おそらく変わっていないとは思うが、私が学んでいたころの四年制大学は「教養課程」と「専門課程」に分かれていた。専門課程とは文字通り専門教育を受ける課程であり、例えば工学部機械科ならば他の学科と共通の講義や機械科独自の講義を受けることになる。他方、教養課程は学生の所属学科に依らずにどの講義でも受講できる。教養課程を終えるためにはまず総取得単位数が一定の値を越えていなければならいが、所属学科が指定した「必修科目」の単位も取得(つまり合格)しなければならない。私の出身大学は当時「教養課程専門のキャンパス」があったため、教養課程は1年半で終えなければならなかった。パスできなければ、いわゆる留年となる。
大抵の留年生はの留年理由は総取得単位数である。サークル活動にどっぷりだとか、ただ学校に行かないだとか、理由は色々あろうが意外にそれらのバリエーションは少ない。かく言う私も留年しかけたのだが、学生課の職員に指摘されたように理由は特殊だった。総取得単位数はほぼ2倍でクリアなのだが、「必修科目」の取得単位数が教養課程修了規定数ぎりぎりだったのだ。私は工学部に合格したが、教養課程ではほとんどを文系科目の受講で過した。東洋近代史とかが大好物だったのである。
と、ここまでが長い前書き。
そんな文系科目の中で私が受講した「倫理学」の講義がとても面白かった、と言うか、「あぁ、そんなものが世の中にあるのか!」と目からウロコだったと言った方がおそらく正確だ。
題して「昔話のコード分析」である。
ここで言う「コード」とは、私が良く使う「規範」の意味である。倫理学におけるコード分析であるから、分析結果として得られるコードとは「倫理規範」或いは「道徳」と言い換えても良い。「道徳」と考えてもらって実のところ全く問題ない。それは「やっていいこと」や「やってはいけないこと」の境界が何処にあるか、境界を越えるとどういうことが起り得るか、ということを考えるという意味では同じである。続きを読むと分かるが、いわゆる「教訓話」は分析対象とはならない。それは概して「教訓自体」が具体的に物語中で明示されるからである。
さて、分析対象たる昔話とは如何なるものか、文字通りの解釈で良い。例えば「さるかに合戦」、「泣いた赤鬼」、「一寸法師」、「はなさかじいさん」、「つるの恩返し」などなどだ。先にぶっちゃけておくと、「昔話のコード分析」が果たして学問的なアプローチと言えるかは心もとない。一種の文芸批評手法とも被るのだが、そのいい加減さというか恣意性というか、本質的に客観性を担保できない特性というかは、筒井康隆氏の「文学部唯野教授」を読破するまでもなく理解できる。つまり、分析で得られた結果を「一個人の解釈」から「客観的な、一般的な解釈」にするための道筋を分析手法自体が内在していなからである。
「昔話のコード分析」とは、昔話の中に「埋め込まれた」日本人が時を経て引き継いできたコード(倫理規範、道徳規範)を抽出しようという試みである。ここで「埋め込まれた」をわざわざ括弧付きとしたのは、コード分析を適用する時点でそれが仮定、或いは暗黙の事実として取り扱われるからである(絶対埋め込まれている、というスタンスを採る)。別の言い方をすれば、「コード分析」自体が適用時に既に破綻している可能性は暗黙のうちに排除されているのである。で、なぜその可能性を排除できると見做すかというと、「昔話がさしたるバリエーションの分岐も経ずにほぼそのまま語り継がれるのは、物語自体がその物語構造を維持させるべく何らかの機能を有しているためである」と解釈できるからである。そして更に踏み込んで、その機能が「日本人としての倫理規範や道徳規範を伝えること」にあるからであるという解釈をする。真面目に考えたところで「卵が先か、鶏が先か」になるだけなので、ここは「ふ~ん」と流してもらってかまわない。
ざっくりと例を挙げよう。昔話「つるの恩返し」では、妻が猟師である夫に「私が機を織っている間は部屋を決して覗かないでください」 と念を押す。しかし好奇心に負けた猟師は部屋を覗いてしまい、美しい妻の正体が鶴であることを知ってしまう。正体が知られたことを悟った妻は鶴に姿を変えて猟師のもとを去る。まぁ、ストーリーの一部をこういうつまみ方をした段階で既に恣意的ではあるのだが、これらのストーリーの流れから抽出できる「道徳」とは如何なるものか、と考えるのがこのコード分析である。
「親しき仲にも礼儀あり?」、ちょっとくくりが大きすぎるかもしれない。「夫婦の間に隠し事があったとしても、それが悪意に基づくものとは限らない」?、「例え夫婦の間でも約束は守らなければならない」?、そんなところだろうか。そう、ただそれだけの話なのである。とても学問とは思えない。かくの如く、「昔話のコード分析」自体に意味があるのかないのかさっぱり見えてこない。が、その枠組みと言うか考え方自体は繰り返しになるが面白い。
トールキンは「英国における神話の不在」を嘆いて「指輪物語」を執筆したという。ここで神話とは「創生神話」といったものではなく、特定の文化圏で「共有される」物語である。物語の共有は所属する文化圏の境界を明確にするとともに、内容によっては「道徳規範」の共有という機能も果たすだろう。もしあなたが「つるの恩返し」と類似した約束を他者としたとしよう。あなたはどう振る舞うだろうか?さらにあなたが「つるの恩返し」という昔話を知っている場合と知らない場合に振る舞いが変わる可能性はあるだろうか?もしあなたの振る舞いに「つるの恩返し」のストーリーを知っていることが影響がするなら、「つるの恩返し」という昔話は何らかの機能を持っていることになる。また影響があるならば、物語の共有は振る舞いや価値判断の共有手段ともなり得るということまでは言っても良いと思う。
「昔話のコード分析」の洗礼を受けた後、様々な文化圏の神話や伝承譚の比較が格段に面白くなった。 また高校生のころに徹底的に読み込んだケルト神話の再解釈、さらにはクトゥルー神話群の作家による題材の選び方の違いにも合点がいくようになった。一つのキーは、どのような死に方をしたくないと作家自身が考えているかという点だ。化けて出る方法や理由は、調べてみるとと文化圏によってかなり違うことが分かる。共有機能を果たしているものは、民間伝承であったり、神話であったり、宗教の教えであったり様々だ。これにシンボル分析を加えれば更に面白くなる。例えば「ひとつ目、赤い肌の怪物」のシンボル的解釈は、欧州と日本で共通する部分が多い。ヒントは製鉄技術だ。
大風呂敷を広げると、テロ組織ISIS(イラク、シリアのイスラム国)が米国ジャーナリストの処刑になぜあのような方法を「選んだ」のか、そして米国やそのほかの国々がどのように反応し「得る」かが多少なりとも推定できるようになる。 スンニ派ムスリムの少なくとも一部は殺されるにしても「首を刈られる」ことを望まないだろう、彼らの世界観に従えば天国に行けなくなるからだ。相手の文化を理解し、背後に存在する価値観を踏まえなければ、ただでさえ強烈なメッセージに込められた言外の、文化依存のメッセージは見逃してしまう。それは逆のパターン、真に友好を求めようとする場合も同様だ。自衛隊の海外活動時の相手側文化へのリスペクトを見るにつけその思いは強くなるし、日本人の持つ文化はそういう研究と実践を尊ぶ側面をも持っていると思う。共有の仕組みができればこれはとてつもない強みだ。相手側文化に則った振る舞いは言葉が通じなくても直ぐにそれと分かるものだ。
最後に再び物語の持つ機能に話を戻そう。
「正義と悪という概念は相対的である」
アニメ「ザンボット3」の物語を共有する日本人なら納得できるでしょ?
p.s.
厳密に昔話の分析をしようとするなら、その物語の別バージョンとの相違点や類似点、時間的な変遷も追っておく必要があることが今だからこそ分かる。全てのバージョンに共通し、時間を経ても変わらない部分は、何か別の変わらなかったものを反映している筈だ。それが「道徳規範」かどうかはまた別の話だけどね。
p.s.2
「かまってチャン」をあしらうのは「無視」に限る、という 分析結果は今まさに・・・