2020/01/28

アニメ「映像研には手を出すな!」第4話を観る!


 観てて色々しんどかった。

 1/27公開の「攻殻機動隊 SAC_2045」の予告編も大概しんどかったけど、同じ思いの人が多い様なので今回はスルーしたい。とは言えライティングというかダイナミックレンジの確保(特に明度)というか、レンダリング技法が高度化しても画作りが下手な人はいつまでもたっても下手なままなんだなぁ、影が上手く使えてねぇんだよなぁ、と。

 さて、評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かい事はもうでーでもいーや。自走三脚式重カメラのシーンと「そのマチェットを強く握れ!」の本映像(劇中内映像だが)とが全く整合していないとか、「そのマチェットを強く握れ!」映写中の「劇中の観客」の主観描写がめちゃくちゃ過ぎるとか、の2点だけでもうお腹いっぱい。

 前者の例は、自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が「そのマチェットを強く握れ!」の本編映像に含まれていないこと。原作マンガでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台も自走三脚式重カメラのシーンも廃墟内なので、マンガ内の「そのマチェットを強く握れ!」本編描写で自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が描かれていなくとも、この種の矛盾が生じていないことを読者は十分受け入れ可能だろう。

 が、アニメでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台が廃墟ではないので、当然の帰結として矛盾だらけとなる。さらに、アニメ第3話で作品(「そのマチェットを強く握れ!」となる)のために三人で選んだ廃墟っぽいロケーションって何だったの、ともなる。つまり、第3話で作り手自らが描いたものに対して、第4話ではそれと矛盾する内容が描かれている。そう、二重に捻じれているのだ。

 原作では「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「廃墟」で少女と戦車を戦わせた。アニメでは「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「岩場のある荒野」で少女と戦車を戦わせた。台無しですよ、奥さん。結局、第3話の時点で引っかかっていた点の一つはこの可能性だったのかと納得。

 これらの捻じれは、アニメの作り手は原作もちゃんと読めていない、自分たちが以前にやったことも理解していないか覚えていないということを意味していないかな?少なくとも見かけ上はそうだ。

 しんどい。

 まぁ浅草閣下、「屈辱的な背景の繰り返し横スクロール」を本編で使わずに済んで良かったね。あと、横方向に延びるレンズフレアは見栄えが良いからJJでなくてもつい使っちゃうよね、画から想定されるレンズがそうでなくてもさ。

 後者の例は、予算審議会会場(上映会場でもある)内で煙を上げる空薬きょうの描写。観客であるモブキャラの主観シーンだが、予算審議会会場に空薬きょうが実際には存在しなかったことを示唆する描写はなかった。作り手は視聴者にどのような忖度を要求しているのだろう。あの描き方だと、空薬きょうが本当にスクリーンから飛び出して予算審議会会場に存在した、という解釈が視聴者にとっては自然ではないか。モブキャラが目頭を押さえた後に見直したら空薬きょうが無くなっていて、思わず「これは凄い」って感じの表情を見せる・・・なんて方が「まるでスクリーンから空薬きょうが飛び出してきたように感じる迫力ある映像」の演出としてむしろ素直ではないか。「シーンが変われば無かったことに」は、この原作に対して使って良い手じゃない。

 しんどい、しんどい。

 一貫性とか論理性の有無は細かい話じゃないよ、有ることが大前提。作品に一貫性とか論理性を与えるのは知性の一種の発露(か、記憶力ぐらいあることの証明)であって、作品を物語たらんとしたければ踏み外しちゃいけないんだ。

 私の見るところ、原作マンガは時に複数話にわたる伏線未満の細かい整合性にも細かく目くばせしている、繊細だ(ただし、タヌキが武器だったネタみたいに、伏線回収とともにぽいぽい捨てることが多い)。「細かすぎて伝わらないんじゃないの」と思うような描写に、その後の回でさらっと触れている場合もある。マンガのお約束とでも呼ぶべき弾力性の高い(抵抗なく忖度できることが多い)枠組みにサポートされている点もあろうが、それはどんなマンガでも同じことである。

 一方アニメ版は、少なくとも第4話まで観る限り、著しく作り手に繊細さが欠けている。

 あと、劇中アニメ(アニメ中アニメ、となる)では輪郭線を使わない、っていう第1話来の処理の意図や論理がさっぱり分からず、これもしんどい。

0 件のコメント:

コメントを投稿