どう言おうが書こうか変わらないことがある。謝罪しようとも変わらないことがある。
もう一度、「加害者責任も併せてお忘れなく」。
もう一度、「加害者責任も併せてお忘れなく」。
「誤報を認めた」ことは分かったから、早く「ねつ造」に対する見解を出して欲しい。まさか「ねつ造」=「誤報」とか、日本語としても論理的にもおかしい究極的に手前勝手で他者を馬鹿にした「認識」なんてしてないよね。あと、吉田証言、吉田調書の誤報の訂正記事の英語(米語)、韓国語、中国語(簡体、繁体)での海外発信を早くお願いします。日本版デジタルの英語記事じゃ駄目、ニューヨークタイムス記事でも駄目(もうその手はばれてますから、ソースロンダリングやっても無駄)。
朝日新聞社説、どこまで甘えれば気が済むのやら。
論じることの原点を心に刻んで
2014年9月13日(土)付
朝日新聞は、戦後に例がない大きな試練を自ら招いてしまいました。
一昨日、木村伊量(ただかず)社長が記者会見し、福島原発事故での「吉田調書」をめぐる誤報や、慰安婦報道での間違った記事の撤回の遅れなどを謝罪しました。
「吉田調書」は、社説でも取り上げ、全面公開を求めました。その中で、誤報だった記事に基づいて「所員の9割が命令に反して10キロ余り離れた別の原発に 一時退避」や「所長の指示・命令が守られず」という表現を使いました。社説を担う論説委員室として、読者や関係者の方々にかさねて深くおわびします。
また、慰安婦報道検証や、それについて論評した池上彰氏のコラム掲載見合わせも、重い問題だと受け止めています。
私たち論説委員は、社説などの欄で、あるべき社会の姿について主張をし、ときに人や組織を批判する役割を担っています。
しかし、その土台を大きく損なってしまいました。どんな主張をしても「お前にそれを言う資格があるのか」と厳しく問われるからです。
私たちはその批判と誠実に向き合い、読者の信頼回復に努めなければならないと感じています。そのうえで、論じるべきことを論じるのは依然として自分たちの責務だと考えます。
■反証と異論に謙虚に
読者やほかのメディアから、たくさんの批判をいただきました。一番重く受け止めなければならない指摘の一つは「自分たちの主張に都合の良いように事実を集めたのではないのか」だと思います。
日々、論じることを仕事としている論説委員も、つねにその危険に近いところにいます。
論を紡ぐ過程で、主張への反証となる事実への謙虚な姿勢を失えば、それは空論や暴論となります。また、そこに陥らないようにする上で、あるいは自分たちが陥ってもそれを批判する視点を読者に確保する上で、大切なもう一つのことは、異論に紙面を開く姿勢にほかなりません。
朝日新聞はそのためにオピニオン面をとりわけ重視し、社説とは異なる論も含めた多様な意見を掲載することに力を入れてきました。それだけに池上氏のコラムの掲載見合わせは、自分たちが一番大切にしていた価値を損ねる結果になりました。
慰安婦報道の影響については、今後、第三者機関で検証を進めてもらいます。ただ、たとえば1997年に一度検証をしながら、吉田清治氏の証言を虚偽だと断 定し記事を取り消せなかったのは、反証となる事実や異論への謙虚さが欠けていたからではないかと自問せずにはいられません。
■議論をゆがめた誤報
朝日新聞が8月、自身の慰安婦報道の検証を紙面に掲載したのは、慰安婦問題を直視するには、過去の誤った記事が妨げになっていると考えたからです。
かつての報道を明確に取り消さないかぎり、「朝日の慰安婦報道問題」が前面に出てしまい、本来の「慰安婦問題」が背後に退いてしまう。朝日報道への批判と ともに、議論がナショナリズムの対立に大きく傾く。日本で嫌韓本がはやり、韓国の団体は慰安婦の像を国内外に建てる。お互いに挑発する不毛な応酬。その結 果、被害者の救済という一番大事な問題の解決が置き去りになっていく――。そんな状況を打開したいと考えたからです。
にもかかわらず、原発事故に関する「吉田調書」の誤報で再び議論の核心をゆがめかねない同じ過ちを繰り返してしまいました。原発問題という大切な議論をしなければいけない言論空間に、「朝日の原発報道問題」というもう一つの問題を作ってしまったからです。
■論じ続ける責務
私たちは、慰安婦問題の本質とは、戦時下の女性の尊厳や人権であり、取り組まなければならないのは被害者の救済や日韓の和解であると主張してきました。
また、吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています。
その意味でも、慰安婦問題や原発問題の議論が、自らの失態で後方に退いたり、ゆがんだりしたままにならないように論じ続けることは、私たちの責務だと思っています。
もちろん、論じることを読者に説得力を持って受け止めていただくためには、反証となる事実や異論に謙虚になるという原点を改めて心に刻まなければならないと痛感しています。
その自覚をもって、今の日本にとって重要な数々のほかの課題についても、私たちはこれからも社説などを通して言論人としての使命を果たしていきます。批判に耳を傾けながら、多様な議論の発展に貢献したいと考えます。
んで、天声人語。
「砕け散った思い」とは笑止千万、「自ら砕いた」が正しい。そこは他人事みたいに書いてはいけない。はい、書き直し。
天声人語
まっさらな紙に記事が印刷されて、世の中に出ていく。新聞社で働く者の喜びであり、ささやかな誇りでもある。しかし昨日の紙面は、朝日新聞にとっ て痛恨のものとなった。報道にたずさわる一人として、身が縮む。同僚だれもが同じ心情だと思う▼当コラムの執筆を任されたころ、敬愛する先輩に言われた。 引き継がれてきた1本のろうそくに、毎日毎日、火をともすように書く仕事だ、と。小欄だけではない。新聞づくりそのものが、社員全員が真摯(しんし)な気 持ちで、日々に新たな火をともす仕事である▼言論の自由の保障が、日本国憲法にもある。人間の歴史がこの自由を獲得するまでに、どれほどの血が流れ、苦闘 があったことか。その理念を尊び、死守すべき言論機関として、慰安婦問題をめぐる池上彰さんのコラム掲載を見合わせたのは最悪だった▼気に入らない意見 や、不都合な批判を排した新聞は、もう新聞ではない。「あなたの意見には賛成しないが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」。古来の至言が、信頼も ろとも紙面上に砕け散った思いがした▼「吉田調書」については、今年5月の小欄でも取り上げている。初報記事とともに「命令違反」の表現が誤っていたこと を、おわびいたします▼砕け散ったもののかけらを、時間はかかっても拾い集める。そして信頼を一から作りなおしていく。深く自省する中で、朝日新聞が言論 の一翼を担っていく気構えには揺らぎがないことも、あわせてお伝えをしたい。2014年9月13日(土)付
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