2020/01/28

2020年、自分への宿題(のひとつ)

 本エントリは昨年12月中旬に書いたもの、公開が1ヵ月以上遅れてしまった。まぁ、個人的なメモだ。なお、年を越してからWake Up, Girls!(WUG)に関わるテキストとしてよふかしさんのWUG関連のブログ記事を熟読、参考とさせて頂いた。WUG作品は観ていないどころか作品自体の存在すら知らなかったぐらいなので、テキストそのままを読解させてもらった。このため私のWUGに関するコンテクストの理解は、よふかしさんのそれを超えることはないどころか、多くの間違いを含んでいるだろうことを明記しておく。

 さて、

ここ最近は、YouTubeで公開されている岡田斗司夫ゼミを流し観していた。もともとは宇宙開発ネタ、SFネタ、特撮ネタ目当てだったが、私が高畑勲氏の作品が総じて苦手と言うか下品に感じてきた理由(と、「赤毛のアン」だけは例外でむしろ好きな理由)や宮崎駿氏の作品が総じて気持ち悪いというか下品に感じてきた理由(ヒロインに対するねっとりとした視点、とでも例えられそうなものの明確な存在)などが「分かった気になった(≒言語化されたが、自分の中でもまだ検証(validate)されておらず、血肉とはできていない)」など得るものがあった。

 そんな中、「観たけれど自分の中での処理は保留」、より具体的に言うと「登場した人物がしゃべった内容をそのまま理解するに止め、解釈や分析は今はしない(=読解しかしない)」とした回がある。映画・アニメ監督である山本寛氏との2016年における三回の対談()だ。後日知ることになるが、何のかんの言ってこの頃の山本氏の口頭における言葉の強さは2019年7月ごろに比べれば低い。相手が岡田氏ということも影響していたのかも知れないけれど。

 ちなみにこれら対談における山本氏の印象は、「おもろいけど、めんどくさそうなあんちゃん」だ。

 「あんちゃん」の部分は、私の方が明らかに年上ということによる慣用的な表現だ。他意は全くなく、私が年下だったら「おっちゃん」となるだけだ。「おもろい」には二つ意味があって、一つは「関西の間合いが分かってるので、万が一に話をする機会があったらとても楽しそう」、もう一つは「間違いなく頭良さそう」である。関東暮らしの長い関西文化圏出身者である私は「関西の間合い」に常に飢えていると言ってよい。また京都大学出身とのことなので、後は言わずもがな。ただ私はピュアにボケなので、まかりまちがって話す機会があっても上手くテンポが作れない可能性が高い、済まぬ。

 で、「めんどくさそう」は「ポストモダン」といった用語をポンっと使うところにある。若くて今よりも頭の回転が良かった時代にあっても筒井康隆氏の文学部唯野教授シリーズすら消化できなかった私には、文系のアカデミックな用語や概念に対して拭い難い苦手意識がある。つまり「めんどくさそう」の理由はこちら側にある。

 とまぁとにかく、ポストモダンとかについては来年に持ち越しね、とばかりに頭の中は完全に年末年始にのんびりモードに切り替わりつつあったのだが・・・

 今日、YouTubeでrecommendされたポテト元帥さんの動画「万策尽きて延期しまくったアニメ紹介【ゆっくり解説】」から、takaさんの動画「比較動画【メルヘン・メドヘン(9話)】放送版 vs BD版」へ行ったら、OAO OUOさんの動画「Wake Up, Girls! 『7 Girls War!』 PSV版と山本寛版と板垣伸版比較動画」がrecommendされたので観た。

 どのアニメ作品も知らないので、正直どれもなんじゃこりゃぁ状態ではあったのだが、面白がるでも無くとにかく観ている間はほぼ「ほえー」状態だった。ちなみにニコ動発祥と思しきミーム類はどうしてこうも不快なものが多いのだろう、不思議。ま、それはそれとして。

 と、観終わった後に、なんか頭の中で色々とスイッチが入ったような変な感じが。

 「山本氏がポストモダン化と呼んでいた具体的なもの」とか「『画が保っていない』具体的な状態」とか、岡田斗司夫ゼミ中で言及があった幾つかの事項に対する具体例らしきものがフラッシュバックしたほか、「MMDダンス動画が個人的につまらな過ぎる理由のうち、言語化できていなかったもの」など多数の「自分の中で言語化できていなかった概念の具体的イメージ」が一瞬頭を駆け巡った。

 キーワードの一つはやはり「ポストモダン化」で、私の頭を駆け巡った直感的な何かが多少なりとも正鵠を射ているのなら、この世の中、「外部状況・環境とは無関係に内部が多様化するばかりの個が、外部状況・環境下で他の個との軋轢を生む」という状態がより生まれ易くなってきているということだ。多様化とは聞こえが良いが、ここでは勝手な思い込みや妄想による個々間の内部の差も含む。「読解」よりも「解釈(厳密には、個が正しいと信じていること)」が幅を利かすという事態の出来とも言える。

 twitterのアカウントを作ったのは10年以上前だが、結局U-streamで2回呟いた後は放りっぱなしにしている理由も実はこの認識と無関係じゃないな、などと色々と思い出す。その時点でtwitterには絶望していたんだわな。コミュニケーションツールとしてのtwitterは本質的に欠陥品だし、00年代はまだテキストも音声もOKなピア・ツー・ピアのメッセージアプリが幅を利かせていたからね。

 うーん・・・といったんは上のように書いてしまったが、これらはあくまで直感。本当にそう言えるか、適切に言語化できているか、これらは来年への宿題。

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