2013/10/01

最終回…で、完全新作劇場版ですか…

 「とんち」の意味をを調べると「その場に応じて即座に出る知恵、機知」ということらしい。

 「機知」はけっこうポジティブなニュアンスが強いから、あんまり自分のアイディアを「とんち」と呼ぶのは危険な気がする。本当にそのアイディアが「機知」と呼べるほどのものかどうか、判断は他人に任せた方が公平だ。

 最終回まで見終えて、ついに「とんち」を感じることがなかったことを明言しよう。

 単にご都合主義で、無用に感傷的で、時に演出が過剰に感覚的で、ネタを散々食い散らかしながら大事なところに限って回収しなかったのが「宇宙戦艦ヤマト2199」だ。物語や世界観との整合を欠いた「ちょっとしたアイディア」は「とんち」ではない。物語や世界観の論理性や合理性の欠如は回を重ねるにつれて耐えがたいレベルにまで達し、夢の機械「コスモリバースシステム」は作品の製作者のためにのみ存在することがあからさまとなり、「青い地球の回復」のカットにカタルシスはない。

 夢の機械は「可能性として有りうる世界」を現実とする一種の量子状態観測装置+αのようだ。2199における「波動」は、量子力学における「波動」と「まるで同義と解釈せざるを得ないように」取り扱われている。量子力学的並行宇宙仮説のひとつに基づけば、「地球が青いまま」の並行宇宙は存在確率がほぼ0%ながら存在する。存在確率が小さくともその状態を観測すれば、「地球が青いまま」の宇宙の存在確率は0%か100%の「どちらか」に収斂する。量子力学的並行宇宙仮説で保証されるのは実はここまでだ。

 一方、夢の機械は「必ず」望む並行宇宙の存在確率が100%の状態のみを選びとる(0%に収斂することを排除する)。つまり、夢の機械の機能は「量子力学的並行宇宙仮説で説明可能」かと見えつつ、実は最後の最後で「前提である(かも知れない)量子力学的並行宇宙仮説から当然得られる結果を否定」してしまっているのだ。「存在確率が100%の状態のみを選びとる」ことは、量子力学的並行宇宙仮説の枠組み内では不可能ということだ。

 考察や理解の浅さか、都合の良いところだけのつまみ喰いか、夢の機械はそんなものにしか見えない。「夢の機械は作品の製作者のためにのみ存在する」というのはそういう意味だ。

 そんな夢の機械の存在を前にしては、如何なる物語も成立し得るが故に如何なる物語も意味がない。それは「とんち」ではなく、世間一般では「ずる」と呼ぶ。比較的近いところでは、「エウレカセブンAO」の「クオーツガン」が夢の機械として「ずる」に加担していた。

 「あなたのやりたい事は分かるし、実際にやってるようだね」という言葉を贈ろう。問題は、「宇宙戦艦ヤマト」でそれらをやることの必然性が全くないことだ。私が改変部や新しいアイディアと物語や世界観との整合にこだわり続けた理由はそこにある。これではまるでファンフィルムであって、プロフェッショナルな仕事とは思えない。「木を見て森を見ない」とはこのことだが、OSTの異常なマスタリングなどに照らせば「木すら見ていない」とも思える。力量がなかった、常識がなかった、と堂々と言えるのならばそれはそれで清々しいが、どこまで自覚があるのだろうか。

 儲かる限り、そんな作品でも作られ続ける。だからそのような作品が生まれ続けることに視聴者側にも一定の責任がある。この辺りはちょっともどかしいところだ。

(2013/10/5加筆修正)

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