2013/12/28

2013年を振り返ってみる(その2)

 さて、安倍首相の靖国参拝に対して韓国政府高官が「対日政策の見直す」と述べたとのことだ。聯合ニュースの日本語サイトを読むと確かにそのような報道が為されているが、読めば読むほど「本質的に政策変更はない」としか解釈できない。

 要は、最近になって広く認識されつつある「恨(ハン)の文化」に基づく政策の尖鋭化は止めないということだ。私が所謂「親韓」から中道へ向かうきっかけは、韓国映画「ユリョン」を観たことにある。劇中で言及される「恨」は普通の日本人には理解できない概念だ。

 約1年ほど色々調べてみて、「恨を全面に出す限り、韓国とロジカルかつファクトベースの話は絶対不可能」との結論に至った。「恨の文化」との分離が行われない限り、「本質的に政策変更とはなり得ない」というのが個人的な論理的帰結なのである。

 「恨の文化」ではどんな事が起こっているか。

 宗主国(例えば元とか明とか)の使節や皇帝を称える石碑を建てるが、宗主国が滅びるとそれらを「大国に恥辱を与えられたことを忘れないための石碑」として扱うようになる。日本人の感性でも当たり前っぽい?確かに表層的にはそうだが、「文脈の変更、或いは文脈を無視した再解釈」は日本人の感性では客観性が無いが故に「恥」とされる(「恥を知れ」という表現はそういうこと)。実際のところ、「恨の文化」を尖鋭化させると「客観的な恥の意識」自体が排除される。サッカーの国際試合などでサポーターが他国を侮辱するような振る舞いを平気で出来るのは、そのような行為を「恥かしいと感じる感性が無い」からだと解釈できると思う。客観的視座が欠けるため、他者からは「表層が重要であって本質は重視しないという姿勢」のみが目立つようになる。やがて本質も失われるという負のスパイラルを延々と繰り広げているようなのだ。

 だから、私は心情的には「嫌恨」、ロジカルにエティカルに「反恨」であって、「韓≠恨」の条件においてのみ中道なのである。が、韓国社会が「恨」を「対外的な文化的コードとして良しとしている」以上は実際的には「嫌韓」として対応せざるを得なくなったという訳である。他方、「反日」はもはやイデオロギー以外の何物でもないと見える。ならば極論すると、日本に「戦後ドイツを見習え」と声を大にして言いつつ、自分達は「戦前~戦中のドイツの某政権」の如くプロパガンダを繰り返していると言って良い。これは感情抜きの(単純化し過ぎているけれども)ロジカルな帰結、良し悪しとは無関係の事実認識なのだ。

 「恨」は自己中とかいうレベルの話ではなくて、フィクションファンタジーの形成を必須とせざるを得ないから、他者があっては嘘をつかずには成立はさせられないし、いちいち文脈を追っていくと容易に破綻する。つまり、某大河や日本海を越えては通用しない内々の論理に過ぎない(追記:失礼、「論理」ではなかったです)。「恨」を強化しつつ、「恨」を合理的に正当化できる方法は実に簡単で、「他者から人間扱いされず、不愉快な押し付けを受け続ければ良い」というのがロジカルな帰結だ。故に、「恨」に取り込まれるんじゃなくて「恨」という文化的コードを内包するより大きなアイデンティティを獲得し、差別的イデオロギーから自由にならなければ、状況は良くなりようがない。お互いに、内は内、外は外とできれば理想ではあるのだが。

 ネットを巡れば、「反日姿勢に対して誤解がある」との旨の、例えば韓国人留学生の手による日本語の説明も見つけることができる。が、その内容は私が知り、理解しているものを超える内容では無い。「何故それが分かっていてコレなんですか?」というのがここ15年ほどの変わらぬ疑問である訳だ。

 実際には、差別的イデオロギーから自由になる道をまず探るべきだと思う。ここで言う「差別的イデオロギー」とは「反日」だけでなく、他国人を自分たちの格上か格下に分類する思考法や、女性蔑視なども含んでいる。

 あと、「事大主義」と「バランサー論」は全く別次元の話であることを早く理解して欲しい。

 実は、工学分野の国際誌の論文査読をやっていると、論展開にお国柄が如実に表れていることに思わず吹き出してしまうことがある。面白いのでは無く、酷いという意味で吹き出さざるを得ないのだ。優れた論文には良い意味でお国柄は現れない(文章表現は英語でもお国柄は現れるが、簡潔でロジカルである限りは無問題、つまり本質的であるなら問題ない)。論文の筈が実はファンタジー、なんてことが実際にあるのだ。

 件の靖国参拝が国家100年の計の一環であるならば、日本は対韓政策を本質的かつ明確に転換したと見做せると思う。であるなら「安倍政権では無理」という韓国の認識は甘すぎる。実はそうではなくて、「南スーダンでの弾薬提供」に起因する現韓国政権の国内不安定化に対する「日本からの思いやりカウンター」と見做す向きもあるが、実際のところは分からない。

 ま、聯合ニュースなどの報道からは、実際はそう機能している様が良く分かるのだが。

[一部追記修正:2014/1/7]

追記:2013/12/29

 たまたま目にしたYoutube動画。動画中では触れてませんが、「身分が上昇する可能性はゼロ」はツッコミどころかと思います。日本には残念ながら(一部は残念ながらも当然ながら)「差別は残る」ものの、「身分意識」は基本的にありません。故に、「身分意識に基づく差別、身分に基づく差別」は基本的にありません。とか書いた矢先にアレですが、実は親戚が「身分意識に基づく差別」を受けたことはあります。

 「旧華族」から「平民出身なんて」と言われた訳ですが、御一新前まで遡ると「商人」から「(下級とは言え)武士なんて」と言われたことになることが判明し、「旧華族」側が黙らざるを得なくなりました。自らのロジックで自らの首を絞める所謂「ブーメラン」ですね。日本における身分意識なんてせいぜいそんなものです。実効性はありませんし、そういうものを口にする人ほど「口にした事以外に相手に対して何か優位に立てるようなものを持っていない」ことが多いものです。

 「身分が…」と言った時点で、以降の記述は「身分意識が実効的に機能していない限り意味がありません」。敢えて悪乗りして言い過ぎてみると、「韓国は身分が上昇する可能性はゼロなのですか?身分意識或いは身分制度があるのですか?」と問わざるを得ません(もちろん、李氏朝鮮時代が硬直的な身分制度を持っていたことは知っています)。日本において「身分」は少なくとも「社会的には」無いのです。

 なお、身分制の有無は先進国がどうかとは関係ありません。例えば英国には「身分による区別」があります。身分により飲みに行く店が違うとか、内閣に入るためには爵位を返上しなければならない(慣例)とか、そんな話です。あ、大臣になるには身分を下げなければならないのですね、っつーかより正確には英国で機能しているは「身分」ではなく「階級(クラス)」で、かつ上下ではなくて功績の有無や果たすべき義務の有無を表す集団の区分なのです。

 まぁ、相対的ではあるけれど今年は自国をもう一度見直すいい機会になったのは確か、うん。

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