2014/07/10

New Order/Bizarre Love Triangleのビデオクリップ

 "New Order"の楽曲"Bizarre Love Triangle"はマイエバーグリーン。ちなみに、これ以外で"New Order"の好きな楽曲は無い(笑)まぁこの手のパターンは、"Public Image Limited"の"This Is Not A Love Song"とか、"The Flying Lizards"の"Money"とか、"M"の"Pop Musik"とか、実は少なくないと言う(笑)
 
 ひょんな拍子からオフィシャルのビデオクリップをYoutubeで発見、自分の為に貼っておこう 。このビデオクリップに関しては、当時ピーター・バラカンさんが絶賛していたことが印象深かったなぁ・・・
 で、 ビデオクリップでは楽曲には無い男女の会話シーンが挿入されてます。雰囲気と不真面目具合を優先するとこんな感じの会話ですよということで、興味を持った奇特な方は2:48辺りだけ聞いて下され。女性の言葉をより正確に訳せば「私は生まれ変わり(リインカーネーション)なんて信じない。何故って虫(バグ)や兎なんかとしてこの世に戻って来るなんてご免だわ!」って感じかなぁ。

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 関連エントリ:SynthMasterの買い方

2014/07/08

「ゴジラ」、やっぱり上手い

 映画「ゴジラ(昭和29年)」を初めて観たのはかれこれ30年近く前、自宅近くの小さな映画館(おそらく20席以下)を貸し切り状態(つまり客は私だけ)でのことだ。当時もとっても感心したのだが、今TVで観ながらそれを追体験している。

 何が感心するって、まずカットのつなぎ方が出色だ。単に画をつなぐという話ではなく、つなぎ部分の音響効果や音楽も計算されたものだろう。暗転、ゴジラの鳴き声、着陸した飛行機のカットへといったつなぎ方は実に見事だ。ワイプかフェードか、カットのつなぎ方の選択にも文脈、明確な意図が感じられる。とにかくワイプ、というジョージ・ルーカス氏の作風と全く違う。モンタージュによるカットの切り替えタイミングは総じて早めで、人や乗り物の移動感を殺さず、極めてリズミカルである。その代わり、時間の経過はカットの切り替えを使って効率良く(?)省略されている。

 カット自体も、静止画的なものか登場人物などの移動を追うものかなどの区別が明確で、よく吟味されていると思う。移動や撮像対象の配置には左右だけでなく奥行き方向も使う。このようなカット構成は結果として「カメラの存在」を観ている側に強く意識させる。本多猪四郎監督のタッチはドキュメンタリーのそれに近いと言われるが、「カメラの存在」とドキュメンタリーは不可分だ。ただし、カメラそのものの動きは限定的というか、おそらく最小限に抑えられている。「如何にも手持ちカメラ風」のぶれが加われば、10年程前に流行った私が大嫌いな「ドキュメンタリー風の絵作り」に極めて近い風合いになるだろう。

 それをやらないのが「品格」というものだ。

 特殊撮影を担当した円谷英二氏がキャメラマン出身というのもポイントだ。特殊撮影カットも本編と類似した「品格」を備えている。これは本作品にとってとても幸せなことだ。

 伊福部昭氏の音楽自体、音楽作品に対する評価を近年良く耳にするようになったのは嬉しい限り。同時期の劇音作家の中では突出してリズム重視の作風と言える。メインタイトルの楽譜にゴジラの足音や鳴き声のタイミングまで書かれていたのは有名な話だが、映画が総合芸術たらんとすればこの種のこだわりは必須だろう。映画「日本誕生」や「わんぱく王子の大蛇退治」に見られる画と音楽の見事な同期、それらが産み出す相乗効果は圧巻だ。

 さて、「ゴジラ」の放送も終ろうとしている。

 最後に原作の香山滋氏に少し触れておきたい。香山滋氏は今ならばホラーとミステリの境界領域、かつて変格探偵物と呼ばれた分野の作家だ。80年代後半にこの分野の再評価ムーブメントがあり、復刻版の発売や古本屋周りの甲斐あって彼の作品はほぼ全作読んでいる。

 劇中、古生物学者の山根博士が「200万年前のジュラ紀」と発言する。が、実際のジュラ紀は約1億5000万年前であり、200万年前は石器時代である。このようなケアレスミスを香山氏が犯すとは考えにくい、むしろ意図的と見做すべきだろう。比較的受け入れられている解釈は、「ゴジラは人類そのもの、核兵器を作り自らの生存すら脅かす特異な生き物のメタファー」というものだ。香山氏の作風は良く言えばロマンチック、時に過剰なまでに感傷的、悲観的だ。「ゴジラが核兵器ではなく人類そのもののメタファー」という視点に立つと、ラストの山根博士のセリフの意味合いも違って聞こえないかな?

2014/07/07

米国の「失望」、キャンペーンが始まってるかも:||???

 ウォール・ストリート・ジャーナルの記事、「【オピニオン】なぜ日本の軍事シフトは韓国にとって必要か」。

 大した事は書かれていない。タイトルから予測できる常識的な普通の内容だ。だが、知っている人なら、執筆者がランド研究所(米国のシンクタンクのひとつ)のアナリストだというだけで直ぐに記事の意図を察することもできよう。

 米国は世論誘導にシンクタンクの「見解」を良く使う。と言うより、世論誘導もシンクタンクに求められる役割なのだろう。米国ないしは米軍の意図がどの辺りにあるか推定するのも一興かと思う。書かれていないこと(記事中で触れられていない国とか)も重要、かもね。

2014/07/06

「集団的自衛権の行使容認のメリット、デメリットが分からない」って・・・

 点けっぱなしのTVの報道番組で「集団的自衛権の行使容認のメリット、デメリットが分からない人40%」とかやっている。実際に、「集団的自衛権の行使容認のメリット、デメリットが分からない」なんてインタビューに答える人なんかが映し出されている。

  馬鹿か? 「集団的自衛権の行使容認を自国、友好国にとってメリットあるもの」にしていくことが単に求められているだけで、「集団的自衛権の行使容認決定」自体は日本人にとっては特にメリットもデメリットもないぞ。

  韓国や中共に限っては、現政権の他の動きと合わせて様々なメッセージにはなっているようだけどね。あと、国内の××や○○のあぶり出しとか。 TV報道だけでも具体的に色々と分かったね(笑)

  首相に「メリット、デメリットをちゃんと説明せよ」という解説者の説明はおかしい。日本の主権者は有権者である国民だ。国民が思考停止してどうする。「自分の命にも関わりかねない事案への対応方法について、主体的に選べる選択肢が増えたんだぞ」って捉えられんのかね。

 「行使できるけど行使しない」っていう状態、つまり現状維持すらも明確に「主体的な選択対象」になったんだ。例え現状維持という結論に結局なったとしても、それが主体的な選択なら「与えられた/従わされた」状態とは本質的に違うんじゃないの?

 「主体的選択に対してフリーハンドを確保する」ことの重要さ、裏を返すと「フリーハンドを自ら縛るとどうなるか」は、韓国の現状や最近の日朝間の動きなどを見れば幾分でも分かろうもの。歴史はもちろん、現代のリアリティ (現実)もしっかり直視していきましょうよ。

  まぁ、海外関係諸国への言外のメッセージを首相や政府要人が口にすることは、日本にとってデメリットはあってもメリットは全くない。外交としては正解、内政にあっては「思考停止者発見メカニズム」、「○○、××発見メカニズム」として十二分に機能している。先の記述内容とは矛盾するけど、後者はちょっとリスクは伴うものの実は大きなメリットと見做せなくもない。「考えている人」、「自ら調べることをいとわない人」には言わずもがななんだろうけどさ。

 現首相の動きは実に素早い。だからこそ、それぞれの事案を単独で捉えようとするのではなく、それらが全体像(ビッグピクチャー)のどこのピースなのかという視点無くして、すなわち自ら考えることなくして、その動きを追い続けることはできないのは明らかだ。もちろん、無批判に現政権の全てを受け入れるなんて愚も犯さないようにしなければならないよ。個人的には内政に対して苦言のひとつやふたつはあるし、国益の観点から現行内閣人事が幾つかの爆弾を抱えているのも確か。

  幸いにして、報道は「今後の法整備に関する国会議論を国民は注視していく必要がある」と結ばれた。なんとか品位は保てたようで良かったね。

2014/07/05

オクラホマ州の地震急増、原因は?

 本ブログのエントリ内容をフォローしている奇特な方なら、私が「シェールガス/オイル革命」に極めて懐疑的だということは知っていると思う。より正確を期すならば、資源としてのシェールガス/オイルは否定しないが、安いという経済メリットに対して採掘に伴う環境破壊リスクが過小評価されているのではないかという懸念は未だ拭えない。むしろ、私の懸念を後押しするような報道が目につくようになってきた気もしなくない。

 経済性については、「当初見込んだ採掘コストが低すぎた」ことも原因とする問題に供給業界全体が苦しんでいるらしい。要は、現時点のシェールガス/オイルの市場価格が採掘・精製・輸送コストに比して不当に低く、構造的に儲からなくなっているらしい。

 ご存じの通り、発電などのエネルギー用途の化石燃料の供給価格は、実際の供給に先立つ2年ほど前に契約で決めてしまう。だから現在供給されているシェールガス/オイルの価格は、実はほぼ商用規模での供給実績がない段階で決められた値ということになる。「当初見込んだ採掘コストが低すぎた」となれば、それはダイレクトに適正価格と実際の価格との差として表れてしまう。従ってシェールガス/オイルの市場価格調整は更に年単位の期間が必要だが、天然ガス価格の低迷などもあっておいそれとは価格を上げにくい状況となっているのだそうだ。

 「シェールガス革命」には、低コストな採掘手法「岩盤破砕法」の実用化の寄与が大きい。この手法はシェールガスを含む岩盤層に高圧水を注入して岩盤を砕くとともに発生したガスを水ととともに回収する方法だ。ちょっと考えれば分かるように、これは岩盤をひびだらけにしてそのまま放置するということを意味する。もうかれこれ3年程前の報道で、「岩盤破砕法」によって地下水脈の流れが完全に変わってしまったというものがあった。より具体的に触れると、シェールガス採掘場に隣接する一般家庭や農家の水蛇口から可燃性ガスが出るようになったり、何にも出なくなったりしたということだ。地下水を使っていた大規模農場は経営危機、が、「因果関係が明確ではない」ということでシェールガス採掘業者の責任も問われていないとか、かなりしっちゃっかめっちゃかな話だった。続報が無いので現在その辺りがどうなったのかは不明だが、展開によっては「採掘場近隣住民、農場へ落とすお金」もシェールガスのコストに上乗せせざるを得ない状況になっている可能性もある。

 で、これは最近の報道。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事、「米オクラホマ州の地震急増、石油とガス掘削が関連」から。
米中部オクラホマ州で最近、マグニチュードが低い地震が急増しているが、科学者たちは、これは石油と天然ガス掘削によって生じた膨大な量の廃水を地下処分していることが引き金になっている公算が大きいとの見方を示している。

オクラホマ州では地震はこれまでまれにしか発生していなかった。2008年以前には、同州でマグニチュード3以上の地震は毎年わずか1回程度だった。ところが、今年これまでに、同州ではこの規模の地震が230回発生している。これはカリフォルニア州で記録された地震数を上回っている。
 原因が「岩盤破砕法」を含むかどうかは記事からは分からないが、採掘自体が無視できない新たな社会的リスク源になっている可能性を示唆する内容であることは間違いない。

 シェールとは関係ないけど、米国カリフォルニアには太陽はあっても地上に水がほとんど無い。だからカリフォルニアの農場では地下水を汲み上げて使うことになる。が、地下水の汲み上げ量が増加した結果、1990年代には地下水位が低下してカリフォルニアの農業地域全域に渡って地下空洞が広がっているとの研究結果が出されたことがある。

 岩盤破砕、地下空洞の形成は、すくなくともこれまでは単独では地上に悪影響を及ぼしてきていないように見える。が、どちらも規模は大きくなっていくし、やがて重畳することもあるかもしれない。自然災害というのは概して「1+1が10や100になる」ものだ。リスクコミュニケーションが必要なのは原子力だけじゃない。

追記(2014/7/6):

 やはりウォール・ストリート・ジャーナルから、「ドイツ、シェールガス採掘を停止へ―7年後に再検討」 。
ドイツは今後7年間にわたってシェールガスの採掘を停止する。採掘によって地下水が汚染されるとの懸念を受けた措置。

ヘンドリクス環境相は4日、「ドイツでは当面、(シェールガスの)フラッキングは行われない」と述べた。

2014/07/04

お勧め、ナンバタタンのアルバム「ガールズ・レテル・トーク」

 何周遅れだよ、というエントリタイトル通りのお話。

 何時からか、アルバム(音楽ね)全体でも一つの作品、と思えるものに出会えなくなった。

 LPレコード(直径30cm)の、A面、B面の存在とか、頑張ってもトータルで1時間にちょっと足らない収録時間とかには魔法がかかっていたのかも知れない。CDの収録可能時間は連続した70分超だが、案外このあたりが「アルバムの作品化」という行為を殺す要因だったりするのかも、と言うことだ。そして今や楽曲の流通は楽曲単位のデジタルデータが主流となり、「アルバム」という概念すら失われつつ・・・いや、媒体の仕様に依存した収録時間の制約がなくなった現在こそ、CDの登場で失われた「アルバムという作品」の復活・・・なんてことにならないかなぁ・・・とか真面目に日々考えてる訳です。

 で、ナンバタタンのアルバム「ガールズ・レテル・トーク」は、昨今にあっては極めて「単一の作品」感が強い一品。

 こういうものは何回も聞くことでじわじわと効いてくる、見えてくる。途中に1曲でもダレた楽曲が入れば即破綻、デジタル音楽プレーヤーの時代にあっては「アルバム」としては再生されなくなってしまう。本エントリの内容が周回遅れの理由のひとつは、「アルバムとしての作品性はじわじわ効いてくる」ものだから、とはっきり言い訳してしまおう。

 ちなみにこのアルバムの再生時間は合計で29分46秒、レコード盤の時代でもちょっと短いかなという長さだが、CD全盛期にあってはよっぽどアーチスト側に力がないとあり得ない長さとも言える。なんたって、収録可能時間の半分も使わないことになるんだから。裏を返せば、CD全盛期というのは「どうでも良い楽曲が量産された時代」だったのかもね。

 閑話休題。

 トータルの再生時間の短さは、本アルバムではかなり意図的なもの、というかアーチストの立場からはこの長さしかなかったんじゃないかと思う。足すものも引くものもない、高純度の作品群にして単一の作品ではないか、ということだ。楽曲個々については好き嫌いもあるから触れないが、アルバムタイトルにも含まれている「ズレてる」がおそらく全楽曲に共通するキーワードで、とにかくそれが徹底されているのがまず心地良いのだ。

 私としては、この「ズレてる」感を敢えて「それはアカンやろ」感と呼びたい。歌詞で語られる状況、その状況に対する歌詞における主体の反応ともに「それはアカンやろ」感がそこはかとなく漂う。うっすらとした「それはアカンやろ」感が次から次へと折り重なっていく、それがアルバム「ガールズ・レテル・トーク」を聞いての印象なのだ。

 しかも、その「それはアカンやろ」感は「不思議ちゃん的」なそれではなくて、と言っても「現実的」と呼ぶのも憚られる、より主観的な「日常的」とでも呼ぶべきそれなのだ。つまり、実生活ではするっと流してしまうような日常に潜む微かなズレ、或いは「まぁ、実際そんなもんだよねぇ」と笑って済ませて当人も気付かないズレ、とでも呼ぶべきものが誇張されることもなくそのまんま次々と現れるのだ。だが、ひとつひとつのズレが幾ら微かなものであっても、多数重なってくると馬鹿にできないズレとなる、「それはアカンやろ」感は無限大へと向かう。「新聞紙1枚でも折りたためればで月にも届く厚みになる」みたいなもんだ。

 と、ここまでは大絶賛なのだが、それ故に「ナンバタタン」としての今後はどうなの?と思わずにはいられない。

 「ナンバタタン」自体がパーマネントなユニットでない様なので気にしてもしょうがないのだろうが、「次」のハードルはおそろしく高い。 もし「ナンバタタン」としての引き出しが「ガールズ・レテル・トーク」で結実したものしか無いのなら、次は期待しちゃいけない。デビューアルバムは良かったのになぁ・・・というアーチストに事欠かない原因のひとつもそんなところにあると思う。引き出しが一つしかないのであれば一番最初が高純度なのは明らか、自作以降は文字通り蛇足にしかならない。さて、次はあるんでしょうかねぇ?

 ナンバタタンの楽曲が気になったならまずは聞いてみよう。

2014/07/03

アジアワッチ特別編:「反日」の正体が一瞬見えたような…(その3)

  本当はもうちょっと色々書くつもりだったんだけど、如何せん日本周辺の国際状況の変化が早すぎる。従って最低限言いたいことだけ記すことで、本シリーズを取り敢えず終わりとしたい。と言っても、「鋭い分析!」「新しい視点!」なんてものは存在しないからね、済まぬ。


 さて、未だにこんな事([東京小考] 三兄弟、長い葛藤の物語)を書く人(若宮啓文氏 日本国際交流センター・シニアフェロー 前朝日新聞主筆)が居て本当に困る。

 その件は1400年以上前に終わらせたのが日本(当時は倭国)だ。

 先人の苦労や知恵を無視し、まるでそれらが無かった様な振る舞いは、私の感覚からすれば「侮辱的」とも見える。

 西暦607年の第二回遣隋使が携えた国書には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)との記述があったと伝えられている。ここで重要な点は、「天子=皇帝(天皇)」であることだ。

 中華思想に基づく所謂「冊封体制」において、天の象徴たる「皇帝」は「中華を統べる天子」以外には存在しない。「冊封体制」とは、周辺地域を中華国家が直接支配するのではなく、周辺地域の支配者を一国の「王」と「中華の天子が認める」ことで権威付けし、対価として貢物(朝貢)を求めるという間接支配体制である。「冊封体制」における「属国」とは、「中華国家の天子が認めた王が治める国」ということになる。ここでは「天子=皇帝」-「王達」という明確なヒエラルキーが存在し、その頂点たる「天子=皇帝」は唯一絶対の存在となる。

 故に、日本(大和朝廷)が自国の王を「天子=皇帝」と称することは、中華思想或いは冊封体制の否定、これら枠組みからの明確な離脱の意思を示したも同然だ。別の言い方をすれば、「日本は中国の属国ではない」と宣言したと言ってよい。(韓国マスコミなどが天皇陛下を「日王」と表現することは、その地位や立場を一段貶めるというニュアンスを含んでいると見做されても仕方ない。時代が時代ならば、これは立派な宣戦布告や国交断交の理由とできるレベルの事案だ。日本人は「不勉強による無知」に対して全般的に甘すぎるのではないかという気もする。)

 なにぶん古い話なので真実が何処にあるかは正直分からない。 「大和朝廷は地理的に辺境であったことを利用し、(冊封体制に則った)礼儀を知らないふりをした」と論ずる人も居る。が、日本が自国の王を「天子」と称し、それをその後も貫いたのは歴史的事実だろう。辺境、という地政学的なアドバンテージに助けられてか、或いはそれすら計算ずくの判断であったかは不明だが、何れにしてもそうなのだ。

 「中華人民共和国が長男、朝鮮半島国家が二男、日本が三男」というような構造が、歴史的に一度でも現れたことがあるのだろうか?少なくともここ1000年以上に渡り、そのような状況は現れなかった。少なくとも日本は一度それを明確に拒絶した。別にそれを誇るつもりも、誇る必要も感じないが、それを日本人自身が否定するのは先人に対して余りに失礼だと思う。

 視点を再び中共に戻す。中共は「中華思想的に正統性のない中華の支配者」だが、それを知りながら中華思想的言行を強める傾向が見て取れる。現在の中共の反日の正体は、自らが「中華思想的に正統性のない中華の支配者」という引け目の裏返しだと私は見る。だから歴代の中共の主流波は触れてこなかったし、実は「中華思想」も必要としなかった。「中華思想」や「反日」は反主流派が主流派を揺さぶるときに使う一種の手段に過ぎなかったのだ、かつては。

 が、中共主流派の劣化は「中華思想」に手を出すことを止められなかった。当初こそは反主流派の手札を封じるためだけだったのかもしれないが、それは一種の麻薬のようにいつのまにか手放せないものになった。「中華思想の導入」は単なる手段故に、直ぐにその導入の本来の意味は失われる。さらに時を経て、「中華思想」自体も形骸化し、自らの都合の良い枠組みのみが残るに至る。それはもはや他者を強圧するための手段としての機能しか持たない、「天子が天子たらんとすることが要求されない」、いじめの為のわがまま、甘えに与えられた名称に過ぎない。

 わがまま中共は、1400年以上前に「まっとうな中華思想」の枠組みから離脱した国家、日本が今も存在・・・文字通り「日帝」として、日本は「天子」を有するが故に今でも実質的に帝国である・・・することが単純に気に入らないのである。ところが、「日本が気に入らない」と思う資格が自らに無いことも同時に分かっているのである。このジレンマを解消する一つの方法は、中華民国(台湾)を吸収、同化し、清の正統な後継政府であることを宣言することである。これが、台湾と中共との関係、台湾に対する中共の振る舞いを理解するに、日本との関係性という視点も必要と考える所以である。

 だから、中共が中華思想から自由となった時こそが歴史の転換点足り得る。

 現在の中共は、本来は囚われる必然性の無い中華思想と言う一種のイデオロギーを自ら身にまとい、それに絡み取られて悶え苦しみ続けるマゾヒスティックな存在にしか見えない。それと較べれば、日本は飄々と自由に舞い続けているようにも見えよう。そして、そのように見える日本の姿も気に入らないのだろう。片や、今の韓国はどのように見えているのだろう?

 だが、中共にとっての負の連鎖はそう簡単に終わらない。何故かって?

 中華思想というイデオロギーを捨てることは、中華人民共和国という単一国家を維持する求心力をも捨てることになりかねないからだ。自らの数々の愚行を正当化できなくなるからだ。日本は現在の様に、中華思想なんかに頓着することなく振る舞い続ければ良いと思う。これはしばらく忘れられていた(本当は忘れていたんじゃなくて自分で色々と文献を漁っただけでも○○で××な感触を得ているのだが、ここは穏便に・・・)が、実は先人から引き継いだ知恵であり、捨てる必然性のない歴史的遺産だと思うのだ。

 「集団的自衛権の行使容認」は、今日的な政治力学の視点や、ここ1世紀ほどの地政学の視点だけで捉えるだけではなく、ここ1500年ほどの歴史に基づく視点からも捉えることで異なった意味合いをまとう。

「私達はあなた達が後生大事にしている手前勝手な世界観、それに基づくルールには一切従いません。あらためてになりますが、今回ももちろん本気ですのでよろしくね」

そして、このように歴史的文脈からこの事案を解釈できるのは、実は1400年程昔の「日本の中華思想的枠組みからの離脱、否定」の当時者の末裔たる中共と日本、もしかすると北朝鮮、だけなのだ。この辺りの機微は欧米諸国には分からないだろう。

 なお公平を期すために書いておくと、歴史的には朝鮮半島の国家も「中華思想的枠組みからの離脱、否定」を試み、実際に成功した事例もある。が悲しいかな、最後の王朝国家であり約600年間続いた李氏朝鮮が、その成立からして「中華思想的枠組み」に頼ったものであった。加えて歴史を直視しない多くの現在の住人には、「日本の1400年以上前の行動」が既にして理解の埒外ではないかと危惧する。まぁ、李氏朝鮮は江戸時代には何度も通信使を江戸に送ってんだよね。さぁて、どっちがお兄さんだったんでしょうかねぇ?そっちの流儀だと。

 江戸幕府将軍は「日王」でOK。

2014/07/02

研究者としてはサイテー

 時事、「STAP論文を撤回=英ネイチャーが発表-小保方氏は存在主張」から。
理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーらが1月末に発表したSTAP細胞論文2本について、英科学誌ネイチャーは2日、撤回を発表した。論文は生 後間もないマウスの細胞を弱酸性液に浸すだけで万能細胞になるとしたが、理研は実験画像の捏造(ねつぞう)などの不正行為があったと認定し、著者らに撤回 を勧告。小保方氏も同意していた。
ふむ。で?
 一方、小保方氏はSTAP細胞が存在するとの主張を変えておらず、…
ファっ?!

 言うべき事は以前に書いた事と変わらない。

 STAP細胞騒動がどうしようもなくアカデミックじゃない
 STAP細胞騒動について思うこと 

 あ、「言ってる事とやってる事がマッチしてない」のは研究者としては本当にサイテー。まだ下があったとはね。

2014/07/01

ふぁっ、まさにそれですよ

日本のマスコミはこういう大事な部分を隠して、「あれ、言ってませんでしたっけ?」みたいな顔をしてニュースを流すことが多い。その最たるものが「憲法9条」だ。

先ほどのリベラル系番組ではよく憲法9条を「世界でも唯一の平和憲法」とか言うが、これは正確ではない。駒沢大学名誉教授の西修氏が世界の憲法188を調べたところ、平和項目がある憲法は158もあった。さらに言えば、「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」という条文はイタリア(1947年)、アゼルバイジャン(1995年)にもあるという。

ちなみに、イタリアもベルルスコーニ首相の時にイラク戦争に参加しているし、アゼルバイジャンの軍隊もPKOでコソボ、アフガニスタン、イラクに派兵をしているだけではなく、NATO(北大西洋条約機構)も加盟する「平和のためのパートナーシップ」に加わった。「蟻の一穴」理論でいけば、両国とも権力者が平和憲法を無力化しているわけだから、軍国主義になっていなければいけないが、そういう話は聞こえてこない。

このことからも分かるようにマスコミ人の間では、「憲法9条」がらみでは多少話を盛ってもいい、みたいな免罪符がある。
さらに上記の引用部分の内容も踏まえると、次の引用部分は二重、三重に捻じれていてシュールなまでに秀逸。「当時者の無知(不勉強)」、「別の意図が疑われる『思いつき』」、「偏向報道(の疑い)」が重なってもはやこれは報道の名に値しない。全文に目を通して頂いて、引用元の文章が含む毒、秘めた切っ先の放つ鈍い輝きを味わって欲しい。
その象徴が『朝日新聞』が4月に出した「憲法9条にノーベル賞を 主婦が思いつき、委員会へ推薦」という記事だ。タイトルそのままの内容だと、9条に対してなんの思い入れもない奥様がある日、突然閃(ひらめ)いたみたいな印象を受けるかもしれないが、事実は違う。

この「主婦」なる女性は、キリスト教系の団体でさまざまな平和活動をしているのだ。だから、読者を誤解させないためには正しくはこう書かなくてはいけない。

「憲法9条にノーベル賞を 女性平和活動家が思いつき、委員会へ推薦」
つまりはそういうこと、付けたす言葉もありませんわ。