2013/04/20

さんざん脱線、結局中華人民共和国の女性兵士パレード

 最初はちょっと固いお話。

 2年ほどまえから朝鮮戦争について色々調べていて、本を読んだりYoutubeなんかにアップロードされているドキュメンタリーなどをワッチしている。

 本ではやはりディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」が出色で、最近文庫化されたので少しでも興味があれば是非読むことをお勧めする。題材はもちろん朝鮮戦争だが、当時のアジア地域の米軍総司令官でもあり、GHQのトップとして日本の戦後に影響力を行使したダグラス・マッカーサーの戦争対応のみならずその有り様そのものへの批判の書でもある。「自虐史観」を是とする人も非とする人も、マッカーサーの個性が色濃く反映されたGHQの行動原理の一端でも理解する上で読んでおいて損は無い。

 「ダイバーシティ」なんて難しい用語が説明なくTVで使われた始めた昨今、自分で訓練してでも同一の事項を多方面から理解、解釈する能力を身につけねばね。得られるものは「偏見」からの(相対的なより)自由ですよ。

 ちなみに15年ほど前は、フランス方面から「パリティ」という表現が良く聞こえてきた。「パリティ」は原子核物理や素粒子論などでも用いられている用語だが、ここでは「同一の社会的地位を男性が占めようが女性が占めようが、性別(ジェンダー)ごとに良さがある」というニュアンスで使われていた。要は「この地位は男性(または女性)でなければならない、という考え方は一種の偏見である」という考えを反映した用語と言える。結局、社会的意味での「パリティ」は日本には上陸せず、「性別、宗教、年齢、人種その他含めた多様性を認めるところからはじめよう」というニュアンスで「パリティ」の考えをも包含する「ダイバーシティ」という用語がいきなり上陸したのだ。

 「男女雇用機会均等法」は「パリティ」という用語の発祥と呼応してたんじゃないの?、という考え方はおそらく時期的には正しい。が、この法律は雇用「機会」を「均等」とするだけであって、雇用後の処遇については立ち入っていない。つまりこの法律では「パリティ」の考えの実現は保証されないのである。「パリティ」という用語の上陸はその概念の上陸も不可避に許すことになるのだが、個人的に色々調べた結果として日本国内に「パリティ」の概念の上陸を望まなかった勢力があったやに思われる。

 この種の用語には大抵明確な定義(ただし、一つではない場合もある)があるので、政治家や官僚が間違った意味で使ったときに笑うためにも、一度は自分で定義を調べてみることをお勧めする。TV番組でメインキャスターを張っているようなジャーナリストでも、この種の用語を間違った意味で結構使ったりしてますよ。間違った解釈の引用もまた然り、馬鹿キャスターの間違った発言や主張は笑ってあげましょう(キャスター本人を笑うかどうかはまた別問題なので念の為)。

 さて、本題。朝鮮戦争ドキュメンタリーを試聴していた流れなのか、Youtubeから下のビデオがレコメンドされましたよ。「パリティ」の概念から言えば「女性兵士」という表現は微妙。「男性兵士」という表現が併置されればうやむやになってしまいますが、「兵士」が併置された場合は微妙です。「兵士=男性」は偏見か否か、「偏見」とは何か、以前のエントリで触れたことのある「文化的コード」もからんで何気に奥は深いですよ。

 このビデオでのひとつのポイントは「女(性)民兵」。濃いピンクの制服に白いブーツ、手袋と帽子、そして旧式サブマシンガン。なんか、80年代の東映特撮TV番組をほうふつとさせられます。当人達はこのファッションスタイル(敢えてこの表現)をどう思っているのでしょうか?制服のデザインを変えたら入試の競争率が跳ね上がったという女子高がかつてありましたけど…。

近況、三度。

 会社でこそこそやっている個人プロジェクト、「こいつはすげぇ!」としか言いようのない計算結果が出だした矢先に計算プログラムのバグを発見。三ヶ月前ならどん底まで落ち込むところだが、冴えてる今はちょっと違う。

 そもそもバグ発見の契機は「計算結果が実験結果と一致してはいけない」はずの条件で両者が一致してしまったこと。敢えて大口を叩けば、私は「計算結果がどうなるか分かっている」に近い状態まで計算対象である現象の振る舞いを理解できつつあるということだ。

 間接的な師匠格である職場の大先輩に本当にそういう人がいた。当時の大型計算機で1週間以上かけて求めるような三次元流れ解析の結果のグラフを、計算を始める前にさらさらとノートに書いちゃうような人だ。彼にとっての計算結果のチェック作業は、彼自身がノートに書き留めておいた予測結果が正しいことを確認するための作業に過ぎない…と言っても過言ではなかったのだ、実際に。

 ちなみに、私が研究対象としている現象の予測モデルの95%までは1980年代に完成されている。が、残り5%の欠落は約25年経った今現在でも埋められていない。その欠落を埋めるのが件の個人プロジェクトだ。

 バグを取り除いた後、ノート3ページ程の手計算結果に基づいて計算モデル中の唯一の経験パラメータを修正。今はプログラムの計算結果と試験結果が一致するべきところは一致し、5.0%ずれるべきところは5.0%ずれ、9.2%ずれるべきところは9.4%ずれているといった塩梅だ。プログラム計算値の精度が試験結果の誤差に肉薄しつつある…のか?といったところでこの土日はきっちり休みます。

2013/04/15

映画"Iron Sky"を観たよ

 本編より予告編(トレーラー)が、予告編より特報(ティーザー)が面白いっつー典型的に困った代物。企画はトンデモなく面白かったんじゃなかろうか。

 面白くないとは言わないが、本作に散りばめられている類の下品さは個人的に生理的に受け入れにくいものだ。笑うよりも先にげんなりしてしまう。TVでたまに見ることがある重鎮とも言える芸人が、地方の営業では下ネタを連発しているのを見ているような居心地の悪さがある。ギャグ、コメディー、スケッチ(コント)ではなくただの酔っ払いのジョークの連発、良くてファルス(笑劇)だろう。字幕の訳の適当さ加減が下品さをやわらげているというのも困った感じ。「80年代の欧州ポルノを思い出してしまった」、などと書くのは自らの下品さと性的フェティッシュの方向性を披歴するようで上手くないのだが、風合いとしてはそんなところだ。

 頭悪そうの見える(演出されている)人間が、さも頭悪そうな発言をしたり行動を取る姿は全然面白くない。ラスト(エンドクレジット頭)の処理はとても21世紀の映画とは思えない陳腐さで、想像力というより妄想力のみのありきたりの産物という気がする。新味はない、輝く才能の片鱗も見られない。

 タダなら観ても良いけれど、「ムダ」より質の悪い時間の過ごし方になる可能性を警告しておこう。遺憾ながら大変勉強になりました。俺の人生の一部を返せ、金はくれてやるぜ!

 ティーザーは今見ても最高ですね、音楽も良し。

2013/04/13

なぜ「プレイズYMO/セニュール・ココナッツ」を言下に否定したのか

 経緯は省略するけれども、先日ある人とのやり取りの中でセニュール・ココナッツのYMOカバーアルバム「プレイズYMO」を言下に否定した。ほとんど条件反射、自分の中の怒りみたいな何かに気付いた瞬間でもある。YMO本家がどう言おうが、聞くに耐えない代物には変わりない。理由は簡単だ。

 マンボじゃないから。

 実はマンボにもちょっと五月蠅いのである。金を払ったのに、「出来の悪いマンボのシミュレーション」なんか聞かされるのは全くもって迷惑以外の何物でもないのである。YMOのカバー以前のもっとレベルの低い話なのだ。

 「なんかめんどくさいヤツだなぁ」と思ったあなた、あなたはきっと正しい。

近況、再び。

 薬に助けられているとはいえ、最近体調も良いし頭も良く回る。1日12時間業務のペースをここ2週間維持している。要は病気を患う前のペースにかなり戻りつつあるということだが、ポイントは現在進めている解析技術開発の内容と進捗具合にある。

 ここで「業務」と書かないことには意味があって、実は個人的なプロジェクトだ。もちろん技術が完成した暁には間違いなく会社の役に立つ。しかし、誰も2~3年でそんな技術が確立されるなんて思っていないから、「それをやれ」などと言う人間はもとより開発費(ほぼ人件費)を出そうなんて人間もいない(ただし是非やるべきだと私を信じてくれている上司は居る)。でも必要だということを信じて疑っていないのだ。ここ3日間でちょっとした技術的ブレークスルーをモノにできた感触が得られている。

 個人プロジェクトは本来業務の合間を見つけて進めることになる。このような個人プロジェクトの進め方を私の職場では「アンダー・ザ・テーブル」と呼ぶ。なぜ「ザ(the)」なのかは不明だが、言い得て妙かとも思う。

 開発中の技術は、私が現在の職場を選んだ理由、すなわち「やりたかったこと」そのものである。だから楽しくて仕方ないし、ここ20年間で自分が得た知識を総動員している。ブレークスルーを確信した瞬間の喜びは真剣故に大きい。技術屋の特権である。

 病気は辛い。でも、病気になって課長をクビにならなかったらこの個人プロジェクトを立ち上げる暇もなかったろうことは明らかだ。来月からは本来業務に集中する必要がある。今月中にどこまで進められるか、何気に正念場なのである。

2013/04/12

不意打ち!?音楽の計画(New Version)/ 石山正明

 ほぼ3ヶ月ぶりにiTunes Storeで"Music Plans"を検索、不意打ちをくらう。

 「音楽の計画」は大好きな曲で、石山正明氏のカバー曲がかなりツボにはまり一時期それしか聞かなかったという話は以前のエントリに記載した通り。不意打ちというのは、その石山氏が同曲のNew Versionを1月に出していたこと。早速購入しましたよ。

 で、実際に曲を聴く前にどこを変えたのかの手がかりでもないかとググったところ、石山氏のつぶやきが引っかかった。「リスナーの方の意見を参考に、修正してみました。かなり、安定感が出ましたね。」とのこと。

 「ふむ、リスナーとのやり取りから新バージョンが出る、なんて良い話だよねぇ。」とか「どうせだから毎年1月に新バージョン出してもらって、『あぁ、また新しい年が始まったねぇ』などと一種の風物詩にしちゃうってのはどうかしらん。」とかどうでも良いことを考えながら再生してみた。

 正直、私の耳では違いらしい違いは確認できなかったのだが、ラストが少し変わっていることに気付いた瞬間に「うむ~そう来たか」と思うと同時にちょっとだけドキリとした。理由は上で触れた先のエントリで、「曲のラストの余りにあっさりした処理は個人的にはちょっと不満があるが、それら以外は本当にツボ。」と書いていたからだ。どう来たかが気になる方は、是非曲を購入して自分の耳で確かめて頂戴。

2013/04/08

映画「ARGO」を観て思い出したこと。

 予告編を観て劇場で是非観たかった「ARGO」だが、とにかく仕事が忙しくて時間が作れなかった。遅まきながらiTunesでレンタルで観た。
 ベン・アフレックは「なんか頭悪そうな役」が多いという印象が強く、どういうキャリアを目指しているのか他人事ながら心配していたのだが、どうも「出来上がりをきっちり読める」映画監督としての地位は掴んだように見える。同様に俳優、映画監督との二足のわらじを履いているクリント・イーストウッドはインタビューで「撮影前に全てのカットは頭の中に有る」とはっきり言っている。そういう観点からは、「ARGO」冒頭の一連のカットとラストカットの処理が脚本段階から想定されていたものなのか監督の意図なのかはちょっと気になる。「ARGO」という映画に関しては、一か所だけ音楽の使い方に引っかかりがあったが、純粋に楽しんで観た。ただし誰かがどこかで書いていた通り、名字が「メンデス」という主人公をベン・アフレックが演じるのにはやはり無理がある(個人的な印象では、「メンデス」はブラジル系っぽい名前である)。主人公の名前ぐらいは変えても良かったのではないかと思う。

 「ARGO」を観て思い出したのは、かつて「アラビックSF」なんて呼ばれた一連のSF小説群があったことだ。時期的には1980年代である。

 結局のところ「サイバーパンク」なんて呼ばれていたSF小説群の大部分は、新しいガジェットを導入することで(SF的ではないものも含む)古典的なストーリーをさも新しいもののように提示しただけであった。個人的には「サイバーパンク」には価値なんか見出せない。むしろ「サイバーパンク世代の作家」と呼ばれた作家群の中から一味違うと思わされた作家のみが見事に生き残り、「サイバーパンク」ではない新しい作品を生み出していった点の方が重要だ。「サイバーパンク」はマーケティング用語に過ぎず、ムーブメントなどでは無いとしか思っていない。

 「アラビックSF」も同様の観点から見ればアラビアンナイトの(当時の)今日的翻案に過ぎなかった。が、こちらは明確にエンターテインメントであることを示すマーケティング用語であった。大部分の著者が当然ながらイスラム文化圏の人間ではない。何冊も読んだはずなのだが、タイトルを一つも思い出せないという辺りはさもありなんというところだ。

 映画のタイトルでもある劇中のニセ映画「ARGO」には、そこはかとなく「アラビックSF」のニュアンスを感じる。時期的にも「アラビックSF」作品が米国で登場し始めた時期とほぼ一致する。そういう脚本があってもおかしくないのだ。

 「アラビックSF」のことを思い出した原因はもう一つある。「ダークマター(暗黒物質)」の存在を示唆するとされる国際宇宙ステーションでの陽電子測定結果に関する報道だ。とあるアラビックSF作品では、宇宙船が用いるエネルギーは「空間」から取り出される。「ダークマター」「ダークエネルギー」「零点エネルギー」などなど、その作品にはジャーゴン(専門用語を指すネガティブな表現、「訳の分からん専門家の戯言」が源)があふれていた。

 劇中の映画「ARGO」は、もし作られても間違いなく駄作となる運命にあった。映画「ARGO」、或いは「ハリウッド作戦」の欠点を敢えて挙げるならばそこなのかもしれない。

2013/04/05

「トレーサビリティ」というリトマス試験紙

 実験計測における「トレーサビリティの確保」に対する振る舞いは、その人の合理性と論理性の有無を如実に反映する。「トレーサビリティ」の本質は誤差評価結果の定量性の確保、試験結果の信頼性の確保或いは不確かさ幅の定量性の確保ではあるものの、試験結果の「品質保証」とは必ずしも同義ではない。この辺りを取り違えると、無駄な作業や議論を重ねることになりがちだし、やってることに楽しみも見出せない。

 「トレーサビリティの確保」という概念を理解すれば、試験に臨む際の行動はそれを理解する前とは全く変わらざるを得ない。幸いにして、私は今で言うところの「数値シミュレーションのV&V(検証と妥当性確認、Verification & Validation)の概念」に比較的早い時期に気付いてしまっていた。「トレーサビリティの確保」のための具体的な手順を理解するには一週間ほど要したものの、その概念自体は数値シミュレーションのV&Vのためのそれまでの思考実験結果と馴染むものだった。

 誰をもを納得させる論理性、無駄なく必要なことしかやらない合理性。

 「何をアングロサクソン的な!」などと一笑に付すこと無かれ、マニュアル化が可能な品質保証プロセスと同一視することなかれ。「最小限」の「トレーサビリティの確保」は「品質保証」のための必要条件にしか過ぎないが、「トレーサビリティの確保」の概念自体が示唆する内容は「品質保証」の枠組を超えて遥かに広がっている。「トレーサビリティの確保」の為に今何を為すべきか、という自らの問いに自ら答えることは立派な知的活動だ。

 日々の業務で使っているMS-Excelのワークシートをどの段階で、どういう名前で保存するか。そんな毎日の作業の中にすら「トレーサビリティの確保」という視点からの回答はある。おそらく正解はないだろうが。

2013/04/01

wired.jpの記事 「どのようにSNSは死を迎えるか」が面白い(その7)

 さて、独断と偏見に基づく論文(David Garcia, Pavlin Mavrodiev, Frank Schweitzer: "Social Resilience in Online Communities: The Autopsy of Friendster", arXiv:1302.6109v1(2013).)の読解、最終回です。最終回で書くのもなんですが、本論文はいわゆる査読が一切入っていないものです。そのせいもあってか、数値や数式の矛盾、こなれていない英語の表現が散見されます。本ブログ中の数式の一部は論文中の数式とは一致していないので念のため。

 著者らはOSN(Online Social Network)のメンバー間の関係をネットワーク構造でモデル化し、モデル化したネットワークの「弾力性」から、成功したOSNと失敗した(閉鎖された)OSNとの差の説明を試みました。しかし、ネットワークの「弾力性」という概念だけでは、むしろ失敗したOSNののネットワーク構造の方が崩壊しにくいという結果に至りました。何が足りなかったのでしょうか?

 OSNの崩壊とは、メンバーの大量離脱とメンバーがそのコミュニティに属し続ける価値の低下とが負の連鎖を引き起こし、メンバー数の激減が続く現象を指します。このような現象は極めて「ダイナミック」な現象です。敢えて「ダイナミック」という表現を使う意味は、コミュニティの崩壊過程は「(何かが)アンバランスな状態が維持され続ける」状態と見なすべき、というニュアンスを含めるためです。何か重要な指標となる量が「バランス」すれば、崩壊は止まる可能性があります。崩壊が続くということは、何か重要な指標となる量が崩壊と共に変化し続け、ついにはコミュニティの完全な崩壊まで「アンバランス」なままが続いたと解釈することができます。

 著者らは、閉鎖されたOSNであるFriendsterの崩壊過程の説明を、これまで展開してきたネットワークモデルから試みます。その結果、ネットワークの崩壊とともに変化する臨界コア度(critical coreness)という概念に至ります。臨界コア度とは、メンバーがコミュニティからの離脱をほぼ(モデル上は100%の確率で)決断することになるコア度です。例えば臨界コア度が10の場合、コア度が60のメンバーはコミュニティに残りますが、コア度が9のメンバーはコミュニティを離脱します。そしてこの臨界コア度はコミュニティの崩壊とともに増加します。

 ここで注意しなければならないのは、臨界コア度は既に崩壊過程に入ったコミュニティのモデル化にしか役に立たないことです。臨界コア度は崩壊が発生するか否かの判断には使えません。

 もう少し臨界コア度の定性的意味合いを考えてみましょう。臨界コア度はコミュニティの崩壊に伴って増加します。つまり、崩壊過程に入ったコミュニティの規模の減少は、コア度の低いメンバーの離脱によるものとみなせるということです。著者らが分析の対象としたしたOSN、Friendsterのネットワークの全体構造は、コア度の高いネットワークの周囲に相対的にコア度の低い複数のネットワークが分布する構造が何層にも繰り返されるというものです。このような全体構造は決して珍しいものではなく、Facebookだろうと同様だと考えて良いでしょう。臨界コア度の増加という考えは、コア度の高いネットワークよりも先にその周囲の相対的にコア度の低いネットワークが消失することを意味しています。そして最後にはコア度が高いネットワークのみが単独で残されます。このようなネットワークはたった一人のメンバーの離脱だけでコア度が一つ下がってしまう構造であり、メンバーの大量一斉離脱に対する「弾力性」は低いと言わざるを得ません。成功しているコミュニティにおいてコア度が高いネットワークがそれなりの「弾力性」を持つのは、その周囲にコア度が1小さいだけの複数のネットワークが存在しているからなのです。このような状態では、コア度の高い中心のネットワークから複数のメンバーが離脱しても、そのネットワークの大部分は周囲のネットワークの一部となることでコア度の低下を1で収めるでしょう。

 では臨界コア度はコミュニティ崩壊過程で何故増加するのでしょうか?

 実は、これは問いかけが間違っている可能性があります。おそらく、臨界コア度はいったん増加しだすと止められません。では臨界コア度の最小値はどのくらいでしょうか。論文の著者らはFriendsterでは3ではないかと仮定しています。この数値はけっこう小さいですね。ここで前言を撤回し、臨界コア度は安定した成功しているOSNのネットワークにも存在するとしてみましょう。言わんとすることは単純です。臨界コア度が3のOSNは、コア度が3を超えるネットワークを作ることが難しいのではないか、ということです。Friendsterの崩壊の原因にはFacebookの台頭などが原因として考えられていますが、ユーザーインターフェースの変更も原因と考えられています。コア度の増加には、直接の友人とすべきメンバーをメンバーが相互に見つける必要があります。つまり、ユーザーインターフェースの変更がメンバーが新しい友人を見つけにくい方向に作用した場合、そのOSNのメンバーは新しい友人を見つけられずに自分のコア度がなかなか上げられません。新規メンバーに至っては、新しいネットワークの形成はもとより、既存ネットワークへの参加も困難となります。

 以上を簡単にまとめます。
  • OSNのコミュニティが安定、または拡大するためには、コア度の高いネットワークの周囲に相対的にコア度の低いネットワークが存在する多層構造を形成、維持しなければならない。
  • コア度の低い周囲ネットワークの消失によるOSNのコミュニティ規模の減少は、臨界コア度という指標で評価できる可能性がある。
  • 臨界コア度でOSNの崩壊が説明できる場合、コミュニティ全体のネットワーク構造の「弾力性」の強弱はOSNの崩壊開始の直接の原因とはならない。
  • 臨界コア度は規模が安定、または拡大しているOSNでも考えることができ、これは「ネットワークの形成のし易さ」、コミュニティメンバーの視点からは「直接の友人の見つけやすさ」を反映している。

 最後に論文著者らのFriendster崩壊過程の説明を簡単に述べます。下図は、縦軸に"www.friendster.com"のGoogleにおける検索数を、横軸に時間(時期)をプロットしたものです。黒四角(□)が実際の値、赤実線が後述するシミュレート結果です。著者らはFriendsterの実際のメンバー数の時間変化を入手できなかったため、メンバー数がGoogleの検索数に比例すると仮定しています。検索をするということは活動的なメンバーの筈ですから、公式なメンバー数よりも実質的なコミュニティのメンバー数にむしろ対応しているかもしれません。

 OSNの実質的な崩壊開始は赤実線の左端、2009年8月ごろです。著者らはFriendsterのスナップショット(ウェブページのキャッシュ)に基づいて、コア度が3以上のコミュニティネットワークを作成し、臨界コア度に基づいてコミュニティ規模の減少過程をシミュレートしました。赤実線がその結果です。シミュレート結果と実際のGoogle検索数の時間変化の一致は良好です。シミュレートでは最初の臨界コア度を3とし、1ヶ月毎に6づつ増やしています。2010年6月ごろ(図中の「15%(10M)」と書かれているあたり)には臨界コア度は67に達し、もはやこのOSNにはコア度が67以下のネットワークは存在しません。そもそも臨界コア度の増加は新規メンバーの参加のし難さを反映したものですから、いったん低コア度ネットワークが消失したコミュニティが新規メンバーを獲得できるはずもありません。コミュニティの規模が小さくなることはあっても大きくなることはありません。以降は、コミュニティからメンバーが離脱する度に残ったメンバーのコア度は下がり、それが更なるメンバーの離脱の引き金となります。

 かくの如く、Friendsterの崩壊過程を説明できる「一つのアイディア」が提示されました。著者らは今後の予定としてTwitterなどの別形態のコミュニティの分析を表明していますが、まだまだFriendster崩壊すらも十分に分析できているとは思えません。ネットワークのコア度という概念の可能性に引かれてこの論文を読みましたが、門外漢ながら深みに欠ける内容です。更なる分析を切に期待するところです。

 さて、多数回に渡った論文読解は以上で終了です。興味がある方は論文に直接挑んでください。本ブログでは論文内容の20%ぐらいにしか触れていませんし、説明のし易さから独自の解釈も含めています。いずれにしても、なんとか終わらせることができましたね。正直ほっとしています。

 でわ。