2014/07/04

お勧め、ナンバタタンのアルバム「ガールズ・レテル・トーク」

 何周遅れだよ、というエントリタイトル通りのお話。

 何時からか、アルバム(音楽ね)全体でも一つの作品、と思えるものに出会えなくなった。

 LPレコード(直径30cm)の、A面、B面の存在とか、頑張ってもトータルで1時間にちょっと足らない収録時間とかには魔法がかかっていたのかも知れない。CDの収録可能時間は連続した70分超だが、案外このあたりが「アルバムの作品化」という行為を殺す要因だったりするのかも、と言うことだ。そして今や楽曲の流通は楽曲単位のデジタルデータが主流となり、「アルバム」という概念すら失われつつ・・・いや、媒体の仕様に依存した収録時間の制約がなくなった現在こそ、CDの登場で失われた「アルバムという作品」の復活・・・なんてことにならないかなぁ・・・とか真面目に日々考えてる訳です。

 で、ナンバタタンのアルバム「ガールズ・レテル・トーク」は、昨今にあっては極めて「単一の作品」感が強い一品。

 こういうものは何回も聞くことでじわじわと効いてくる、見えてくる。途中に1曲でもダレた楽曲が入れば即破綻、デジタル音楽プレーヤーの時代にあっては「アルバム」としては再生されなくなってしまう。本エントリの内容が周回遅れの理由のひとつは、「アルバムとしての作品性はじわじわ効いてくる」ものだから、とはっきり言い訳してしまおう。

 ちなみにこのアルバムの再生時間は合計で29分46秒、レコード盤の時代でもちょっと短いかなという長さだが、CD全盛期にあってはよっぽどアーチスト側に力がないとあり得ない長さとも言える。なんたって、収録可能時間の半分も使わないことになるんだから。裏を返せば、CD全盛期というのは「どうでも良い楽曲が量産された時代」だったのかもね。

 閑話休題。

 トータルの再生時間の短さは、本アルバムではかなり意図的なもの、というかアーチストの立場からはこの長さしかなかったんじゃないかと思う。足すものも引くものもない、高純度の作品群にして単一の作品ではないか、ということだ。楽曲個々については好き嫌いもあるから触れないが、アルバムタイトルにも含まれている「ズレてる」がおそらく全楽曲に共通するキーワードで、とにかくそれが徹底されているのがまず心地良いのだ。

 私としては、この「ズレてる」感を敢えて「それはアカンやろ」感と呼びたい。歌詞で語られる状況、その状況に対する歌詞における主体の反応ともに「それはアカンやろ」感がそこはかとなく漂う。うっすらとした「それはアカンやろ」感が次から次へと折り重なっていく、それがアルバム「ガールズ・レテル・トーク」を聞いての印象なのだ。

 しかも、その「それはアカンやろ」感は「不思議ちゃん的」なそれではなくて、と言っても「現実的」と呼ぶのも憚られる、より主観的な「日常的」とでも呼ぶべきそれなのだ。つまり、実生活ではするっと流してしまうような日常に潜む微かなズレ、或いは「まぁ、実際そんなもんだよねぇ」と笑って済ませて当人も気付かないズレ、とでも呼ぶべきものが誇張されることもなくそのまんま次々と現れるのだ。だが、ひとつひとつのズレが幾ら微かなものであっても、多数重なってくると馬鹿にできないズレとなる、「それはアカンやろ」感は無限大へと向かう。「新聞紙1枚でも折りたためればで月にも届く厚みになる」みたいなもんだ。

 と、ここまでは大絶賛なのだが、それ故に「ナンバタタン」としての今後はどうなの?と思わずにはいられない。

 「ナンバタタン」自体がパーマネントなユニットでない様なので気にしてもしょうがないのだろうが、「次」のハードルはおそろしく高い。 もし「ナンバタタン」としての引き出しが「ガールズ・レテル・トーク」で結実したものしか無いのなら、次は期待しちゃいけない。デビューアルバムは良かったのになぁ・・・というアーチストに事欠かない原因のひとつもそんなところにあると思う。引き出しが一つしかないのであれば一番最初が高純度なのは明らか、自作以降は文字通り蛇足にしかならない。さて、次はあるんでしょうかねぇ?

 ナンバタタンの楽曲が気になったならまずは聞いてみよう。

2014/07/03

アジアワッチ特別編:「反日」の正体が一瞬見えたような…(その3)

  本当はもうちょっと色々書くつもりだったんだけど、如何せん日本周辺の国際状況の変化が早すぎる。従って最低限言いたいことだけ記すことで、本シリーズを取り敢えず終わりとしたい。と言っても、「鋭い分析!」「新しい視点!」なんてものは存在しないからね、済まぬ。


 さて、未だにこんな事([東京小考] 三兄弟、長い葛藤の物語)を書く人(若宮啓文氏 日本国際交流センター・シニアフェロー 前朝日新聞主筆)が居て本当に困る。

 その件は1400年以上前に終わらせたのが日本(当時は倭国)だ。

 先人の苦労や知恵を無視し、まるでそれらが無かった様な振る舞いは、私の感覚からすれば「侮辱的」とも見える。

 西暦607年の第二回遣隋使が携えた国書には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)との記述があったと伝えられている。ここで重要な点は、「天子=皇帝(天皇)」であることだ。

 中華思想に基づく所謂「冊封体制」において、天の象徴たる「皇帝」は「中華を統べる天子」以外には存在しない。「冊封体制」とは、周辺地域を中華国家が直接支配するのではなく、周辺地域の支配者を一国の「王」と「中華の天子が認める」ことで権威付けし、対価として貢物(朝貢)を求めるという間接支配体制である。「冊封体制」における「属国」とは、「中華国家の天子が認めた王が治める国」ということになる。ここでは「天子=皇帝」-「王達」という明確なヒエラルキーが存在し、その頂点たる「天子=皇帝」は唯一絶対の存在となる。

 故に、日本(大和朝廷)が自国の王を「天子=皇帝」と称することは、中華思想或いは冊封体制の否定、これら枠組みからの明確な離脱の意思を示したも同然だ。別の言い方をすれば、「日本は中国の属国ではない」と宣言したと言ってよい。(韓国マスコミなどが天皇陛下を「日王」と表現することは、その地位や立場を一段貶めるというニュアンスを含んでいると見做されても仕方ない。時代が時代ならば、これは立派な宣戦布告や国交断交の理由とできるレベルの事案だ。日本人は「不勉強による無知」に対して全般的に甘すぎるのではないかという気もする。)

 なにぶん古い話なので真実が何処にあるかは正直分からない。 「大和朝廷は地理的に辺境であったことを利用し、(冊封体制に則った)礼儀を知らないふりをした」と論ずる人も居る。が、日本が自国の王を「天子」と称し、それをその後も貫いたのは歴史的事実だろう。辺境、という地政学的なアドバンテージに助けられてか、或いはそれすら計算ずくの判断であったかは不明だが、何れにしてもそうなのだ。

 「中華人民共和国が長男、朝鮮半島国家が二男、日本が三男」というような構造が、歴史的に一度でも現れたことがあるのだろうか?少なくともここ1000年以上に渡り、そのような状況は現れなかった。少なくとも日本は一度それを明確に拒絶した。別にそれを誇るつもりも、誇る必要も感じないが、それを日本人自身が否定するのは先人に対して余りに失礼だと思う。

 視点を再び中共に戻す。中共は「中華思想的に正統性のない中華の支配者」だが、それを知りながら中華思想的言行を強める傾向が見て取れる。現在の中共の反日の正体は、自らが「中華思想的に正統性のない中華の支配者」という引け目の裏返しだと私は見る。だから歴代の中共の主流波は触れてこなかったし、実は「中華思想」も必要としなかった。「中華思想」や「反日」は反主流派が主流派を揺さぶるときに使う一種の手段に過ぎなかったのだ、かつては。

 が、中共主流派の劣化は「中華思想」に手を出すことを止められなかった。当初こそは反主流派の手札を封じるためだけだったのかもしれないが、それは一種の麻薬のようにいつのまにか手放せないものになった。「中華思想の導入」は単なる手段故に、直ぐにその導入の本来の意味は失われる。さらに時を経て、「中華思想」自体も形骸化し、自らの都合の良い枠組みのみが残るに至る。それはもはや他者を強圧するための手段としての機能しか持たない、「天子が天子たらんとすることが要求されない」、いじめの為のわがまま、甘えに与えられた名称に過ぎない。

 わがまま中共は、1400年以上前に「まっとうな中華思想」の枠組みから離脱した国家、日本が今も存在・・・文字通り「日帝」として、日本は「天子」を有するが故に今でも実質的に帝国である・・・することが単純に気に入らないのである。ところが、「日本が気に入らない」と思う資格が自らに無いことも同時に分かっているのである。このジレンマを解消する一つの方法は、中華民国(台湾)を吸収、同化し、清の正統な後継政府であることを宣言することである。これが、台湾と中共との関係、台湾に対する中共の振る舞いを理解するに、日本との関係性という視点も必要と考える所以である。

 だから、中共が中華思想から自由となった時こそが歴史の転換点足り得る。

 現在の中共は、本来は囚われる必然性の無い中華思想と言う一種のイデオロギーを自ら身にまとい、それに絡み取られて悶え苦しみ続けるマゾヒスティックな存在にしか見えない。それと較べれば、日本は飄々と自由に舞い続けているようにも見えよう。そして、そのように見える日本の姿も気に入らないのだろう。片や、今の韓国はどのように見えているのだろう?

 だが、中共にとっての負の連鎖はそう簡単に終わらない。何故かって?

 中華思想というイデオロギーを捨てることは、中華人民共和国という単一国家を維持する求心力をも捨てることになりかねないからだ。自らの数々の愚行を正当化できなくなるからだ。日本は現在の様に、中華思想なんかに頓着することなく振る舞い続ければ良いと思う。これはしばらく忘れられていた(本当は忘れていたんじゃなくて自分で色々と文献を漁っただけでも○○で××な感触を得ているのだが、ここは穏便に・・・)が、実は先人から引き継いだ知恵であり、捨てる必然性のない歴史的遺産だと思うのだ。

 「集団的自衛権の行使容認」は、今日的な政治力学の視点や、ここ1世紀ほどの地政学の視点だけで捉えるだけではなく、ここ1500年ほどの歴史に基づく視点からも捉えることで異なった意味合いをまとう。

「私達はあなた達が後生大事にしている手前勝手な世界観、それに基づくルールには一切従いません。あらためてになりますが、今回ももちろん本気ですのでよろしくね」

そして、このように歴史的文脈からこの事案を解釈できるのは、実は1400年程昔の「日本の中華思想的枠組みからの離脱、否定」の当時者の末裔たる中共と日本、もしかすると北朝鮮、だけなのだ。この辺りの機微は欧米諸国には分からないだろう。

 なお公平を期すために書いておくと、歴史的には朝鮮半島の国家も「中華思想的枠組みからの離脱、否定」を試み、実際に成功した事例もある。が悲しいかな、最後の王朝国家であり約600年間続いた李氏朝鮮が、その成立からして「中華思想的枠組み」に頼ったものであった。加えて歴史を直視しない多くの現在の住人には、「日本の1400年以上前の行動」が既にして理解の埒外ではないかと危惧する。まぁ、李氏朝鮮は江戸時代には何度も通信使を江戸に送ってんだよね。さぁて、どっちがお兄さんだったんでしょうかねぇ?そっちの流儀だと。

 江戸幕府将軍は「日王」でOK。

2014/07/02

研究者としてはサイテー

 時事、「STAP論文を撤回=英ネイチャーが発表-小保方氏は存在主張」から。
理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーらが1月末に発表したSTAP細胞論文2本について、英科学誌ネイチャーは2日、撤回を発表した。論文は生 後間もないマウスの細胞を弱酸性液に浸すだけで万能細胞になるとしたが、理研は実験画像の捏造(ねつぞう)などの不正行為があったと認定し、著者らに撤回 を勧告。小保方氏も同意していた。
ふむ。で?
 一方、小保方氏はSTAP細胞が存在するとの主張を変えておらず、…
ファっ?!

 言うべき事は以前に書いた事と変わらない。

 STAP細胞騒動がどうしようもなくアカデミックじゃない
 STAP細胞騒動について思うこと 

 あ、「言ってる事とやってる事がマッチしてない」のは研究者としては本当にサイテー。まだ下があったとはね。

2014/07/01

ふぁっ、まさにそれですよ

日本のマスコミはこういう大事な部分を隠して、「あれ、言ってませんでしたっけ?」みたいな顔をしてニュースを流すことが多い。その最たるものが「憲法9条」だ。

先ほどのリベラル系番組ではよく憲法9条を「世界でも唯一の平和憲法」とか言うが、これは正確ではない。駒沢大学名誉教授の西修氏が世界の憲法188を調べたところ、平和項目がある憲法は158もあった。さらに言えば、「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」という条文はイタリア(1947年)、アゼルバイジャン(1995年)にもあるという。

ちなみに、イタリアもベルルスコーニ首相の時にイラク戦争に参加しているし、アゼルバイジャンの軍隊もPKOでコソボ、アフガニスタン、イラクに派兵をしているだけではなく、NATO(北大西洋条約機構)も加盟する「平和のためのパートナーシップ」に加わった。「蟻の一穴」理論でいけば、両国とも権力者が平和憲法を無力化しているわけだから、軍国主義になっていなければいけないが、そういう話は聞こえてこない。

このことからも分かるようにマスコミ人の間では、「憲法9条」がらみでは多少話を盛ってもいい、みたいな免罪符がある。
さらに上記の引用部分の内容も踏まえると、次の引用部分は二重、三重に捻じれていてシュールなまでに秀逸。「当時者の無知(不勉強)」、「別の意図が疑われる『思いつき』」、「偏向報道(の疑い)」が重なってもはやこれは報道の名に値しない。全文に目を通して頂いて、引用元の文章が含む毒、秘めた切っ先の放つ鈍い輝きを味わって欲しい。
その象徴が『朝日新聞』が4月に出した「憲法9条にノーベル賞を 主婦が思いつき、委員会へ推薦」という記事だ。タイトルそのままの内容だと、9条に対してなんの思い入れもない奥様がある日、突然閃(ひらめ)いたみたいな印象を受けるかもしれないが、事実は違う。

この「主婦」なる女性は、キリスト教系の団体でさまざまな平和活動をしているのだ。だから、読者を誤解させないためには正しくはこう書かなくてはいけない。

「憲法9条にノーベル賞を 女性平和活動家が思いつき、委員会へ推薦」
つまりはそういうこと、付けたす言葉もありませんわ。

2014/06/30

是か非か、という話

 「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認」に関するTV報道がかまびすしい。

 憲法学者の発言などが報道されるが、編集のせいなのだろうか、言っていることは理解できるが全然学術的な話に聞こえない。おそらく、前提がカットされているので、論理性、文脈が完全に失われているためだろう。

 「憲法解釈の変更は姑息、本質的ではない」という主張はそれ自体は妥当と感じる。だが、その前提は何処にあるのだろう。

 これまでの憲法解釈を是とした発言か、それとも非とした発言か。憲法解釈が捻じれるという立ち位置か、逆に捻じれが解消されるが本質的では無いという立ち位置か。

 「従来通りを無条件に是とする態度」は思考停止以外の何物でもない。報道機関は自らの思考停止を他者に押しつけてはいけない。前提をカットした時点で、報道は偏向のそしりを免れ得ない。マスコミがキャンペーンを繰り広げるなんて唾棄すべき行為だ。

「70年代後半のどうでも良いアイドル歌謡」風?

 もはや周回遅れの話題。

 ニュース形式のとあるYoutube動画シリーズには替え歌のコーナーがある。で、ある回で基本的に知らない楽曲が使われていた。ざっくり言えば、70年代のアイドル歌謡、それもアルバムには収録されるけどシングルカットはされない、どう考えたって穴埋め用みたいな何の面白みのないどうでも良い感じの楽曲。

 が、さすがにサビだけは知っていた。そう、その楽曲とは「恋するフォーチュンクッキー」。

 ググってみると作曲者は60~80年代の楽曲への造詣が深いらしい。もし「70年代後半のどうでも良いアイドル歌謡」風を狙って作ったのならこれは大成功作だ。歌い易いが楽曲としては全く魅力がない、かつ特定の時代を想起させる、なんてちょっとやそっとじゃできない。「平成生まれには絶対そこが分からない」ってところもポイント高し。

 ぶっちゃけこれは大絶賛な訳です、このブログでは珍しく。

 でもまぁ、一生フルで聞くことは無いでしょう。タダでもいらないっす。

2014/06/29

超絶!前脚が出なくったってハリアーⅡなら着艦OK!

 故障で前脚が出なくなった米海兵隊のAV-8Bが見事に着艦。何が凄いって、整備用?の台みたいなものにぴったりと機首を乗せてしまいます。う~ん、これぞプロフェッショナル。

 百聞は一見に如かず。

2014/06/27

ウォン高進行、いかんともし難し?:破 2.02

 本ブログの基本姿勢は、「事実から始めて明後日な方向までいってみよう」だ。

 昨日のエントリの内容は、まぁ無難な感じてリープ感には欠けた。理由は状況を極力客観視しようしたことで、リープのための別の軸の導入を忘れていた。分かり易い別の軸の例として「××の立場に立って事象を眺めてみる」がある。では早速。

 中共の立場に立って事・・・・・・・わわわわ、まさか!!

追記(2014/06/28)

 ここでは「中共が何かやっているかも」だけでなく、「中韓接近に対して、韓国または第三者が何かやっているのかも」 という視座も忘れないようにしよう。

2014/06/26

ウォン高進行、いかんともし難し?:破

 いつもと違う、は重要だ。何らかのシグナルの可能性がある。

 今日は対ドルウォン高の進行が止まらない。実は昨日からいつもと違う。じゃあ、いつもはどうかと言うと、
  • 午前9時にウォン高進行開始。
  • 午後3時にウォン安進行開始。これが「韓国の不透明な為替介入」が疑われる主要な原因だ。時刻から「江頭介入」とか「エガちゃん介入」などと呼ばれているようだ。
といった具合。昨日(6/25)はと言うと 、
  • 午前9時からウォン安進行開始。
と、明らかにこれまでと違う展開だ。で、今日(6/26)はと言うと、
  • いつも通りに午前9時にウォン高進行開始。
  • 午後3時を過ぎてもウォン高進行継続。
といった新展開。下図は左端が6/24 0:00だ。
正直なところウォン安進行要因はないから、ウォン高は必然と思える。

 ただし、経済政策としての為替介入はざっくり一定のルールの下では許される。ルールその1は、「介入規模、時期を公表すること」、つまり為替介入には透明性が求められる。ルールその2は「急激な為替変動を抑えるためのオペレーションであること」、つまり為替変動をまろやかにするまでは良いが為替レートそのものを特定の値に誘導するようなオペレーションは許されない。疑われている韓国の為替介入は非公開かつウォン安誘導、すなわち2つのルールともに破っていることになるから非難の対象となるのだ。

 邪推を許してもらえれば、下記のような事態が推定できる。

 推定1
  • 昨日(6/25)午前9時からの対ドルウォン安進行は韓国の非公開の為替介入による。ついにエガちゃん介入から更に一歩踏み込んだということだ。
  • この為替介入に、いよいよどこか(米国商務省とかIMFとか)が韓国に非公式に抗議、或いは警告した。つまり、韓国は一線を越えたと判断された。
  • 今日(6/26)は韓国の為替介入オペレーションが実施されていない、或いは規模が大幅に縮小されて効果が見えない。 

 推定2
  • 韓国に為替介入オペレーションに必要なドルが一時的に無くなった。原因にはドル建て国債の償還、昨日の為替介入オペレーションが大規模過ぎたことなどが考えられる。

 推定3 これは昨日時点で可能性を考えたもの。いわば最悪のシナリオだ。
  • 市場自体が対ドルウォン安を指向し始めた。つまり、ウォン大暴落の開始である。

 今日の状況を見ると推定3は幸いにして無いようだ。とは言え、今後も状況を見守っていく必要はある。はたして「急」はあるか?

2014/06/25

"The Interview"トレーラー

 北朝鮮が舞台となった映画と言えば、「ステルス」(人民軍がちょっとカッコいい)とか「チーム・アメリカ」(笑)とか「ダイ・アナザー・デイ」(ほとんどSci-Fi)とか。本作も舞台は北朝鮮の模様。主人公たちは"Kim Jong-un"暗殺のために平壌に乗り込むようですよ。無慈悲!まさに無慈悲!