説得力を著しく欠く。ほぼ間違いなく、発言者は「秩序を求めた経験」を持たないか、家族や地域に記憶されている「秩序の渇望」を忘れている(場合によっては、何らかの意図をもってそこに触れない可能性もある。反中共メディアもプロパガンダ機関の一面を持つことを忘れてはいけない)。現在の秩序を受け入れている人々にとっては、一時的であっても現在の秩序が失われるようなことがあるならば、中共の自壊なんぞ望まないだろう。

 故に、自壊をも含む中共の崩壊や消滅は、「秩序」を与えてくれる別の存在が明確な状況でなければ、現在の中華の人々には受け入れられないし、求められもしない。歴史的に見れば別の存在たり得るのは侵略民族による王朝や宗教団体なのだが、前者は国民党への浸透、後者は徹底的な弾圧でそれらの台頭の芽を中共は徹底的に潰してきている。中共の抜け目の無さが際立つ点だ。

 他方、実のところ堅牢な官僚機構を既に確立した国家は、政変に対する「秩序の維持能力」が高い。ソ連然り、第二次大戦後のドイツ、日本然り、フセイン・イラクの官僚機構を引継いだダーイシュ然り、そして現在の中華人民共和国も然りだ。法輪功弾圧を苛烈にした大きな原因として、個人的には高級中共官僚への急激な普及があったと見るが、そう見る理由は説明不要だろう。ただぺーさんが指導者となってから、次期及び次々期指導層級の高級官僚から優秀な者が腐敗撲滅を名目に多数排除された。これは大きな禍根を残す可能性を秘めている。すなわち、中華人民共和国が人民解放軍もろとも中共から官僚機構のみ奪うようなことがあっても、その官僚機構を動かせる能力を持つ人間は収容所を門を開ければ直ぐに大量に手に入る状況にある。

 米国の政治学者の中国観のズレにはやはり宗教が影響している。学者とは言え、自身の信教の世界観からは逃れ得ない。特に米国はプロテスタントどころか、より原理主義的なキリスト教徒も少なくない。これらキリスト教が個人に求めたり、個人が備えているとしているものを、キリスト教徒ですらない中華の人々が有していると期待してはいけない、同じ考え方はしないのだ。むしろ「自由より飯」という価値観の存在を忘れてはいけない。また、「秩序」は常に「今」求められていることも忘れてはならない。大躍進運動による実質的な中共による中華人民共和国人民虐殺は、例え皆が改めて知ることになろうとも「過去の話」でしかない。

 かくて私自身は「中共自壊論」には懐疑的であり、それが起きても誰も得をしないようにしか思えない。いや正確には、気軽に「中共滅ぶべし」と言えないということになろうか。

 アフガニスタンにも類似の構造を見る。米国介入前のタリバンの勢力拡大の原因をどこに置くかだが、私の考えはやはり「勢力圏内に秩序をもたらした」からだ。 タリバンの勢力圏内ではかなり厳格にイスラム法が適用、運用された。その結果、域内住民の生活には主に禁欲的な方向でかなりの制約が加わったが、同時に犯罪行為は徹底的に摘発、犯罪者にはイスラム法に従った厳罰が加えられた。賄賂は機能しなくなった。結果、域内住民は不合理な金品の支払い要求を含む犯罪行為や性的なものを含む暴力行為におびえる必要がなくなった。これも一種の秩序が与えられた状態ではなかろうか。

 現在のアフガニスタンの政体は、部族間対立、宗教宗派間対立を背景に、金や利権も絡んだ勢力争いの常に変化するスナップショットのようなものにしか見えない。国内の「秩序」の担い手として機能していないし、その意思も無い。首都近郊の治安(≒秩序)は米軍が、地方の治安は再び台頭してきたタリバンが担っているのが一見したところの現実だ。故に米軍の撤退後は、タリバンに再び国内全域が支配されるだろうと信じて疑わない。少なくともベターな選択として、住人達がそれを望むだろうからだ。

 で、ハマスとファタハの人気の差の原因は? 同じ考えが適用できるように思う。ハマスは兵力はもちろん、官僚機構に基づくコンパクトな地域統治能力を有している。影響下の地域での経済活動や医療活動などを可能とするのだ。だからと言って現時点ではハマス礼賛などできはしない。軍事抵抗組織を起源とするファタハの主な収入は、その初期においては国や王族を含む反イスラエル勢力からの援助資金であることが顕著だった。一方、ファタハの軍事資金の多くは影響地域での経済活動に負う。ファタハは影響化の地域住民に等しく「秩序」を与えるが、それが戦闘で消える費用や命の供給手段でもあることは明確だ。

2016/05/08

「不戦」が「戦略文化」な訳が無い

  国際関係論の枠組みにおける戦略論と言えばエドワード・ルトワック氏が有名、でもこれまで何故か彼の著作物は読んだことがなかった。文春新書「中国4.0」は氏へのインタビューを編集、翻訳したものなので厳密には著作ではないのだが、他者による編集作業が挟まっている分だけとっつき易くはなっているかもしれない。本質的なものが抜けちゃうかも知れないので、内容についてはここで安易にまとめることはしない。興味があれば是非一読をお勧めする。

 個人的には特に目新しい事は書かれていなかった。とは言え、幾つかの便利なキーワードが得られたのは重要だ。例えば、「海洋パワー」とか「戦略文化」がその例だ。どちらも概念としては存在していたが、(専門家はさておき、職場の喫煙所などでの素人の会話においては)広くコンセンサスが得られたそれら概念を直接指すタームは無かった。今後は「ルトワック氏の**」でOKにできるということだ。

 一国、または同盟国家群の海軍力を指すタームとして「シーパワー」があるが、このタームは主にハードウェアや人員の質、量で規定される海軍力を指す。対して「海洋パワー」は「シーパワー」を包含する概念だ。ポイントの一つは、「シーパワー」はその概念外の因子で無効化され得る存在であり、「海洋パワー」はそれら因子までも含んだ概念であるという点だ。

 最盛期の大英帝国は地中海の出入口であるジブラルタル海峡とスエズ運河を抑えた。これにより地中海内の敵対的な「シーパワー」が如何に強大であっても、地中海から出られないため大英帝国の海岸に近づけないという一点で実質的に無効化されているに等しい。ロシアは不凍港を常に求めてきた。米海軍は太平洋の両岸だけでなく大西洋にも.活動拠点を確保して手放さない。これら歴史的経緯は「海洋パワー」の概念からは至極当然の帰結となる。また、「負担なければ在日米軍撤退」といった暴言王時代のトランプ氏の発言の不毛さ具合や、「偉大な米国の復活を目指す」という発言との矛盾も、「海洋パワー」(エア・シー・バトルを念頭に置けば空も含むことになるのだろうが。)の考えに基づけば明確だ。

 「戦略文化」の概念はサクッと説明するのは難しい。ルトワック氏は「近現代線においてドイツが負け続ける理由」の一つして「ドイツの戦略文化」を挙げている。「戦闘の勝利を戦争の勝利にきっちりと結びつける文化がなければ結局戦争には勝てない」というような話だ。

 さてそんな「中国4.0」だが、編集・訳者による解説に目を通してがっくりしてしまった。編集・訳者は戦後日本の「不戦」姿勢を「戦略文化」またはそれに準ずるものとして解説内で触れている。私に言わせれば戦後日本のそれはイデオロギーもどきに過ぎず、文化なんて呼べるようなものではない。「この編集・訳者は大丈夫か?」と正直思うとともに、「状況は未だ相当マズイなぁ(具体的な内容は察して欲しい)」との思いも再確認することになったのが正直なところだ。

2014/09/20

「誅韓論」、読了

 読了、と言うか良い意味で分かり易い本なので、昼過ぎに買って1時間ちょいで読み終えた。

 当ブログでもファンタジーとしての半島統一について記した事がある。このファンタジーでは第二次朝鮮戦争は米中日露の出来レース、あっと言う間に片付いて統一朝鮮は中国の柵封体制下に入るというものだ。米国参加は半島非核化が絶対条件であるが、その実現には中国の同意が必要だ。さらに中国もその政策に対して人民からの支持をある程度は得る必要があるし、中国が出来レースに関わっていないというアリバイも作らなければならない。故に、北朝鮮の中国寄り勢力は弾道ミサイルの一発も中国に向けて打っておかなければならない。

 要は「彼らに核は持たせちゃ駄目」というコンセンサスがその出来レースを可能とする、という見立てだ。

 「誅韓論」の内容は、第二次朝鮮戦争勃発前に一方の国を疲弊させ、むしろ第二次朝鮮戦争勃発のおぜん立てを日本が「して差し上げるための御品書」みたいなものだ。実現可能性については「?」とさせておいてもらおう。できる、とはそう簡単には言わないよ、言わない、絶対言わない、やって欲し・・・いやいや。でも、こうもあからさまに書いちゃうのは、それらをやりたい、実はやろうとしている人達にとっては手の内を明かすみたいでマイナスでは?という気もする。でも出てしまった以上、多くの日本人に読んでおいて欲しい気もする。

 竹島の件はサプライズ的に狙ったタイミングで、と思ってたけど、サプライズ色は本書の登場で無くなっちゃいました。ちょっと残念。

 「有事対韓三原則」の"法制化"は、個人的には新視点。先のファンタジーでも日本の行動はほぼ「有事対韓三原則」に従うものだが、戦後処理に関してはやはり私のファンタジーの何十倍も現実的だ。あと、周辺事態法についてはもう一度真面目に読まないと・・・

2014/08/15

クリスティアン・アングラオ著「ナチスの知識人部隊」読了。

 博士論文に筆を入れたものとのことで、読み物としては重い。

 テーマはナチス政権下でのドイツの東方進出の正当化に重要な役割を果たし、さらに東方進出後には行動部隊(虐殺も行うことになる)の指揮にも関わった博士を含む大学出身者の行動、言動である。内容についてはちょっとやそっとでは纏め切れないので具体的には触れないが、まずナチズム有りきではないこと、第一次世界大戦の敗北~戦後の混乱期が当時のドイツの学生の目にどう捉えられていたか、どう彼らの思考に影響したかという視点が特徴の書と言える。第一次大戦で一部ドイツ人が感じた「民族絶滅の危機」が如何にその後の行動の正当化と繋がっていくか、そしてそれが実は姿、主体を変えて繰り返され、現在もなお繰り返されつつある、という視座を読んだ者に残すだろう。つまり本書は意外にもナチズムを扱ったものではない。が、ナチズムと総称されるものの一部、かつナチズム無しでも存在できたひとつの思想、の正体を明らかにしている。それ故に恐ろしくもあり、示唆に富む内容となっていると思う。

 もし太平洋戦争敗戦時に「国体」が外科的に解体されていれば、日本でも一周遅れで起きたかもしれない、と覆わせる部分も多々あるやに思う。

 少し脱力してしまったのは翻訳者のあとがき。無用な修辞を不用意に使ったせいで、まるで本書を読まなくても書けるような奥行きの無い内容となっている。うっかりあとがきだけ読んで「つまらん」などとは思わぬように、翻訳はきっちりとしたものです。

2014/07/16

自衛隊、フランス革命記念日の軍事パレード参加のニュースでちょっと思ったこと

 本日も止めどなく。

 7/14にパリで開催されたフランス革命記念日の軍事パレードに、陸上自衛隊が初めて参加した。これはフランスに招きによる。日本(当時は大日本帝国)が第一世界大戦で日英同盟に基づいて連合国の一員であったことが理由だそうだが、この種の歴史的事実は国内では十分に周知されているとは言えない。私見だが、歴史的事実を取捨選択した時点で、「歴史観」は「自由に対する絶対悪」である。

 まず、「集団的自衛権の行使容認」が「他国の戦争に巻き込まれる可能性を高める可能性」について。上記の第一次世界大戦の件を踏まえると、確かにその可能性は否定できない。しかし、それは「集団的自衛権の行使容認」とはいったん切り離すのが論理的な姿勢というものだ。むしろ考えなければならないのは、「同盟の有効性」或いは「同盟のメリット・デメリット」である。

 第一次世界大戦というのは発端に関しては不思議な「大」戦争で、 民族主義者によるテロに端を発する。つまり、元々国対国の話ではないのだ。が、「テロ実行勢力が存在する国」に対して「国が宣戦布告して」以降、複雑な同盟のネットワークによって論理的帰結としてドミノ倒しの如く自動的に列強各国は2大勢力に分割されることになった。そして、極東の島国も同盟に基づいて参戦することになったのだ。

 第一次世界大戦前の同盟はいわば平時の同盟、特定の国家群が特定の国家を封じ込めるべく構成されたものである。後で出てくるからもう書いちゃうけど、封じ込めの対象国のひとつはドイツ(当時はドイツ帝国)である。 ドイツは露仏同盟で東西を挟まれていたため、ロシア或いはフランスが戦争準備を始めた時点で軍事行動を開始することを事前に決定していた。その状態で、ロシア(当時はロシア帝国)が参戦した。ドイツは当初の計画通りにベルギー経由でのフランス攻撃を開始、ベルギーと同盟関係にあった英国が参戦、で日本も参戦という具合である。

 同盟というのは戦争勃発の抑止力ともなるが、同時に戦争勃発後は強制力を持つ。だから、「同盟が他国の戦争に巻き込まれる原因となり得る」という言説は正しい。「集団的自衛権の行使容認」と「他国の戦争に巻き込まれる可能性を高める可能性」とが繋がるためには、例えば「同盟」といった別の因子が挟まる必要があると考えるのが妥当だ。

 「論理の飛躍」と「思考停止」は端から見ている限りはほとんど区別できない。が、それ故に相容れない意見の衝突にあたっては、論理的な対話が必要だ。むろん「話せば分かる」なんて言いたい訳じゃない。○○、××、嘘つき、ナルシスト、STAPな人などを選別せよ、ということだ。

 強国を間に挟んだ同盟は危険、これが私の認識だ。結局、軍事的な同盟はNATO(北大西洋条約機構)やかつてのワルシャワ条約機構といった多国間、地域的同盟に移行した。本来は国連がそのような機能を持つことが期待されるのだが、常任理事国の構成や事務総長の無能ぶりから全く期待できない。

  次いで、ドイツ。私の把握している限り、現在のドイツにあっても反日の素地がある半面、親日要因はほとんどない。むしろ、ドイツは歴史的には反日国だろう。近代に限っても、第一次世界大戦で戦火を交えている。第二次世界大戦だって「アーリア人種とは無関係」な日本人なんかナチスから見ればどうでも良い存在だったろう。挙句の果てにはロシア、満州経由の欧州から米国へのユダヤ人脱出を日本は軍、国を挙げて支援している。中道はともかく、右派、左派ともに反日か、親中親朝鮮(結果として反日)だ。

 第一次世界大戦参戦後、日本は東南アジア地域のドイツ領を引き継ぐという密約を他連合国から得た。密約の見返りとしてか、海軍は輸送船団護衛に艦隊を地中海に派遣、潜水艦との戦闘などで戦死者も出している。このとき、海軍は東南シナ海、太平洋南部、インド洋、地中海と非常に広範囲に展開している。一方、陸軍の欧州派兵は「国益に直接関与しない外征に参加させることはできない」と最後まで拒絶した。

 「国益」という言葉は、「国体」と並んで戦後しばらく忘れられていた言葉である。言語に頼らない純粋な非言語による思考、それが可能かを疑う人は新しい哲学用語が次々と現れることの意味を考えて欲しい、は実は結構難しい。これは「非言語による思考ができないのは駄目」と言いたいのではなく、「思考内容が言語によって制限されることがある」と言いたいに過ぎない。つまり「国益」という言葉と、その言葉が指す概念が忘れらた状態では、「国益」に対応する概念の「言語化」に無駄なエネルギーを注ぐことが不可避となる、ということだ。時間が有限な中で、それは極めて効率が悪い。

 おそらく現在の「国益」の大まかなコンセンサスは、「国民の生命、財産を守り、国体を維持する」だろう。前者についてはほとんど異論はないだろうが、後者については色んな考え方があって良い。現在の日本において、思想、信条、さらに心情の自由とその発露は基本的に許されている。

 「集団的自衛権の行使容認」は確かに戦後日本の政治的、軍事的転換点と言えると思う。が、真に実効的(practical)な部分は、それに続く「国益」乃至は「それに対応するもの」と「同盟の意味」を考え、言語化して定義し、実行することにあると思うのだ。