何周遅れだよ、というエントリタイトル通りのお話。
何時からか、アルバム(音楽ね)全体でも一つの作品、と思えるものに出会えなくなった。
LPレコード(直径30cm)の、A面、B面の存在とか、頑張ってもトータルで1時間にちょっと足らない収録時間とかには魔法がかかっていたのかも知れない。CDの収録可能時間は連続した70分超だが、案外このあたりが「アルバムの作品化」という行為を殺す要因だったりするのかも、と言うことだ。そして今や楽曲の流通は楽曲単位のデジタルデータが主流となり、「アルバム」という概念すら失われつつ・・・いや、媒体の仕様に依存した収録時間の制約がなくなった現在こそ、CDの登場で失われた「アルバムという作品」の復活・・・なんてことにならないかなぁ・・・とか真面目に日々考えてる訳です。
で、ナンバタタンのアルバム「ガールズ・レテル・トーク」は、昨今にあっては極めて「単一の作品」感が強い一品。
こういうものは何回も聞くことでじわじわと効いてくる、見えてくる。途中に1曲でもダレた楽曲が入れば即破綻、デジタル音楽プレーヤーの時代にあっては「アルバム」としては再生されなくなってしまう。本エントリの内容が周回遅れの理由のひとつは、「アルバムとしての作品性はじわじわ効いてくる」ものだから、とはっきり言い訳してしまおう。
ちなみにこのアルバムの再生時間は合計で29分46秒、レコード盤の時代でもちょっと短いかなという長さだが、CD全盛期にあってはよっぽどアーチスト側に力がないとあり得ない長さとも言える。なんたって、収録可能時間の半分も使わないことになるんだから。裏を返せば、CD全盛期というのは「どうでも良い楽曲が量産された時代」だったのかもね。
閑話休題。
トータルの再生時間の短さは、本アルバムではかなり意図的なもの、というかアーチストの立場からはこの長さしかなかったんじゃないかと思う。足すものも引くものもない、高純度の作品群にして単一の作品ではないか、ということだ。楽曲個々については好き嫌いもあるから触れないが、アルバムタイトルにも含まれている「ズレてる」がおそらく全楽曲に共通するキーワードで、とにかくそれが徹底されているのがまず心地良いのだ。
私としては、この「ズレてる」感を敢えて「それはアカンやろ」感と呼びたい。歌詞で語られる状況、その状況に対する歌詞における主体の反応ともに「それはアカンやろ」感がそこはかとなく漂う。うっすらとした「それはアカンやろ」感が次から次へと折り重なっていく、それがアルバム「ガールズ・レテル・トーク」を聞いての印象なのだ。
しかも、その「それはアカンやろ」感は「不思議ちゃん的」なそれではなくて、と言っても「現実的」と呼ぶのも憚られる、より主観的な「日常的」とでも呼ぶべきそれなのだ。つまり、実生活ではするっと流してしまうような日常に潜む微かなズレ、或いは「まぁ、実際そんなもんだよねぇ」と笑って済ませて当人も気付かないズレ、とでも呼ぶべきものが誇張されることもなくそのまんま次々と現れるのだ。だが、ひとつひとつのズレが幾ら微かなものであっても、多数重なってくると馬鹿にできないズレとなる、「それはアカンやろ」感は無限大へと向かう。「新聞紙1枚でも折りたためればで月にも届く厚みになる」みたいなもんだ。
と、ここまでは大絶賛なのだが、それ故に「ナンバタタン」としての今後はどうなの?と思わずにはいられない。
「ナンバタタン」自体がパーマネントなユニットでない様なので気にしてもしょうがないのだろうが、「次」のハードルはおそろしく高い。 もし「ナンバタタン」としての引き出しが「ガールズ・レテル・トーク」で結実したものしか無いのなら、次は期待しちゃいけない。デビューアルバムは良かったのになぁ・・・というアーチストに事欠かない原因のひとつもそんなところにあると思う。引き出しが一つしかないのであれば一番最初が高純度なのは明らか、自作以降は文字通り蛇足にしかならない。さて、次はあるんでしょうかねぇ?
ナンバタタンの楽曲が気になったならまずは聞いてみよう。