最近リメイクされた「ロボコップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」などの作品で知られる映画監督、ポール・バーホーベン氏がハリウッドを去ってから久しい。
バーホーベン監督の飄々とした作風は一筋縄でなく、ハリウッド的な分かり易さ、ストレートさとは基本的に肌が合わなかったのではないかと思う。職業監督ならば「白く撮れ」と言われれば白で、「黒く撮れ」と言われれば黒で撮るが、氏の場合は「確かに白で撮れと言ったが、これは本当に白なのか?」と言われるものを撮ってしまうというイメージだ。如何にも欧州風とも解釈されがちな作風ではあるが、ドライさ加減が半端じゃなく、やはりはみ出してしまっている様に思う。
書籍"The making of STARSHIP TROOPERS"を読むと、そのドライさの原因の一端も見えてくる。
氏はオランダ出身だが、氏が幼少期のオランダはナチス・ドイツ占領下にあった。そのため、道端に遺体が転がる様など、平均的な日本人ならば映画の中でしか目にしたことがない光景を幾つも目にしたという。「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグ達に惨殺された民間人や兵士の描写や、「ロボコップ」における「人を銃で撃ちまくる」、いや「銃器で人の身体を破壊していく」描写などで感じられるドライ感は、氏が類似の光景を目撃したことがあるためかも知れない。死や「人が人の身体を破壊していく」様をウェットなものと捉えるのは単なる約束であり、送り手と受け手の共犯関係によって「実は今だって世界で起きてるかも知れない事を見て見ぬふりしている」だけなのかも、などと思いは跳ぶ。
現実はそんなもんじゃない。常に白なんてない。常に黒なんてこともない。ならば、そう撮って何が悪い。そんな声が聞こえないか。
映画「ブラックブック(Zwartboek)」(2006)は氏のオランダ帰国後の最初の作品だ。舞台はずばりナチス占領下のオランダ。登場人物はストーリーの進行とともにに白から黒へ、また黒から白へと目まぐるしく変わる。それは、登場人物の誰もが常にグレーなのに、その時その時に白か黒かの二分法でしか観客が登場人物を捉えていないことの裏返しなのかも知れない。氏の一筋縄でないところは、そのような二分法による判断を登場人物にも求めているところにある。容赦なく緊張感のあるフィルムだ。だが後味はすこぶる悪い。
「人が人の身体を破壊していく」という行為の結果は、氏の作品にあっては時に寒々しく、祭の後のような寂しさすら帯びることがある。「人が人の身体を破壊していく」行為が常に「悪意」から生ずるものなんて認識で、今日を生きることが許されるものだろうか。その逆もしかりだ。
氏は私と同様に「熱狂」を恐れているのかも知れない。他者の「熱狂」を警戒し、自らの「熱狂」を抑え込む。
映画「スターシップ・トゥルーパーズ」は「わざとらしい熱狂」で始まり、やはり「わざとらしい熱狂」で終わる。だが、登場人物達は成長し、そのような「熱狂」に利用されるつつも、もう自らはその「熱狂」には加わらないだろう。原作者のハインライン氏も「熱狂」を恐れていたのではないか、「熱狂する庶民が大多数を占める状況での民主主義」を恐れたのではないか。「責任ある市民」は、決して「熱狂」には加わらないことが求められるということではないか。
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