2013/10/29

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.7で地球帰還です。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」の最終回をTVで観たあと、下記のように書いた。
単にご都合主義で、無用に感傷的で、時に演出が過剰に感覚的で、ネタを散々食い散らかしながら大事なところに限って回収しなかったのが「宇宙戦艦ヤマト
2199」だ。物語や世界観との整合を欠いた「ちょっとしたアイディア」は「とんち」ではない。物語や世界観の論理性や合理性の欠如は回を重ねるにつれて
耐えがたいレベルにまで達し、夢の機械「コスモリバースシステム」は作品の製作者のためにのみ存在することがあからさまとなり、「青い地球の回復」のカットにカタルシスはない。
Vol.7をあらためて観てもその思いは変わらない。むしろながら見だったTV放映時よりも印象は悪くなった。引用の多さはそのセンスの無さも含めて耐えがたい。「罪と罰」の本の登場は、「罪と罰」をちゃんと読んだ人ほど意味が分からないんじゃないだろうか。引用に対してどの程度腹くくりができていたのだろう。いかにも表層的、独りよがりな感じは「プロの作品」としては観ていて実に気持ち悪い。挙句の果てには"Battlestar Galactica"を引用したかのような「どこかで観たな」というカットのオンパレードである。

 キャラクターを多数出しながら群像劇としての構造はついに与えられず、消化不良との印象も否めない。

 製作者達は本作の物語にきっちりとした骨格も筋肉も与えていない。これは一種の例えだが、言いたいことは「つまらない雑音」をねじふせてでも「物語」を視聴者に「物語」と感じさせるだけの「力」がないということだ。

 TVアニメシリーズ「ラーゼフォン」も似たような構造を持っている。物語全体としてはヒルコの如くぐにゃぐにゃで骨格は無いに等しい。「東京ジュピター」から街中の映画のポスターまでも含めて多くの引用はつまらないし、センスがあるとも思わない。映画版に至っては何もかもがギャグにしか思えなくなる、たちの悪いTVシリーズのパロディのようだ。

 が、第19楽章のような回もあった。第19楽章の戦闘シーンでの街中の電光掲示板などの描写は、真面目に考えると「理屈が全く分からない」。しかし、前半での細かなエピソードの積み重ねが不合理な描写を力ずくで成立させる。「力ずく」には骨格も筋肉も必要だ。一瞬であっても物語が「力強さ」を獲得すれば、「感傷的で、時に演出が過剰に感覚的で」あっても「理屈が全く分からなく」ともその物語を受け入れることができる。別の言い方をすると、「理屈が全く分からなくてもええやんけ」と言えるようになる。「良いものは良い」と言う表現は実は全然論理的じゃないが、そうとしか言えないものの一つや二つは誰にだってあるだろう。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」はついにその種の「力強さ」を獲得できぬまま終わった。なんとも残念なことだ。新作劇場版は「力強さ」を獲得できるだろうか。

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