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2013/04/28

"EVANGELION:3.33 YOU CAN (NOT) REDO. "、観ましたよ

 劇場はおろかDVDやBDでもまだ観ていないが、いずれは観るつもりという人は読まないのが吉。ネタバレとは別次元で、予備知識というものは作品を捉える上での偏向要因でしかないからね。私について言えば、たまたま今日立ち寄ったワングーで目にしたからBDを購入したという塩梅で、そもそもBDなりDVDが何時発売されたかも知らない。まぁなんか特典がいっぱい付いてきたから、まだ発売からは日が浅いのでしよう。

 さて、本題。

 前2作との断絶感が凄いが、一本調子とは言え緊張感のある単体作品としては出色の一本。まず断絶感だが、これはストーリーの話ではなくて画面作りと音声の取り扱い方がかなり違うという話。

 先に音声について言うと、前2作の音楽、効果音、セリフの音量バランスは極めてTV的にオーソドックスなスタイルだったが、本作ではセリフの音量バランスがシーンやカット毎にかなり意識的に変えられているのではないかと思う。5.1チャンネル向けのミックスを単純にステレオに変換したから、なんて話だとちょっと切ないが、個人的には演出意図みたいなものは感じられる。途中、セリフ音量が突然大きくなるカットが一つあって、「俺なら全体音量は変えずにリミッタ―でアタックレベルだけは削るよなぁ」などと引っかかりはあるんだけどね。良い意味で映画的な音声作りに寄ったのではないかと思う。

 ちなみに、劇場用アニメのDVDパッケージで音声がわやくちゃな作品として「スプリガン」がある。劇場ではどうだったのかは知らないが、DVDパッケージではセリフの定位、音量ともにめちゃくちゃで全然聞き取れない。

 軌道修正して絵作りの話。昔8mmフィルム、今はHDビデオ使ってますという人には良く分かると思うが、画面の縦横比の変更は絵作り自体の作法の変更も要求する。画面比1:2.35はかなり幅広(アナモフィックレンズ(ワイドスコープ用の特殊レンズ)風のレンズフレア効果に違和感がやっと無くなったわけだが…)で、アナログTVの3:4、地上デジタルTVの9:16などとは全く違う。

 絵作りの印象は全体にカメラが対象に寄りめであること、別の言い方をすると、9:16向けにいったん絵を作った上で上下を切り取ったような感じに近い。これは良し悪しとは別問題で、寄りめということは余計なものは極力映り込んでいないということだから、演出側が観客側に見せたいものに観客の注意を向けさせる上では悪くない手法かと思う。勢い画面自体はフィックスされる(カメラ固定のいわゆる「長回し」)ことがないから、作画、CGの頑張りもあって高い緊張感が維持される。反面、始終寄りめのままだから、その緊張感は一本調子と成らざるを得ない。遠めの絵がない訳ではないが、ネルフ本部のゲンドウらのカットやベッドに座ったシンジのカットなどが遠めなのはTV時代からのお約束だから、新しい遠めのカットというのは1回観た印象からは無いと言って良い。CGカットの質は圧倒的に向上していて、寄りめの絵作りとの相乗効果は大きい。エンドクレジットで板野一郎氏の名前が見られたが、このあたりは彼と彼と仕事をしてきたスタッフの面目躍如といったところかもしれない。

 音楽的には、いわゆる「なごみ曲」が全く使われないといった点で前2作とは一線を画している。

 逆に連続性という観点からは、ミサトのセリフが個人的には重要だ。

 "EVANGELION:2.22"では、ラスト近く覚醒したエヴァ初号機を見たミサトが「自分の願いのために」とシンジに声をかける。このセリフで、本作に続くEVANGELIONシリーズは私の中で過去の一連のシリーズと完全に分離された。本作でのミサトの最後のセリフは、おそらく14年ぶりの「シンジくん…」である。このセリフによってストーリー、キャラクター達を含む世界観の連続性を完全に納得できた。

 最後に小ネタ類。

 本作では頭部、或いは頭部が無いことへのこだわりみたいなものが目立った。頭部をふっ飛ばされるエヴァ・マーク9、リリスの頭部、頭蓋骨ばかり転がっているセントラルドグマ底部、カヲルの死に方、第12使徒登場時のシーケンス、その他多数ある。

 「眼帯アスカ」は「まごころを君に」直後に描いていたが、「第13使徒が腕4本の白いエヴァ13号機ですよ、槍を2本持ってます」というのもかつて自分のホームページで公開していたファンフィクションで「REBIRTH」直後にやっていた。ちょっとにんまりしてしまいました、えへ。

 追記:

 購入したBDパッケージの冒頭には「巨神兵東京に現る」が入っている。正直、作るべき作品ではなかったのではないかというのが観たうえでの率直な印象だ。映画の円谷特撮を15年ほど遅れで追体験した世代で、かつ伝わってきている円谷英二氏の仕事への取り組み方を尊敬してやまない一個人として心境は複雑だ。

 現代における「特撮」という表現には「絵のテイストまたはフレーバー」という視点と「絵作りのための工夫といった知的かつ簡単にマネできない職人的な作業」という視点が分離されずに込められている。

 爆発音が円谷プロ作品や東宝特撮映画とおんなじだといったこだわりは前者の視点を代表する上で重要だが、後者に相当する「工夫感」が希薄にすぎる。もし、円谷氏が現代にいて、しかも同じ職についていたとしたらどうだろうか。おそらくCGなんて先頭を切って導入するだろうし、デジタル合成なんて当たり前に使うだろうと信じて疑わない。かつ、キャメラマンとして素材撮りにはアナログ時代と同様に工夫を凝らすだろうことも信じて疑わない。その工夫が「特撮」という言葉に含まれる「絵のテイストまたはフレーバー」を今とは違うものにしてしまうだろう。

 個人的には、樋口真嗣氏は優れた職人監督と位置付けている。いわゆる映像作家風の作りには向いていないというのが言いたいことだ。映画「ローレライ」のラスト近くの戦闘シーンで米国艦の甲板にいっさい人影が見られないが、このあたりに職業的にデキる作り手と、作品の完成を遅らせたり完成させられなかったりする職業的には駄目な作り手の線引きがあるやに思う。真上から俯瞰で米国艦を捉えたカットで、「たまたま甲板に出ていた数人の水兵が慌てて甲板を走って横切っている」様子を合成で入れるかどうか。劇場のスクリーン上ですら米粒ぐらいにしか見えないだろう水兵を加えてしまう、そんな執念を感じさせる一手間が私にとっての円谷イズムの現代的解釈であり、「特撮のテイストまたはフレーバー」である。

 「巨神兵東京に現る」では、職人芸ではあるが現代ではローテクと見なさざるを得ない特撮技術と、アマチュア或いは低予算故に取らざる得ない特撮技術との線引きを曖昧としたまま両者ともに使った結果、「工夫感」の無い部分が突出して目立ってしまったのではないかと想像する(実際には予算がなかったのだろう)。別の言い方をすると。私は本作に「プロが使うとローテクでも凄いものが作れるんだ!」と感嘆させられることを期待していたのだが、実際には「あれ?俺達が30年前にやっていたことを、プロが今やってるよ(ガックリ)」となったというあたりが正確かも知れない。

 セリフ(エンドクレジットでは「言葉」)は陳腐で面白みのかけらもありませんなぁ。

2013/04/21

映画「テルマエ・ロマエ」、TVで観ましたよ。

 タイトルの通りです。面白かったですね。

 主人公の古代ローマと現代日本との行き来が「そろそろくどいかな」と思うギリギリな加減で後半の盛り上がりへ、という展開は見事。ただし、数カットあった貧乏ミニチュアVFXみたいな処理ってのは皆は笑えるのかな?某TVアニメで唐突に発泡スチロール人形をふっ飛ばしていたのと同様で、プロがやってしまっては私はゲンナリするだけです(おそらく作り手側にとっては面白いはず。それは昔8mmフィルムを使って映画を作っていたアマ経験からは良く分かります)。「実はCGでした」なんてことだったら、CGでやるということの馬鹿さ加減に今からでも大笑いしますよ。

 あと、一部のカットで「空気感がチネチッタっぽいな」と思ったのだが、やっぱりチネチッタを使ってたということが番組最後で分かってちょっと驚き。

 それにしても、上戸彩さんはこういうちょっと素っ頓狂な設定の話にすぽっとはまる不思議さがある。白戸家とかね。彼女が主演したTVドラマ「下北サンデーズ」は視聴率的には苦戦したようなのだが、私個人は作品、彼女ともに高く評価しているのだ、ついでながら。

2013/04/15

映画"Iron Sky"を観たよ

 本編より予告編(トレーラー)が、予告編より特報(ティーザー)が面白いっつー典型的に困った代物。企画はトンデモなく面白かったんじゃなかろうか。

 面白くないとは言わないが、本作に散りばめられている類の下品さは個人的に生理的に受け入れにくいものだ。笑うよりも先にげんなりしてしまう。TVでたまに見ることがある重鎮とも言える芸人が、地方の営業では下ネタを連発しているのを見ているような居心地の悪さがある。ギャグ、コメディー、スケッチ(コント)ではなくただの酔っ払いのジョークの連発、良くてファルス(笑劇)だろう。字幕の訳の適当さ加減が下品さをやわらげているというのも困った感じ。「80年代の欧州ポルノを思い出してしまった」、などと書くのは自らの下品さと性的フェティッシュの方向性を披歴するようで上手くないのだが、風合いとしてはそんなところだ。

 頭悪そうの見える(演出されている)人間が、さも頭悪そうな発言をしたり行動を取る姿は全然面白くない。ラスト(エンドクレジット頭)の処理はとても21世紀の映画とは思えない陳腐さで、想像力というより妄想力のみのありきたりの産物という気がする。新味はない、輝く才能の片鱗も見られない。

 タダなら観ても良いけれど、「ムダ」より質の悪い時間の過ごし方になる可能性を警告しておこう。遺憾ながら大変勉強になりました。俺の人生の一部を返せ、金はくれてやるぜ!

 ティーザーは今見ても最高ですね、音楽も良し。

2013/04/08

映画「ARGO」を観て思い出したこと。

 予告編を観て劇場で是非観たかった「ARGO」だが、とにかく仕事が忙しくて時間が作れなかった。遅まきながらiTunesでレンタルで観た。
 ベン・アフレックは「なんか頭悪そうな役」が多いという印象が強く、どういうキャリアを目指しているのか他人事ながら心配していたのだが、どうも「出来上がりをきっちり読める」映画監督としての地位は掴んだように見える。同様に俳優、映画監督との二足のわらじを履いているクリント・イーストウッドはインタビューで「撮影前に全てのカットは頭の中に有る」とはっきり言っている。そういう観点からは、「ARGO」冒頭の一連のカットとラストカットの処理が脚本段階から想定されていたものなのか監督の意図なのかはちょっと気になる。「ARGO」という映画に関しては、一か所だけ音楽の使い方に引っかかりがあったが、純粋に楽しんで観た。ただし誰かがどこかで書いていた通り、名字が「メンデス」という主人公をベン・アフレックが演じるのにはやはり無理がある(個人的な印象では、「メンデス」はブラジル系っぽい名前である)。主人公の名前ぐらいは変えても良かったのではないかと思う。

 「ARGO」を観て思い出したのは、かつて「アラビックSF」なんて呼ばれた一連のSF小説群があったことだ。時期的には1980年代である。

 結局のところ「サイバーパンク」なんて呼ばれていたSF小説群の大部分は、新しいガジェットを導入することで(SF的ではないものも含む)古典的なストーリーをさも新しいもののように提示しただけであった。個人的には「サイバーパンク」には価値なんか見出せない。むしろ「サイバーパンク世代の作家」と呼ばれた作家群の中から一味違うと思わされた作家のみが見事に生き残り、「サイバーパンク」ではない新しい作品を生み出していった点の方が重要だ。「サイバーパンク」はマーケティング用語に過ぎず、ムーブメントなどでは無いとしか思っていない。

 「アラビックSF」も同様の観点から見ればアラビアンナイトの(当時の)今日的翻案に過ぎなかった。が、こちらは明確にエンターテインメントであることを示すマーケティング用語であった。大部分の著者が当然ながらイスラム文化圏の人間ではない。何冊も読んだはずなのだが、タイトルを一つも思い出せないという辺りはさもありなんというところだ。

 映画のタイトルでもある劇中のニセ映画「ARGO」には、そこはかとなく「アラビックSF」のニュアンスを感じる。時期的にも「アラビックSF」作品が米国で登場し始めた時期とほぼ一致する。そういう脚本があってもおかしくないのだ。

 「アラビックSF」のことを思い出した原因はもう一つある。「ダークマター(暗黒物質)」の存在を示唆するとされる国際宇宙ステーションでの陽電子測定結果に関する報道だ。とあるアラビックSF作品では、宇宙船が用いるエネルギーは「空間」から取り出される。「ダークマター」「ダークエネルギー」「零点エネルギー」などなど、その作品にはジャーゴン(専門用語を指すネガティブな表現、「訳の分からん専門家の戯言」が源)があふれていた。

 劇中の映画「ARGO」は、もし作られても間違いなく駄作となる運命にあった。映画「ARGO」、或いは「ハリウッド作戦」の欠点を敢えて挙げるならばそこなのかもしれない。

2013/03/11

BSG: B&CのバイパーはMk.IIBということらしい

"Battlestar Galactica Blood & Chrome"に登場したViperはMk.IIIらしいと以前書きましたが、本当はMk.IIBらしいということが判明。なにせデザインした本人がそう書いてるんだからねぇ。

2012/12/08

「メリダとおそろしの森」見ましたよ。

 ディズニー作品になってしまった。 --- これは極めてネガティブな意味である。

 「トイ・ストーリー」のキャラが薄気味悪いこともあって敬遠気味ではあるのだが、「レミーのおいしいレストラン」が個人的にとても面白かったためピクサー作品は取り合えずチェックしてきている。ただ、「レミーのおいしいレストラン」の面白さはおそらく監督に負うところが大きく、同監督のピクサー以前の作品「アイアンジャイアント」も楽しんで見たクチだ。

 ディズニー買収前のピクサーは、「ディズニーでは作れない作品を作り、商業ベースで成功させた会社」だった筈だ。つまり、ディズニー一極化に対するカウンターとして機能していたのだ。この認識からの一つの帰結は、「ピクサー作品のディズニー作品化はピクサーが存在意義を失うに等しい」である。

 正統なディズニー作品の否定などは念頭にもない。「ディズニー作品ではないことを期待して見た作品のディズニー作品化」に対する悔しみがあるだけである。

BSG:B&C フィナーレです。

 Battlestar Galactica: Blood & Chromeネットワーク版の最終エピソードが公開されました。番組の時間に比してセリフが多いとの前情報からの推測通り、ストーリーの胆の部分はセリフで豪快に説明されてしまいました。英語のリスニングは駄目な人なので、理解度はせいぜい1/4。もう一回見てみませう。

 劇中のViperはどう見てもMk.IIではなく、どうやらMk.IIIとのこと。BSG本編(ミニシリーズ)ではウィリアム・「ハスカー」・アダマはMk.IIに懐かしげに触れ、BSG: Razor及びBSG: Razor Flashbackでも間違いなく彼はMk.IIを駆っていました。もうBSGは完全に駄目っぽい。

 世界観の拡張と多様化は従来はファンが主に担い、本家はどーんと構えていたもの。さらに言えば、ファンの想像力なんて知れたものとばかりに凄い次弾を撃ってきたものですよ。Universalは幾つかのBSG関連のGame Mods開発チームに法律家を介した圧力を加え、実質的に開発中止に追い込んでいる。自らのコンテンツであるGalactica Onlineを保護するためだということは分かるが、本家が極めてファン活動的な世界観の拡張と多様化を進めるに及んでは苦笑することすらできない。そこにプロフェッショナルかつクリエイティブな仕事を見ることはできない。Mikalaさんのブログエントリ"Blood and Chrome..., more like Blood and Stool "の内容は厳しいながらもかなり本質的かと思う。ちなみに"Super D bag"とは「どうしようもない役立たず、グズ」とか「***野郎!」みたいな意味で、どうやっても誉め言葉にはなりません。

 リメイクや続編で有りがち、かつ世界観を台無しにしまう典型的なケースは、オリジナルに「足す」ことしかしないこと。GalacticaもKEW(砲塔、Kinetic Energy Weaponの略)が増えてるし、劇中にはこれまで見たことのないデザインの船も多数出てきましたよ。ファンは「引くことによる世界観やデザインの純化」なんて求めてないよ、というのが商業的視点なのでしょうかねぇ。せめて、某CMに曰く「何も足さない、何も引かない」って訳にはいかないですか、残念。

2012/12/02

BSG: B&C エピソード7 & 8

 今回はほとんど会話が聞き取れませんでした。疲れているみたい。安く番組を作る秘訣の一つはパイロ(火薬特殊効果)を使わないこと、"Starship Troopers 2"も火薬使ってませんでしたよね。

2012/11/25

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.3でましたよ。

 「宇宙戦艦ヤマト2199/第7話~第10話」のDVD/Blu-rayが発売、さっそく購入しましたよ。

 個人的には、第1話~第6話は制作者側の目指すところが全く見えず、とにかくフラストレーションがたまった。対して、第7話~第10話では印象が大きく変わった。善し悪しは別にして、今時の作り方或いは語り口が押し出され、ストーリー構成はそれとマッチしている。

 第6話までとの差は何かと問われれば、「ヤマトらしさ=ヤマト的アイコン」≒「ああ、これはヤマトだよなぁ的アイテム」への明確な回帰、明確な再持ち込みである。表層的にはオープニングとエンディングの曲の変更、劇中BGMの選択傾向の変化が挙げられる。効能は極めて簡単、「既存のヤマトらしさ」の枠組みは極めて強靭であるから、その中で制作者が多少暴走しようが「ヤマト」であることは保証されることになる。当初の予定通りとは言え、エンディング曲が「真っ赤なスカーフ」になったことを象徴的に捉えざるを得ない。

 第1話~第6話の座りの悪さは、製作側の「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」への距離感がふらふらしているからだ。それもその距離感が、論理的ではなく、感性或いは感覚的過ぎるように感じられる。

 第7話~第10話は、当然「2199」らしさを獲得していくフェーズである。ストーリー的にはオリジナルから離れて「2199のオリジナル」へと向かうことになるが、「2199のオリジナル」故に「既存のヤマトらしさ」との距離感は希薄となり、ふらふら感は出なくなってくる。この状況は第3話以降でも充分達成可能であった筈だが、そうではなかった所にはどうしても断絶感がぬぐえない。「2199のオリジナル」を推し進めていけば「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」との軋轢は無くなっていくものの、それでも「ヤマト」であろうとすると「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」が機能すべく前面に出てくる、そんなところだろうか。「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」を有効活用していく方針ならば、これは正のスパイラルである。

 「ユリーシャ=森雪」説はとっくに一般教養化していると思うが、第7話~第10話では、「ユリーシャのこころ・意志=ヤマトの女神=ヤマトのこころ」と「ユリーシャの肉体=森雪の肉体」或いは「森雪の肉体=ユリーシャの肉体のコピー」といった可能性が強く示唆される。スーパーナチュラルな「ヤマトの女神」の描写は論理性に乏しく安易にしか見えないが、それが今時の作法ならばしようが無い。で、私が読みとったものが正しければ、残りの「森雪のこころ」が物語的にどう回収されるのかが興味あるところだ。「友よ」ではなく「私よ」となるのか、それとも「森雪のこころ」は切り捨てられるのか?「森雪のこころ」の表層的な消失、一時的な回復、カタストロフ的状況による一見真の消失、真の回復または回復への希望(アニメ映画「メトロポリス」の展開がこの構造の一バリエーション)なんていう展開は手垢が付き過ぎているので勘弁願いたいが。

 記憶があいまいなので間違っているかもしれないが、アニメ「エルガイム」のプリプロ段階でデザイナーの永野護氏が「へヴィーメタルの頭部には実は人間(女の子)が取り込まれている」という設定を出し、監督の冨野氏が拒絶したという話をどこかで読んだことがある。個人的には永野氏のアイディアは極めて薄気味悪く、生理的に受け付けられない。「人間=機械」論に近い立場を取る私ですらである。この種の設定は世界観に取り込んだ上で物語的にきっちりと回収しない限り、見世物小屋のキワモノみたいなもので終わってしまう。「自動航行装置=女の子=人形」的小道具に終わらないことを切に願う。例えば「事故によって植物状態⇒当人の命を救うため生命維持装置と接続」までなら救いがあるが、さらに自動航行装置への接続なんてのは「植物状態の女の子≒人形」が透けて見えてしまう実に変態的な取り扱いですよ。

 それと、対ガミラス反乱勢力または反デスラー勢力とヤマトとの共闘の可能性もうっすら示唆されているやに思う。「名将ドメル、二等臣民艦隊/軍内の反デスラー勢力の反乱によりテロン艦に敗れる」、とかね。「ヤマト一隻であの大帝国が倒せる筈ないでしょ」ってあたりについては制作者側も何か考えてるはずでしょうから。

2012/11/24

BSG: B&C エピソード5 & 6

 蛇サイロンがコンセプチュアル・アートよりはるかに小さくなってマス。

2012/11/18

BSG : B&Cのエピソード3 & 4 公開されましたよ。

 Mikalaさんのブログでは"awful crap"なんてタグが付けられた記事で言及されているBSG: B&Cですが、告知通り新エピソードが公開されました。

 ありゃ、バルキリー型バトルスターが出ちゃってますよ。個人的には休戦後のデザインだと信じて疑っていなかったんですけどね。まぁ、バーサーク型/級がいるのは無問題ですけど。

 一部ではバイパーがMk.IIなのかMk.IIIなのか、"Archeron"がバトルスターなのか重巡洋艦なのか、なんて議論も起きてるようですが、まぁ、もうどうでも良いです。ゲーム「BSGオンライン」のスクリーンショットを観た時点で新BSGの世界観の統一が破綻しているのは明らか。世界観にちゃんと投資をしておかないとBSGである必然性すら失ってしまって、ドンパチあればオッケー的なレベルの低い視聴者しか残ってくれませんよ。

2012/11/11

実は"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成していたよ、という話

 "Craprica"などとも呼ばれて総じて酷評された"Caprica"の打ち切り以降、良い話のなかったBattlestar Galacticaだが、製作がとん挫との話もあった"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"がどうも完成したとのこと。Youtubeなどで見られるトレーラーによれば、米国では来年2月にUncut & Unrated版のDVDとBlu-rayが発売されるらしい。ネットワーク版は、昨日と言うか日本では今日から公開開始だ。第一次サイロン戦争を舞台に若き日のアダマ達の活躍が描かれる!という話は変わっていないようで、既公開のコンセプトアートと対応するようなカットもトレーラーに含まれている。

 とあるWeb上の記事によると、2時間弱の番組のライブアクションシーンは全て合成用のグリーンスクリーンを背景に15日で撮影されたとのこと。つまり基本的にセットは組まず、背景は全てCGで処理したということで、美術とVFXとの垣根がなくなったということを示唆する話だ。コストのかけられるTVCMでは既に常識的なCG背景の導入が、相対的にコストの限られるTVショー製作においても競争力を持つ時代に入ったということだろう。

 また、CG部分は全てLightwave3D10で作成し、"某社C4Dでは無理な短期スケジュール内に"約10人のスタッフで約1800カットを処理したという。まぁ、これはC4Dが遅いということではなく、Lightwave3Dがモデラーとレイアウトを別プログラムにしてあることと、レイアウトのファイルフォーマットがテキスト形式であることで、容易にルーチンワークを自動化できるためと勝手に推測している。実際、趣味でLightwave3Dを使っている私ですら、その方が早いし確実との理由からレイアウトファイルをテキストエディタで編集することは当たり前にやっている。Newtek社の一種の次世代Lightwave3DコンセプトであったCoreではモデラーとレイアウトの統合が示唆されたが、私個人は統合には懐疑的であったし、今後も統合する必然性を感じない。

 と、脱線したけれども、"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成したことはとにかく目出度い。

2012/11/04

今さら「SPACE BATTLESHIP YAMATO」について「BSG」も絡めて

 「SPACE BATTLESHIP YAMATO」は説明するまでもなくキムタク主演のあの映画のこと。中古DVDを入手して今さらながら、ただし真面目に観た。

 「BSG」はBATTLESTAR GALACTICA(バトルスター・ギャラクティカ、宇宙空母ギャラクティカ)のことで、ここでは21世紀になってリメイクされたTVシリーズを指す。日本では全くブレークしなかったが、シーズン5まで作られて無事に完結した。日本でブレークしなかった原因についての考察はBSGのスタッフとのメールのやり取り内容を踏まえて改めて書くつもりだ。

 YAMATOを観てとにかくまずいと思ったのは、BSGの影響が陽にそこここに見られたこと。

 パイロットが首に付けている銀色のリングやパイロットスーツはほぼBSGそのまんま、少しはデザイン捻れば良いのにというのが正直なところだ。YAMATOがイスカンダル/ガミラス星に急降下して地表面近くでワープするシーンは劇中の見せ場の一つだが、すでに同様のシーンがBSGのニューカプリカ戦で描かれている。

 また、放射能除去装置の当てもないのにYAMATOでイスカンダルに向かう沖田艦長の行動は、伝説の星・地球が存在する当てもないのに「その星は有る!場所は軍の最重要機密として隠されてきた!」と言い放ったBSGのアダマ司令の行動に似ていると言って良い。沖田艦長の行動はストーリー上の重要などんでん返しであり、これまでのヤマトに対して新規性なり差異化の胆になる要素にも関わらず、そこにオリジナリティが無いとなればダメージは大きい。

 YAMATOでは沖田艦長の賭けが実を結ぶ形で放射能除去装置に比するものを手に入れることに成功する。他方、BSGではアダマ司令達はストーリー上の後世で「地球」と呼ばれることになる惑星に辿り着く。が、BSGにおいてGALACTICAが地球に達するまでの経緯はグダグダで実際のところ全く感心できない。このような観点からは、沖田艦長なりアダマ司令なりの当初の行動の結果をストーリー的にちゃんと回収しているのはむしろYAMATOの方だ。とは言え、共にストーリーまたは脚本に残念な点が有る事実は変わらない。

 YAMATOにおけるイスカンダル/ガミラスの取り扱いは英国のSFTVシリーズの多くを知る身からは陳腐としか言えないアイディアだが、ストーリー上は充分に機能していると思う。ただし、セリフによる説明にほぼ全て頼った点は先達と同様で、特段新しい何かを為したわけではない。この手のややこしい状況の説明をセリフに極力頼らずに描くことに成功したのは映画「マトリックス」ぐらいだろう。

 個人的には、「イスカンダル」と呼ばれるモノが「イスカンダルという呼び名は沖田という男が勝手につけたもの」という旨の発言をしたところが面白かった。この手の「そりゃそうだ」という設定上の必然が、これまでの多くの映画やTVシリーズの脚本で無視されてきたのも事実だからだ。同時に、「私はイスカンダルのスターシャ」「私はテレザート星のテレサ」といった従来のヤマトにおけるセリフの機能の一つが「目的地が必ず存在することを劇中の人物のみならず視聴者にも保証すること」と見なすこともできそうだ。西遊記の登場人物や読者はまず「天竺」の存在を疑わない。

 「『イスカンダル』は実は無かった。が、それに相当するモノはあった。」と従来ヤマトのお約束ストーリーとの一応の差異化には成功したかにも見えるYAMATO。しかし、「『地球』は実は無かった。が、それに代わる惑星に到達することができた。」というBSGに限りなく近い。

2012/09/18

「宇宙戦艦ヤマト2199」のどうでもいい所が気になるという話

 タイトル通りのお話です。オリジナルのヤマトを知ってる年齢なのですっかりものぐさ者、本編(BD)と公式サイトしかチェックしてませんので為念。うっかり「コスモファルコンは1式」などとボケてしまわないようにチョイとググっててみたのがきっかけです。

 コスモファルコンは実は99式、2199年正式採用の新鋭機ですね。エンジンノズル形状は約200年前の古いデザインに見えなくもないですが。零式のコスモゼロと100式偵察機は2200年正式採用決定済みで、ヤマトには最新鋭機として初期生産機をとにかく搭載した、というあたりで個人的には納得。零式と100式の呼称の混在についてはここでは取り合えずスルー。あ、SC97輸送機は2197年正式採用ですね、きっと。

 で、3式実体弾。

 2103年正式採用のほとんど100年前の設計ってことで宜しいでしょうか?それならそれでも良いですけどね。「3号弾」だったらミリタリー系に詳しくない者としてはスルーしてましたが。

 ショックカノンが捻じれたり捻じれなかったりより、3式弾という呼称が引っかかる今日このごろ。