2014/07/21

イスラエル対ハマス、そしてガザ住民に関する報道を観ていて思うこと

 某報道番組、画面の中の男がもっともらしい事を語っている。が、その内容は薄っぺらく、内容もリアリティ(適切な現状認識)に欠ける。国連に言及する部分と固有名詞を置き換えれば、20年前でも同じことを言えただろうことを保証する。報道と言いながらしょせんその程度のレベルなのだ、楽な商売だと思う。自分が知らないことは他人も知らないかのような薄っぺらい報道内容は、笑うに笑えない低レベル具合だ。イデオロギーに基づく情報の偏向すら正せないのではなく、それにすら気づいていないと思わずにはいられない。

 「反米と米国大統領の行動力の無さへの非難」が両立できるのは朝鮮半島南部の住人だけだと思っていたが、某テレビ局のコメンテーターの中でも両立しているらしい。愚劣、魯鈍なまでの論理性とリアリティの欠如、「考えてる振りをやめろ、知ってる振りやめろ」、と声を大にして言いたい。 せめて、冷戦後のリアリティ、ポスト・パクス・アメリカーナ(ポスト・アメリカ支配による平和)の時代に早く辿りついて欲しい。湾岸戦争後、たかだか20年の遅れなのだが。マスコミはどうしてそんなに中共指導部の時代遅れ具合に歩調を合わせたいのか、と意地悪なことも書きたくなる。

 中共指導部はまるで40年前と2500年前を同時に生きているようで、微笑ましくも極めて迷惑だ。ある米国の軍事アナリストははっきり書いている、曰く「中共のとる孫子の兵法は欧米には通じない、中共はムスリムも仏教徒も理解していない」。今の中共指導部の動きを「孫子」を引いて解釈できるだけの人間が、現在の日本の報道機関にどのくらいいるのだろうか。和訳版なら私は「易経」と同時に中学生時代に読んでるぞ。

 現在の内閣総理大臣は冷戦後のリアリティを理解しているように見える。彼や政権の動きに対する報道がいびつになりがちなのは、明らかに報道側が戦後秩序の枠組みから一歩も踏み出せていないことが大きいように見える。時代は「口を開けて待っている人間の口に平気で石を詰め込む」ものに既になっている。プレイヤーにならなければ他者に蹂躙されて終る。

 挙句の果ては、まるで飲み屋でおっさんが若い女性相手に得意げに浅い知識をひけらかすみたいなシーンまで電波に乗せる始末。そんなこと、天体や宇宙に興味があれば小学生だって知っている。

 ネットの時代、リテラシーのある人間は自分の興味のある分野については詳しい。ソースをきっきっちりと抑えることさえ怠らなければ、私の子供時代ならばもう十分に専門家レベルになれる。近代史に関しては外交資料などが電子的に公開され、面白くてしょうがない。ただし、ネットだけでは絶対勝てない種類の人間も存在する。それは、現地に入り、実態を目にした経験のある人間だ。価値有る報道とは、本来そういう人間によるものだろう。百歩譲っても、コピぺと引用が違うことぐらいはいい加減本質的に理解して欲しい。

 ネット上の情報と新聞やテレビの報道内容と照らし合わせば、後者が如何に洗浄されたものかが良く分かる。それは単に無知の反映であったり、どう考えても意図的な偏向もある。そして昨今良く言われるようになってきた「報道しない自由」という公共の電波を介した一種の暴力行為の存在にも気付く。

 不覚にも、Wikipediaにはかつて期待を持った。だが実態は技術分野でも誤りが多い。FM音声合成とかまだ間違ったままじゃないだろうか。こと近代史においては、完全にプロパンダの戦場である。こういう側面に触れた報道は観たことが無い。自らもプロパガンダの主体なのか、それともプロパガンダに踊らされているのか。単に無知故にプロパガンダか否かの判断もできないのか。もし三つ目ならば、もはや公共の電波を使う資格はない。

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