一般論として「緩衝地帯」を自ら請け負おうなんて発想は、まともな知的能力を持つ人間なら受け入れられない。歴史も政治も知らないか、巷で良く言われているように(いざという段階で自分は蚊帳の外に居ることが分かった上で)誰かの利益誘導に走っているかのどちらかであろう。所謂「頭がお花畑」の人間は、事が成就された暁には良くて放置、普通は粛清の対象となろう。なぜなら「頭がお花畑」の人間は煩く、かつ役に立たないからである。
「緩衝地帯」と私の信じるところのある意味お花畑的な「平和」とは全くなじまない。まず、「平和の緩衝地帯」という表現の意味するところが論理的に不明だ。では、「平和の緩衝地帯」という表現になじむ多少なりとも現実的な「平和」とはどういうものだろうか。
ひとつの解釈は「戦争が起こりえる状況下で戦争がない」状態の可能性だ。個人的な経験上、 「頭がお花畑」で自分では何も考えていない人間の多くはこの状態を平気で「平和」と呼ぶ。だが、私に言わせればこれは平和でも何でもない、本質的ではないからである。戦争の概念の有無や実際の有無とは関係なく、平和は戦争とは独立して存在し得る。
別の解釈は「覇権による平和(と呼ぶもの)」の可能性.、つまり強国、大国の力を背景とした「戦争のない状態」だ。歴史的に「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」、「パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」が存在したのは否定し難いだろう。
いずれの解釈を取っても、「沖縄を平和の緩衝地帯に」という表現の矛盾、胡散臭さはぬぐえない。
戦後の沖縄は「パクス・アメリカーナ」の下で「平和であった」という事実は動かせないし、現在の状況もその延長上にある。と言うことは、現状変更とは「パクス・アメリカーナ」の否定に他ならない。(一般的な意味での)合理的な思考ができる人間ならば、米国でそんなことを語るという行為そのものからして理解できないだろう。米国側に宣戦布告と取られても驚きはしない。少なくとも、可能性としての「パクス・シニカ(中国による平和)成立」との関連性、或いは対応を明示化しなければ、相当に具体的なシナリオを示す以外に聞くに値する話とすることは不可能だ。要は「中共になります/なりません」の選択の明示化以外は米国にとって相手にする価値は無いということだ。
「緩衝地帯とされた」国、地域というのは概してろくでもない目に合う、もっと具体的に言えば戦場や粛清の場となる。ポーランドや冷戦時代の東欧諸国も歴史を紐解くだけでお腹いっぱいである。第二次欧州大戦直前のドイツ・フランス国境地域やナチス・ドイツの東方拡大政策の結果も同様である。ポーランドのように複数回の「国の消滅」を乗り越えた国があるかと思えば、「事大」に走り単なる場(シアター)となることを自ら選ぶ地域もある。前者は賞賛に値するが、後者は軽蔑の対象にしかならない。
現実問題として、語義とおりに自らの土地を「緩衝地帯」とすることは、潜在的にその地を戦場や紛争地域とすることと等価である(「緩衝地帯」を宣言しても地政学的に「緩衝地帯」と成り得ない場合はもちろん除く。幸か不幸か沖縄県は米国、日本、中共、台湾にとっても地政学上重要な位置にある)。もし「戦争のない状態」が維持されるなら、それはどこかの覇権下にあるという意味でしかない。そのどこかが米国ではない、となればどこか。「戦争のない状態」が維持されなければそこは戦場と化し、戦後は粛清の場となる。さらに隣接地域が新たな潜在的な紛争地域となる。現在のアジアの軍事的安定性は「緩衝地帯がないこと」によって維持されている可能性にも留意しよう。朝鮮半島はもはや緩衝地帯としての価値はない*(沖縄の方が遥かに価値がある)。
オナガ氏は戦争を望み、沖縄を再び戦場、或いは政治的事由による粛正、パージの場とすることを望んでいるようである。さらに隣接地域にも潜在的に迷惑な存在(卑近な例で例えれば、住人が変な主張をし続けるゴミ屋敷みたいなものだ)となることを望んでいるようである。論理的、合理的帰結としてそうならないか。
そうなった時の私の思考実験の結果は、(以前のエントリに書いたことがあるが)米国軍による再占領が望ましいというものある。理由は「アジア地域の安定化、(戦争が起きない、戦場としないという意味での)平和の維持」と「平和のためのコスト最小化」である。形式的に日本の領土としつつ、軍政を認めれば米国から文句は出ないだろう。「事大の代償」は当事者にとっては高くつくのである、ましてや「地域平和に対する裏切り者」においては言わずもがなと言えよう。当事者能力が無い者を相手にするのは時間やお金の無駄だ。それが中共ン十年の歴史を調べるだけでも十分に分かる歴史が教えてくれるリアリティってもの、欧州史でも日本の戦国時代史でもローマ帝国史でもエチオピア史でも結論はあまり変わらないよ。
*:朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)は、独自路線と長距離ミサイル開発によって「緩衝地帯」よりも関心の高い国となりつつある。故に「我が地を緩衝地帯とせよ、かまってくれ」という恐喝が使えることになるが、自称「緩衝地帯」は実態として「緩衝地帯」とはならない。「緩衝地帯」はその地域の住人の意思とはほぼ無関係に外部から認定されるものである。