イントレランスとは不寛容の意味。フランスでの新聞社襲撃をはじめとする一連のテロ事件の報道を見るにつけ、この言葉を意識せざるを得ない。自らの信条に基づく「正義」を他者への攻撃理由とする姿は不寛容の極みである。ましてやその「正義」に照らしても攻撃対象とはならない警官や工場作業員を殺害するに及んでは、単なるテロに過ぎない。
「一種のイスラムの正義」自体は理解する。とあるイスラム教指導者がコメントしたように、「イスラムの正義はイスラム法に基づいて為されなければならない(今回の襲撃はイスラム法に照らしてもテロでしかない)」という考えも一種の奇弁ではあるが理解する。だが、どのような正義もテロとは両立しないということは指摘せざるを得ない。
不寛容は不寛容を生む。
個人的には、「テロを正当化し、正義と見做す」イスラム指導者が必ずしも少なくない事が気に食わない。彼らの言行は極めて無責任に見える、他者の命を奪う行為を奨励しながら自らの命は危険にさらさないように振る舞っているやに見えるからである。私の価値観に従えばそれは卑怯な振る舞いである。しかし、私はそれを持って一部のイスラム教指導者やイスラム教徒に敵意を向けたり糾弾するといったことはしない。
これは他者に対して寛容であるというより、自分を卑怯者にしたくないというのが本音だ。ただし、「これはまごうことなく卑怯、無責任、適当」と確信した場合はその限りではない、某報道機関とかね。ホント、テロ朝とは良く言ったもの、キャスターやコメンテーター(経済学者らしい)の適当具合はもはやテロ。リフレ経済学(こんな日本語初めて聞いた。せめてリフレ派経済学)とか適当にしゃべってるし(本当に分かってるのかな?ただのレッテル貼りにしか聞こえない)、ドイツの実態(かなりえげつない経済的な戦争行動、財政均衡はユーロ発行権を持つが故に可能な一種の搾取という側面がある。まぁ、良くも悪くも「中庸」を取らないのは如何にもって感じ)を都合良く無視してるよ。