2014/09/05

甘えはどこまで許されなくなるだろうか?

 「堪忍袋の緒が切れる」という状態の発生とその後の日本人の行動は、いわゆる日本人文化圏に属していない人間にはまず理解できないだろう。「察しと思いやり」は緒が切れた側、緒を切った側にとっても重要だ。「我慢する」或いは「許す」、逆に「どこまで我慢してもらえるか」或いは「どこまで許してもらえるか」の両者の衝突は、結局のところ両者に同等の「察しと思いやり」が共有されている限りは極力回避される。持つ者にとっては比較的確固たるものでありながら論理的とは言えない一種の「良い塩梅」は、それらを共有しない人間からは理解不能のグレーソーンだろう。

 日本人において美徳とされる行動規範は、「許してもらえなさそうだ」という状況の到来をまず「察し」、原因となった自分の言行に思いを馳せ、自らの言行を変えるとともに必要に応じて謝罪も行うことである。これを上手くやり遂げれば、「あいつ分かってんじゃん」とばかりに「思いやり」によって許され、むしろ評判が上がることもあり得るだろう。かくして「察しと思いやり」のサイクルは一回転し、許し許されの関係はより高次のものとなる。

 さて、「察しと思いやり」が共有されている事を前提にすると、「察しと思いやり」を共有していない人間の言行は曰く理解し難い。だが、それは「理解不能」というより「甘え」に見える。つまり、他人の「察しと思いやり」に頼りながら、他者を許さずに件のサイクルを回さないからである。

 と、大風呂敷を広げたところで言いたいことの一つめは単純だ。

 おそらく多くの日本人は「当たり前すぎる」故に直観的に気付いているだろうこと、「韓国や朝日新聞社は甘えているとしか見えない」ということである。彼らは「今まで許してもらえたのに、何故突然に許してもらえなくなったのか(厳密には、実害がない限りは『思いやり』により見て見ぬふりをしてもらえていた、ということだろう。だが、見て見ぬふりをしてもらえていたことを『察して』いることが暗黙の前提だった訳である)」という状況の発生に未だ戸惑っており、かつ「許してもらうためにはどうあるべきか」という思考にすら至ることができないのではないか、ということだ。「察し」の前提を著しく欠いていたとしか見えない朝日新聞社の行動が異常と捉えられる原因はそんなところにあるように思える。「日本人じゃなかった、そして日本人じゃない」とでも考えないと、彼らの言行は「心情的」にも「論理的」にも全く理解できないのだ。以前のエントリにでも触れている通り、韓国に行ったきりで日本に戻ってこなくなった人の方が「日本人的な察し」を有している可能性が高い、という点は実に皮肉な話だ。

 で、言いたいことの二つめは「察しと思いやり」の範囲の見直しの「可能性」だ。

 現在の日本の政権は「韓国や『察しと思いやり』を共有していない人間の『甘えに見える』言行をこれ以上許さない」という立場を明確に選択したと考えて良いだろう。またその選択は多くの日本人からも支持されているようだ、少なくとも現在までは。かく言う私も大枠において支持している(内政、特に経済政策には多くの疑問がある。が、それらはむしろ担当大臣と一部官僚に原因があるように見える。いくら優秀な総理大臣であっても、内外の敵対勢力を同時に相手にすることは困難だ)。

 ただし、この方向性の延長線上には、「察しと思いやり」を共有している人間の「これまで許されてきた甘え」に対する不寛容(イントレランス)の発生の可能性がある。ここでのキーワードは「性善説」だ。グレーゾーンが広い「察しと思いやり」や「弾力的な法制度運用」が法治国家の枠組みの中で成り立ったり、大多数の日本人に許容されてきたりした重要な理由が「性善説」にあると考える故だ。

 ネット時代の恐ろしさは、「性善説」故に許されてきたと誤って広く「察されていた」事案が、実は「制度の悪用」或いは一部勢力が「暴力乃至半暴力により強制的に獲得した利権」、であることを示す情報があふれていることである。事案個別に対策を打てるなら問題ないが、ある程度の類似の事案を一気に是正しようとすると、おそらく「性善説」をいったん停止しなければならない。「察しと思いやり」と「性善説」とが微妙に絡んでいる以上、その時には「察しと思いやり」もダメージが避けられない。

 「性善説」に立てば、是正の結果は「弱者を救うべきシステム」は「本当の弱者しか救わない」ものに生まれ変わるだろう。手垢の付いた表現が許されるなら、本来あるべき「社会正義」が実現できることになる。だが例えそうなったとしても、一度ダメージを受けた「察しと思いやり」は幾ばくかは変質せざるを得ない、良し悪しは別として。

  「察しと思いやり」の棄損を極力避けるひとつの方法は、「日本人文化圏に属するかどうか」よりも緩い条件、例えば「日本国民かどうか」で境界線を引くことであり、実際に引かれ始めた境界線だ。これは法的解釈の範囲で対応できるし、グレーゾーンが無く境界が明確故に合理的でもある。が、何気に「性善説」に基づく「察しと思いやり」を守るために「察しと思いやり」が発動している、という気がしてならない。

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