2014/06/21

「情」の復讐、「理」の復興、「利」の新興

 大部分の日本人には「情にほだされる」ところがあるでしょ。これは無用な軋轢を避けるための文化的な知恵だと思う訳です。

 で、次が問題で、「情にほだされる、が成り立つのには同じ文化的価値観、または文化的に双方が共通の解釈に言外に至り、かつその解釈を相互に尊重する」ことが大前提となる。そう考えると、「情にほだされる」ということは「共犯関係を結ぶ」と見做すこともできる。

 もう一つ。大部分の日本人は嘘を嫌う。嘘つきを嫌う。しかしながら、「情」や「理」の下で「清濁併せ呑む」、「嘘も方便」という言行を敢えて取る場合もある。相手がある場合、これも一種の「共犯関係を結ぶ」ことと見做せると思う。ただし、「嘘に嘘を重ねる」ことは倫理的には批判の対象となる。なぜなら、その共犯関係は「成立した直後に意味を失う、成立したこと自体にしか意味がない」、持続的なものではないからだ。「水に流す」っていうのはそういうことじゃないですか。

 さて、百歩譲って「共犯関係」が持続的なものとしても、相互に利益がなければそれは維持できない。「利」が「情」、「理」と並ぶ第3のファクターとなる。

 そもそも相手側に「共犯の意識が無い」となれば、実は「共犯関係も成立していなかった」となる。これは某談話の顛末にも重なる部分があろう。いや、当初は「共犯関係も成立していた」のかも知れないが、少なくともその時の「精神」は一方的に既に捨て去られている。ここで言う「精神」とは「『遡及』しない」ことである。日本にとっては「利」がないばかりか、そのような状況を甘受しなければならないという「理」もない。

 ちなみに、某基本条約は日本人と元日本人との間で結ばれたとも見做せる要素に事欠かない。ならば、当時は「共犯関係」が成り立っていたのかもしれない。ただし、この場合は「共犯関係」の破棄或いは国の変節が「時の為政者の信じるイデオロギー」などに依存した「意図的なもの」か、「世代交代に際して引き継ぎ為されなかったという怠慢」といった「国際関係上の最低限のルールを守れなかった」ためか、「国策としての反日教育などの結果として国家として一種の心身喪失状態に陥った」ためか、等々をきっちり考察、言語化し、今後は日本としては同様の事案への自衛措置を先手先手で具体的に国内外から見える形で打っていかなければならない。ネットで良く見られる表現、「詰む」はまさに結果である。ここで必要な「理」は「一貫性と客観性」であり、自国の失敗や非も含めた「コンテクスト(文脈。そこに至る経緯、背景)」の明示化が要求される。

 現在の某国との軋轢の原因の多くは、日本側の「情」に端を発す。そして、某国は日本側の「情」に基づく共犯関係、すなわち「最初の小さな嘘」を都合良く利用し、「嘘に嘘を重ねる」ことで日本攻撃を強化し続けている。「理」にあっては、一方が「共犯関係」を逸脱した時点で少なくとも一方の「利」は失われている。

 「情」には「情」をもって返す。

 「嫌×」などと表現される現在のフェーズであり、これは非可逆的な「情」の復讐と言える。いくら日本人がお人好しでも、そう簡単にはもう覆らない。それを表に出すか出さないかに関わらず、本質的な嫌悪感を伴うからだ。ただし、例えば「アレはアレ、コレはコレ」という「理」による「情」の復讐の発露の制御は、一種の民度として維持しないといけない。

 個人的には、福沢諭吉「脱亜論」は「朝鮮半島、支那を『情』をもって接する対象の埒外に置くことを宣言した」ものと理解している。つまり、「情」の復讐の向かう先は「情の排除」となる。「愛の対義語は無関心」みたいなもんだ。「情」における「某国の甘えに対する寛容」は今の日本にはほぼ失われつつある。結果として、日本国内の「某国の甘えに対する寛容」は今やイデオロギーのコンテクストでとらえられる傾向が強くなるばかりである。更に言葉を重ねれば、そのイデオロギーの齟齬、誤謬が既に「理」の視点から明確となっている場合、言行がイデオロギーのコンテクストから解釈されるということはその行為者の「無能認定」と等価である。

 「理(無き)」には「理」のみで返す。

 「最初の嘘」を「嘘でした、と表明する」ことであり、これも現在のフェーズだ。「情」に溺れぬ「理」の復興と言える。コンテクストを理解できる人間なら、この表明が言外に含むメッセージは明確だ。が、某大国は相変わらずである。日本が用意したのは踏み絵というより地雷、或いは「無能検出器」に近いと言える。

 政府レベルの国際関係では「情」は不要、本来は「理」と「利」で十分ということが露わになったと言えまいか、少なくとも某国に対しては。本意でも愉快でもないけどね。

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