2013/12/15

映画「パシフィック・リム」、成程。

 手放しで誉めよう。DVDで観たのだが、映画とはこういうもんだ、ということを本当に久しぶりに再確認した次第だ。エポック・メイキングかと問われると国内外の評価の落差もあって言葉を濁さざるを得ないが、非常にレベルの高いベンチマークが登場したのは間違いない。

 つまり、「パシフィック・リム以降/以前」という尺度が生まれたということだ。そして、実はスターウォーズ以降で失われたある重要な因子の再興とも位置づけられる、というのが個人的な評価だ。

 徹頭徹尾ロジカルかつ客観的な絵作りは、やはりロジカルなシナリオ/ストーリー展開と相まって小気味良い。作り手側の視点に立てば、おそらく妥協を極力排した、或いは妥協したところは捨ててでも全体として成立させられた真摯な作品というところではないかと思う。

 「ストーリー展開が弱い」との国内評もあるが、それは「絵作りやシナリオにおける高い客観性」に観た側が慣れていない、或いは単に付いて行けていないだけではないかと思う。ストーリーは重くは無いが骨太だ。だが、観客に対しては優しくないので、「あなたはちゃんと映画を読めますか?」という意味でもベンチマークと言える。

 一人称の小説に反吐が出る類の人間としては、セリフの一言一言までもが物語の全体像を形作るべく意味を持って積み上がっていく様が実に気持ち良い。カット一つ一つも同様で、スタイリッシュさといった「どうでも良い」ところをバッサリ落とした誤魔化しの無さは清々しいまでに美しい。「パシフィック・リム」という作品は、一部分を取り出してきたところで意味はない。全体を一つとして捉えたとき、私の脳内ではまるで球体のように見える。それは、素晴らしい論文の記載内容を頭の中で整理した時と同様の脳内の光景だ。

 ただ、ロジカルであるが故に、セリフやカットの意味をちゃんと追っていれば、最後の展開は2/3ぐらいまで進んだところでほぼ読める。それでもなお楽しめるのは、徹頭徹尾ロジカルだからだ。とは言え、エンディングのスタッフロールに挟まれる1カットをやっぱりやらざるを得なかったのはロジカルさを徹底するが故の代償とも言える。どう考えてもあれは必要なのだ。

 本作はレイ・ハリーハウゼン氏と本多猪四郎氏に捧げられている。両氏ともに一つ一つのカット自体だけでなくそれらの繋がりへの意味付けが明確なロジカルな作風であったことは重要だ。本多氏の作風は「ドキュメンタリータッチ」とも評されるが、本来荒唐無稽な怪獣映画でドキュメンタリータッチが成立すること自体に矛盾があり、論理的/ロジカルと捉えるべきだというのが以前からの持論だ。スターウォーズの商業的成功を機に絵作りにおけるロジカルさが映画から一旦失われるが、"Kaiju/Monster Master"たらんとすればロジカルであることは必須なのだろう。

 ジョージ・ルーカス氏の感性はあまりにカートゥーン的であるが故に、絵作りにおいて形態やシルエットを優先して嘘を許容し過ぎている。モーションコントロールカメラ全盛期のエピソードIVとCG期のエピソードIIIで絵作りに差が無いのは、氏にとって絵作りにおいて使われる技術の発達に意味がない、つまり絵作りにおいて「突き詰め、可能な限り肉薄すべき対象がない」ことの証左と言えよう。

 対照的に、「パシフィック・リム」はCG技術の成熟を待たねばならなかった作品とは言えるが、実は決して簡単な話ではない。CG技術自体が終始ロジカルなもの、というのは現代にあっては完全な間違いである。そこではスループットを上げるためのあらゆる誤魔化し(=冴えたやり方)が駆使されており、「リッチでありながら無味乾燥な絵」を作ることはむしろ困難なのだ。

 "Battlestar Galactica"は後半でストーリーにおけるロジカルさと骨太さを同時に失った。某2199は徹頭徹尾ロジカルではなかった。エヴァはロジカルでは成立させられない(まだ完結していないので言い過ぎかもしれないが)。作品におけるロジカルさの欠如を起因とするここ数年のうんざり感を一気に解消した「パシフィック・リム」、この1本を観ただけで2013年は良い歳だったと言っちゃえそうなのが実に幸せだ。

追記(2013/12/15):

 ただイェーガーの一部の名称は頂けない。ちょっと無神経ではないかと思うところもある。

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