2020/01/25

アニメ「映像研には手を出すな!」第3話を観る!

 困った、本当に困った。一貫性が無い、論理が読めない。思わず引っかかるノイズが多過ぎる。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 従来のエントリで繰り返し触れてきたように、「日常」と「最強の世界」、これら二つの世界を結ぶ「遷移過程(トランジション)」 をどのように描くか、具体的にどのように視覚化するか、に興味深々なのである。

 原作マンガ1~4巻は買って読んだし、アニメ版はアニメ版で素直に観ている。それはそれで措いておいて、作り手の考えていることや具体的に提示される画に対するアイディアなども同時に味わってみよう、少しは分析的にも見てやろう、と言うことだ。

 「日常」が指すものについては説明不要だろう。私の呼ぶ「最強の世界」は、「劇中で完成されたアニメーション作品そのもの」または「作中人物が登場する自身らによる妄想」を指す。前者はアニメ版にはまだ無くて、原作マンガにおける作品「そのマチェットを強く握れ!」の完成版がそれにあたることになるだろう。後者は「飛行ポッド・カイリー号が街の上を飛んでいるカット(原作第1話・単行本第1巻 p.32-33見開き)」が典型的だが、何故かアニメ第1話では描かれず、未だにアニメ版に対して私が持つ不完全燃焼感と言うかアニメ版の作り手の考えが良く分からないと感じる原因となっている。ただこの後者については、続く「遷移過程」との境界がちょっと曖昧に見えるのも事実だ。

 「遷移過程」は 「日常」と「最強の世界」を繋ぐ部分であり、アニメ版・原作第1話ならば、「合作作業」開始後に作中人物が着替えたりヘルメットを被ったりして「画の世界」に入ってから、「最強の、世界」と口にするまでがそうだ。この部分は2つの点で「最強の世界」における「作中人物が登場する自身らによる妄想」とは異なる。

 まず、循環的な言い方になるが、「最強の世界」が後に控えていること。アニメ第3話(原作第4話)の「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンはそれ自体が既に「最強の世界」なので、「遷移過程」とはならない。次いで、描写されている画の視点は第三者にあり、描写自体は作中人物の行動のメタファーであること。前述した「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンの描写は作中人物の妄想、つまり主観そのものなので、やはり「遷移過程」とはならない。対してアニメ第1話(原作第1話)の「飛行ポッド・カイリー号の改造作業」などは「日常」における作中人物による作画作業のメタファーであり、作中人物が何か妄想していたとしてもその内容は無視して良い。常に「日常」が侵食、介入可能でもある。別の言い方をすると、描写はあくまでメタファーなので、「日常」が同じでも描写自体は作り手によって(つまりマンガとアニメで)変わって良い、と言うことだ。

 本当に繰り返しになるが、「遷移過程」の描写が原作とアニメで異なるのは当たり前だろうと私は考えているため、アニメ版ならではの描写を当然のように期待し、今も期待し続けていると言って良い。マンガとアニメでは「表現の土俵」が違う、というあの話である。

  なお本エントリ中の画像はTV画面のカメラ撮り画像から起こしているが、水平出しやらモアレを目立たなくする作業とか、撮影時、後処理時ともに色々面倒くさかったのでもう二度とやらない。コントラストが高くなっている理由はそういう面倒くさい作業の影響だ。

 さて、アニメ第3話。

 まずは「最強の世界」たる「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンだが、原作マンガでの描写に沿った描写で特に引っかかりも無く・・・と言いたいところだが、金森に「妄想」を発動させてしまったのは個人的に甚だ疑問だ。金森のキャラクターがかなりブレてしまっていると思う。

 原作における金森の「部室屋根/宇宙船修理ミッションごっこ」への反応は、浅草らに「合わせてやっている」という類の一種の大人の態度にしか見えない。金森の勘の良さ、頭の回転の速さを表しているように見えることはあっても、浅草らのごっこ遊びに一緒にノッているようにはとても見えない。原作第4話の表紙(+1コマ)に描かれた宇宙服姿の金森を出すこと自体は否定しないが、あのようなくどいまでの出し方は明らかに上手くない。

 「遷移過程」に行こう。最初は「部室屋根/宇宙船修理ミッション」の冒頭にインサートされる浅草による部室船計画のイメージボードの説明シーンだ。まずイメージボード全体を見せる、次いでイメージボードの一部をアップで見せつつ浅草がまくしたてる。流れだけ見れば極めて普通、むしろ非凡過ぎると言ってもよいやり方だが、それでも色々と引っかかる辺りがしんどいポイントだ。
  イメージボード全体を見せる時間が短過ぎたり、アップにされたイメージボードの一部の絵の情報量が低過ぎたりが原因で、視聴者に何が伝わるんだ、何の機能を果たすシーンなんだ、と他人事ながら不安になる。浅草の設定マニアぶりは伝わるかも知れないが、浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていない。作画の手間が少なくやけに長いシーンなので、尺稼ぎの意図でもあるのだろうかと勘繰ってしまう。ただ、金森の「長い!」と言うツッコミは、間の良さもあって、「日常」からの介入の描写として上手く機能していると思う。ちなみに、声優さんたちの声や演技には全く引っかかりを感じたことはない、っつーかエラく気に入っている。

 なお、同じ手法が「個人防衛戦車」についても使用されているが、こちらでは絵に動きが加えられているなどイメージボードの一部アップ時の画面内情報量とそれらの整理具合が絶妙に良く、部室船計画と比べて「あからさまに薄い(原作準拠ではある)」浅草の喋りの内容とも良くマッチしていた。テンポ良く、長くもない。頭がぼーっとした状態で観ていた私でさえ、思わず「190km/hって速くね!?」とツッコミ入れそうになったぐらいなので、内容は普通に視聴者に伝わるでしょう。つまり、こっちは全然引っかからなかった。

 ちなみにアニメ第2話のイメージボードシーンの処理は下図のようなもので、アニメだからこそできたものの感があり、面白いとも思った。ただし、枠や矢印を伴う説明文が動き続ける上に表示時間も短く、更にセリフによるサポートも無いため、やはり浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていなかった。また原作マンガでは同じ描写手法を使っているシーンの描き方がアニメでは各話で違い、かつ機能の仕方もバラバラという状態からは、アニメの作り手の「考えていない感」や「一貫性のある演出プランの欠如」を感じざるを得ず、何か色々と損ねている気がする。
 浅草のネタ帳に3人が「入って」からの一連のシーンは原作マンガの描写に忠実ながら、手慣れた感じのアニメの文法への変換によって安心して観ていられる。ページがめくられる様も良い。
 で、第3話のクライマックスにして「遷移過程」でもある「そのマチェットを強く握れ!」の「検討」シーンだ。夕陽、窓に重ねて固定されたスケッチブックのページ、浅草と水崎が次々とページに絵を描き込んでいく・・・という「日常」描写はアニメで導入されたイメージであり、浅草と水崎との「合作作業」を強く意識させる象徴的な描写に(たった2回使われただけだが)既になりつつあるように思う。これは上述した浅草のイメージボードの描写のバラバラさ具合とは対照的だ。

 で、そのような「日常」作業のメタファーとして描かれた「遷移過程」の描写の内容はと言うとアニメならでは、と言えばそうなのだが、「アニメの作り方教えます」ちっくな「アニメスタジオの楽屋オチ」みたいで釈然としないのだ。「夏のアニメ特集 メイキング編 」とか、面白いですか?

 正直、明確に言いたいことはあるのだが、現時点では未だ上手く言葉にできない。「日常」において全く手が付けられていない段階なのに過度に原画撮りっぽい画に違和感があるとか、主人公の少女がセル塗りになるカットの存在の論理性が全く見えないとか、引っかかったところそのものを列挙しても意味がないので本エントリではこれ以上は触れない。

 要は原画撮りっぽい画には「作中人物の妄想」っぽさも感じなければ「日常における作中人物の行動のメタファー」っぽさも感じず、故に楽屋オチっぽいと言うことだ。いくら原画っぽく見えても、劇中ではあくまでスケッチブックに描かれた絵だ、原画でも動画でも絵コンテでもない。なんか中途半端なのだ。加えて、この一連のシーンを描いたアニメーターは「水崎が描いた絵」を描いたのか?(≒水崎を演じたのか?)そうでなければ演出として捻じくれている。感覚や感性のみによりかかり、最低限の論理性や必然性すら獲得できていないようにしか見えない。
 最後に、このような描写を作り手が選んだ理由に関して頭を掠めた幾つかの可能性についてだが・・・

 一つ目は、アニメ版では原作第6話の内容をほぼすっ飛ばし、原作第7話の予算審議会に一気に話を進める可能性。この場合、演出が為された後の原画っぽさの意図は作品制作過程の描写の先取りである。ただ、そのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。原作第6話の内容のすっ飛ばしは、原作26話への伏線を一つ張らないことになる。

 二つ目は、原作第6話に相当する内容によって「実際には描かれることが無くなった原画、動画」である可能性。つまり、次話で浅草らに現実という名のカウンターパンチ(画が上がらない!)を強烈に食らわせるために、「これは!!上手くいってしまうのではないだろうか!!」とばかりにとにかく(視聴者も釣りつつ)浅草を舞い上がらせるための無理筋上等の演出・・・って、やはりそのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。ならば原画とか動画とかではなく、完成時の絵を見せる方が自然だ。

 そして三つ目は、やはり作り手が真面目に考えていないか、作り手当人にとっては面白いのだろう「アニメ屋の楽屋オチ」の可能性である。ならば、アニメ以外のドラマや映画、演劇とか観ない人たちなのかねぇ、作ってるの・・・ってなる。

 はてさて。 あ、こんなこと全話やるつもりはありませんよ。

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