2012/12/08

「メリダとおそろしの森」見ましたよ。

 ディズニー作品になってしまった。 --- これは極めてネガティブな意味である。

 「トイ・ストーリー」のキャラが薄気味悪いこともあって敬遠気味ではあるのだが、「レミーのおいしいレストラン」が個人的にとても面白かったためピクサー作品は取り合えずチェックしてきている。ただ、「レミーのおいしいレストラン」の面白さはおそらく監督に負うところが大きく、同監督のピクサー以前の作品「アイアンジャイアント」も楽しんで見たクチだ。

 ディズニー買収前のピクサーは、「ディズニーでは作れない作品を作り、商業ベースで成功させた会社」だった筈だ。つまり、ディズニー一極化に対するカウンターとして機能していたのだ。この認識からの一つの帰結は、「ピクサー作品のディズニー作品化はピクサーが存在意義を失うに等しい」である。

 正統なディズニー作品の否定などは念頭にもない。「ディズニー作品ではないことを期待して見た作品のディズニー作品化」に対する悔しみがあるだけである。

BSG:B&C フィナーレです。

 Battlestar Galactica: Blood & Chromeネットワーク版の最終エピソードが公開されました。番組の時間に比してセリフが多いとの前情報からの推測通り、ストーリーの胆の部分はセリフで豪快に説明されてしまいました。英語のリスニングは駄目な人なので、理解度はせいぜい1/4。もう一回見てみませう。

 劇中のViperはどう見てもMk.IIではなく、どうやらMk.IIIとのこと。BSG本編(ミニシリーズ)ではウィリアム・「ハスカー」・アダマはMk.IIに懐かしげに触れ、BSG: Razor及びBSG: Razor Flashbackでも間違いなく彼はMk.IIを駆っていました。もうBSGは完全に駄目っぽい。

 世界観の拡張と多様化は従来はファンが主に担い、本家はどーんと構えていたもの。さらに言えば、ファンの想像力なんて知れたものとばかりに凄い次弾を撃ってきたものですよ。Universalは幾つかのBSG関連のGame Mods開発チームに法律家を介した圧力を加え、実質的に開発中止に追い込んでいる。自らのコンテンツであるGalactica Onlineを保護するためだということは分かるが、本家が極めてファン活動的な世界観の拡張と多様化を進めるに及んでは苦笑することすらできない。そこにプロフェッショナルかつクリエイティブな仕事を見ることはできない。Mikalaさんのブログエントリ"Blood and Chrome..., more like Blood and Stool "の内容は厳しいながらもかなり本質的かと思う。ちなみに"Super D bag"とは「どうしようもない役立たず、グズ」とか「***野郎!」みたいな意味で、どうやっても誉め言葉にはなりません。

 リメイクや続編で有りがち、かつ世界観を台無しにしまう典型的なケースは、オリジナルに「足す」ことしかしないこと。GalacticaもKEW(砲塔、Kinetic Energy Weaponの略)が増えてるし、劇中にはこれまで見たことのないデザインの船も多数出てきましたよ。ファンは「引くことによる世界観やデザインの純化」なんて求めてないよ、というのが商業的視点なのでしょうかねぇ。せめて、某CMに曰く「何も足さない、何も引かない」って訳にはいかないですか、残念。

2012/12/07

宇宙戦艦ヤマト2199 OST Part 1を試聴したのですが…

 「コスモタイガー (Wan・Dah・Bah)」には興ざめですよ。ワンダバ欲しけりゃ自分で付けるし、つーか全く要らない。それに全然ハネてないのはなぜ?ストリングスのぐっーーーと入ってくる感じとのコントラストがこの曲のポイントのひとつだと思うのだが。あと「イスカンダル」に相当する曲が無いのも個人的には×。

 全体にコンプレッサ/リミッタ効かせすぎなのか(つまり、音圧重視の今時のポップスのマスタリング。オーケストラに対してそんなマスタリングはもったいないだろう)、もともと音の強弱をつけない演奏としたのか、どの曲も表情が乏しい感じで残念過ぎ。ピッチコレクト効かせすぎて全然面白くなくなったVocaloidの歌の如し。アホ毛もそうだが、なんか変にアマチュアっぽい方向にブレかつ中途半端に過ぎるのが2199のとっても変なところ、もしかしたら本質的にダメなところ。

 一応3秒ほど悩んでみましたが結局買わずに帰宅。今、「不滅の宇宙戦艦ヤマト」のレコード聴いてマス。「イスカンダル」最高。

2012/12/02

BSG: B&C エピソード7 & 8

 今回はほとんど会話が聞き取れませんでした。疲れているみたい。安く番組を作る秘訣の一つはパイロ(火薬特殊効果)を使わないこと、"Starship Troopers 2"も火薬使ってませんでしたよね。

2012/11/25

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.3でましたよ。

 「宇宙戦艦ヤマト2199/第7話~第10話」のDVD/Blu-rayが発売、さっそく購入しましたよ。

 個人的には、第1話~第6話は制作者側の目指すところが全く見えず、とにかくフラストレーションがたまった。対して、第7話~第10話では印象が大きく変わった。善し悪しは別にして、今時の作り方或いは語り口が押し出され、ストーリー構成はそれとマッチしている。

 第6話までとの差は何かと問われれば、「ヤマトらしさ=ヤマト的アイコン」≒「ああ、これはヤマトだよなぁ的アイテム」への明確な回帰、明確な再持ち込みである。表層的にはオープニングとエンディングの曲の変更、劇中BGMの選択傾向の変化が挙げられる。効能は極めて簡単、「既存のヤマトらしさ」の枠組みは極めて強靭であるから、その中で制作者が多少暴走しようが「ヤマト」であることは保証されることになる。当初の予定通りとは言え、エンディング曲が「真っ赤なスカーフ」になったことを象徴的に捉えざるを得ない。

 第1話~第6話の座りの悪さは、製作側の「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」への距離感がふらふらしているからだ。それもその距離感が、論理的ではなく、感性或いは感覚的過ぎるように感じられる。

 第7話~第10話は、当然「2199」らしさを獲得していくフェーズである。ストーリー的にはオリジナルから離れて「2199のオリジナル」へと向かうことになるが、「2199のオリジナル」故に「既存のヤマトらしさ」との距離感は希薄となり、ふらふら感は出なくなってくる。この状況は第3話以降でも充分達成可能であった筈だが、そうではなかった所にはどうしても断絶感がぬぐえない。「2199のオリジナル」を推し進めていけば「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」との軋轢は無くなっていくものの、それでも「ヤマト」であろうとすると「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」が機能すべく前面に出てくる、そんなところだろうか。「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」を有効活用していく方針ならば、これは正のスパイラルである。

 「ユリーシャ=森雪」説はとっくに一般教養化していると思うが、第7話~第10話では、「ユリーシャのこころ・意志=ヤマトの女神=ヤマトのこころ」と「ユリーシャの肉体=森雪の肉体」或いは「森雪の肉体=ユリーシャの肉体のコピー」といった可能性が強く示唆される。スーパーナチュラルな「ヤマトの女神」の描写は論理性に乏しく安易にしか見えないが、それが今時の作法ならばしようが無い。で、私が読みとったものが正しければ、残りの「森雪のこころ」が物語的にどう回収されるのかが興味あるところだ。「友よ」ではなく「私よ」となるのか、それとも「森雪のこころ」は切り捨てられるのか?「森雪のこころ」の表層的な消失、一時的な回復、カタストロフ的状況による一見真の消失、真の回復または回復への希望(アニメ映画「メトロポリス」の展開がこの構造の一バリエーション)なんていう展開は手垢が付き過ぎているので勘弁願いたいが。

 記憶があいまいなので間違っているかもしれないが、アニメ「エルガイム」のプリプロ段階でデザイナーの永野護氏が「へヴィーメタルの頭部には実は人間(女の子)が取り込まれている」という設定を出し、監督の冨野氏が拒絶したという話をどこかで読んだことがある。個人的には永野氏のアイディアは極めて薄気味悪く、生理的に受け付けられない。「人間=機械」論に近い立場を取る私ですらである。この種の設定は世界観に取り込んだ上で物語的にきっちりと回収しない限り、見世物小屋のキワモノみたいなもので終わってしまう。「自動航行装置=女の子=人形」的小道具に終わらないことを切に願う。例えば「事故によって植物状態⇒当人の命を救うため生命維持装置と接続」までなら救いがあるが、さらに自動航行装置への接続なんてのは「植物状態の女の子≒人形」が透けて見えてしまう実に変態的な取り扱いですよ。

 それと、対ガミラス反乱勢力または反デスラー勢力とヤマトとの共闘の可能性もうっすら示唆されているやに思う。「名将ドメル、二等臣民艦隊/軍内の反デスラー勢力の反乱によりテロン艦に敗れる」、とかね。「ヤマト一隻であの大帝国が倒せる筈ないでしょ」ってあたりについては制作者側も何か考えてるはずでしょうから。

2012/11/24

BSG: B&C エピソード5 & 6

 蛇サイロンがコンセプチュアル・アートよりはるかに小さくなってマス。

2012/11/18

BSG : B&Cのエピソード3 & 4 公開されましたよ。

 Mikalaさんのブログでは"awful crap"なんてタグが付けられた記事で言及されているBSG: B&Cですが、告知通り新エピソードが公開されました。

 ありゃ、バルキリー型バトルスターが出ちゃってますよ。個人的には休戦後のデザインだと信じて疑っていなかったんですけどね。まぁ、バーサーク型/級がいるのは無問題ですけど。

 一部ではバイパーがMk.IIなのかMk.IIIなのか、"Archeron"がバトルスターなのか重巡洋艦なのか、なんて議論も起きてるようですが、まぁ、もうどうでも良いです。ゲーム「BSGオンライン」のスクリーンショットを観た時点で新BSGの世界観の統一が破綻しているのは明らか。世界観にちゃんと投資をしておかないとBSGである必然性すら失ってしまって、ドンパチあればオッケー的なレベルの低い視聴者しか残ってくれませんよ。

2012/11/11

実は"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成していたよ、という話

 "Craprica"などとも呼ばれて総じて酷評された"Caprica"の打ち切り以降、良い話のなかったBattlestar Galacticaだが、製作がとん挫との話もあった"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"がどうも完成したとのこと。Youtubeなどで見られるトレーラーによれば、米国では来年2月にUncut & Unrated版のDVDとBlu-rayが発売されるらしい。ネットワーク版は、昨日と言うか日本では今日から公開開始だ。第一次サイロン戦争を舞台に若き日のアダマ達の活躍が描かれる!という話は変わっていないようで、既公開のコンセプトアートと対応するようなカットもトレーラーに含まれている。

 とあるWeb上の記事によると、2時間弱の番組のライブアクションシーンは全て合成用のグリーンスクリーンを背景に15日で撮影されたとのこと。つまり基本的にセットは組まず、背景は全てCGで処理したということで、美術とVFXとの垣根がなくなったということを示唆する話だ。コストのかけられるTVCMでは既に常識的なCG背景の導入が、相対的にコストの限られるTVショー製作においても競争力を持つ時代に入ったということだろう。

 また、CG部分は全てLightwave3D10で作成し、"某社C4Dでは無理な短期スケジュール内に"約10人のスタッフで約1800カットを処理したという。まぁ、これはC4Dが遅いということではなく、Lightwave3Dがモデラーとレイアウトを別プログラムにしてあることと、レイアウトのファイルフォーマットがテキスト形式であることで、容易にルーチンワークを自動化できるためと勝手に推測している。実際、趣味でLightwave3Dを使っている私ですら、その方が早いし確実との理由からレイアウトファイルをテキストエディタで編集することは当たり前にやっている。Newtek社の一種の次世代Lightwave3DコンセプトであったCoreではモデラーとレイアウトの統合が示唆されたが、私個人は統合には懐疑的であったし、今後も統合する必然性を感じない。

 と、脱線したけれども、"Battlestar Galactica: Blood & Chrome"が完成したことはとにかく目出度い。

2012/11/05

Battlestar Galacticaが日本ではどう見えるのか、真面目に考えてみた。

 今回ものっけから主観だが、日本人の文化的コード(行動や考え方に対する主に倫理的な規範、制限、限界などに対応するものと思って欲しい)は絶対的なモノを想定しない傾向が強く、相互に矛盾したり敵対する価値観の共存にかなり寛容に見える。現実問題として海外の多くの国や地方において文化的コードは宗教的倫理規範や教義と実質的に等価であり、タブーと称されるコードからの逸脱も宗教的価値観を強く反映している場合が多い。

 結局何が言いたいかというと、相対的に日本人の意識にはタブーが少ないのではないかということだ。もしそうならば我々日本人は相対的に自由であるとも言えるが、タブーを犯すという一種のスリルからも遠いということにもなる。「出る杭は打たれる」は、自由度の高い文化的コードに基づく社会が必然的に備えた安全装置と言えるかもしれない。ここで「出る杭…」をコードの一部と見なさない理由は、どこまで出れば打たれるかが事前に明示化されていないからである。打たれるかどうかは読むべき「空気」そのもの、かなり日本的な不思議な合意形成プロセスで決まる。

 小説家やマンガ家、映画やTVドラマのクリエイター達が提示するストーリーや世界観も、それぞれの背負う文化的コードを反映している筈だ。或いはより普遍的な、最大公約数的な倫理規範を想定している者もいるかもしれない。が、それら提示された作品が面白いか、スリリングかどうかは結局受け手側の倫理規範に制限される。特定の文化的コードではタブーや倫理的、宗教的に複雑な問題でも、他の文化的コードではなんてことのない日常茶飯事かもしれない。

 作り手側にとっての有り得る一つの不幸は、自分達の文化的コードでは作中で匂わすだけでも重大事と捉えられる事態が、他の文化的コードに従う人間に全く気付いて貰えないことである。Battlestar Galacticaの最終回のラスト、現代の北米の街並みとAsimoなどの人型ロボットが踊るシーンに込められた作り手側の意図は、人型ロボットに対して持つ感情に関わる文化的コードの違いから日本人には意図を察することはできても理解はできない。

 Galacticaの製作者の一人は、「(如何にもロボットという金属ボディの代わりに人間にしか見えない生体ボディを持つ)人型サイロンを登場させることで、作品に哲学的意味合いを与えることができた。」との趣旨の発言をした。だが、暴言を許してもらえれば、「ロボットを突き詰めていけば人型は一つの必然的帰結」ぐらいの感覚を持つ日本人ならば何らの哲学的意味合いう感じる筈もない。作り手が作品で匂わせた重要なものが受け手に全く届かない、という不幸がここにある。

 人型ロボットを一種の偶像と見るならば、人型ロボット自体が幾つかの宗教諸派においてすでにタブーである。そこまで行かなくても、一部の西欧文化圏には「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれる魂を持つ人型のモノに対する恐怖感があるという。

 Galacticaの特に後半は、「フランケンシュタイン・コンプレックス」を持つ者にとって居心地の悪い展開が続く。集合的単一意識に基づき個を有さなかったそれまでのサイロンと違い、人型を与えられたサイロンの一部は個としての意志を確立、人類抹殺に対して疑義を唱え、挙句にサイロンを裏切る者まで現れる。また主要登場人物の多くが自分が実は人型サイロンではないかと苦悩する。登場人物達も視聴者も、劇中で描かれる行動からは人型サイロンと人間を区別することができなくなっていくのだ。おそらく区別できなくなることに重大な命題が潜む。「人とは何か、人を人たらしめているのは何か」である。

 一日本人である私にはそんな命題なんかはどうでも良い。そういうことを真面目に考えることに価値を見出しもしない。ただ、一視聴者として、作り手側がその命題に対してどのような回答を劇中で提示するのかが気になるだけだ。だが、そのようなモノは実質的に提示されないままGalacticaは完結する。作り手側の文化的コードではそのような命題を匂わす形で提示することだけで充分スリリングとする。他方、日本では「東映特撮シリーズ」や「ドラえもん映画」ですら当たり前にその先を描く。日本の文化的コードにおいて人型ロボットが「人とは何か」という命題と必然的に一対で現れることはない。ロボットだって恋をするのが日本だ。日本ではむしろロボットが自分のアイデンティティについて悩むことの方が多くないか----「何故僕は人間ではないのか?」

 「トランスフォーマー」すら「フランケンシュタイン・コンプレックス」とは無縁ではないという話をWebの何処かで読んだ。「トランスフォーマー」のデザインですら、充分に人間っぽいということなのだろう。「トランスフォーマー」の成功には、何年にも及ぶマーケティング活動による一種の啓蒙、或いは免疫の形成が必要だったらしい。それを思うと、「フランケンシュタイン・コンプレックス」の根深さと最初の「ターミネーター」が持っていた本来の怖さを想像することぐらいはできる。

 少し脱線するが、日本では「どこまでが人間か?」という命題には多少敏感に見える。士郎正宗-押井守の映画「攻殻機動隊/Ghost in the Shell」では、サイボーグ義体の主人公が「本来の人としての自分はただひと固まりの脳細胞だけしか残っていない」ではないかという考えに恐怖を感じる。しかしその主人公も「自分のGhostの囁き」を信じ、最後にはサイボーグ義体すらも捨てて「どこまでが人間か?」という問いを軽やかに飛び越えてしまう。ここで一度確立された人としての個は、自己改変が可能な、換言すれば新たなルールを自らの内部に取り込み可能な構造を持つプログラムと経験データベースに置き換え可能で、さらにネット上で成長出来るという考えを示唆する。この考え自体は全く新しくないが、とにかくそれを直球で描いてしまったのは事実だ。「エヴァンゲリヲン」においては「そう、エヴァは人なの」という類のセリフ一つで「人」の定義があっさりと拡張されるとともに、「個の喪失により人を人でなくす」計画が語られる。「ロボコップ」が米国生まれなのは実に不思議だが、脚本ができているのに監督がなかなか決まらなかった理由の一端を「フランケンシュタイン・コンプレックス」に求めるというのはどうだろうか。

 話をBattlestar Galacticaに戻す。

 結局、作り手側が作品に持ち込んだ「雰囲気(どうもロジカルに導入した形跡がない)」=「フランケンシュタイン・コンプレックス」は日本人の文化的コードでは何らの機能も果たさず、救いの無いエピソードがただ積み重ねられるだけに見えてしまった。「フランケンシュタイン・コンプレックス」の導入に気付いた人もその先が一切語られないことにフラストレーションを持った。

という辺りが実体ではないかと思う。

2012/11/04

今さら「SPACE BATTLESHIP YAMATO」について「BSG」も絡めて

 「SPACE BATTLESHIP YAMATO」は説明するまでもなくキムタク主演のあの映画のこと。中古DVDを入手して今さらながら、ただし真面目に観た。

 「BSG」はBATTLESTAR GALACTICA(バトルスター・ギャラクティカ、宇宙空母ギャラクティカ)のことで、ここでは21世紀になってリメイクされたTVシリーズを指す。日本では全くブレークしなかったが、シーズン5まで作られて無事に完結した。日本でブレークしなかった原因についての考察はBSGのスタッフとのメールのやり取り内容を踏まえて改めて書くつもりだ。

 YAMATOを観てとにかくまずいと思ったのは、BSGの影響が陽にそこここに見られたこと。

 パイロットが首に付けている銀色のリングやパイロットスーツはほぼBSGそのまんま、少しはデザイン捻れば良いのにというのが正直なところだ。YAMATOがイスカンダル/ガミラス星に急降下して地表面近くでワープするシーンは劇中の見せ場の一つだが、すでに同様のシーンがBSGのニューカプリカ戦で描かれている。

 また、放射能除去装置の当てもないのにYAMATOでイスカンダルに向かう沖田艦長の行動は、伝説の星・地球が存在する当てもないのに「その星は有る!場所は軍の最重要機密として隠されてきた!」と言い放ったBSGのアダマ司令の行動に似ていると言って良い。沖田艦長の行動はストーリー上の重要などんでん返しであり、これまでのヤマトに対して新規性なり差異化の胆になる要素にも関わらず、そこにオリジナリティが無いとなればダメージは大きい。

 YAMATOでは沖田艦長の賭けが実を結ぶ形で放射能除去装置に比するものを手に入れることに成功する。他方、BSGではアダマ司令達はストーリー上の後世で「地球」と呼ばれることになる惑星に辿り着く。が、BSGにおいてGALACTICAが地球に達するまでの経緯はグダグダで実際のところ全く感心できない。このような観点からは、沖田艦長なりアダマ司令なりの当初の行動の結果をストーリー的にちゃんと回収しているのはむしろYAMATOの方だ。とは言え、共にストーリーまたは脚本に残念な点が有る事実は変わらない。

 YAMATOにおけるイスカンダル/ガミラスの取り扱いは英国のSFTVシリーズの多くを知る身からは陳腐としか言えないアイディアだが、ストーリー上は充分に機能していると思う。ただし、セリフによる説明にほぼ全て頼った点は先達と同様で、特段新しい何かを為したわけではない。この手のややこしい状況の説明をセリフに極力頼らずに描くことに成功したのは映画「マトリックス」ぐらいだろう。

 個人的には、「イスカンダル」と呼ばれるモノが「イスカンダルという呼び名は沖田という男が勝手につけたもの」という旨の発言をしたところが面白かった。この手の「そりゃそうだ」という設定上の必然が、これまでの多くの映画やTVシリーズの脚本で無視されてきたのも事実だからだ。同時に、「私はイスカンダルのスターシャ」「私はテレザート星のテレサ」といった従来のヤマトにおけるセリフの機能の一つが「目的地が必ず存在することを劇中の人物のみならず視聴者にも保証すること」と見なすこともできそうだ。西遊記の登場人物や読者はまず「天竺」の存在を疑わない。

 「『イスカンダル』は実は無かった。が、それに相当するモノはあった。」と従来ヤマトのお約束ストーリーとの一応の差異化には成功したかにも見えるYAMATO。しかし、「『地球』は実は無かった。が、それに代わる惑星に到達することができた。」というBSGに限りなく近い。