2015/02/08

お花畑ジャーナリスト vs 一部マスコミ vs 小学二年生

 実際のところは分からないので「自称」を付けさせていただくが、ISIL支配地域への渡航を計画していた某自称ジャーナリストのパスポートを国が取り上げたとの報道があった。報道によれば自称ジャーナリストは「表現・報道・取材などの自由を侵害された」と述べたと言う。

 某報道番組では朝日新聞の人間などが「日本国民の生命の保護と日本国民の様々な自由との間」に何か対立でもがあるかのようなに偉そうにしゃべっているが、これは笑止だ。

 では、小学二年生時の私のクラスメート、そして一人の先生に登場してもらおう。そこまでの経緯は省略するが、社会の時間にクラス内でちょっとした議論が起きた。
職業選択の自由があるなら、泥棒も職業ではないか。なぜ、職業とは認められないのか
所詮小学生だから議論は空回りする。偉いのは先生で、15分程の間は生徒の議論に一切口を挟まなかった。そんな中、クラスでもキレ者だった某友人の発言によって議論が動いた。
自由は無制限じゃない。何か制限がある筈だ
そこで先生が議論が始まって初めて口を開いた。
その制限とはどういうものか、皆で考えてみましょう
さらに議論は10分程続き、クラス内で大枠の認識は一致した。すなわち、
他人に迷惑をかける行為は、自由にやって良い行為には含まれない。自由は他人に迷惑をかけない限りにおいてのみ、保証される
 小学二年生の議論としては上等だったと思う。最後に再び先生が口を開いた。
少し難しいですが、「公共の福祉」という考え方があります。他者に迷惑をかけることは「公共の福祉」に反する行為と見做されます。ですから泥棒と言う行為は「公共の福祉」に反しているので、警察に捕まれば自由に街中を歩く事も食べたい物を食べる事も自由に便所に行く事もできなくなります。つまり日本国民であっても泥棒の自由は制限されることになるということですね。
職業というのは回り回って自分や他人を幸せにするものでなければなりません。他人を幸せにするという行為は「公共の福祉」に合致します。対して泥棒と言う行為は他人を不幸にするので、「公共の福祉」という考えからは職業と見做されないのです。
詳しくは中学生になってからまた勉強することになるでしょう。
 まさに目からウロコだった。それから約5年後、多少世の中の仕組みを分かり出した私の耳にこの先生がかつて左派学生運動の闘士だったという話が聞こえてきた。60年安保闘争などの学生運動にからむ本は既に読んでいたし、当時の左派思想も表層的には知っていたから意外な感じはしなかった。「警察に捕まれば云々」のくだりは、案外自分の経験を踏まえての発言だったのかもしれない。

 さて、自称ジャーナリストの「表現・報道・取材などの自由を侵害された」との発言が日本という法治国家においては自分勝手な言いがかりに過ぎないという点は、小学二年生時点の私ですら論破できる。後藤健二氏はその辺りの機微をかなり理解していた節があるので某自称ジャーナリストの∞倍マシな可能性が高い。「自己責任」という表現はかつて首相も務めた某「ワンフレーズ政治家」の一種の負の遺産なので余り好きではないのだが、極めて本質的であるが故に捨て難いのが実態だ。ここでの「自己責任」とは、「公共の福祉」からの逸脱、裏を返せば国が当人の自由を保証できなくなった状態を指す事と考えても良い。ただし実体は、当人も含めて誰も当人の生き死にに責任が持てないという、もう迷惑千判も甚だしい状態なのだが。

 「行使した自由の結果の責任をまだ自らが取れる余地がある状態」はまだ良い。責任から逃げ続ける先には究極的にはまさに「自己責任」しか残されないのだよ、某新聞さん。

 ISILに拘束されたり殺されたりするのは勝手だが、それなら「公共の福祉」に則って生活している日本人の税金を使う事態を招いたり、 「公共の福祉」に則って生活している日本人をISILに「敵」認定させたり、或いは 「公共の福祉」に則って生活している日本人が国際社会で肩身の狭い思いをする事態を招いたりする可能性を皆無としてから「あなたの言う自由とやら」を行使して頂きたい。要は、小学二年生でも分かり得る事を理解していない低レベルの頭の中がお花畑状態だから、あなたのパスポートは取り上げられ、 「公共の福祉」に則って生活している日本人なら謳歌できる自由の一部が停止されたに過ぎないということだ。「馬鹿」や「××」の一言で片づけないのはせめてもの慈悲である。

 テレ朝も酷いものである。未だにISILのプロパガンダ映像を挟んだ映像を平気で流している。カナダ、フランス、米国在住の知人によれば、それらの国のテレビ放送の状況からみると「ISILのプロパガンダ映像を一部とは言え公共の電波に乗せることは今や異常」ということである。これは非常に単純な話で、これらの行為が「公共の福祉」に反するとのコンセンサスが既にあり、かつ、そのような行為が「テロ支援」として規制、立件の対象となる法律も一部の国では既に存在するからである。世界標準、少なくとも欧米の標準に照らすならば、幾ら声高に「報道の自由」を叫ぼうとも「ISILのプロパガンダ映像」を放送するテレビ局は「公共の福祉」に反しているが故に「報道の自由」は制限されても仕方がない。それを直接規制、立件する法律が無い事を良い事にやりたい放題、とも見える点には注意しておいた方が良いと思う。

 「両論併記」とか戯言を抜かすなら、ヨルダン側の映像だって電波に乗せるべきだ。落ちてきた爆弾が女性整備士によって取り付けられていたり、メッセージが女性に記載されていたりした場合、その爆弾で死んだISILメンバーは天国に行けるのだろうか?彼らは女性に殺されたとは言えないか?映像に込められたメッセージは、「ムアーズ・アル-カサースベ中尉は殉教者である」を越えて実は更に強烈なものではないか?

 王立ヨルダン空軍 オペレーション・殉教者ムアーズ
 欧米の大部分やイスラム圏の行動原理は時に一般的な日本人ではついて行けないぐらい二分法的である。つまり、やる時は徹底的にやる。 現行の日本の政権はその機微が分かっていると見做されているから、対ISIL有志連合からの目に見える圧力は受けていないというのが願望も含んだ私個人の現状分析だ。別な言い方をすると、現行の日本の政権は有志連合が「やるぞ」と言えば自国内でもやる用意が既に出来ているか、有志連合へポジティブリスト(やって良い事のリスト)を提示済み、或いは提示時期が既に明確化されているということだ。

 あくまで思考実験だが、今後ISILの問題がより重大化した場合、究極的には「報道の自由」の一部が国際的な枠組みの中で制限される可能性もある。となれば、米空軍機や王立ヨルダン空軍機から投下された精密誘導爆弾が日本の報道機関を直撃する事は、「日本のそれも含む国際的な公共の福祉、利益」に照らしては正当となり得る。標的はテロ支援組織、或いは報復の対象に過ぎず、日本にも 「公共の福祉」に則って生活している日本人にもその組織を保護する責任も義務も無いからである。より厳密には、その組織が自らをそういう状態、すなわち「自己責任の状態」に置く事を選んだからである。これは「言論封殺」でも「言論統制」でも「正義や悪」でも無く、「公共の福祉に照らして保護すべき対象かどうか」という問題なのである。

 こういう事を書いたり言ったりすると、「じゃあ、アル・ジャジーラは?」とかピントの外れた事を言い出す人達がいる。アル・ジャジーラに何故人気があるのか、評価されているのかの一つのポイントは「不偏不党、公正・中立を掲げ、イスラムの教えの枠内でそれらを徹底している姿勢」にある。この姿勢を続ける限り、アル・ジャジーラは公共の福祉に照らしても報道機関であり続け、如何なる勢力からも殲滅対象とはなり得ないのである。

 繰り返す、これは小学二年生でも分かる事なのだ。

2015/02/07

帰って来た、一回は観とけ!

 不勉強で汗顔の至り、本作については何も知らなかった。

 ひょんなことからアニメ劇場版「鉄人28号 白昼の残月(2007)」を観る。もっと評価されて良い作品だと素直に思う。監督は今川泰宏氏。

 同氏監督のOVA「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」では一種独特のケレン味が多少鼻についたが、本作ではそれが作品全体を上手く引き締める味になっていると感じた。同時に、氏のケレン味は実は当人の映画鑑賞歴も関係していて、かつかなりの数の映画を観てきたのではないか、とも思った。

 ここで言うケレン味とは、「見せ方を工夫することで、一切の余分な説明を排して何かを観客に理解させる」演出法を指す。例えば、特撮ヒーローが必殺技を決めるシーンを「物理法則とか科学的説明とかは一切すっ飛ばして、なんか凄そうに見える『画』」で演出するといった具合の話だ。 一時期流行った「トンデモ本」の内容は、概してこの種のケレン味あふれた演出内容を「荒唐無稽と問答無用に捉えた上で、演出を優先してすっ飛ばした、或いは誤魔化した内容」を白日の下にさらしたものと言って良い様に思う。「いい大人」が「納得づく」でやったことを「いい大人」が「納得づく」でいじるという、構造自体は面白いが中身には当然ながら意味がない。

 が、ケレン味あふれる演出が常にトンデモかと言うと当然そうではない。ここでの「ケレン味あふれる演出」の一つの効能は、「一瞬で視聴者に作り手側が伝えたいことを理解させる」ことにある。映画というのは、実質1時間半~2時間で物語の最初から終わりまでを最低限語らなければならないし、その時間内で視聴者をドキドキさせたり感動させたりと大変だ。となれば、ここぞと言うところで「一瞬で視聴者に何かを理解してもらい、それまでの映画の展開で心に積った疑問など一切のもやもやしたものを解消する」という大技を決めることができれば、映画全体が締まったものとできる。

 本作では物語の転換点に複数の小さなケレンを仕込み、謎解きのそのまさに直前に最大のケレンを仕掛け、そのケレンを生かしつつ物語を終焉に導く。映画の最初と最後は途中のケレンを一切排しても理解できる。作品が語る物語は、映画の最初と最後の間に挟まれた「一人の少年の成長のための通過儀礼」とでも位置づけられる内容だ。本作におけるケレンの数々はすべて映画、作品自体に奉仕している。娯楽作品で有る以上様々な要素を盛り込まなければならないが、上映時間には制限がある。故に「多くて3カット、セリフ多くて3つ、音楽一曲」で具体化した「画」で視聴者を納得させるケレンは、上映時間と娯楽要素と物語を全て過不足無く成立させるための技術、ひとつの武器なのである。今川氏の映画鑑賞歴が気になったのは、このような映画製作における一種のツボみたいなものが本作にはある、と感じたからであろう。映画の教科書は映画なのだ。

 最初の楽曲が流れ出してから10秒程度で確信した通り、音楽のクレジットは伊福部昭氏であった。ただし新作ではなく、氏の既存の作品からチョイスしてきたものの様だ。 ゴジラ映画などの関係もあって伊福部氏の楽曲は勇壮なものの方が良く知られているが、陰鬱ではないもののメランコリックな曲調の楽曲も多い。本作では特に後者にあたる楽曲のチョイスにまず唸らされるとともに、弦の音の処理、或いは録音方法に明確に意図的なものを感じた。そもそもヴァイオリンなどの弦楽器は弓の凹凸で弦を弾いているので、弦からの音はノイズとして弾かれた瞬間の音を含み、かつそれに続く弦振動由来の音よりも大きな音となることがある。本作の楽曲での弦楽器の音では件のノイズが明らかに抑えられており、「微かに聞こえる弦の音」が実現されている。ノイズを含む音では、ノイズレベルに合わせて弦の音の音量を下げるとノイズしか聞こえなくなってしまう。「微かに聞こえる弦の音」が実現は、使用した伊福部氏の楽曲の魅力を引き出すことはあっても損ねるものではない。正直、OSTが欲しくなった。

 鉄人28号自体をある程度は知っているなら絶対お勧め、極めて映画的な一本だ。

インターネットによる知恵?の拡散

 知恵、と言うかネタの拡散でも良い。インターネットを介しての情報収集と咀嚼はいわば他者の視点の獲得という側面を持ち、多様性においては既存マスコミは足元にも及ばない。
I'm Kenji, not Abe.
既存マスコミを介せば、この表現には
私は(後藤)健二だ、安倍(総理)ではない
以外の意味付けが与えられることは無いだろうし、至極当たり前の解釈だろう。ただし、何故安倍総理の名前がこのコンテクスト(文脈、経緯)で出てくるのかは私には全く理解できない。誰がとは言わないが、おそらく良くて馬鹿、悪くて大馬鹿或いは大馬鹿未満のアレなのだろう。 

 さて、ネットをうろついていて久しぶりに唸ったのが、上記の表現の別視点からの解釈だ。「当たり前を当たり前としないこと」が出来る人間の存在は、まさに生きていく上での刺激源の存在と言える。
私は健二だ、アブラハム(エイブラハム)ではない
繰り返すが、この解釈には思わず唸った。Abeはアブラハム(Abraham)の通称として一般的なものなのだ。

 アブラハム中のアブラハムと言えば、「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる聖典の民の始祖、最初の預言者」、「信仰の父」と呼ばれるあのアブラハムしかいない。上記の表現は、現行の日本の政権や後藤氏について知識のない人には、「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の否定」と解釈されても全く驚かない。

 いやはや、なんとも恐ろしい事で。なお湯川氏、後藤氏の事案に対しては個人的に
Abe is right.
"You are wrong."という英語表現の意味のどぎつさを思えば、これはかなり強い表現だ。「アベが正しい」と言った日本語訳は明らかに間違いで、「アベがいてくれて良かった、アベで良かった、アベはアベで良い」という方がニュアンスとしては近い。日本語における「君は間違っている」は「君の理解、考えなどは間違っている」とのニュアンスだが、英語においては相手の全否定となる。

 もちろん、「アベは右翼」なんて日本語訳は論理的に完全にあり得ない、あり得ないよ。

2015/02/05

Megpoid Whisper、「Dear Radio」のカバー

 ある意味懸案事項だった「Dear Radio」(作曲:佐野電磁さん、作詞:Yuraさん)のカバー。歌詞が空耳だとかはさておいても、曲中に「セリフ」という大鬼門がある。

 経験者は直ぐ分かると思うけど、Vocaloidに「しゃべらせる」のはとっても敷居が高い。試行錯誤を前提とする以上、専用エディターだけでそれっぽく編集することは言語道断なまでに効率が悪い。今回はCubase Pro8のVariAudio機能を使ってオーディオデータを直接編集(非破壊編集)、かなりピッチ(音程)やタイミングをいじったものだ。

 歌も含めて出来はもう一息、でも老い先短い身としては、100点から幾ら遠かろうとも合格点以上ならリリースせざるを得ないのが実態だ。頭はもう別の楽曲のためのアイディアでいっぱいだしね。

2015/02/04

テンプレ乙!

 最近とみに目つきが悪くなったなぁ・・・と思っていたら案の上、TV出演時の目つきが上手くないカットがネットで拡散中の青木某氏ですが、日刊ゲンダイの対談記事「二木啓孝の一服一話 排他と不寛容が広がっていく嫌な世の中」でやはり案の上の発言。
二木 なぜ、ネット社会でヘイトが目立つのでしょうか。

青木 (戦後の復興と高度成長で)アジアで群を抜いた先進国になっていた日本ですが、今では韓国にほぼ並ばれ、中国にはGDPで追い抜かれた。そういった国際情勢の中で国民に余裕がなくなっている。さらに新自由主義社会の中で格差が拡大し、持ってない人が虐げられている人を叩いて留飲を下げる。そういうことが複合的に出ていると思います。ネットはそうした言動が最も出やすいところですね。 
二木 僕は団塊の世代だけど、かつては格差や矛盾があったら、怒りの矛先は上に向かったものです。ところが、小泉政権以降かな、弱者を踏みつけるようになった。

青木 ウンベルト・エーコ(イタリアの作家・哲学者)が指摘しているように、排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある。それ自体は珍しいことではないですが、日本は確かに弱者に向かっている。やはり、周辺国に対して余裕がなくなったからでしょう。
テンプレ乙、当人達の余裕の無さが偲ばれます。それにあんな引用の仕方はウンベルト・エーコに土下座して謝罪すべき低レベルかと思いますね、とにかく低レベル。

 「排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある」という表現は一般論を述べているだけで、エーコの名前を引くまでも無い。「小説『薔薇の名前』の舞台が何故修道院なのか」、エーコの著作から読み取れる彼の思想の前提、或いは彼の持っていた問題意識を鑑みればそうそう外すことはないだろう。このような発言、或いは書き方はエーコの名前を使って一般論、或いは自分の単なる主張を権威づけようとするような愚劣さの表れにしか見えない。そもそもエーコをちゃんと読んでいるのか、とも勘繰りたくなる、背景、文脈、前提が全く違うでしょうに。(インターネットに関するインタビューを読むだけでそれは分かろうもの、WIRED日本語版のインタビュー紹介記事はこちら。)

 表層的な理解で切り返せば、例えば土居健郎著 『「甘え」の構造』における「日本人の甘え」で私は「ネット上のヘイト(藁」を捉えますね。当然、ルース・ベネディクト著『菊と刀』も外せません。日本人のバランス感覚はある意味絶妙で、自らが社会的に甘え、依存することの代償として、他者の甘えにも寛容である傾向がある。ただし、他者に対するそれはあくまでバランス、総体的なものであって、ある一線(シン・レッド・ライン)を越えると突如として許容されなくなる。要は「他者のやり過ぎ」は「堪忍袋の緒が切れる」状態を引き起こすということで、実のところそれはネットに限らない。

 件の様に適切な論展開もないまま「ヘイト(藁」と断言するする様は「レッテル貼り」、「思考停止」にしか見えないことに同様の言動を繰り返す人々は早く気がつかなきゃなんないと思います。本来あるべき姿のタグ付けがウェブ上で可能となり検索性が1ランク向上すれば、複製、拡散が容易な電子データ上での不用意な発言は命取りになるでしょうね、「あ、あの発言の人ね」でおしまい。他者の視点(視線ではない)獲得とも言える「察し」が無ければ「甘えに根ざした日本人社会」からは排除されざるを得ません。それは「察しの欠如自体」が「文化的に日本人とは言えない」とほぼ等価だからです。団塊世代に関する言及も笑止、彼らは「上に刃向かう俺カッコイイ!」と「上に刃向かう俺カッコイイ!とか馬鹿らしい、そういう奴らは何も見えてない」の2グループで大部分が形成されていますよ。大事なのは勝ったかどうか、「刃向かったけど負けた」なら「負けた」と明言するか、さもなくば何も語らない方がよっぽど潔いと思いますがね。時代と寝て騒いだだけなら尚更です。私の父に至っては「あいつらは何も見えてなかったね、まぁ、おかげで(大学の寮の)寮費を1年払わずに済んだよ」と、全くにべもない。

 韓国社会にも甘えはあると言われますが、「察し」に相当する感性や「やり過ぎないというバランス感覚」とは無縁の様です。 「やり過ぎた」、或いは「やる事にセンスがない、面白くもなんともない」のは「察し」の欠如以外の何物でも無いというのが日本社会、特に後者に対してはとてつもなく辛い、のが日本人と言えます。対談ではサザンのお最近の事案を取り上げていますが、私の仲間内では「サザンは面白くない、センスがない」は1980年代からのお約束、別にあらためて叩くような話じゃありません(サザンに価値を見出さない人間に対するサザンファンの「苛烈なまでの不寛容さ」は30年来の謎だ)。更に言えば、広い意味での中国人、中共政府、広い意味での韓国人、韓国政府はきっちり分けられるのが日本人。韓国社会流の甘えは「一線を越えたが故」にもはやそれを「察した」日本人は無視しかしないでしょう。

 「とにかくテンプレ乙、お前の言ってる事は意味が分からん。」、大抵の日本人はそうじゃありませんか?

2015/02/03

奥さん、論文査読お願いします : 自分の場合

 投稿していた論文の査読結果が帰って来た。ざっくり「面白いけど良く分からない」というのが総論だ。

 要改善点の指摘はおおむね妥当だが、ほぼ50年にわたって説明が放棄され続けてきたところをあなたが説明せよ、と言う類のコメントは正直酷だ。一から始めるとそこだけで1本別の論文が書けてしまう、何と言っても大学ノート4冊分の式導出を踏まえた内容だからだ。どうコンパクトに纏めるかに現在頭を悩ませている。

 ちなみに「50年にわたって放置」の原因の一つは新しい代替技術の開発が進んだためだが、結局のところ、この代替技術も行き詰って久しい。古い技術と代替技術は実は相補的で、分かっている人が読めば代替技術の放置されている欠点、つまり行き詰りの原因、の一部が実にシンプルに解決できることが分かる筈だ。「何が保存されるか」が肝と言え、私の目指すところは(論文の内容とは裏腹に)代替技術の行き詰まり打破にある。

 これは!という論文の醍醐味は「私だけが分かっている」という点にある・・・と信じて気落ちせずに対応しましょう。

2015/02/02

チップチューン好きなら是非チェック

 チップチューンをざっくり説明すれば、ファミコン風といったローファイな音色、フォーマットを使った楽曲のこと。ここでフォーマットと言うのは、例えばゲーム機の「限られた同時発声数が少ない」故に生まれた編曲技法なんかが挙げられる。ただ音色をチープにすれば良いという訳ではないところがミソだ。日本だとソフト音源からビジュアルまで手掛けているユニット、YMCKがとっつき易さ(ポップさ)も含めて代表格なチップチューンアーティストなんじゃないかと思う。
 1980年代にMacintoshなどを使っていた人は分かると思うけど、コンピュータの「テキスト読み上げ」には当時はちょっと驚いたものだ。如何にも機械って感じの「しゃべり」は味と言うか癖があって、Youtubeなどであらためて聞くとローファイ感が半端無い。やっぱりと言うか、CHIPSPEECHという昔のコンピュータなどのテキスト読み上げ機能を再現したようなソフト音源がリリースされている。

 CHIPSPEECH自体もなかなか出来が良さそうなのだが、嬉しい事にCHIPSPEECHを使ったコンピレーションアルバム、"chipspeech AUTOMATE SONGS .01"がフリーダウンロード可能となっている。チップチューン好き、或いは興味を持った向きは是非チェックしてみよう。

2015/02/01

ISIS(ISIL)は正当なカリフ国家なのか、是非そこから始めないか。

お前たち愚かな有志連合は、われわれがアラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家であり、お前たちの血を欲しがっている軍であることを理解できていない。
 安倍、勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう。
ISIS(ISIL)の日本へのメッセージとされる声明の時事通信社による翻訳文だ。個人的には突っ込みどころ満載で、客観性の乏しい主張を前提に後段の内容を正当化している様にしか読めない。突っ込むべきところを突っ込んでおかないと今後に禍根を残すし、ISIS(ISIL)側の仕掛けているプロパガンダ戦で守勢一方となる。

 本声明に代表されるISIS(ISIL)のプロパガンダの対象は、むしろISIS(ISIL)内部及び将来の構成員にある。「(ISISが)アラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家」であるかどうか、この点についてはイスラム法学者も含めた議論を早急に進め、国際的なコンセンサスを確立、共有を進める必要がある。すくなくともISIS(ISIL)が「イスラム法に照らしてイスラム教カリフ国家と言えるか」、「イスラム法に照らしてISIS(ISIL)のカリフとされる人物が正統と言えるか」という点については、特に早急にコンセンサスを確立する必要がある。概して異端は異教よりも憎いものであり、異端とされることによる前提の破綻はISIS(ISIL)にとっては致命的と言える。

 TVに出演する「イスラム専門家」すら概してこの前提に触れない理由は理解する(イスラム教が主流の国家、地方をうっかりすると敵/味方の二分法で捉えることになるリスクがある)が、既存の一神教とは概して無縁な日本が「本件を契機に、ISIS(ISIL)の声明の最も基本的な点についてあらためて真面目に考えてみた」は可能であり、これは日本社会が持つアドバンテージ、一種のフリーハンドである筈である。声高に叫ぶのでなく、実を取るべく一貫性を持って狡猾に振る舞うべきである。本当の怒りと言うものは、不容易に他者には見せなくて良い。

2015/01/31

三谷幸喜氏の脚本は・・・

基本的に上手いし、目の付けどころとかは出色な物が多い。が、それがTVや映画向きかって言うと別の話、というのが従来までの結論だし、これからも良くも悪くも変わらないんじゃないかと思う。

 小ネタがその見つけ方から見せ方までは基本的に上手いのだが、小ネタを小ネタとして単独で提示することができない性分のように見える。所詮小ネタは小ネタに過ぎないので、うっかりオーラスへの伏線として取り込んでしまうと、オーラスが一気にこじんまりとしてしまう。

 三谷脚本作品にはこの種の「一見尻すぼみ」なものが多い、というか90%ぐらいがそう。残り10%は何かというと、視聴者、酷い場合は映像作品の監督すらおいてけぼりで、せっかくの面白い脚本が理解されないままで終る場合だ。後者は、近日公開予定の三谷脚本、或いは監督映画の宣伝TV特番でやってしまう事が多かったが、さすがにその辺りは本人ももう気づいていると思う。

 一般的な日本人は欧米のコメディ(或いはスケッチ)TV番組のフォーマットなんて知らないから、そのフォーマット有りきで書かれた脚本や映像作品は本質的に理解される道理が無い。十代前半でそこらへんが分かってしまった場合には「三谷すげー!!!(って分かる俺すげー!!!)」ってことになるのかもしれないが、歳をとってから分かる場合には「分かってない人間の評価が的外れ」となる事を予測してうんざりし、やっぱり的外れな評価が出てきて二度うんざりという目に合う事となる。本人が止めたのか、周りが止めているのかは分からないが、幸いにして最近はそれが無い。

 ところが監督作品となると小ネタを小ネタとして使うということをやってしまう。しかし、小ネタを小ネタとして使う事に慣れたいないためだろう、小ネタという事は観ていて分かるが「ほぼ」面白くない。じゃあ面白い場合は?と聞かれれば、映画的或いはTV的でない小ネタ、カメラアングルやカット割に頼らずとも成立する小ネタの場合はなかなか侮れない。小演劇場だと割れんばかりの大爆笑となる可能性が高い。

 そう、基本はやっぱり演劇の人なのだ。

 演劇場というのは特殊な空間だ。TVや映画では当たり前の「空間を切り取るフレーム」、カット割は存在しない。演者のみによる時間の制御は不可能であり、回想シーンに相当するような演出を成立させるためには実は観客の共犯関係が求められる。そして、観客は演劇が始まる前に劇場に入り、劇が終ってから劇場を後にするのが基本だ。これは、たまたま、途中から観始めた人も極力視聴者として取り込みたいTVプログラムとは本質的に異なる。またTVプログラムは「ながら観」も許容しないといけないので、伏線は伏線、小ネタは小ネタできっちり割り切った方が良い。結局、TVドラマシリーズでは「キャラクターの決め台詞などの特定のセリフの反復」ぐらいしか小ネタとしては使えない状況になって久しい。これは吉本新喜劇の芸人のお約束芸と同じようなものだ。

 三谷脚本にはフォーマット(見た目を含む形式、或いはコンセプト)へのこだわりを強く感じるが、使われるフォーマットは現行の日本のTVプログラムが獲得、マンネリ化させたものとは異なる。この点は実はとっても評価しているのだが、如何せん映像化の段階でそれがスポイルされることが多い。氏の脚本を嬉々として使う割には、NHKにその辺りが分かっている製作者が居る様にも思えない。一見「人形劇TVプログラム」との相性は良さそうにも思えるが、これまた如何せん、現在の人形劇TVプログラムのフォーマット(フレーム構成やカット割)はライブアクションのそれとほぼ同じになってしまっている。つまり、現行の人形劇のフォーマットは三谷脚本向きではない。

 だから三谷脚本は三谷氏が望むようなフォーマットで映像化すべきではない、と断言してしまおう。三谷氏が脚本の形で提示したフォーマットを「理解した」上で、マンネリ化した業界のフォーマットとも異なる別のフォーマットで映像化、提示すべきである。それをしない限り、面白い脚本は面白い脚本で終ってしまう。基本的に三谷脚本はフォーマット、或いはコンセプトが明確で、コンパクトに出来上がっていると思う。だから同じフォーマットの枠組み内であれこれ考えても、オリジナルの脚本よりも面白い脚本にできる人間はそうはいない(フォーマットと独立した小ネタは例外)。でなければ三谷氏には才能がないことになってしまうが、決してそんなことはないと思う。

 プランBは、三谷氏が既存のフォーマットを放棄し、自ら新しいフォーマットを提示することである。最適なフォーマットの選定と先鋭化に関する氏の才能にはほぼ疑問の余地はない。ただ裏返しとして、必要ないので新しいフォーマットは使わない、という姿勢をとっている様にも見える。「あ、アレね(あ、刑事コロンボね、とか、あ、サタデ―ナイトライブね、とか)」と誰からも言われない三谷脚本はまだ存在していないのではないかと疑う。

 プランCは、三谷氏が明確に既存フォーマットにこだわりつつ、脚本のコンパクトさを追求し、かつ脚本自体をきっちりと後世に残すことである。「隠し砦の三悪人」が「スターウォーズ」になるには、元ネタのコンパクトさ(無駄の無さ)とコンパクトさを追求した映像化、加えてそのコンパクトさを理解してより強靭な(弾力性に富む、本質的な)別フォーマット内に落とし込むことが出来た人間の存在が欠かせない。つまり、想定外の発生に備えておくべきかも、と言う事だ。

ロシア+恋のバカンス

 知ってる人は知っている、ザ・ピーナッツの楽曲「恋のバカンス」はロシアでは結構ポピュラー。ロシア版のタイトルは「海で、青い海で」ぐらいでしょうか。ま、ステージ演出は色々と微妙ですが…編曲はほぼオリジナルのままだったり、宮川泰氏の仕事偉大なり。ロシア語歌詞にもバリエーションがあるようです(空耳?)。