個人的にはレッテル貼りが大嫌いなので、所謂「ネトウヨ」なんてのは自分の中には明確に存在しない。レッテル貼りは、動的な変化し続ける世界の一瞬でしかせいぜい意味がなく(それも幸運なケース)、単なる思考停止の受け入れと考えるからである。常に虚心坦懐であろうとすれば、レッテル貼りは害毒でしかない。対して、「ネトウヨを非難する人」の言説は割と画一的、静的で、所謂「ネトウヨ」よりも分類、区別されることに向いている。
半年前ぐらいにネットに読んだ記事で、所謂「ネトウヨ」の構成層をプロファイリングしたものがあった。そのプロファイリングによると、「コア層(?)」は情報収集力に長け、かつ、論理的であるという。私個人の最近の感触も割とこの分析に近い。
私は2chもTwitterもやらないが、理由はメッセージ内容が文脈から独立して解釈(悪意の有無に関係なく誤読)されることを嫌うからである。
「コア層(?)」よりもむしろ周辺層から発せられているだろう「所謂ネトウヨ的定型句」は、「ネトウヨ」という枠組みに則る限り誤解釈が入りくいものが多い。それが「コア層(?)」発なのか、周辺層発なのかはともかく、単なる勢いだけでは生まれないと思わせる表現が多い。内容もイデオロギーや感情からは程遠く、全く旧来の「右翼思想」とはなじまない。政治的にも思想的にも自由過ぎるくらいである。さらに言えば、自分の間違いを指摘に基づいて素直に認める傾向が強い。個人感情よりも世論に寄りそうことを指向し、加えてその世論の形成過程や形成理由にも最低限の教養として立ち入っとかないと駄目という、既存の如何なる枠組みとも馴染まない不思議な存在だ。
対して「画一的なネトウヨを非難する人の言説」は論理性が乏しく、感情的で、他者に対して自己投射しているんじゃないかと思わせるものが多い。「自分と違うものの捉え方や考え方をする人が居るなんて信じられない!!」という類の気持ち悪さが行間から否応なく滲み出る。言説内容には枠組み感、思考の不自由感がぬぐえない。この点は所謂「ネトウヨ」の自由過ぎるぐらいの言説とは対照的である。
おそらく、所謂「ネトウヨ」は自称しにくく、個々人に対するレッテル貼りも難しい。良い意味で「アイデンティティに乏しい」からだ。これは「共通因子が乏しい」とも言い換えられ、個々人の政治的或いは思想的背景が違っても問題ないという「議論などをする上では『高い』とされるレベル」寄りのものを感じる。さらに言い換えると、「アレはアレ、コレはコレ」が徹底しているということで、技術分野での議論では当たり前の論理的態度と言える。
「所謂ネトウヨ」たるには「所謂ネトウヨらしさ」を持つことが必須条件ではないということだ。「共通の認識」ではなく「共通の知識」に基づく存在なのである。故に画一化しにくくも、「共通の知識に基づくゆる~い共通の結論っぽいもの」をまず中央に据え、何気に情報交換と議論を介して共通の知識をゆっくりと拡大し続けているのである。「他人が自分と同じ考え方をしないのは当たり前」という至極まともな前提を受け入れつつ、枠組みが機能しているのである。だから、「典型的」や「正体」という概念とは馴染まず、他者を拒絶する理由が実質的に無い…「論理的、事実ベース」である限りは。
ならば「画一的なネトウヨを非難する人」が拒絶される理由は、繰り返しになるが、明確だ。イデオロギーちっくで「アレはアレ、コレはコレ」ができておらず、「**様にヘイコラして」とか「自己投射してるんじゃないかと思わせる」ような「卑屈な表現」を「脈絡無く」綴り、全体として「論理的でも事実ベースでも無い言説」を「繰り返す」からである。そんな言説からは「自己愛が強い癖にドMで卑屈、自分と他者との区別が実は十分にできていない」姿が透けて見える。色んな意味で自由ではない人である可能性が高いのだ。「繰り返す」ということは、その人にとっての世界は静的で変化しないものなのだ。
つまり「『所謂ネトウヨ』と相性の悪い人」というレッテル貼りはし易いということだね。