2020/02/19

アニメ「映像研には手を出すな!」第7話を観る!

 金森の性格はきっついが悪くはない、基本冷静だが時に熱く、怒ることはまずない・・・という認識の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回は出先で書いているので、原作マンガが手元にありません。視聴も出先。
⇒ 2020/2/21:帰宅後に原作マンガの内容を確認。追記などはしたけど論旨変更は無しです。

 アバンタイトルはアニメで「足してきた」水崎のエピソード。アニメーションの作画ってそういうものなのか、必要な観察眼ってのはそういうものなのか、とそのまま受け入れてしまえば無問題、画も良く、動きや展開もテンポも良く、おそらく作り手の意図通りの出来であり、面倒くせぇ私も黙らせた。OP突入時には「うむ、今回は水崎フィーチャー回か」と思った。まぁそうなんだけど、OP後は結構ノイジーで、水崎フィーチャー感は大幅にスポイルされている。アバンタイトルの優等生的な出来の良さ感は消失し、良くても「平凡」としか言えない出来となる。水崎の熱い言葉を支える画も結局視聴者に提示されないままで終わり、EDを観ている(恐らく困惑顔の)私の耳元で何者かが水崎の声で囁く。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。

 ここで言うノイズとは、金森のキャラのブレ、百目鬼の描写の原作とのギャップの大きさと見てて悲しくなってくるような扱いのぞんざいさ、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カット、動いてはいるけどなんちゃって感の凄い作画などである。

 なお「巨神なんたらvsウルトラなんたら」的なサムシングはどうやってもあーなっちゃうのは避けられそうにないので、私は最後の最後まで「アニメではやらない」ことを期待していた。妄想シーンなので、前フリの追加やBGMのサポート、光線やバリヤーの描写を「浅草らの手描き風」にするなど、他の妄想シーンとの整合性は最低限取らないと、ね。でも、そこまでやっても馴染んだかは分からない。

 さて、

百目鬼の登場が早くなったり美術部が登場してしまったりしているため、映像研内での打ち合わせのシーンはどうしても原作そのままとはいかない。今回の打ち合わせ時の金森の描写は、やたらイライラしているように見えてしまって個人的にはいただけない。舌打ちにもいろいろニュアンスはあるんスよ。イライラ状態というのは一種の思考停止状態だから、浅草らの状態に対して常に「どうしたものか、どうすれば良いか」と考えているという私の金森像と全く一致しない。さすがの金森でも「あんた何してくれてんだ!」となる描写は原作にもあるが、今回の内容はまだそうなるレベルのものじゃない。今回の金森の描き方は、全体として薄っぺらで、頭悪そうに見える方向にブレている。

 百目鬼についてはキャラデザ、声ともに原作よりは可愛い方に寄せてきていて、登場時には違和感が凄かった。そのうち慣れるだろうと思っていたが、制服をちゃんと着ているという見た目から始まり、どうにも原作のキャラからアクを抜ききったような淡白な描き方に違和感がぬぐえない。よりにもよってロボットの歩行「音」に関するシーンにも登場させてもらえず、扱いがどうしようなくぞんざいに見える。

 百目鬼は原作中、最もアクが強く、実世界にいても扱いにくいキャラだろう。そういうところが描写に全く見えてこない。「連れション文化圏の人ではない」という言及すら無い。かといってアニメ独自のキャラ付けがあるかと言えばそんなものも無く、原作には出ない久保(美術部)の方がより丁寧に扱われているようにすら見える。金森による直接の言及も有るし、打ち合わせシーンのとあるカットの思案顔の金森の視線の先には明らかに久保がいる。

 今話の美術部との打ち合わせシーンは、レイアウト固定で汗ダラダラな描写(浅草自身は「よくある演出なのでワシは嫌い」と言いそう)と分かり易いまでに浅草の試練シーンとなっていた。前話では数カットを使った天候の変化で表現したと思しき要素が、今話は汗ダラダラ1カットで終わりである。本シリーズにおけるこの種の描写に対する一貫した演出プランの不在は間違いない。「美術部との打ち合わせ+浅草の試練」はアニメ版で「足してきた」要素だが、一貫した演出プランの不在は、その要素のシリーズ全体やストーリーの中での重要度が、作り手内で曖昧なまま共有もされていないということだろう。逆に言えば、ストーリー展開や浅草以外も含む今後のキャラの挙動などに影響しないというレベルということか。ならまだ良いが、「久保の為」なんてことだったら、「いや、百目鬼に手をかけてやれ」ってなりますよ。

 次いで、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カットについてだ。

 銭湯で金森が浅草にお湯をぶっかけ、お湯でゆがんで見える浅草の顔?を水崎が観察するシーンがある。「浅草の顔?」がポイントである。この時点で私の記述に引っかかりを感じたり先の展開が読めた人は、私より面倒くせぇ奴に違いない。

 マンガの場合、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」をコマで見せてから水崎が「もう一回!」と金森に声をかけるコマで、「水崎はお湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔を観察しているのだな」と大抵の読者は解釈するだろう。マンガのコマを追うタイミングは読者に委ねられており、更に続くコマの解釈の有無も同様である。一般的に同一のシーケンスを表す一連のコマ運びが繰り返された場合、読者による各々のシーケンスの意味の解釈は最初のシーケンスを読んだ時点で為され、2回目以降のシーケンスで新たに解釈し直すことは稀である。つまり、2回目以降のシーケンスのコマに視線を送ってはいても、流し見しながら「同じことが繰り返されている」という確認をしているだけというのが普通だろうということだ。だから、本エントリ先頭に示した絵が3回目ぐらいのシーケンスで現れても、高確率で読者はさらっと流してしまって、絵を改めて解釈はしない。まぁ再解釈する人がいない訳じゃないんだろうけど、少なくとも原作を読んだ際の私は、マンガで発動しがちなこの一種のマジックに完全にかかっていた。

 しかし、具体的な画であるカットの連なりをリアルタイムで見せざるを得ないアニメでは、マンガでは高確率で発動するその種のマジックは発動しにくくなる。結果、本エントリ先頭に示したカットが現れる(つまり、一定時間強制的に見せられる)と、面倒くせぇけれどもピュアで素直な側面をも持つ視聴者は、それまでの解釈に引きずられることなく新たに明確に認識する・・・「水崎は、実はお湯でゆがむ浅草の『後ろ頭』を観察している」と。これ、アニメの作り手の意図通りなんですかねぇ・・・いや有りがちと言えば有りがちな事態なのだが、プロならば予測可能だと信じたい事態でもある。受け手視点でのマンガとアニメの文法の違い、土俵の違いってやつの一端かも知れない・・・とまで書いたところでオチなのですが、水崎の見ていたのは実は「水の動き」でした。少なくとも水崎はそう言っている。いやぁ、原作を読んだときから始まってアニメ版初見時まで、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」に引きずられて二重に勘違いしちゃってたなぁ・・・と水崎のセリフを聞いて一瞬で気付いた時の絶望感たるや、「勘違い野郎」かつ「面倒くせぇ奴」はホント迷惑ですよね、そして「あ、アバンタイトルの内容と(後で分かるが最終カットとも)そう繋げてくるのか」とも。

 あと、お湯の作画には手間をかけたと思しきところが多かったけれども、この種の癖のある描写は視聴者の記憶とのミスマッチから不自然に見えてしまうリスクがある。ミニチュア特撮が水を苦手とした理由と同じだ。一応流体力学分野の技術で飯を食っている身としては、密度が低そう(結果として粘性がより低そう、表面張力がより高そう)に見えるカットが多かった。「原作マンガのお湯の描き方も微妙じゃん」と言われれば確かにその通りなのだが、極端に言うと原作マンガではコマによって表面張力などの水の特性も違って見える。この辺りを説明すると長くなるので詳しくはしないけど、TVアニメではフレーム固定でアップ~ロング(引き)があるだけだが、マンガでは更にフレームに相当するコマの大きさも変わるからねぇ、とだけは書いておこう。で、高速度ビデオカメラのレンタル費用も10年代後半から安くなってきたし、スタジオは一度レンタルして色々撮影してみてはいかがだろうか、エドワード・マイブリッジの馬の連続写真並みに発見があるかもしれませんよ。ちなみに、分裂した水やお湯の塊の大きさや気泡の寸法や形は、主に粘性力の温度依存性の影響で25℃付近より低温か高温かで変わるんだなこれが。と言う訳で、水を使った実験ではちゃんと水温管理をしよう(誰得情報

 さて、

アニメの作画というのは不思議なもので、キャラ達の作画に凸凹が多少あった方が観ていて面白かったりする。これは良し悪しとは別の話なので念の為。ここで凸凹とは、動いたり動かなかったりとか、特定のキャラがやたら可愛かったり可愛くなかったりといったことを指す。例えば第2話について「水崎の顔がやや吉田(健一さん)キャラっぽいカットが有ったな」と以前に書いたが、まぁ、そういうところも楽しみどころになり得るのがアニメのTVシリーズだ。作画の凸凹と言うと、キャラのアップのカットは作画監督などの筆がきっちり入っていてちゃんとしているが、ロングのカットは作画崩壊寸前というケース(視聴者として、心意気だけはきっちり受け取らさせてもらう)もあるが、今話のケースはもちろん違う。

 OPより後は悪い意味で凸凹が無かった。特定のキャラがより可愛く描かれるでもなく、基本的に動いてはいる(これ自体は良いことなんだろう)けれどメリハリある動かし方はほぼ皆無で、無難ではあるんだけど特筆すべきところも無い。動かし方のなんちゃって感も強い。こういうのは説明しにくいんだけどね、魅力が無いとでも言うか、色気が無いとでも言うか。ここでの色気は「セクシー」という意味では当然ない。所謂「色気を出す」といった表現に使われる、現場の判断によるほんのちょっとした一手間の付加や、不自然さは出るかも知れないけど視聴者に対するフックになる意図的なキャラの芝居タイミングのズラしなどに相当するものである。アバンタイトルにはそれらの存在が感じられた。なんちゃって感は「取りあえずこんなもんでしょ感」と言いかえても良い。歩いているけど接地感がないとか、本来動きにラグが生じるような要素の動きにラグがないとかが例に挙げられようか。ダンスのカットとか見るに実は動画枚数少ない?この辺りは良く分からんけど。

 なんちゃって感は、個人的にロケットの打ち上げシーンで極まる。ロケットのハードウェア構成がモデルになった実際のロケットと同じなら、色々と描写が不自然でかなり淡白だ。ブースターの噴射炎の有無などカット間の描写の不整合もある。不自然な点について具体的に細かくは書かないけど、この辺りをどうして本エントリで取り上げるかについて簡単に触れよう。

 このロケット打ち上げシーンは、見せ方という意味で作画と演出について語るシーンなのだが、同時に、浅草のロケットや打ち上げ施設に関する知識や水崎の観察眼の発露の描写でもある。つまり、このシーン内の不自然な描写や誤魔化しは、浅草の知識不足や勘違い、水崎の観察力や観察自体の不足や観察力やこだわりの限界を描写していることに等しい。敢えて極端で酷い書き方をさせてもらうと、浅草や水崎が能力不足に見えるならば、それはアニメの作り手が能力不足であるからだ、となる。或いは、アニメの作り手は無数のこだわりの塊であろう水崎の作画を再現しない又は再現する気が無い又は再現できない、となる。いや、アニメの作り手は、水崎のこだわりなんてこんな程度、と考えているということか。そんなことどうでも良い、と考えているのなら余りに悲しい。

 細かくは書かないとしたけれども、煙を引きながら上昇するロケットの姿を「1枚のロケットの絵を縮小しながらスライドさせて見せた」としか思えない(Flashアニメには失礼ながらFlashアニメかよって)カットには唖然とした。カメラ視点から見たロケットの向きの相対変化(つまりロケットの三次元的な見た目の変化)は当然表現されず、上昇に伴う縮小具合も、水崎がこだわっている筈のロケットの角度も不自然だ。こだわりの作画とは程遠い。こんな画では、浅草や水崎のセリフはただただひたすらにひたすらにどうしようもないまでに空しい、嘘になってしまっている。いや正しいのか、濃厚さの欠片もない作画は視聴者に濃厚さなんぞ伝えない。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。そんなの誰の目にも分かってたことじゃんか。だからアニメの作り手がどう挑むのかを見せてもらおうと、第3弾PV以降から毎回観てる訳ですやん、こんなエントリもシリーズ化してしまってる訳ですやん。

 私が以前のエントリで書いた「アニメ化に覚悟がいる原作だ」の理由の一つがここにある。水崎が作画したシーンに相当するシーンは、「水崎が作画したシーンに見える」ようであるべきだ。水崎のこだわりを、或いは限界をも「演じた」作画が必要なのだ。そういう画作りになっていないから、特に原画撮り相当の画を使ったシーンは、私にはアニメの作り手の楽屋落ちにしか見えない。

 幼い水崎のスケッチやクロッキー(つまり、動きの観察結果だ)が、おばあちゃんがベッドから立つことや水崎に手を引かれながらではあるが自分の足で歩くこと繋がるアバンタイトルの展開やシーンは良い。でも劇中の映像研の作品に直接繋がる要素は未だ無い。成程、アバンタイトルの最後で「ロボットのチェーンソーを使った移動カット」のラフが「水崎が車椅子に乗って方向転換などをした経験」に基づいて描かれた様子が示唆されており、その種の作り手からの目くばせが無い訳ではないことはさすがの私でも気付いている。が、現時点ではそこまでだ、

 実は、おばあちゃんがカニを食す様子を幼い水崎がスケッチするシーンがでもあれば、劇中で映像研が製作中のアニメを表現する「原画撮り相当の画を使ったシーン」の見え方や意味は違ってくる。「そんなのギャグになっちゃうじゃないか!」と思う方は、「カニを延々と食う」じゃない場合でもそう思うか考えてみて欲しい。例えば、大型ロボットの人間大縮小版の自立型ロボット(人が操縦しない人型二足歩行ロボット)に、人が補助しながら立つことや歩くことを学習させているシーンだったらどうだろう。仮にもロボ「研」なんだから、そういうのもアリなんじゃないか。

 「カニを延々と食う」シーンがロボ研のリクエストでなければ、それすなわち映像研乃至は浅草の選択ということになる。アニメの作り手の考える浅草のセンスと、原作マンガから私が解釈している(すなわち極めて主観的な、ということ)浅草のセンスとの乖離は大きい。私の中の浅草はもっとセンスが良い。「カニを延々と食う」シーンって、「ロボットvs巨大ガニ」において見せられて面白いものなのかな?劇レベル或いは劇中アニメレベルで何か機能しているのか?

 同じ視点から言えば、実は原作の音に対する百目鬼のこだわりのアニメによる描写は本質的に水崎のそれらより格段に難しいだろう。アニメに全く向かない。原作第5巻の最後の4ページには思わず唸るとともに眩暈もした。どの程度成功していると言えるのかは分からないが、「音のつくる場」のマンガにおける表現方法としての一つの選択、或いは解が具体的に示されている。最終ページに至っては音は飛翔する粒子の如く描かれ、映像研メンバーと相互作用までする。原作ではそんな表現にまで繋がっていくことになる百目鬼の音へのこだわりを描く・・・アニメ版の作り手に覚悟はあるか、挑むのか、必要な力はあるか、それとも自覚的、無自覚を問わず逃げるのか。積極的な逃避はこの期に及んでは見識ある選択肢ではある・・・本作に手を出したことを除くと、その選択に何か問題があるようには思えない。

 手書きアニメによる大型ロケット打ち上げシーンには、幸か不幸か映画「王立宇宙軍」のまさにそのままのシーンがマイルストーン、或いは一種のベンチマークとして存在する。作画陣の執念と気迫を感じるカットの連続だが、同時にロケットの打ち上げ映像などの観察の賜物でもある(筈)。前者はともかく、やる気があったのなら後者に関して多少の気概は本作でも見せられたんじゃないかと思う。私自身がそういうところには敏感なつもりだし、そういうところを感じられなければ面倒くせぇ奴なんて自称することは止める。モデルになったロケット(または先行形式)の打ち上げシーンの動画なんて、ネット上にいくらでもあるでしょうに。

 サターンⅤロケット打ち上げシーンやロケット下段構造物の分離シーンを日常的にTVで観て育ち、映画「王立宇宙軍」のロケット打ち上げ準備から有人カプセルの軌道投入までを「コレコレコレ」と思いながら劇場のスクリーンで眺め、大学生時代には液体窒素や液体酸素を実験で扱い、ドラマ「Form the Earth To the Moon」と「Space Race」を年に一度は必ず見返す現役の宇宙開発オタクはホント面倒くせぇんだぞ。

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