2013/05/29

シナプスの爆発をキャッチせよ!の巻

 今回は、本ブログのエントリの中でも屈指の下らなさを保証しよう。

 佐野電磁さんのラジオ番組「電磁マシマシ」のエンディングテーマ曲であるところの「Dear Radio」をその一部を聞いただけでiTunesですかさず購入しちゃったよ、と言うのは以前のエントリに書いた通り。曲単位で購入ができること、CDという実体を部屋に持ち込まなくても済むことなどがiTunesの利点だが、他方、映画の字幕と並ぶ日本の良き伝統と言える実体物「歌詞カード」は入手できない。

 文部省唱歌ですら聞き違えをやってしまう「空耳」な私としては、「Dear Radio」の歌詞の聞き取りが難事業となるのは至極まっとうな流れ。とはいえ、標準語を解する今を生きる日本人としては、「歌詞聞き取りに挫折しました。」と白旗を上げるというのも悔しい話。かつて「言語破壊者」とまで呼ばれ、友人間だけで通じる造語を大増産していた言葉にこだわりのある人間としては、歌詞は充分に味わう価値のある言葉の連なりなのである。

 ちなみに、もしエロ同人誌を指す言葉としてかつて使われていた「面妖本」という表現の発祥が1985年ごろの福岡、かつ、某大学のアニ研ならば、最初に使用したのは私ということになりますよ。なお、私はアニ研に属したことはありません。

 おっと軌道修正。

 さて、件の歌詞の聞き取りは予想通り難航し、何回聞いても2か所がどうもしっくりこない。要はどう考えても「空耳」としか思えないのだ。具体的には下記のような具合だ。
  • 「約束はいつも言えない」「約束はいつも見えない」
  • 「心を素通り」「心を素通し」「心をスローに」「心をスローリー」
前後の文脈を参照するまでもなく変な日本語であることは明らかだ。という訳で、ここ一週間ほどは聞き取りに全く進展なく、D-wave社の量子コンピューティングチップ(量子アニーリング手法のハードウェア実装)の仕組みの調査や査読の段階で既に話題となっている素数に関する論文の情報収集もうっちゃってただただ悩むという日々が続いていたのだ。

 「空耳」の結果に発想が縛られていることが、聞き取りの進展を妨げている原因の一つであることは明らかだ。それ以外にも不要な予備知識や思い込みにより発想が制限されている可能性もある。このような場合は意図的に自分の思考過程の「タガ」を外すしかない。幸いにして本日は出張だったので、帰りの列車の乗車時間である約1時間半をそれに当てることとした。

 今回の具体的な手順は下記の通りだ。仕事でアイディアが行き詰ったときの発想転換に良く使っている手法の応用である。

 まず、背景情報を整理する。ここで重要なのは、整理すべきは事実のみとし、「空耳」の結果の如き事実とは無関係な情報は意図的に排除することである。整理した具体的な事実は下記の3点だ。
  • 件のラジオ番組の終了時刻(11:30、イレブン・サーティ)は歌詞に織り込まれている。
  • 件のラジオ番組の開始時刻は午後9:00である。
  • 件のラジオ番組はUSTでライブ配信されている。
賢明な方なら、「約束は…」に続く言葉が番組開始時間だろうと推定できるだろう。当然私もそう考えたが、如何せん「空耳」結果の呪縛は強く、答えに行きつけなかった。ここでは「推定」は発想の自由度を制限する要因でしかなく、排除すべき対象なのである。また整理した情報は「言葉」のままではなく、「概念」へと落とし込む。この辺りはなかなか他人には分かってもらえないプロセスである。

 次いで、おもむろにiPodで楽曲をリピート再生し、ただ無心に「閃き」、或いは「シナプスの爆発」を待つ。再生5回目ぐらいまではつい言葉を聞きにいってしまったが、やがて「聞こえたものに対する自分の脳の反応」が感じられるようになってくる。爆発はリピート10回目ほどで立て続けに起こった。「悟り」の瞬間、と言っても良いかもしれない。結果は以下の通りだ。
  • 約束はいつもPM9:00(ピーエムナーイ(ン))
  • 心をstreaming(ストリーミン(グ))
これら結果を得るために経た思考過程はもちろん不明だ。また、これらすらも新たな「空耳」に過ぎず、正解ではない可能性も残る。だが、そもそもの「空耳」結果に較べればはるかに納得がいく。

 「PM9:00」が実は曲者だ。一般的な、或いは英語での使用方法は「9:00PM」だからだ。このような知識は「PM9:00」という聞き取りを明らかに阻害する。実際、「PM」→「11PM」→「明日は東京、日本テレビ。」という連想がデフォルトとして刷り込まれているのが60年代生まれの悲しさだ。

 今回は本当にどうでも良い話でしたね。

2013/05/27

ボーカロイドとその周辺で思うこと。

 最近はすっかりDAW(Digital Audio Workstation)アプリばっかりいじっていて、しかも作っているのはボーカロイド用オケばかりというヘンさ加減。さすがに打ち止め感(ネタ切れ感)が出てきても良さそうだが、どっこいそうはいかない。愛用のiPod Touchには既に1万2千曲以上入っているし、PCのハードディスクにはそれらの3倍を超える数の楽曲データが格納されている。CDやレコードの置き場所に困っても、ネタには困らないのだ。

 ボーカロイド曲を作るにしても、オリジナルソングであれば救いがある。が、少なくとも作曲の才能が無いことは大学生のころに確信してしまったし、カバーなりでいじってみたい曲にはことかかない。オリジナル用のネタはこつこつ貯めているが、曲としてまとめるというのは結構エネルギーの要る作業なので病気の身ではまだ辛い。良い歳したオヤジがおバカな感じのポップスをやろうとすれば、自分を一旦捨てるぐらいにはっちゃける必要があるのだよ。

 さて、「ボーカロイド」の登場は、20年以上にわたってリスナーに徹していた自分を「曲を組む作業」に再帰させる重要なきっかけだった。ただし、「ボーカロイド」そのもの以外には全く興味がない。最初に購入した「ボーカロイド」はSONiKA(英語)で、まず歌わせたのはKraftwerkの"The Robot"のカバーだった。歌詞の出だしはこうである。

 "We are codes and libraries, and we are installed on PCs."
 「私達は規則とライブラリ(の集まり)、私達はPCにインストールされる。」

つまり、個々のボーカロイドに「見た目などのキャラクター性を付与する」こと自体を心底小馬鹿にしているのである。商売としては間違いなく正解だが、付与されたものは私にとって何の価値もない。金銭を対価に自分のPCにインストールしたソフトウェアに過ぎない。

 ちなみにとある外国の方から面白いメールがあった。メールの送り主は、「ボーカロイドって何だ?日本の新しいアニメか?それともゲームか?キャラがいっぱいいるが一貫性はないみたいなんだが…」といった質問を何人もの知り合いから受けて閉口していたという。そこで私の"The Robot"のカバーの歌詞を印刷して読ませたりメールで送ったりして説明したところ、高確率ですんなりと「あぁ、PCアプリソフトなのね。」と納得してくれるそうな。実にイイ話じゃないですか。

 前置きが長くなったが、エントリタイトルの通り、思うところを書いておこう。
  • 「ボーカロイド」の登場は、「純粋な」人声合成を諦めた結果やに見ゆる。
    「ボーカロイド」は実在する人間の発声から抽出した音素データをライブラリとして用い、与えられた入力に対して音素データを加工、連結しているに過ぎない。声を声たらしめているフォルマント特性の生成は陽には為されていないのである。出力データが不自然に聞こえる場合は、結局フォルマントの時間変化が経験則とマッチしていないという場合が多い。

  • 純粋にフォルマント特性を合成できるならば世界中の言語で使われている母音が再現可能であり、特定の言語(すなわち限定されたフォルマント特性或いは母音しか用いない)に使用が限定される必然性はない。
    現存する言語の中にあって、日本語は最も母音が少ない(あ行の5つ)部類に入り、外国語習得のひとつの障壁となっているやに思われる。経験的に、日本語で使われない子音(残念、母音ではない)でも聞き分けることが出来るようになれば、発音もできるようになる。
    「純粋な」人声合成技術は、言語教育に大きなインパクトを与えるかもしない。赤ん坊が言語を習得する過程で、「耳」或いは人声を処理する脳機能は周囲から聞こえる人声に最適化されることは否めない。このような時期に日本語に無い様々な母音も聞かせておけば、赤ん坊の「耳」は日本語に無い母音も認識できるようになる可能性が高い。
     ここで「日本語に無い母音」の意味は、複数の母音が日本語では区別されないで用いられるということである。学校の英語の授業で「『え』の口で『あ』と発音する」とか習わなかったろうか?英語には「あ」と「え」の間にあるフォルマント特性に対応した母音があるということである。日本語に最適化された「耳」では、一般的にその母音は「あ」か「え」のどちらかでしか認識されない。
    しかし、更に母音の数が増えるとそうもいかない。幾つかの北欧の言語は母音が10以上あり、「あ」と「え」の間に3つ以上の母音がある場合もある。北欧の歌曲を聞いたとき、歌詞をカタカナですら置き下せないことを当たり前に経験する。これは、聞き手が母音を見つけることすら失敗しているということだ。ただ、この失敗はむしろポジティブに捉えるべきだ。少なくとも「日本語では使わない母音である」ことは認識できているからだ。
    言語習得の基本はやはり「ものまね」、「耳を作っておく」ことの重要性は高い。実績が確認できれば国策として制度化、義務化しても良いぐらいだ。もしそうなったら、カタカナでは書けない新しい擬音(オノマトペ)がたくさん生まれるだろう。

  • 編集できるパラメータの名称とその大まかな機能が、MIDI規格(電子音楽機器の制御のための通信規格)で定義されている送信可能なパラメータと同じとなっている。
    これを単に仕様と見なすか否かは重要だ。
    個人的には、このようなパラメータを人声合成に適用する事自体が直観に反している。つまり、これらパラメータの選択は音素データ合成というボーカロイドの仕組みの自由度を下げ、本来持ち得る機能をも封じているのではないかと思う。百歩譲ってもアフタータッチがない、エクスプレッションもない、ヴェロシティはMIDIデータにおけるそれとは別物など、欲求不満と混乱しか引き起こしていない。

  • 個人的な趣味から言えばエディターの完成度の低さはバージョン3でも噴飯もので、反応の遅さ、ダサいデザイン、論理的とは思えないメニュー構成など不満点にはきりがない。いわゆる打ちこみによる音楽データの編集は逐次的なデータ入力とリアルタイム再生を交互に行うものであり、ボーカロイドデータの編集はまさにこれにあたる。20GB近くのデータを扱いながら操作の切り替えにタイムラグを感じさせないDAWソフトウェアが実際にある以上、ボーカロイドエディターのレスポンスの悪さはどうしても目立つ。

  • 「ボカリス(Vocaloid Listener)」自体の存在意義は何処にあるのか?分析する歌唱データがあるなら、それ自体使えば良いだけの話で、ボーカロイドの出番は本来無い筈だ。

2013/05/20

Madalena / Kaleido+ファミコン風味 ボーカロイド用試作オケ

  Madalenaは名曲なのだが、いかんせん歌詞はブラジル-ポルトガル語。英語ボーカロイドでは直球勝負は出来ませぬ。オケの出来については0号ゆえ、ということで。耳コピ基本で4か所ほどコードが決め切れずにごにょごにょとした処理のままですが、いったんさらしておきます。

 大人の事情対策で「さとうささら」さん(CeVIO Creative Studio FREE)に再びご登場願っております。
 Kaleidoオリジナルの別バージョン。

 音はわやくちゃだけど、参考にしたバージョンに近いもの。

 忘れちゃいけない、Elis Reginaのオリジナル。こんな表現力はボーカロイドにはそうそう期待できないよね。ちなみに日本語ウィキでは「ブラジルポルトガル語での発音表記に準じるとエリス・ヘジーナ」なんて書いてあるけど、英語ウィキ記載の発音記号に基づけば「エリス・レジ―ナ」にやはり近い。「rr」みたいにrが二つ並ぶと、日本語の「ハ」に近い発音となるのは確かなんだけどね。

 はたしてお気に入りは見つかるかしらん。






  コード進行やコードの刻み方は、実はブラジル・コンテンポラリー・ミュージック(どっかで見たことあるけどどういう意味?)では比較的スタンダードなもの、海も渡ってますよ。この曲を初めて聞いたときはまず笑っちゃったけどね。

2013/05/19

CBCラジオ×U-strip夜用スーパー『電磁マシマシ』ですか!

 音楽データいじってるときは当然BGMはないし、3DCGモデリングのときは集中力確保のため耳になじんだ曲をiTunesでリピートしてBGMにしている。そういう訳で、ラジオなんて先の震災時以外は聞いていない(5日ぶりに電気が来た時には、ローカル放送をUSTREAMで聞きましたが…)。

 DTMマガジンのサイトでエントリタイトルの佐野電磁氏の番組について触れていたので、さっそくUSTREAMのページに飛んだところ、これが見事にツボ。ツボですよ。

 「過去のライブ」をざっと飛ばし飛ばし再生していると、拾うフレーズのひとつひとつにガツンガツン引っかかる。「カウベルの呪縛(笑)(文脈は違うが…)」「来週のゲストはサエキけんぞうさんで~」「えっ、Bar(バー、音楽における小節)単位でコピーできんの?」「アカイの…」「コルグの…」「もーほー?もほー?(シンセサイザー"Mopho"こと)」「ニューウエーブってのは…」etc etc。

 世代的に「カウベル」はつい使っちゃう(笑)。←私にとっての文脈

 とりあえずエンドテーマ曲の「Dear Radio」をiTunesで購入しちゃいましたよ。あぁ、このベースやリズムの音色というか波形はほぼ同世代としてはアリだよねぇ。今週は「過去のライブ」だけでお腹いっぱいになりそうだなぁ。

 次回はコルグからゲスト! なぬぅ!

2013/05/17

佇む人。

 最近仕事が忙しくて帰宅時間が遅いせいか、帰宅途中の車窓から「佇む人」を見る機会が増えた。「佇む人」とは、道端の電柱や信号の脇などに居て、というか、居ないんだけど見える人のことである。

 経験値も上がっているから、うっかり見かけてもさらりと無視できるように今やなっている。うっかり目があったりしても、軽く目礼してやはりさらりと流す。ここで反応を間違えると厄介なことになる可能性がある。寝てる布団の上に乗られたり、夜中にふと目が覚めたら目の前に覗きこむ顔があったりする経験はもう願い下げだ。

 今住んでいるアパートの間取りは、部屋内の風の流れ方、窓の向きとそれらの組み合わせなどを勘案したうえで選んだというのは真面目な話だ。「通り過ぎる人」も結構厄介なのである。中途半端に風水やお経の知識があったりするのは、それらが平穏な生活のために必要だからだと言いきってしまおう。

 幸いにして、今回はオチはありません。

2013/05/16

「喪失感」と「ビューティフルドリーマー」、「Thatness and Thereness」

 今回は完全に個人的な話。

 私の好きな映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と好きな楽曲「Thatness and Thereness」は個人的に奇妙な「喪失感」と不可分だ。

 「うる星2」は高校生の時分にリアルタイムに劇場で観た。夢邪鬼が「終わらない夢があってもエーんとちゃいまっか」とあたるに語るシーンで、劇場で泣いてしまったことを告白しよう。泣いてしまった理由は簡単、「自分の高校生生活もやがて終わってしまうのだ」ということを図らずも自覚してしまったからだ。同時に、「今観ている映画もやがて終わるのだ」ということも自覚してしまったからだ。その感覚は実際に失ってしまう前に感じた奇妙な「喪失感」だ。まさに「諸行無常」、どんなに望んでも楽しい時間は永遠に続かない。

 映画館で過す時間は楽しいものだ。他方、自分の高校生時代が楽しい時間だったかは今でも判断を保留せざるを得ない。試験の多い高校だったので、とにかく試験勉強と部活でいっぱいいっぱいだったこと、そしてやがて失われてしまったことは確かだ。ちなみに、当時は「ドラマ編」なる映画の音声のみを収めたLPレコードがあり、勉強のBGMとして何回も聞いているうちにメガネの有名なモノローグを完全に覚えてしまった。

 「うる星2」が面白い映画か、という判断も保留せざるを得ない。今でも客観性を持てないからだ。言えることは、「星勝氏の音楽は素晴らしい仕事」、「原作者の不興をかったらしい、という点はむしろ評価ポイント」といったところだ。「うる星やつら」の世界観を突き放したように見えて、その世界観の強靭さに頼らないと成立しないギリギリのところでのストーリー展開。そのバランスを絶妙と見るか、たまたまと見るか、それほどまでに「うる星やつら」の世界観が強靭と見るか。

 いずれにしてもタイトルはエンディングで現れる。それに気付いた瞬間、「この映画もやがて終わる」という私が上映中に感じた「喪失感」は完全に行き場所を失ってしまった。DVDで何度か見直したが、その「喪失感」の行き場所はまだ見つけられずにいる。

 「Thatness and Thereness」は大学生になってから、「AVガーデン」という深夜番組でたまたま流れたのが出会いだ。とにかく気になった。当時は歌詞の内容も背景も知らなかったが、曲自体に「喪失感」を強く感じた。

 「Thatness and Thereness」の歌詞は、坂本龍一氏自身の学生運動の経験を反映したものだという。坂本氏にとって、学生運動の終焉が「喪失感」を伴うものだったかどうかは分からない。しかし、本楽曲から私が感じるのは一種の「喪失感」、そして「勝ち/負け、成功/失敗といった結果が保留された状態が維持されている」という感覚だ。後者の感覚は、まるで人が走り出した一瞬を捉えたセピア色の写真にでも例えられよう。古くて、止まっているような動いているような、が、絶対動きださない。

 映画「うる星2」のエンディングが、映画が終わっても劇中人物とってのストーリーはまだ続くこと、つまり「うる星2」は終わらないことをまるで示唆したかのように、楽曲「Thatness and Thereness」のリズムは何処から始まって何処で終わるのか時々分からなくなる。「終わらないこと」に気付く前に感じてしまった「終わることを自覚することで生まれた奇妙な喪失感」は、20年以上の時を経ても変わらない。今の自分の一部は「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「Thatness and Thereness」からできているんじゃないかとすら思う。

2013/05/12

今秋公開予定の映画「キャプテン・ハーロック」について雑感

 敢えて触れずにきたネタだが、思うところだけは書いといた方が健康には良い。「実際に公開されたら出来が良かった」、なんてうれしい誤算な展開はエニタイム・ウェルカムなので念の為。

 「作品に対して何か語るのは実際にその作品を観てから」が個人的なルール、今回は投資リスク的な観点で思うところ。要は監督、脚本家である。

 私個人は"APPLESEED"、"EX MACHINA"、"STARSHIP TROOPERS: INVASION"を全く評価していない。興行的にも決して成功したとは言えない筈だ。ハリウッドでは3作もコケればもはやメガホンは握れないと聞く。これは監督に興行的観点からもプロフェッショナルであることを要求する風土と、監督予備軍の層の厚さという少なくとも二つの要素を念頭に置いて理解する必要がある。

 個人的意見としては、荒牧伸志氏は監督として一度干され、本作は別の人間が監督すべきだったと思う。別の人間が「今」思いつけないなら作らない(企画として温存する)事自体が投資となる可能性すらある。私が投資側なら、「今の」荒牧伸志氏にはこのレベルの大きな投資は絶対しない。もし荒牧氏が諸般の権利関係を処理して

 「本家"Genesis Climber MOSPEADA"ってやつを見せてやるぜ!(ホントは海外では"ROBOTECH"って呼んじゃうけどさ:P)」

なんてことを言い出したら、1/3ぐらいの額は出しちゃうかもしれない。カッコ内書きの海外での取り扱いも重要な要素である。この場合の投資はむしろその次の作品への投資のための繋ぎ料であり、「自分に投資する価値あり」とあらためて示す機会の提供である。それでもコケればホントの終わりである。

 脚本家でクレジットされている福井晴敏氏はマンガやアニメに理解があり、ハズしてこない所は評価されるべきだが、出来上がりに対してまだ定評があるわけではない。

 自作小説の映画化作品「ローレライ」「亡国のイージス」の出来も踏まえたうえで、どういう姿勢で本作に臨んでいるのか、作品の出来はそのあたりも問われることになるはずである。自作の映画化作品が口を出してもああだったのか、全部投げ渡してああだったのか、寡聞にして私は知らないが、本作では原作者が別にいる映画の脚本である。自作の映画化とは全く逆の立場に立っていることにどのくらい自覚的かは気になるところ。

 余談ながら、アルカディア号の船首にはいわゆる髑髏のマークがあしらわれているが、トレーラーでみる限り、安物の金属アクセサリにありがちな最も下品な方向性での造形が為されているやに見ゆる。このような造形を選ぶ人間とは絶対話が合わないなぁ、と心から思う。つまり、この造形を選んだ映画製作サイドの人間はもとより、劇中のハーロックともきっと私は友達になれないのだろう。

 いやぁ、あの造形は本当にセンスないと思うよ。

映画「椿三十郎(2007)」、あらためてTVで観ましたよ。

 まぁ、間の取り方は何回観てもやはり上手くて、編集の妙はあり。森田芳光氏の監督作としてはちゃんとしている方ではないかと思うよ、なんたって脚本もネタもストーリーも彼じゃないものね。

 だが、「オリジナルの脚本をそのまま使う」っていう手法の意図は全く理解不能。

 オリジナル製作時期の黒澤明氏の監督作なら主要な俳優は決まっているのも同然で、脚本はほぼアテ書きの可能性が高い。アテ書きとは「俳優に合わせてセリフを書く」こと。つまり、椿三十郎のセリフは三船敏郎氏が演じることを前提に書かれている可能性が高いということ。室戸半兵衛のセリフは仲代達矢氏が前提、というあたりまではまず間違いないでしょう。

 どうでも良いけど室戸半兵衛って室戸文明の元ネタなのかなぁ。

 三船氏や仲代氏のセリフ回しにはけっこうアクが強いところがあります。三船氏のモノマネさせられてるみたいにしか見えず、主演俳優には今回も不憫さを禁じ得ませんでした。ありゃきっついよ。

2013/05/11

有難う、レイ・ハリーハウゼン

 カラー映画時代においては文句なくストップ・モーション・アニメーションの巨星、レイ・ハリーハウゼン氏が最近亡くなったとのこと。素晴らしい作品群を有難う。

 個人的には映画「アルゴ探検隊の冒険」のガイコツ兵が印象深い、日曜洋画劇場(だったかな?)で何回観たことか。合成技術の未熟さに足を引っ張られている作品が少なくないのが残念だが、「彼の技術があればこんな映画も作れるね」って感じで陽の目を見た作品も決して少なくない筈。彼のアニメーションをフューチャーしたミュージカル映画がない、というのもとっても残念。

 カリも良いよね。

"Honest Trailers - Star Trek (2009) "に大笑い

 「正直な予告編」ってとこ。

 「そして、レンズフレア(AND... LENS FLARES)」、「さらにさらにフレア(AND... EVEN MORE FLARES)」に大笑い。レンズフレア、ぶれるカメラアングルなど、本作は「カメラや照明の下手さ」を一生懸命お金をかけてシミュレートした、とってもおバカな作品という側面もあることは明言しておこう。

 まぁ、ドキュメンタリー映画風のぶれるカメラアングルや過剰なレンズフレアの導入は2003年の"Battlestar Galactica"でいきなり完成形で現れた。しかも、監督本人がその一回で「飽きた」という手法である。J. J. エイブラムスは製作として同様の手法を先鋭化してい用いた「クローバーフィールド/HAKAISHA」に関与、飽きるどころの騒ぎじゃないはず。それでもやっちゃうってのはウケ狙い以外に何か目的あるかいな。

 NHK大河ドラマ「平清盛」でもそんな演出を感じさせる回があって観てる方が恥ずかしかったが、今時その種の手法をスタイリッシュなんて思っている人は「(少なくても)10年古い!」とバカにしてあげよう。

 ピンポイントでさらっと上手く使ってる人は今も昔もいるんですからね。