ファーストリテイリングの決算報告会の決算会見で、ウイグル族の強制労働と自社の企業活動との関係性について問われて、会長兼社長は「われわれは政治的に中立なので、これ以上発言すると政治的になるので、ノーコメントとさせていただきます」と答えた。
「ノーコメント」はまぁ良い。常套句に過ぎない。だがその前段は色々不味い。ファーストリテイリングに悪意を持つ者、正当性の有無はともかく自分の信じる正義に基づいてファーストリテイリングを攻撃しようとする者らにとっては涎モノの悪手も悪手だ。
そもそも、何を言おうとしているのかが分からない。まず一句目の「政治的に中立」と言う表現は対応する既存の「政治的対立」の存在を示唆するが、それが何かは発言者は明言していない。このため、「これ以上発言すると政治的になるので」と語を継がざるを得なかったと個人的には見る。「われわれは政治的に中立なので」が意味するのは自社が選んだところの自社の姿勢(=自分たちにしか分からないこと)、「これ以上発言すると政治的になるので」が意味するのは(察して欲しい?)自社の立場や状況(≒自分たち以外の人間でも常識の範囲内で十分適切に推定できること)であって、同じことを2回言っているのではない。言い換えのつもりなら、「すなわち」と言った接続詞を入れれば良いだけだ。接続詞が無いことも、その前後の内容が同じではないことを示唆する。なおここでは、発言の背後には明確な論理的思考が存在していることを前提としている。発言者が論理的であるが故に、論理的に入る筈が無い接続詞の類を入れられなかった、という解釈だ。嘘が付けなかった、ということでもある。
念押しだが、「ウイグル族の強制労働」に関わる中共と諸外国との間の対立は「人権問題」に依拠し、中共が「政治問題化」したがっているに過ぎない。「政治利用」とは別物なのは注意されたい。このため、会長兼社長の言う「政治的中立」の前提となる政治的対立が「ウイグル族の強制労働」に関わるものを指している場合、ファーストリテイリングは「ウイグル族の強制労働」に依拠する対立は政治問題であるという中共と同じ立場を採っていることになる。質問、回答の文脈からは、この一点に関してはファーストリテイリングは中共と同じことを言っていることになろう。枝葉末節などと思うなかれ、全くの逆でこっちが本質であり、会見の内容を論理的に理解するために必須のピースだ。どうですか、それなら「一つの中国の原理(principle)」をコミットされますか?(従来日米などがコミットしていたのは「一つの中国の方針(policy)」までだ。)
ちなみに「~ので、(接続詞無し)~ので」は、言い直しを避けようとした際に良く現れる。「失敗のリカバーに失敗した状態」の可能性が高いので、客先でライバル会社の人間が客相手にこのような表現を使った時には、その前後の内容をきっちりチェックしておこう。
中間の句が無いと、「わたしたちはこれこれこういう姿勢ですので、ノーコメントです」となり、実態として「われわれがどうしようとお前らには関係ねぇだろう。われわれがどうするかは我々が決める、世間も国も関係ない。」と回答しているにほぼ等しい。うっかり(?)発生してしまったそのような可能性に、切れ者の発言者が気づかない筈がない。「それには明確に答えられないんですよ、察して下さいよ」という自社の(苦しい?)状況を託した、或いはそう託したように忖度されるであろう「これ以上発言すると政治的になるので」と言う発言は、後に続く「ノーコメント」という「行動」と1句目との論理的リンクを切断するために挿入せざるを得なかった句であり、その句の内容自体にはさして意味が無いと見做して良いだろう。
少なくとも日本国内においては。
かつてのエヴァを引くまでも無く、失われつつあるとはいえ、「察しと思いやり」は多くの日本人が美徳として持つものだ。だが、少なくとも米国の政治の世界にはそんなものは存在しないし、それがグローバルスタンダードだろう。如何にも国内専用の回答内容、言葉選びも将来的に悪手だったとされる理由となるかも知れない。
バイデン政権は人権政治を掲げた。EUや英連邦国家なども追従した。「ウイグル人の人権問題」に対して中立であることは、既に「悪」として確定済である。どう考えても「善」とは見做せないからである。
ところで、NHKの本件の報道においては「ノーコメント」と言う言葉がタイトル中に切り出されている。上記のように、「ノーコメント」という発言や行動に対しては、「もっと上手くやりなよ、グローバルスタンダードなやり方を踏襲しなよ、所詮は形式なんだよ、嘘さえつかなければ逃げ切れるんだよ」ぐらいにしか思わない。「今は」とか「現時点では」が付けばほぼ満点だ。だが「われわれは政治的に中立なのでノーコメント」という切り取られ方をすると、「自分の会社を国家と肩をならべ得る存在の如く位置づける経営者の発言」ととられ、そのセンスの無さと不快感を隠さない者も現れよう。
この発言自体は、忖度しがいもない無様なものだ。気を付けておいて欲しいのは、本エントリの内容は、あくまで会見でのやり取りの一部を意図的に切り取ることで現れ得るひとつの可能性だ。会見としてどうだったかは、会見全体をもって判断することになるが、本エントリでは踏み込まない。
ま、個人的にはこの発言者、「頭は良いのだが勉強不足や視界の狭さが原因で滑っている発言の多い人」に分類されている。これは、報道された発言自体の論理展開には問題は感じないものの、論展開の前提に間違いがあったり、情報が古かったり、必須要件が欠落していたり、根拠不明の決め付けとしか思えない考えが主な拠り所だったりして、発言全体は無意味になっていることが多い人のことだ。口が思考についていけない人に多いと言えば多い残念パターンである。
ちなみに私が就職した際、仕事上の発話に時折英語を強制されていた人が課内に居た。英語を使うのはその人だけだった。上長に理由を尋ねたところ、「彼は頭の回転が速いので、日本語でのしゃべりが考えに追いつかない。英語だとしゃべりと考えの速度が合う」とのことだった。成程、興が乗って「ゆっくりしゃべることを忘れる」と、その人の日本語のしゃべりは全く分からなくなった。「われわれはなので、これ以上発言、ノーコメいただきます」みたいになるのだ。どもるとも違う、なんか不思議な感じだった。なお、後に一緒にお仕事をさせて頂いたことがあるのだが、数式を使うことが多かったにを幸いに英語がダメな私は筆談を多用させて頂いた。