2015/01/24

ISIS日本人拉致問題とか。

 ISISによる日本人拉致、身代金要求事案に対する総体的な日本人の反応は、ある意味私の想定通りで良い意味で驚いたというのが正直なところだ。想定外は拉致被害者の「母親?が記者会見」だが、会見内容についての私の反応は×○%$#$で、おおむねネット上での日本人の一般的な反応と大差ない。

 Twitterなどを介したいわゆる「コラ」の登場はリスキーだとは思ったが、現時点では一線を越えたものは現れていないようで何よりだ。具体的には「嘲笑或いは攻撃の対象が明確にISIS及びISISメンバーに特定されている」という事で、「イスラム教、イスラム教徒、預言者ムハンマド、クルアーン(コーラン)などを嘲笑、侮蔑或いは攻撃の対象としていない」と言う点で「一線を越えていない」と言える。この一線を越えると色々と面倒くさくなることが大抵の日本人にも分かっているという事なのだろう。

 国際関係における日本及び現行の日本国内環境の特殊性の一つは、例えば「キリスト教vsイスラム教」と言った「正義vs正義」の争いに自動的に組み込まれる要素が欧米諸国と較べて極めて少ないことが挙げられる。例えばドイツ、NATOにおける対外活動を見ていれば分かる通り活動対象地域の住人の宗教に自国内の主要宗教が含まれるか否かで対応、特に積極性が全く違う。カソリック国が同じくカソリック国を積極的に空爆しようとするだろうか、他のカソリック国を「不当に攻撃している非カソリック国」ならばどうか、と言う話だ。

 この観点からは、「支援金の使い方」を含む日本政府のメッセージ発信を基本的に支持している。もちろん、メッセージ通りの行動を日本は続ける必要がある。基本的と言う意味は、「状況の変化」には対応しなければならないからだ。ISISが日本のメッセージを受け取っているようとの報道が正しければ、「日本の置かれた状況を変化させる要因」はISIS側からしか作れない。つまり、発したメッセージによって結果として自由度が小さくなってしまった日本の行動可能範囲は、拉致日本人の殺害によって再びフリーとなる。冷徹に損得勘定する限りにおいて、ピンチなのは実はISIS側であり、米国などの有志聯合なのである。日本人人質が生き続けている限り、日本の取れる軍事的オプションは確かに制限を受け、有志連合軍の戦闘艦船への給油活動もおいそれとは本格化できない。だが、その代わりにメッセージ通りに社会インフラ復興活動への比重を大きくすれば良いだけとも言える。結局のところ、石油などに関わる戦後の利権に関与しない限り、文句を言う国(特アは除く)は出る筈も無い。

 想定はしているけれども良い対処法をまだ見つけられていないシナリオは、有志連合軍の空爆で日本人人質が死亡し、それをISISが宣伝した場合だ。これは次の点に繋がる。

 個人の行動が招いた事案に対する責任の所在、という点も本事案は特殊と言える。報道されている通り、被害者の一人、ジャーナリストである後藤氏はISIS支配地域に入るにあたって、「自らの意志」とその行動の結果に対する「責任の所在」について明確にしている。「ハラキリ」「死んでお詫びを!」は米国などでは定番の日本人ギャグだが、それら日本以外の文化圏の人間からは奇異にも見える行動の背景にある、「責任の所在はどこか、それが自らに帰するう場合の責任の取り方をどうするか」という点に重きを置く価値観が現在の日本においても強く生きていることを再認識させられた格好だ。「自己責任」と言う紋切形の表現の本質は、その裏返しとして上記の価値観があることを知らない人間には決して理解できないだろう。それ故、「身代金を払わないとは日本人には慈悲はないのか?」というISISからの問いかけには最初から意味が無い。

 件の動画公開とそれに引き続いた幾つかの報道を受けた段階で、「立派に死んでくれ」を最低ライン、「即時解放」を最高ラインとの認識は政府も含め、多くの日本人の共通認識となっていたと言っても良いだろう。もちろん、「立派に死んでくれ」を字句通り意味で捉えるなんて愚は日本人ならやっちゃいけない。これは一種の共犯関係の確立宣言であり、責任の所在の移動や死ぬ人間の意志の引き継ぎをも含む表現なのだ。これと同様の観点から、私はいわゆる「A級戦犯の靖国神社への合祀」を全く問題視しない。「戦犯」そのものが遡及法による罪状であることはもちろんだが、彼らに「立派に死んでくれることを望む」と言えた人間こそが戦後の日本復興を支える中心となり得た、と信じるが所以である。「あなたの死を決して無駄にしません」という表現も、本来はそんなお気楽なものではないのだ。

 有志連合軍の空爆が実効を伴う以上、ISISはいずれ自壊する。イナゴの大群、或いは大規模移動焼畑農業団みたいな事しかしていない、持続可能性のない行動しかしていないからだ。知識人の虐殺など、ポル・ポトを思わせるところすらある。そして敵は多い。有志連合だけでなく、産油国(ロシアも含む)、多くのイスラム圏の国やイスラム指導者及び信者も 潜在的な敵である。ここにきて日本にフリーハンドを与えるなんてのは悪手であろう。

 図らずも、ISISの登場は「ポスト・イスラム原理主義過激化」に思いを馳せる時期を明らかに早めた。理由は「反ISIS」と「反イスラム」が等価ではないという、日本人から見れば至極当たり前の認識が世界で受け入れられ始めているからだ。ISISはイスラム原理主義過激派を完全にはみ出ようとしている。

 TV報道などで「これはイスラム教宗派間の対立に根差した代理戦争」とか薄っぺらいテンプレ解説が氾濫しているが、ISISに関してはどう見ても「やっぱり金目でしょ?」が実態のようにしか見えない。「金を流れを追った」とき、 国、王族、経済圏間の代理戦争という枠組みが現れるのはないかと思う。

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