2014/07/08

「ゴジラ」、やっぱり上手い

 映画「ゴジラ(昭和29年)」を初めて観たのはかれこれ30年近く前、自宅近くの小さな映画館(おそらく20席以下)を貸し切り状態(つまり客は私だけ)でのことだ。当時もとっても感心したのだが、今TVで観ながらそれを追体験している。

 何が感心するって、まずカットのつなぎ方が出色だ。単に画をつなぐという話ではなく、つなぎ部分の音響効果や音楽も計算されたものだろう。暗転、ゴジラの鳴き声、着陸した飛行機のカットへといったつなぎ方は実に見事だ。ワイプかフェードか、カットのつなぎ方の選択にも文脈、明確な意図が感じられる。とにかくワイプ、というジョージ・ルーカス氏の作風と全く違う。モンタージュによるカットの切り替えタイミングは総じて早めで、人や乗り物の移動感を殺さず、極めてリズミカルである。その代わり、時間の経過はカットの切り替えを使って効率良く(?)省略されている。

 カット自体も、静止画的なものか登場人物などの移動を追うものかなどの区別が明確で、よく吟味されていると思う。移動や撮像対象の配置には左右だけでなく奥行き方向も使う。このようなカット構成は結果として「カメラの存在」を観ている側に強く意識させる。本多猪四郎監督のタッチはドキュメンタリーのそれに近いと言われるが、「カメラの存在」とドキュメンタリーは不可分だ。ただし、カメラそのものの動きは限定的というか、おそらく最小限に抑えられている。「如何にも手持ちカメラ風」のぶれが加われば、10年程前に流行った私が大嫌いな「ドキュメンタリー風の絵作り」に極めて近い風合いになるだろう。

 それをやらないのが「品格」というものだ。

 特殊撮影を担当した円谷英二氏がキャメラマン出身というのもポイントだ。特殊撮影カットも本編と類似した「品格」を備えている。これは本作品にとってとても幸せなことだ。

 伊福部昭氏の音楽自体、音楽作品に対する評価を近年良く耳にするようになったのは嬉しい限り。同時期の劇音作家の中では突出してリズム重視の作風と言える。メインタイトルの楽譜にゴジラの足音や鳴き声のタイミングまで書かれていたのは有名な話だが、映画が総合芸術たらんとすればこの種のこだわりは必須だろう。映画「日本誕生」や「わんぱく王子の大蛇退治」に見られる画と音楽の見事な同期、それらが産み出す相乗効果は圧巻だ。

 さて、「ゴジラ」の放送も終ろうとしている。

 最後に原作の香山滋氏に少し触れておきたい。香山滋氏は今ならばホラーとミステリの境界領域、かつて変格探偵物と呼ばれた分野の作家だ。80年代後半にこの分野の再評価ムーブメントがあり、復刻版の発売や古本屋周りの甲斐あって彼の作品はほぼ全作読んでいる。

 劇中、古生物学者の山根博士が「200万年前のジュラ紀」と発言する。が、実際のジュラ紀は約1億5000万年前であり、200万年前は石器時代である。このようなケアレスミスを香山氏が犯すとは考えにくい、むしろ意図的と見做すべきだろう。比較的受け入れられている解釈は、「ゴジラは人類そのもの、核兵器を作り自らの生存すら脅かす特異な生き物のメタファー」というものだ。香山氏の作風は良く言えばロマンチック、時に過剰なまでに感傷的、悲観的だ。「ゴジラが核兵器ではなく人類そのもののメタファー」という視点に立つと、ラストの山根博士のセリフの意味合いも違って聞こえないかな?

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