「宇宙戦艦ヤマト2199/第7話~第10話」のDVD/Blu-rayが発売、さっそく購入しましたよ。
個人的には、第1話~第6話は制作者側の目指すところが全く見えず、とにかくフラストレーションがたまった。対して、第7話~第10話では印象が大きく変わった。善し悪しは別にして、今時の作り方或いは語り口が押し出され、ストーリー構成はそれとマッチしている。
第6話までとの差は何かと問われれば、「ヤマトらしさ=ヤマト的アイコン」≒「ああ、これはヤマトだよなぁ的アイテム」への明確な回帰、明確な再持ち込みである。表層的にはオープニングとエンディングの曲の変更、劇中BGMの選択傾向の変化が挙げられる。効能は極めて簡単、「既存のヤマトらしさ」の枠組みは極めて強靭であるから、その中で制作者が多少暴走しようが「ヤマト」であることは保証されることになる。当初の予定通りとは言え、エンディング曲が「真っ赤なスカーフ」になったことを象徴的に捉えざるを得ない。
第1話~第6話の座りの悪さは、製作側の「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」への距離感がふらふらしているからだ。それもその距離感が、論理的ではなく、感性或いは感覚的過ぎるように感じられる。
第7話~第10話は、当然「2199」らしさを獲得していくフェーズである。ストーリー的にはオリジナルから離れて「2199のオリジナル」へと向かうことになるが、「2199のオリジナル」故に「既存のヤマトらしさ」との距離感は希薄となり、ふらふら感は出なくなってくる。この状況は第3話以降でも充分達成可能であった筈だが、そうではなかった所にはどうしても断絶感がぬぐえない。「2199のオリジナル」を推し進めていけば「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」との軋轢は無くなっていくものの、それでも「ヤマト」であろうとすると「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」が機能すべく前面に出てくる、そんなところだろうか。「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」を有効活用していく方針ならば、これは正のスパイラルである。
「ユリーシャ=森雪」説はとっくに一般教養化していると思うが、第7話~第10話では、「ユリーシャのこころ・意志=ヤマトの女神=ヤマトのこころ」と「ユリーシャの肉体=森雪の肉体」或いは「森雪の肉体=ユリーシャの肉体のコピー」といった可能性が強く示唆される。スーパーナチュラルな「ヤマトの女神」の描写は論理性に乏しく安易にしか見えないが、それが今時の作法ならばしようが無い。で、私が読みとったものが正しければ、残りの「森雪のこころ」が物語的にどう回収されるのかが興味あるところだ。「友よ」ではなく「私よ」となるのか、それとも「森雪のこころ」は切り捨てられるのか?「森雪のこころ」の表層的な消失、一時的な回復、カタストロフ的状況による一見真の消失、真の回復または回復への希望(アニメ映画「メトロポリス」の展開がこの構造の一バリエーション)なんていう展開は手垢が付き過ぎているので勘弁願いたいが。
記憶があいまいなので間違っているかもしれないが、アニメ「エルガイム」のプリプロ段階でデザイナーの永野護氏が「へヴィーメタルの頭部には実は人間(女の子)が取り込まれている」という設定を出し、監督の冨野氏が拒絶したという話をどこかで読んだことがある。個人的には永野氏のアイディアは極めて薄気味悪く、生理的に受け付けられない。「人間=機械」論に近い立場を取る私ですらである。この種の設定は世界観に取り込んだ上で物語的にきっちりと回収しない限り、見世物小屋のキワモノみたいなもので終わってしまう。「自動航行装置=女の子=人形」的小道具に終わらないことを切に願う。例えば「事故によって植物状態⇒当人の命を救うため生命維持装置と接続」までなら救いがあるが、さらに自動航行装置への接続なんてのは「植物状態の女の子≒人形」が透けて見えてしまう実に変態的な取り扱いですよ。
それと、対ガミラス反乱勢力または反デスラー勢力とヤマトとの共闘の可能性もうっすら示唆されているやに思う。「名将ドメル、二等臣民艦隊/軍内の反デスラー勢力の反乱によりテロン艦に敗れる」、とかね。「ヤマト一隻であの大帝国が倒せる筈ないでしょ」ってあたりについては制作者側も何か考えてるはずでしょうから。
2012/11/25
2012/11/24
2012/11/18
BSG : B&Cのエピソード3 & 4 公開されましたよ。
Mikalaさんのブログでは"awful crap"なんてタグが付けられた記事で言及されているBSG: B&Cですが、告知通り新エピソードが公開されました。
ありゃ、バルキリー型バトルスターが出ちゃってますよ。個人的には休戦後のデザインだと信じて疑っていなかったんですけどね。まぁ、バーサーク型/級がいるのは無問題ですけど。
一部ではバイパーがMk.IIなのかMk.IIIなのか、"Archeron"がバトルスターなのか重巡洋艦なのか、なんて議論も起きてるようですが、まぁ、もうどうでも良いです。ゲーム「BSGオンライン」のスクリーンショットを観た時点で新BSGの世界観の統一が破綻しているのは明らか。世界観にちゃんと投資をしておかないとBSGである必然性すら失ってしまって、ドンパチあればオッケー的なレベルの低い視聴者しか残ってくれませんよ。
ありゃ、バルキリー型バトルスターが出ちゃってますよ。個人的には休戦後のデザインだと信じて疑っていなかったんですけどね。まぁ、バーサーク型/級がいるのは無問題ですけど。
一部ではバイパーがMk.IIなのかMk.IIIなのか、"Archeron"がバトルスターなのか重巡洋艦なのか、なんて議論も起きてるようですが、まぁ、もうどうでも良いです。ゲーム「BSGオンライン」のスクリーンショットを観た時点で新BSGの世界観の統一が破綻しているのは明らか。世界観にちゃんと投資をしておかないとBSGである必然性すら失ってしまって、ドンパチあればオッケー的なレベルの低い視聴者しか残ってくれませんよ。
2012/11/11
実は"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成していたよ、という話
"Craprica"などとも呼ばれて総じて酷評された"Caprica"の打ち切り以降、良い話のなかったBattlestar Galacticaだが、製作がとん挫との話もあった"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"がどうも完成したとのこと。Youtubeなどで見られるトレーラーによれば、米国では来年2月にUncut & Unrated版のDVDとBlu-rayが発売されるらしい。ネットワーク版は、昨日と言うか日本では今日から公開開始だ。第一次サイロン戦争を舞台に若き日のアダマ達の活躍が描かれる!という話は変わっていないようで、既公開のコンセプトアートと対応するようなカットもトレーラーに含まれている。
とあるWeb上の記事によると、2時間弱の番組のライブアクションシーンは全て合成用のグリーンスクリーンを背景に15日で撮影されたとのこと。つまり基本的にセットは組まず、背景は全てCGで処理したということで、美術とVFXとの垣根がなくなったということを示唆する話だ。コストのかけられるTVCMでは既に常識的なCG背景の導入が、相対的にコストの限られるTVショー製作においても競争力を持つ時代に入ったということだろう。
また、CG部分は全てLightwave3D10で作成し、"某社C4Dでは無理な短期スケジュール内に"約10人のスタッフで約1800カットを処理したという。まぁ、これはC4Dが遅いということではなく、Lightwave3Dがモデラーとレイアウトを別プログラムにしてあることと、レイアウトのファイルフォーマットがテキスト形式であることで、容易にルーチンワークを自動化できるためと勝手に推測している。実際、趣味でLightwave3Dを使っている私ですら、その方が早いし確実との理由からレイアウトファイルをテキストエディタで編集することは当たり前にやっている。Newtek社の一種の次世代Lightwave3DコンセプトであったCoreではモデラーとレイアウトの統合が示唆されたが、私個人は統合には懐疑的であったし、今後も統合する必然性を感じない。
と、脱線したけれども、"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成したことはとにかく目出度い。
とあるWeb上の記事によると、2時間弱の番組のライブアクションシーンは全て合成用のグリーンスクリーンを背景に15日で撮影されたとのこと。つまり基本的にセットは組まず、背景は全てCGで処理したということで、美術とVFXとの垣根がなくなったということを示唆する話だ。コストのかけられるTVCMでは既に常識的なCG背景の導入が、相対的にコストの限られるTVショー製作においても競争力を持つ時代に入ったということだろう。
また、CG部分は全てLightwave3D10で作成し、"某社C4Dでは無理な短期スケジュール内に"約10人のスタッフで約1800カットを処理したという。まぁ、これはC4Dが遅いということではなく、Lightwave3Dがモデラーとレイアウトを別プログラムにしてあることと、レイアウトのファイルフォーマットがテキスト形式であることで、容易にルーチンワークを自動化できるためと勝手に推測している。実際、趣味でLightwave3Dを使っている私ですら、その方が早いし確実との理由からレイアウトファイルをテキストエディタで編集することは当たり前にやっている。Newtek社の一種の次世代Lightwave3DコンセプトであったCoreではモデラーとレイアウトの統合が示唆されたが、私個人は統合には懐疑的であったし、今後も統合する必然性を感じない。
と、脱線したけれども、"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成したことはとにかく目出度い。
2012/11/05
Battlestar Galacticaが日本ではどう見えるのか、真面目に考えてみた。
今回ものっけから主観だが、日本人の文化的コード(行動や考え方に対する主に倫理的な規範、制限、限界などに対応するものと思って欲しい)は絶対的なモノを想定しない傾向が強く、相互に矛盾したり敵対する価値観の共存にかなり寛容に見える。現実問題として海外の多くの国や地方において文化的コードは宗教的倫理規範や教義と実質的に等価であり、タブーと称されるコードからの逸脱も宗教的価値観を強く反映している場合が多い。
結局何が言いたいかというと、相対的に日本人の意識にはタブーが少ないのではないかということだ。もしそうならば我々日本人は相対的に自由であるとも言えるが、タブーを犯すという一種のスリルからも遠いということにもなる。「出る杭は打たれる」は、自由度の高い文化的コードに基づく社会が必然的に備えた安全装置と言えるかもしれない。ここで「出る杭…」をコードの一部と見なさない理由は、どこまで出れば打たれるかが事前に明示化されていないからである。打たれるかどうかは読むべき「空気」そのもの、かなり日本的な不思議な合意形成プロセスで決まる。
小説家やマンガ家、映画やTVドラマのクリエイター達が提示するストーリーや世界観も、それぞれの背負う文化的コードを反映している筈だ。或いはより普遍的な、最大公約数的な倫理規範を想定している者もいるかもしれない。が、それら提示された作品が面白いか、スリリングかどうかは結局受け手側の倫理規範に制限される。特定の文化的コードではタブーや倫理的、宗教的に複雑な問題でも、他の文化的コードではなんてことのない日常茶飯事かもしれない。
作り手側にとっての有り得る一つの不幸は、自分達の文化的コードでは作中で匂わすだけでも重大事と捉えられる事態が、他の文化的コードに従う人間に全く気付いて貰えないことである。Battlestar Galacticaの最終回のラスト、現代の北米の街並みとAsimoなどの人型ロボットが踊るシーンに込められた作り手側の意図は、人型ロボットに対して持つ感情に関わる文化的コードの違いから日本人には意図を察することはできても理解はできない。
Galacticaの製作者の一人は、「(如何にもロボットという金属ボディの代わりに人間にしか見えない生体ボディを持つ)人型サイロンを登場させることで、作品に哲学的意味合いを与えることができた。」との趣旨の発言をした。だが、暴言を許してもらえれば、「ロボットを突き詰めていけば人型は一つの必然的帰結」ぐらいの感覚を持つ日本人ならば何らの哲学的意味合いう感じる筈もない。作り手が作品で匂わせた重要なものが受け手に全く届かない、という不幸がここにある。
人型ロボットを一種の偶像と見るならば、人型ロボット自体が幾つかの宗教諸派においてすでにタブーである。そこまで行かなくても、一部の西欧文化圏には「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれる魂を持つ人型のモノに対する恐怖感があるという。
Galacticaの特に後半は、「フランケンシュタイン・コンプレックス」を持つ者にとって居心地の悪い展開が続く。集合的単一意識に基づき個を有さなかったそれまでのサイロンと違い、人型を与えられたサイロンの一部は個としての意志を確立、人類抹殺に対して疑義を唱え、挙句にサイロンを裏切る者まで現れる。また主要登場人物の多くが自分が実は人型サイロンではないかと苦悩する。登場人物達も視聴者も、劇中で描かれる行動からは人型サイロンと人間を区別することができなくなっていくのだ。おそらく区別できなくなることに重大な命題が潜む。「人とは何か、人を人たらしめているのは何か」である。
一日本人である私にはそんな命題なんかはどうでも良い。そういうことを真面目に考えることに価値を見出しもしない。ただ、一視聴者として、作り手側がその命題に対してどのような回答を劇中で提示するのかが気になるだけだ。だが、そのようなモノは実質的に提示されないままGalacticaは完結する。作り手側の文化的コードではそのような命題を匂わす形で提示することだけで充分スリリングとする。他方、日本では「東映特撮シリーズ」や「ドラえもん映画」ですら当たり前にその先を描く。日本の文化的コードにおいて人型ロボットが「人とは何か」という命題と必然的に一対で現れることはない。ロボットだって恋をするのが日本だ。日本ではむしろロボットが自分のアイデンティティについて悩むことの方が多くないか----「何故僕は人間ではないのか?」
「トランスフォーマー」すら「フランケンシュタイン・コンプレックス」とは無縁ではないという話をWebの何処かで読んだ。「トランスフォーマー」のデザインですら、充分に人間っぽいということなのだろう。「トランスフォーマー」の成功には、何年にも及ぶマーケティング活動による一種の啓蒙、或いは免疫の形成が必要だったらしい。それを思うと、「フランケンシュタイン・コンプレックス」の根深さと最初の「ターミネーター」が持っていた本来の怖さを想像することぐらいはできる。
少し脱線するが、日本では「どこまでが人間か?」という命題には多少敏感に見える。士郎正宗-押井守の映画「攻殻機動隊/Ghost in the Shell」では、サイボーグ義体の主人公が「本来の人としての自分はただひと固まりの脳細胞だけしか残っていない」ではないかという考えに恐怖を感じる。しかしその主人公も「自分のGhostの囁き」を信じ、最後にはサイボーグ義体すらも捨てて「どこまでが人間か?」という問いを軽やかに飛び越えてしまう。ここで一度確立された人としての個は、自己改変が可能な、換言すれば新たなルールを自らの内部に取り込み可能な構造を持つプログラムと経験データベースに置き換え可能で、さらにネット上で成長出来るという考えを示唆する。この考え自体は全く新しくないが、とにかくそれを直球で描いてしまったのは事実だ。「エヴァンゲリヲン」においては「そう、エヴァは人なの」という類のセリフ一つで「人」の定義があっさりと拡張されるとともに、「個の喪失により人を人でなくす」計画が語られる。「ロボコップ」が米国生まれなのは実に不思議だが、脚本ができているのに監督がなかなか決まらなかった理由の一端を「フランケンシュタイン・コンプレックス」に求めるというのはどうだろうか。
話をBattlestar Galacticaに戻す。
結局、作り手側が作品に持ち込んだ「雰囲気(どうもロジカルに導入した形跡がない)」=「フランケンシュタイン・コンプレックス」は日本人の文化的コードでは何らの機能も果たさず、救いの無いエピソードがただ積み重ねられるだけに見えてしまった。「フランケンシュタイン・コンプレックス」の導入に気付いた人もその先が一切語られないことにフラストレーションを持った。
という辺りが実体ではないかと思う。
結局何が言いたいかというと、相対的に日本人の意識にはタブーが少ないのではないかということだ。もしそうならば我々日本人は相対的に自由であるとも言えるが、タブーを犯すという一種のスリルからも遠いということにもなる。「出る杭は打たれる」は、自由度の高い文化的コードに基づく社会が必然的に備えた安全装置と言えるかもしれない。ここで「出る杭…」をコードの一部と見なさない理由は、どこまで出れば打たれるかが事前に明示化されていないからである。打たれるかどうかは読むべき「空気」そのもの、かなり日本的な不思議な合意形成プロセスで決まる。
小説家やマンガ家、映画やTVドラマのクリエイター達が提示するストーリーや世界観も、それぞれの背負う文化的コードを反映している筈だ。或いはより普遍的な、最大公約数的な倫理規範を想定している者もいるかもしれない。が、それら提示された作品が面白いか、スリリングかどうかは結局受け手側の倫理規範に制限される。特定の文化的コードではタブーや倫理的、宗教的に複雑な問題でも、他の文化的コードではなんてことのない日常茶飯事かもしれない。
作り手側にとっての有り得る一つの不幸は、自分達の文化的コードでは作中で匂わすだけでも重大事と捉えられる事態が、他の文化的コードに従う人間に全く気付いて貰えないことである。Battlestar Galacticaの最終回のラスト、現代の北米の街並みとAsimoなどの人型ロボットが踊るシーンに込められた作り手側の意図は、人型ロボットに対して持つ感情に関わる文化的コードの違いから日本人には意図を察することはできても理解はできない。
Galacticaの製作者の一人は、「(如何にもロボットという金属ボディの代わりに人間にしか見えない生体ボディを持つ)人型サイロンを登場させることで、作品に哲学的意味合いを与えることができた。」との趣旨の発言をした。だが、暴言を許してもらえれば、「ロボットを突き詰めていけば人型は一つの必然的帰結」ぐらいの感覚を持つ日本人ならば何らの哲学的意味合いう感じる筈もない。作り手が作品で匂わせた重要なものが受け手に全く届かない、という不幸がここにある。
人型ロボットを一種の偶像と見るならば、人型ロボット自体が幾つかの宗教諸派においてすでにタブーである。そこまで行かなくても、一部の西欧文化圏には「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれる魂を持つ人型のモノに対する恐怖感があるという。
Galacticaの特に後半は、「フランケンシュタイン・コンプレックス」を持つ者にとって居心地の悪い展開が続く。集合的単一意識に基づき個を有さなかったそれまでのサイロンと違い、人型を与えられたサイロンの一部は個としての意志を確立、人類抹殺に対して疑義を唱え、挙句にサイロンを裏切る者まで現れる。また主要登場人物の多くが自分が実は人型サイロンではないかと苦悩する。登場人物達も視聴者も、劇中で描かれる行動からは人型サイロンと人間を区別することができなくなっていくのだ。おそらく区別できなくなることに重大な命題が潜む。「人とは何か、人を人たらしめているのは何か」である。
一日本人である私にはそんな命題なんかはどうでも良い。そういうことを真面目に考えることに価値を見出しもしない。ただ、一視聴者として、作り手側がその命題に対してどのような回答を劇中で提示するのかが気になるだけだ。だが、そのようなモノは実質的に提示されないままGalacticaは完結する。作り手側の文化的コードではそのような命題を匂わす形で提示することだけで充分スリリングとする。他方、日本では「東映特撮シリーズ」や「ドラえもん映画」ですら当たり前にその先を描く。日本の文化的コードにおいて人型ロボットが「人とは何か」という命題と必然的に一対で現れることはない。ロボットだって恋をするのが日本だ。日本ではむしろロボットが自分のアイデンティティについて悩むことの方が多くないか----「何故僕は人間ではないのか?」
「トランスフォーマー」すら「フランケンシュタイン・コンプレックス」とは無縁ではないという話をWebの何処かで読んだ。「トランスフォーマー」のデザインですら、充分に人間っぽいということなのだろう。「トランスフォーマー」の成功には、何年にも及ぶマーケティング活動による一種の啓蒙、或いは免疫の形成が必要だったらしい。それを思うと、「フランケンシュタイン・コンプレックス」の根深さと最初の「ターミネーター」が持っていた本来の怖さを想像することぐらいはできる。
少し脱線するが、日本では「どこまでが人間か?」という命題には多少敏感に見える。士郎正宗-押井守の映画「攻殻機動隊/Ghost in the Shell」では、サイボーグ義体の主人公が「本来の人としての自分はただひと固まりの脳細胞だけしか残っていない」ではないかという考えに恐怖を感じる。しかしその主人公も「自分のGhostの囁き」を信じ、最後にはサイボーグ義体すらも捨てて「どこまでが人間か?」という問いを軽やかに飛び越えてしまう。ここで一度確立された人としての個は、自己改変が可能な、換言すれば新たなルールを自らの内部に取り込み可能な構造を持つプログラムと経験データベースに置き換え可能で、さらにネット上で成長出来るという考えを示唆する。この考え自体は全く新しくないが、とにかくそれを直球で描いてしまったのは事実だ。「エヴァンゲリヲン」においては「そう、エヴァは人なの」という類のセリフ一つで「人」の定義があっさりと拡張されるとともに、「個の喪失により人を人でなくす」計画が語られる。「ロボコップ」が米国生まれなのは実に不思議だが、脚本ができているのに監督がなかなか決まらなかった理由の一端を「フランケンシュタイン・コンプレックス」に求めるというのはどうだろうか。
話をBattlestar Galacticaに戻す。
結局、作り手側が作品に持ち込んだ「雰囲気(どうもロジカルに導入した形跡がない)」=「フランケンシュタイン・コンプレックス」は日本人の文化的コードでは何らの機能も果たさず、救いの無いエピソードがただ積み重ねられるだけに見えてしまった。「フランケンシュタイン・コンプレックス」の導入に気付いた人もその先が一切語られないことにフラストレーションを持った。
という辺りが実体ではないかと思う。
2012/11/04
今さら「SPACE BATTLESHIP YAMATO」について「BSG」も絡めて
「SPACE BATTLESHIP YAMATO」は説明するまでもなくキムタク主演のあの映画のこと。中古DVDを入手して今さらながら、ただし真面目に観た。
「BSG」はBATTLESTAR GALACTICA(バトルスター・ギャラクティカ、宇宙空母ギャラクティカ)のことで、ここでは21世紀になってリメイクされたTVシリーズを指す。日本では全くブレークしなかったが、シーズン5まで作られて無事に完結した。日本でブレークしなかった原因についての考察はBSGのスタッフとのメールのやり取り内容を踏まえて改めて書くつもりだ。
YAMATOを観てとにかくまずいと思ったのは、BSGの影響が陽にそこここに見られたこと。
パイロットが首に付けている銀色のリングやパイロットスーツはほぼBSGそのまんま、少しはデザイン捻れば良いのにというのが正直なところだ。YAMATOがイスカンダル/ガミラス星に急降下して地表面近くでワープするシーンは劇中の見せ場の一つだが、すでに同様のシーンがBSGのニューカプリカ戦で描かれている。
また、放射能除去装置の当てもないのにYAMATOでイスカンダルに向かう沖田艦長の行動は、伝説の星・地球が存在する当てもないのに「その星は有る!場所は軍の最重要機密として隠されてきた!」と言い放ったBSGのアダマ司令の行動に似ていると言って良い。沖田艦長の行動はストーリー上の重要などんでん返しであり、これまでのヤマトに対して新規性なり差異化の胆になる要素にも関わらず、そこにオリジナリティが無いとなればダメージは大きい。
YAMATOでは沖田艦長の賭けが実を結ぶ形で放射能除去装置に比するものを手に入れることに成功する。他方、BSGではアダマ司令達はストーリー上の後世で「地球」と呼ばれることになる惑星に辿り着く。が、BSGにおいてGALACTICAが地球に達するまでの経緯はグダグダで実際のところ全く感心できない。このような観点からは、沖田艦長なりアダマ司令なりの当初の行動の結果をストーリー的にちゃんと回収しているのはむしろYAMATOの方だ。とは言え、共にストーリーまたは脚本に残念な点が有る事実は変わらない。
YAMATOにおけるイスカンダル/ガミラスの取り扱いは英国のSFTVシリーズの多くを知る身からは陳腐としか言えないアイディアだが、ストーリー上は充分に機能していると思う。ただし、セリフによる説明にほぼ全て頼った点は先達と同様で、特段新しい何かを為したわけではない。この手のややこしい状況の説明をセリフに極力頼らずに描くことに成功したのは映画「マトリックス」ぐらいだろう。
個人的には、「イスカンダル」と呼ばれるモノが「イスカンダルという呼び名は沖田という男が勝手につけたもの」という旨の発言をしたところが面白かった。この手の「そりゃそうだ」という設定上の必然が、これまでの多くの映画やTVシリーズの脚本で無視されてきたのも事実だからだ。同時に、「私はイスカンダルのスターシャ」「私はテレザート星のテレサ」といった従来のヤマトにおけるセリフの機能の一つが「目的地が必ず存在することを劇中の人物のみならず視聴者にも保証すること」と見なすこともできそうだ。西遊記の登場人物や読者はまず「天竺」の存在を疑わない。
「『イスカンダル』は実は無かった。が、それに相当するモノはあった。」と従来ヤマトのお約束ストーリーとの一応の差異化には成功したかにも見えるYAMATO。しかし、「『地球』は実は無かった。が、それに代わる惑星に到達することができた。」というBSGに限りなく近い。
「BSG」はBATTLESTAR GALACTICA(バトルスター・ギャラクティカ、宇宙空母ギャラクティカ)のことで、ここでは21世紀になってリメイクされたTVシリーズを指す。日本では全くブレークしなかったが、シーズン5まで作られて無事に完結した。日本でブレークしなかった原因についての考察はBSGのスタッフとのメールのやり取り内容を踏まえて改めて書くつもりだ。
YAMATOを観てとにかくまずいと思ったのは、BSGの影響が陽にそこここに見られたこと。
パイロットが首に付けている銀色のリングやパイロットスーツはほぼBSGそのまんま、少しはデザイン捻れば良いのにというのが正直なところだ。YAMATOがイスカンダル/ガミラス星に急降下して地表面近くでワープするシーンは劇中の見せ場の一つだが、すでに同様のシーンがBSGのニューカプリカ戦で描かれている。
また、放射能除去装置の当てもないのにYAMATOでイスカンダルに向かう沖田艦長の行動は、伝説の星・地球が存在する当てもないのに「その星は有る!場所は軍の最重要機密として隠されてきた!」と言い放ったBSGのアダマ司令の行動に似ていると言って良い。沖田艦長の行動はストーリー上の重要などんでん返しであり、これまでのヤマトに対して新規性なり差異化の胆になる要素にも関わらず、そこにオリジナリティが無いとなればダメージは大きい。
YAMATOでは沖田艦長の賭けが実を結ぶ形で放射能除去装置に比するものを手に入れることに成功する。他方、BSGではアダマ司令達はストーリー上の後世で「地球」と呼ばれることになる惑星に辿り着く。が、BSGにおいてGALACTICAが地球に達するまでの経緯はグダグダで実際のところ全く感心できない。このような観点からは、沖田艦長なりアダマ司令なりの当初の行動の結果をストーリー的にちゃんと回収しているのはむしろYAMATOの方だ。とは言え、共にストーリーまたは脚本に残念な点が有る事実は変わらない。
YAMATOにおけるイスカンダル/ガミラスの取り扱いは英国のSFTVシリーズの多くを知る身からは陳腐としか言えないアイディアだが、ストーリー上は充分に機能していると思う。ただし、セリフによる説明にほぼ全て頼った点は先達と同様で、特段新しい何かを為したわけではない。この手のややこしい状況の説明をセリフに極力頼らずに描くことに成功したのは映画「マトリックス」ぐらいだろう。
個人的には、「イスカンダル」と呼ばれるモノが「イスカンダルという呼び名は沖田という男が勝手につけたもの」という旨の発言をしたところが面白かった。この手の「そりゃそうだ」という設定上の必然が、これまでの多くの映画やTVシリーズの脚本で無視されてきたのも事実だからだ。同時に、「私はイスカンダルのスターシャ」「私はテレザート星のテレサ」といった従来のヤマトにおけるセリフの機能の一つが「目的地が必ず存在することを劇中の人物のみならず視聴者にも保証すること」と見なすこともできそうだ。西遊記の登場人物や読者はまず「天竺」の存在を疑わない。
「『イスカンダル』は実は無かった。が、それに相当するモノはあった。」と従来ヤマトのお約束ストーリーとの一応の差異化には成功したかにも見えるYAMATO。しかし、「『地球』は実は無かった。が、それに代わる惑星に到達することができた。」というBSGに限りなく近い。
奥さん、論文査読お願いします。
なんやかんやあったようで、知り合いの知り合いの仕事仲間ぐらいの距離から英語論文の査読依頼が来た。タイトルだけでネガティブな意味で大笑いさせてもらったが、抄録や本文はもっと凄い、というか文章ですらない。
概して英語になじみの無い日本人が頑張って英語で論文を書くと、文法的には多々問題があっても論理はむしろ露わになることが多い。解釈に文脈依存性が強い日本語より英語の方が純粋な論理記述に向いている上、書き手が凝った英語表現を使えない点がむしろ文章をシンプルに読みやすくする良い方向に作用する。が、それは書き手がきっちりとした論理を持っていることが前提だ。タイトルや抄録の第1センテンスで駄目な論文はそれと分かることが多い。タイトルをどうするかは大抵悩ましいものだが、タイトルの変更は論文の結論の変更とリンクしても良いぐらい論文中の論展開と密接に結びついているべきであり、実はタイトルに関する選択肢は本文の内容が決まっていれば限られて当然なのだ。
タイトルで大笑いした理由は、使われている一つの単語の不適切な選択からタイトル自体が「嘘」としか解釈できなかったからにほかならない。1940年代なら世紀の大ニュース、1950年代でも大した偉業、2012年では嘘かここ60年間の科学技術の発展を知らない人の言い草だ。
論文発行も電子化が進み、査読にもスピード感が要求されるようになった。査読といっても昨今は技術的に云々は言わず、まぁ名も実もある学会なり協会なりが発行しても恥ずかしくないかどうか位しかチェックしないのが遺憾ながら実体に近い。それでもなお、自信を持って拒絶できるレベルのものを目にしなければならないというのは正直キツい。
かつて経験した厳しいながら実に本質的な査読結果は、自分の論文の質向上に確実に結びついた。どうやら著者にとっては初の論文投稿のようだが、この著者もそのうち自分と同じような経験をする機会があるのだろうか、などとふと思う。
主観ながら、読む価値のある論文はたいてい短いか、長くても読み込むべき個所が論展開上から明確に分かる。私の専門分野では、2ページとは言え1945~1960年のソ連研究者の論文は後述する「再発見」に関わり要注意だ。また実際ある研究グループの論文は、絶対読むけれども第3章以外は読み飛ばす。ただし、その研究グループの論文をせめて10本は事前に読んでいることが前提だ。第2章まではこれまでの研究内容のあらすじみたいなもので、その研究グループの論文を初めて読む人にとっては実に有難い内容がぎっしり詰まっているので念の為。
論文は基本的に研究のログなのだが、電子化などでより一層コミュニケーション色を強めつつあるように見える。悪い側面として玉石混交具合が酷くなってきたとも言えるが、現時点では検索技術の整備による論文入手にかかる時間的、金銭的コスト低減効果の方が勝っている。
インターネットにさえ繋がっていれば、従来は一部の専門家しか入手しようとしなかった論文に誰でも簡単にアクセスできる時代に気がつけばなっていた。ただし、駆け出し研究者のころの私が感動すら覚えながら読んだ1950~1960年代の素晴らしい論文達の大部分は未だ電子化されておらず、間違った文脈で論文で引用されたり、ちょっと頭の回転の早い人に同じ結論を「再発見」されたりしているのを極稀に見ることがある。どんなに査読が形骸化しようとも、査読者たる者たまたま著者が「知らなかった」ことぐらいは指摘しておかなければね。
概して英語になじみの無い日本人が頑張って英語で論文を書くと、文法的には多々問題があっても論理はむしろ露わになることが多い。解釈に文脈依存性が強い日本語より英語の方が純粋な論理記述に向いている上、書き手が凝った英語表現を使えない点がむしろ文章をシンプルに読みやすくする良い方向に作用する。が、それは書き手がきっちりとした論理を持っていることが前提だ。タイトルや抄録の第1センテンスで駄目な論文はそれと分かることが多い。タイトルをどうするかは大抵悩ましいものだが、タイトルの変更は論文の結論の変更とリンクしても良いぐらい論文中の論展開と密接に結びついているべきであり、実はタイトルに関する選択肢は本文の内容が決まっていれば限られて当然なのだ。
タイトルで大笑いした理由は、使われている一つの単語の不適切な選択からタイトル自体が「嘘」としか解釈できなかったからにほかならない。1940年代なら世紀の大ニュース、1950年代でも大した偉業、2012年では嘘かここ60年間の科学技術の発展を知らない人の言い草だ。
論文発行も電子化が進み、査読にもスピード感が要求されるようになった。査読といっても昨今は技術的に云々は言わず、まぁ名も実もある学会なり協会なりが発行しても恥ずかしくないかどうか位しかチェックしないのが遺憾ながら実体に近い。それでもなお、自信を持って拒絶できるレベルのものを目にしなければならないというのは正直キツい。
かつて経験した厳しいながら実に本質的な査読結果は、自分の論文の質向上に確実に結びついた。どうやら著者にとっては初の論文投稿のようだが、この著者もそのうち自分と同じような経験をする機会があるのだろうか、などとふと思う。
主観ながら、読む価値のある論文はたいてい短いか、長くても読み込むべき個所が論展開上から明確に分かる。私の専門分野では、2ページとは言え1945~1960年のソ連研究者の論文は後述する「再発見」に関わり要注意だ。また実際ある研究グループの論文は、絶対読むけれども第3章以外は読み飛ばす。ただし、その研究グループの論文をせめて10本は事前に読んでいることが前提だ。第2章まではこれまでの研究内容のあらすじみたいなもので、その研究グループの論文を初めて読む人にとっては実に有難い内容がぎっしり詰まっているので念の為。
論文は基本的に研究のログなのだが、電子化などでより一層コミュニケーション色を強めつつあるように見える。悪い側面として玉石混交具合が酷くなってきたとも言えるが、現時点では検索技術の整備による論文入手にかかる時間的、金銭的コスト低減効果の方が勝っている。
インターネットにさえ繋がっていれば、従来は一部の専門家しか入手しようとしなかった論文に誰でも簡単にアクセスできる時代に気がつけばなっていた。ただし、駆け出し研究者のころの私が感動すら覚えながら読んだ1950~1960年代の素晴らしい論文達の大部分は未だ電子化されておらず、間違った文脈で論文で引用されたり、ちょっと頭の回転の早い人に同じ結論を「再発見」されたりしているのを極稀に見ることがある。どんなに査読が形骸化しようとも、査読者たる者たまたま著者が「知らなかった」ことぐらいは指摘しておかなければね。
2012/11/03
奥さん、コスモゼロですよ。
コスモゼロの3Dモデルがだいたい出来上がり。松本零士原案-スタジオぬえクリーンアップの最初のデザインに対する幼少時からのイメージと私のモデリングテクニックとの妥協点の産物故、「マイコスモゼロ」化は避けらない訳ですが。
もともとアニメのメカだし…とか言い訳しながらテクスチャーは少なめです。と言うか、そもそも私の脳内のコスモゼロにはほとんどマーキングやパネル割りなんて無い訳で、テクスチャーを追加する度に違和感が増すというのが本当。ざっくり10分ぐらいででっち上げたパイロットの頭部がわりと古代進っぽくできてちょっとばかり幸せ。
製作過程で少し驚いたのは、コスモゼロのデザインに対して海外含めてロッキード F-104 スターファイターを連想する人が多いこと。私自身は「機体銀色→センチュリーシリーズ(F-100~F-106)」程度の感覚は持ちつつも、むしろ「機体断面が円形じゃない、何か機首付近が複雑で訳分からないことになってる→F-104とは別物、いやこれはF-104的デザイン(いわゆる三菱鉛筆)に対するアンチテーゼだ!」という感覚の方が強いのですよ。キャノピーフレームとかはMiG-19の方がよっぽど近い気もするしね。
もともとアニメのメカだし…とか言い訳しながらテクスチャーは少なめです。と言うか、そもそも私の脳内のコスモゼロにはほとんどマーキングやパネル割りなんて無い訳で、テクスチャーを追加する度に違和感が増すというのが本当。ざっくり10分ぐらいででっち上げたパイロットの頭部がわりと古代進っぽくできてちょっとばかり幸せ。
製作過程で少し驚いたのは、コスモゼロのデザインに対して海外含めてロッキード F-104 スターファイターを連想する人が多いこと。私自身は「機体銀色→センチュリーシリーズ(F-100~F-106)」程度の感覚は持ちつつも、むしろ「機体断面が円形じゃない、何か機首付近が複雑で訳分からないことになってる→F-104とは別物、いやこれはF-104的デザイン(いわゆる三菱鉛筆)に対するアンチテーゼだ!」という感覚の方が強いのですよ。キャノピーフレームとかはMiG-19の方がよっぽど近い気もするしね。
2012/09/18
「宇宙戦艦ヤマト2199」のどうでもいい所が気になるという話
タイトル通りのお話です。オリジナルのヤマトを知ってる年齢なのですっかりものぐさ者、本編(BD)と公式サイトしかチェックしてませんので為念。うっかり「コスモファルコンは1式」などとボケてしまわないようにチョイとググっててみたのがきっかけです。
コスモファルコンは実は99式、2199年正式採用の新鋭機ですね。エンジンノズル形状は約200年前の古いデザインに見えなくもないですが。零式のコスモゼロと100式偵察機は2200年正式採用決定済みで、ヤマトには最新鋭機として初期生産機をとにかく搭載した、というあたりで個人的には納得。零式と100式の呼称の混在についてはここでは取り合えずスルー。あ、SC97輸送機は2197年正式採用ですね、きっと。
で、3式実体弾。
2103年正式採用のほとんど100年前の設計ってことで宜しいでしょうか?それならそれでも良いですけどね。「3号弾」だったらミリタリー系に詳しくない者としてはスルーしてましたが。
ショックカノンが捻じれたり捻じれなかったりより、3式弾という呼称が引っかかる今日このごろ。
コスモファルコンは実は99式、2199年正式採用の新鋭機ですね。エンジンノズル形状は約200年前の古いデザインに見えなくもないですが。零式のコスモゼロと100式偵察機は2200年正式採用決定済みで、ヤマトには最新鋭機として初期生産機をとにかく搭載した、というあたりで個人的には納得。零式と100式の呼称の混在についてはここでは取り合えずスルー。あ、SC97輸送機は2197年正式採用ですね、きっと。
で、3式実体弾。
2103年正式採用のほとんど100年前の設計ってことで宜しいでしょうか?それならそれでも良いですけどね。「3号弾」だったらミリタリー系に詳しくない者としてはスルーしてましたが。
ショックカノンが捻じれたり捻じれなかったりより、3式弾という呼称が引っかかる今日このごろ。
2012/09/04
結局「SHERLOCK」の何処が好きなの?、という話
さて、日本でもシリーズ1、2がTV放映された「SHERLOCK」ですが、結局のところ何処が好きなの?、という友人からの質問への回答が以下。たまたまココに来てしまった奇特な方にはただただすいません。
「SHERLOCK」は観る側に緊張を要求する。伏線自体や伏線の回収に関わる「情報」、ストーリーの根幹に関わる「情報」など、とにかく「情報」を明確にカット内やセリフで示す。ただし、「情報」を含むカットは特別扱いされることなく、それまで通りのペースで次のカットへと繋がれる。セリフも一言二言で、当然劇中の人物がしゃべるはずの無い説明的なセリフは使われない。さらに恐ろしいことに、伏線にもストーリーにも関係ない、ノイズとでも言うべき余分な「情報」までが散りばめられる。いったん「情報」の埋め込みを意識するようになると、1カットも見逃せない、さりげないセリフも聞き逃したくない、と画面に集中せざるを得なくなる。カットは登場人物の主観的視点、第三者的視点の間を飄々と行き来し、時として視聴者は(少なくとも僕は)登場人物といっしょにノイズにころっと騙される。騙されたと気付いた時には否応なく一瞬緊張が緩む。が、待て々々、本当に騙されたのか?緩んでる場合か?カットは相変わらずのペースで積み重ねられ続ける。
劇展開の時間軸上で「情報」の密度が瞬間的に跳ねあがり、時に先の「情報」へとリンクする。僕の感じるところ、少なくとも「情報」を提示する順番は極めて計算されている。「ストーリー展開を破綻させることなく視聴者も謎解きに参加させるが如く有りのままの「情報」を何気に次々と提示する構成」が、僕にとっての「SHERLOCK」の大きな魅力だ。
実はシリーズ1の第1話は、何の予備知識もなくただチャンネルを合わせ、しかもVF-1Aのメッシュを編集しながら観たものだ。それでも第1話が面白くて次回の放送を楽しみに待った。第2話を観て、上記のような緊張感を持って観るという観方もあるぞ、と気付いた。で第3話なんだけど、「クリフハンガー状態でシリーズ1終了です。」の衝撃が大き過ぎた。おい、僕はまだちゃんと観てないよ!
結局、僕は制作側の意図するところに上手く転がされ続けた有難い視聴者、ということになるのかも知れない。でもそれは一視聴者としては幸せということでもあり得る。シリーズ2だけでなく、先行したシリーズ1の再放送もとにかく楽しめた。「深い」などと言うつもりは全くないけど、ながらで観てもじっくり観ても面白かったというTV番組はそうそう無い。
I'm SHERLocked.ってことで、取り合えずこの場は。
シリーズ2第3話の最後にシャーロックが使ったトリックに関して、制作側から「視聴者の多くが重要な伏線を見落としている」といった発言が有ったとか。個人的にはアレかな、と思うところも有るけれど果たして…。
最後に音楽が良い! って言うか、特定の曲で何故だか凄く心安らぐ。就寝時に聞くと病院で処方してもらった「気持ちを落ち着かせる薬」よりも効いてるんじゃないかと思うぐらいスッと寝付けるんですよ、これが。
「SHERLOCK」は観る側に緊張を要求する。伏線自体や伏線の回収に関わる「情報」、ストーリーの根幹に関わる「情報」など、とにかく「情報」を明確にカット内やセリフで示す。ただし、「情報」を含むカットは特別扱いされることなく、それまで通りのペースで次のカットへと繋がれる。セリフも一言二言で、当然劇中の人物がしゃべるはずの無い説明的なセリフは使われない。さらに恐ろしいことに、伏線にもストーリーにも関係ない、ノイズとでも言うべき余分な「情報」までが散りばめられる。いったん「情報」の埋め込みを意識するようになると、1カットも見逃せない、さりげないセリフも聞き逃したくない、と画面に集中せざるを得なくなる。カットは登場人物の主観的視点、第三者的視点の間を飄々と行き来し、時として視聴者は(少なくとも僕は)登場人物といっしょにノイズにころっと騙される。騙されたと気付いた時には否応なく一瞬緊張が緩む。が、待て々々、本当に騙されたのか?緩んでる場合か?カットは相変わらずのペースで積み重ねられ続ける。
劇展開の時間軸上で「情報」の密度が瞬間的に跳ねあがり、時に先の「情報」へとリンクする。僕の感じるところ、少なくとも「情報」を提示する順番は極めて計算されている。「ストーリー展開を破綻させることなく視聴者も謎解きに参加させるが如く有りのままの「情報」を何気に次々と提示する構成」が、僕にとっての「SHERLOCK」の大きな魅力だ。
実はシリーズ1の第1話は、何の予備知識もなくただチャンネルを合わせ、しかもVF-1Aのメッシュを編集しながら観たものだ。それでも第1話が面白くて次回の放送を楽しみに待った。第2話を観て、上記のような緊張感を持って観るという観方もあるぞ、と気付いた。で第3話なんだけど、「クリフハンガー状態でシリーズ1終了です。」の衝撃が大き過ぎた。おい、僕はまだちゃんと観てないよ!
結局、僕は制作側の意図するところに上手く転がされ続けた有難い視聴者、ということになるのかも知れない。でもそれは一視聴者としては幸せということでもあり得る。シリーズ2だけでなく、先行したシリーズ1の再放送もとにかく楽しめた。「深い」などと言うつもりは全くないけど、ながらで観てもじっくり観ても面白かったというTV番組はそうそう無い。
I'm SHERLocked.ってことで、取り合えずこの場は。
シリーズ2第3話の最後にシャーロックが使ったトリックに関して、制作側から「視聴者の多くが重要な伏線を見落としている」といった発言が有ったとか。個人的にはアレかな、と思うところも有るけれど果たして…。
最後に音楽が良い! って言うか、特定の曲で何故だか凄く心安らぐ。就寝時に聞くと病院で処方してもらった「気持ちを落ち着かせる薬」よりも効いてるんじゃないかと思うぐらいスッと寝付けるんですよ、これが。
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