「解釈力」なんて日本語は無いとは思うけど、まぁ、そこは流して。
NHKのニュースで、経済協力開発機構(OECD)が2018年に行った学習到達度調査(PISA)の結果、日本は「読解力」が15位と前回8位から順位が下がったとの報道を観た。番組中、とある小学校での「読解力」を高めるための取り組みの様子、とやらも紹介された。そこには、児童文学作品「ごんぎつね」を題材に自身の「解釈」や「感想」を交換し合う子供たちの姿があった。
これはダメだ、と思った。
「読解力」とは、文章として書かれている内容そのもの、或いは論理を理解することである。正しく読解された論理は読解した主体に依存することなく、(使用された単語の曖昧さの範囲内で)一致しなければならない。対して「解釈」は、正しく読解されたとしても解釈した主体によって違い得る。従って「解釈」の訓練(或いは「解釈」が評価対象となるようなカリキュラム)などいくらやっても「読解力」の向上には繋がらない。
ニュースでは「英語などもやらないといけなくなった現在、『読解力』向上のための手を打つ時間をひねり出すことが難しい」旨の言及があった。ならば、英語をきっちりやれば良い。曖昧さをより排して論理が明確な文章を書くには、総じて日本語より英語の方が向いている。逆もまた然りなので、英文を英語のまま読む(日本語に翻訳せずに)、英文で書かれている論理を理解する、すなわち日本文よりも論理がより露わであることが多い英文の「読解力」を訓練すればよい。
どうせ英語教育カリキュラムの要求は「読解」までで、読解したものを「解釈」することは求めない。テストの回答に「解釈」を記述しても点は貰えない。ちょっと勘の良い子供なら、国語、英語の授業を通じて、「読解」と「解釈」が別物であることはすぐに理解できる(この理解の有無がテストで得られる点数に確実に影響するからだ)。問題は、教師の多くがそれを理解していない可能性が高そうなこと、加えて意図的に生徒にそれを教えていない場合(「読解力」の無い大人の生産を意図?私が共産主義革命を夢見る教師ならばやるかもしれない)もあり得ることだ。
昔、日本国憲法を「ある人達が自分達の言葉で書き換えたもの」が出版されたことがあった。出張帰りにJR上野駅内の本屋で立ち読みし、すぐにこれはダメだ、と思った。行間に見え隠れする特定の方向の政治的思想は措いておこう、それらは私の「解釈」に過ぎないかもしれないからだ。だが、それら「書き換えたもの」の示す論理、すなわち「読解」した結果が、「オリジナルの文章」(原文)の示す論理と大幅に違ったのは大問題だ。換言すると、「書き換えたもの」の示す論理が、「原文に対する書き換えた主体の『勝手な解釈に過ぎない』」としか判断できず、なんらの価値も見いだせなかったからだ。「自分達の言葉で書き換える」ことは構わないが、書かれている論理が変わってしまっては日本国憲法とは全くの別物である。
「『正しい』解釈があり、(読解の結果はすっ飛ばして)それにしか点は与えない」と言う小中学校教育の一犠牲者である私や近い世代の知り合いの多くは、「二度と騙されないぞ」との思いなどもあり、「読解」と「解釈」の区別に敏感である。小説家・野坂昭如氏は自著の文章がとある試験に使われた際、試験問題の正解、すなわち問題作成者の「解釈」、に異を唱えたことがある。この件をニュース報道で知った瞬間こそ、私が「教えられた『正しい』解釈」なんて当てにならないことを理解した瞬間だった。
片や体感として、職場でも「それはあなたの解釈でしょ?(本当はそうじゃない)」と口にせざるを得ない機会がこの10年ほどで明らかに急増した。やはり「読解力」の低下は起きているのだろうか?
今日の教育は、「読解」と「解釈」が別物であることをきっちり教えているのだろうか?「読解力は読解力」として、「解釈力は解釈力」としてそれぞれ評価しているのだろうか?上述のNHKのニュースの映像からは全然期待できない気がする。