今日、某国のイージスさんが「【お詫び】ご迷惑をお掛けして御免なさい」というタイトルの動画をアップした。この動画の内容やコメントに対しては色々思うところがあったので、その一部なりとも書いておこうと思う。
かつてこのような言葉を本で読んだことがある。
「最大級の怒りは抑制される。」
「本当に怒っている人は他者からは怒っているように見えない」という意味だ。
「心の底から怒っている時ほど人間というのは冷静に見える」ということで、一つの解釈は「怒ることに明確な理由があり、それが自覚され」かつ「自分の中の倫理規範に照らして、その怒りが妥当であると判断できた」状態での怒りは本物だが、そのような過程を経ているが故に外からは冷静に見えるというものだ。「カッとなって」なんて表現される怒りとは本質的に違うものだ。
実は「本当に怒る」ことは難しい。
「その怒りが妥当か?」という疑問を常に自分に問いかける癖をつけると、私の場合はまぁ90%ぐらいの怒りは消えてしまう。あくまで主観だが、某国のイージスさんの動画は全般的にこの種の「抑制され、厳選された怒り」に基づいているように思う。それに加えて自分の声で語られることが某国のイージスさんの動画をより魅力的なものにしていると思う。
では「本当の怒り」はどのように表現されることになるのか?
私の場合はほぼ「笑い」で表現される。文字通り笑ってしまうのだが、ここで止まってしまうのがおそらく私の限界かと思う。表現者たる者は、その怒りを例えば「『ユーモア』に昇華」し、「怒りの本質」を他者へ伝える。歴史的にも「本物の怒り」が「ユーモアの形」で表現された例には事欠かない。しかもその「ユーモアが内包する切っ先の鋭さは半端じゃない」ことが多いものだ。
「風刺」とは本来そういうものだろう。余りの切っ先の鋭さを前にして笑うことしかできない、というのが本当の風刺じゃないか。「風刺」を「風刺」たらしめるには送り手と受け手の共犯関係が必要だ。送り手も受け手も「ユーモアの形で表現された怒りの背景を知っていなければならない」、「ユーモアの形に置き換えられた怒りの本質を理解していなければならない」。が、風刺にあっては「怒りの本質を決して口にしてはいけない」。
ナチス台頭期のナチスに対する新聞風刺画の容赦の無さ、秘めた切っ先の鋭さには驚くものが多い。が、それらが風刺する先がどれだけ読者に伝わっていたかは心もとない。昨今の新聞やTVの風刺画のユーモアレベルの低さは、むしろナチスの「分かり易く、聞き手の耳に心地よいことを伝え、上げ足取りも辞さない」プロパガンダ手法に近い。共通項のひとつは「結論ありき」であり、それがどのような結果をもたらすかは現在進行形で体感できているだろう。私にとってはマスコミの
「風刺の形態をとった上げ足取り」は苦痛でしかなく、「世論操作」の意図を勘繰ってしまう。かつての幾つかの戦争が世論と新聞の強力な後押しによって引き起こされたという点は、多少なりとも歴史に興味のある人は否定しないだろう。
某国のイージスさんの件の動画に戻ろう。これは「怒りそのもの」ではなく「怒りの本質を口にしている」という意味で「風刺」ではない。だが、「怒りの本質が語られる」が故に「抑制され、厳選された怒り」の内容、切っ先の向かう先は明確だ。一部コメントがその辺りの機微をすっ飛ばしてテンプレ的なのがとても、と~っても残念ではあるのだが、ここは某国のイージスさんの「おっとなー」ぶりを見習って欲しい。「レベルにばらつきがる状況下」では、揃えていくべきレベルは高い方であって低い方でない筈だ。そうやって皆で「おっとなー」になっていこうじゃないのさ。
さて、「『ゴキブリ』の例えに対するKさんの反応」については、やはりいったん一歩引いて捉える必要がある。
- 単に上げ足取りである。日本において「ゴキブリが一匹いれば…」は単に「氷山の一角」と同じ意味の定型表現だ。しかも「氷山の一角」という表現であってもポジティブなニュアンスはない。これを知った上で「ゴキブリ」の部分にだけに反応したならば、それは確信犯的な上げ足取りに過ぎない。
- 「ゴキブリが一匹…」という定型表現があることを知らない。これは一種の文化の衝突だ。ただし、「ゴキブリに例えられることがネガティブな意味を持つ」文化に属していない人はそういう反応はしない筈だ。「ゴキブリって何?」では例えそのものが理解できないからだ。
- あはははははは、これは書いちゃいかんよなぁ。何も言い訳効かんもんなぁ。
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