少なくとも技術の世界においては、見たもの、読んだものから何を得たかはその人のレベルを推し量る一つの指標だ。重要なのは理解度なんて低いレベルの話ではなくて、如何なる解釈を導き出せるかにある。実話か作り話かはともかく、「落ちる林檎」の逸話はニュートンの非凡さを後世の人々に十分に伝えて余りある。
この観点に立てば、「誤った解釈しかできない人」は無能と見做すべきではなく、単に物事の解釈において何らかの壁があるだけと見做すべきとも言える。壁の内外では景色が違う、見える世界が違う、というのは単なる例えではなくて、「分かっている人」と「分かってない人」は実際に違う景色を見ながら違う世界を生きているのだ。
で、紹介するのは中央日報の記事「大震災時に自分の子供よりも学生世話した日本の教授…訓練の力」。
こんな解釈しかできないのがおそらく韓国の限界。全く「分かってない」のである。
我々大多数の日本人とは違う、おそらくより狭い世界の中を多くの韓国人が生きているということなのだろう。韓国が安定して本質を踏み外しながらそれに気付かない原因が、こんなところからも見える気がする。
何かを生み出そうとするなら、まず主体たれ。マニュアルなんて無いのが当たり前だ。
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