2014/09/16

「不寛容(イントレランス)」という表現が別の人からも出ました。


 窪田氏が「非寛容」という表現を使ったのは個人的にやや痛快(私が使ったのは「不」寛容だが、どっちもイントレランスの意味であろう、と我田引水)、この言葉でしか表現できないニュアンスが朝日新聞社への反応にはあるように私も思う。イントレランス(不寛容)という表現を本ブログで使ったのはほぼ1ヶ月前、本文中では触れていないけれども朝日新聞の8/5、8/6の記事も当然念頭にあった、というよりその時は敢えて朝日新聞社の記事には触れなかった。それは朝日新聞社への期待もまだあったからだ。

 さて、窪田氏の文章の一部を引用させて頂く。
 こうなるともはやジャーナリズムではなく「信仰」である。

 今、彼らは自分たちの「信仰」を守ろうと必死になっている。「信仰」に批判や反発はつきものなのだ。世界中の宗教紛争を見るといい。「イスラム国」然りだが、弾圧をされることでさらに信仰が深まり、危険さが増している。

 つまり、もし仮にアンチの人々が望むように『朝日新聞』が地上から消え去っても、「殉教者」たちに手によってより過激な第二、第三の『朝日』が生まれるだけというわけだ。だから、怒りにまかせて過激な行動にでてはいけない。腹わたが煮えくり返っている方もいるかもしれないが、それでも我々は『朝日新聞』を許さなければいけない。

 異なる思想を暴力で排除するということは、韓国と同じレベルに落ちてしまうということなのだから。
 うん、「殉教者」にしては絶対いけないし、個人的には最初っからそうさせるつもりもない。私の考えは単純で、
  • 嘘をついて多くの人々に迷惑をかけた。
  • 嘘により被害、或いは不公正な扱いを受けた人々に謝罪する必要がある。
  • 嘘により被害、或いは不公正な扱いを受けた人々の名誉回復に率先して取り組む必要がある。
という風に、単純に倫理的問題、或いは「人としてどうなんですか?」というレベルの問題としか捉えていない。これは今までの関連エントリで言葉や表現を変えて何度も述べていることである。 朝日新聞社の有様は余りに隙が多く、理詰めで追い込もうと本気で考えている人間には良いカモになってしまうだろう。そのような動きが表層的にはほとんど見られないということは、この期に及んでもまだ朝日新聞社は甘える事を許されているのである。が、当の本人達は「まだ」甘えが許されていることに気づいていないようである(つまり、普通の日本人の目からも「察し」が無い馬鹿、阿呆、愚鈍に見える)。察しを欠き続ければ、更なる被害者を生み出し続けるだろう。ここでの被害者は主に元朝日新聞社社員である。

 主義主張もイデオロギーも何も関係ない「人として」という話だから、「殉教」なんて出来る筈もない。 そもそも朝日新聞自体には見るべき論理性も、主義も思想も無いじゃないですか。だから言葉を弄び続ける朝日新聞記事やテレビでしゃべる朝日新聞論説委員などの言葉に寛容ではいられないのである。「嘘ついたんでしょ?」、「人としてその姿勢は問題では?」と言いたくなるのである。これは私一人の心象では無くて、同様の思いをもやもやしたまま抱えている人も多いのではないかと思う。そういう「日本人の美意識に照らしてプリミティブに受け入れ難い有様」を朝日新聞社に感じているのではないかと思う。故に「黙って購読中止」する人が多かったり、奥様方が動く事態が発生しているのではないかと思わずにはいられないのだ。加えれば、

朝日新聞社:「記事を取り消します。」
私:「はい、大枠分かりました。で、倫理的観点から、嘘をついたことに対してどう今後対応していくのですか?」
朝日新聞社:「(それ以外の事ばかり)うだうだ」

という感じで、ボールはまだ朝日新聞社側にあると私は思っている。朝日新聞社にはまだ対応を正す機会が与えられている筈なのだ。早くしなければ「朝日新聞社が生理的に受け付けられない」人間が増えるばかりだと信ずる。

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