2014/05/18

「集団的自衛権行使容認」について思うこと

 こと「集団的自衛権行使容認」に関しては、公明党の山口代表の語る内容は論理的で真っ当だ。だが、それは「従来の解釈を無批判に是とする」限りにおいての話であって、「従来の解釈に問題がなかったのか」というところに踏み込んだとたんに論理は破綻する。とは言え、自民党の某衆院議員の発言には論理性の欠片も無く、語る内容を聴くだけでも苦痛だ。

 話が無意味に捻じれる原因のひとつは、議論の前提の論理的事実が必ずしも周知されていないことにある。大部分のマスコミが明確に報じてこなかった罪は大きい。何らかの意図があったのか、単にバカなのかの判断は保留しよう。最近は報道内容もちゃんとしてきたからね。

 「集団的自衛権」を日本は保有している。国際法上も、国連憲章上も明らかだ。

 議論の焦点は「行使するか否か」にあるのであって、「集団的自衛権の有無」ではない。ゴールデンウィークの朝○○○夕刊の素○○では、「集団的自衛権の行使容認を憲法の精神を捻じ曲げるもの」と表現したが、個人的にはこれまでの「行使しない」という立場の方が捻じれているとしか思えない。「集団的自衛権を持ちつつ、それを行使しない」という立ち位置の方が特殊であって、「持っている権利は行使できる」という当たり前の論理に従えば、「行使しないかどうか」は議論の対象にできるとしても、「行使できるかどうか」は議論の対象にすらならない。

 繰り返すけど、「日本の集団的自衛権保有」は国際的に認められた、日本国憲法の外、或いは上位にある概念なのである。自民党の某衆院議員の発言がなぜ論理的ではないかというと、「日本国憲法の枠内でしかない視点」から語りながら、「日本の集団的自衛権保有」まで触れるからである。「日本国憲法の枠内でしかない視点」なら「行使しないかどうか」という従来通りの範囲のことにしか触れてはいけない。

 本ブログを定期的にチェックしている人なら、2199批判とほとんど同じ論展開であることが分かるだろう。合理的、論理的整合性が大事な点は、アニメだろうが国際関係だろうが同じということだ。

 私は大枠では「集団的自衛権行使容認」の立場だ、というか「集団的自衛権を行使しない」という従来の憲法解釈がおかしいという立場だ。日米安保条約は軍事同盟であり、自衛隊はどう言い作ろうが軍隊だ。ナチス政権下でポーランド、フランスなどに侵攻したドイツ軍の名称が「国防軍」だったことを指摘しておこう。名称なんて意味はなく、名称や名目を利用するのは優れた知恵者か、単にずるいだけの人間のどちらかしかあり得ない。イノセントであろうとする人間は声を挙げる資格すらない。

 「集団的自衛権行使容認」に対する個人的な思いに少し踏込んでおくのが礼儀というものだろう。

 私が思うところは、「PKO、PKF参加自体をグレーゾーンとせず、議論の余地なき状態とする。基準が明確であれば参加しないという判断もあり」、「グレーゾーンを排し、海外からも日本がどう振る舞うかを分かるようにしておく」、「自衛隊員、国民が血を流すことになっても、その流した血が無駄にならない(新たな戦争を引き起こさない)ようなきっちりとした枠組みを明確にすること(この点はまだ具体案が明確にできていないが)」などだ。1点目は主に国内問題、2及び3点目は安倍首相の唱える「積極的平和主義」と関連が深い事項だ。

 要は、「日本の集団的自衛権行使容認」を進める以上、「戦争勃発の抑止力や地域安定」にプラスに働く運用枠組みを与えたい、という考え方だ。日本を国際社会で信頼される、つまりダブルスタンダートを用いず理と義(モラル、公正性)の観点から常に合理的かつ妥当に振る舞うプレーヤーたらしめたいという考えだ。この枠組み内では「力の大小」は機能しないため、「力による解決」のみを希求する主体をけん制できる実効性のある数少ない方法のひとつと言える。ただし、「力が無い」場合は問題外だ。

 従来の憲法解釈の維持は「戦争勃発の抑止力や地域安定」には毒にも薬にもならない、が、それは少なくとも地域情勢が変わらない限りにおいてのみである。それを望むナイーブな人達は、気付いていないだけで既に日常生活でも色々と損をしている可能性を指摘しておこう。バブル崩壊以降の国内状況、経済構造、制度構造の変化は実はけっこう大きくて、「考えない人」は切り捨てられる(セーフティネットをすり抜けてしまう)方向に明らかに進んでいるのだ。セーフティネットとしての集団的自衛権、それは至極当たり前のこととしか思えないのだ。

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