書き忘れていたのでここで追加。
本ブログにたまに出てくる遠方の友人より「なんで『遺憾ですとも』なん?」との質問あり。
引用元は、荒川弘氏のマンガ「鋼の錬金術師」第1巻(の筈)の表紙カバー折り返し部記載の著者コメント。加えて、英語としてどうなのよという点では心もとないのだが、"It can (be) death tomorrow."とも掛けてある。ここで"it"が指す内容は「今日の思考停止」であり、「今日の思考停止は、明日には死にも比すべき致命傷となるよ。」という自分への戒めを込めている。
真面目な話でスマぬ。
2013/06/09
2013/06/08 U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」
遠山明孝氏をゲストに、特別講座「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」を開催。前番組の野球中継が延びたので、結局ラジオ放送は無しとなり、U-stripのみという展開。
CBCラジオでは「放送無し」となった場合はお酒とおつまみが出る決まりらしく、シャンパンと紙コップがスタジオに登場。シャンパンは瓶を完全に空けてしまい、パーソナリティの佐野電磁氏の挙動、言動には途中からアルコールの影響が露わ。まぁ、面白かったからイイヨイイヨ~、ということで。
1曲目は佐野氏が約20年前に「ハウスってなんだろ?」などと考えながら作ったという曲「ソード・ダンス」。ハチャトリアンの「剣の舞」を素材にした本人曰く「勢いネタ一発」。だいたい18:00~23:00。
Video streaming by Ustream
1990年ごろは、私もほぼ同じ疑問を持ちながらやたらめったらにCDを買って聞いていたころで、今になってみれば現在の主要なダンスミュージックの主要ジャンルのご先祖様はだいたい出揃っている。実際、「ソードダンス」のドラムパターンには、一瞬とはいえドラムンビートや他ジャンルの典型的なパターンが度々現れる。後半の特別講座「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」の良い前振りにもなってたんじゃないかなぁ。
で、「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」。(過去ライブに収録なし)
スタジオでFL Studioを使いつつ、まずいわゆるリズム隊(キック(バスドラム)、ベース、ハイハット、スネア、ベースと同時に鳴るようなシーケンス)の遠山流骨格作り法を具体的に説明。具体的さという意味では伝授に近く、サイケデリックトランスに取り組みつつ「なんかイマイチ」って感じで悩んでいる人には絶対突破口に成り得る内容。
個人的にはトランス系は聞かないし作りもしないけど、キックなどのリリースを削ったり裏拍を積極的に使ったりキックの位置でベースを抜いたりすることは日常的にやっている。これは、トランスなどのジャンルが確立される直前の「なんでもあり時代の楽曲の記憶」から、おそらく無意識にピックアップした「自分にとって気持ち良い音」なのだろうと思う。
現在の自分が聞かないジャンルに若いころの自分が「気持ち良い音」と感じた要素が強く引き継がれている、というのは何とも奇妙な感じ。じゃあ今後トランス系の曲を聞こうと思うかと問われれば答えは「ノー」だ。「リズムがしっかりしていれば上モノは最小限で良し。」というのが立ち位置だからだ。「トランスを、スーパーソゥ(有名な音色)とリバーブ抜きで。」というオーダーは実際問題として現在では成立しないだろうと。
ひとつ「えっ?!」と思ったのは、紹介された遠山流ではベースに類似の音色でシーケンスを二音重ね、一音目はセンター、二音目は左右に振るという点。二音目相当の音を一音目のディレイで作るという方法を良く使う身としてはちょっと意外な感じがしたのだが、空間の広がり感の表現には「二つの音色が似てるがちょっと違うことが重要」という考え方には説得力がある。もちろん、左右に振る二音目に深めリバーブを利かせるという点も忘れちゃいけない。ちょっと人力ディレイ(ディレイ成分も打ちこんじゃう)っぽいと言えばぽいけど、本質は違う。
結局、曲は「FLMASK」の名で完成(?)。仔細は省くけど、「(会社で)佐野さん!取れましたぁ!」に大爆笑。ちなみに「QなんとかMASKとかFLMASK」が分かる人は現在どのくらいいるのかなぁ…現在のインターネットは(ほぼ)国境無き実質的な無法状態だからね。若い人はきょと~んだろうねぇ。
来週のゲストは松武秀樹氏。分かる人には直ぐ分かる、何なのこの一連の凄い展開は!来週も逃せませんよ。
CBCラジオでは「放送無し」となった場合はお酒とおつまみが出る決まりらしく、シャンパンと紙コップがスタジオに登場。シャンパンは瓶を完全に空けてしまい、パーソナリティの佐野電磁氏の挙動、言動には途中からアルコールの影響が露わ。まぁ、面白かったからイイヨイイヨ~、ということで。
1曲目は佐野氏が約20年前に「ハウスってなんだろ?」などと考えながら作ったという曲「ソード・ダンス」。ハチャトリアンの「剣の舞」を素材にした本人曰く「勢いネタ一発」。だいたい18:00~23:00。
Video streaming by Ustream
1990年ごろは、私もほぼ同じ疑問を持ちながらやたらめったらにCDを買って聞いていたころで、今になってみれば現在の主要なダンスミュージックの主要ジャンルのご先祖様はだいたい出揃っている。実際、「ソードダンス」のドラムパターンには、一瞬とはいえドラムンビートや他ジャンルの典型的なパターンが度々現れる。後半の特別講座「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」の良い前振りにもなってたんじゃないかなぁ。
で、「あなたも1時間でサイケデリックトランスが作れる」。(過去ライブに収録なし)
スタジオでFL Studioを使いつつ、まずいわゆるリズム隊(キック(バスドラム)、ベース、ハイハット、スネア、ベースと同時に鳴るようなシーケンス)の遠山流骨格作り法を具体的に説明。具体的さという意味では伝授に近く、サイケデリックトランスに取り組みつつ「なんかイマイチ」って感じで悩んでいる人には絶対突破口に成り得る内容。
個人的にはトランス系は聞かないし作りもしないけど、キックなどのリリースを削ったり裏拍を積極的に使ったりキックの位置でベースを抜いたりすることは日常的にやっている。これは、トランスなどのジャンルが確立される直前の「なんでもあり時代の楽曲の記憶」から、おそらく無意識にピックアップした「自分にとって気持ち良い音」なのだろうと思う。
現在の自分が聞かないジャンルに若いころの自分が「気持ち良い音」と感じた要素が強く引き継がれている、というのは何とも奇妙な感じ。じゃあ今後トランス系の曲を聞こうと思うかと問われれば答えは「ノー」だ。「リズムがしっかりしていれば上モノは最小限で良し。」というのが立ち位置だからだ。「トランスを、スーパーソゥ(有名な音色)とリバーブ抜きで。」というオーダーは実際問題として現在では成立しないだろうと。
ひとつ「えっ?!」と思ったのは、紹介された遠山流ではベースに類似の音色でシーケンスを二音重ね、一音目はセンター、二音目は左右に振るという点。二音目相当の音を一音目のディレイで作るという方法を良く使う身としてはちょっと意外な感じがしたのだが、空間の広がり感の表現には「二つの音色が似てるがちょっと違うことが重要」という考え方には説得力がある。もちろん、左右に振る二音目に深めリバーブを利かせるという点も忘れちゃいけない。ちょっと人力ディレイ(ディレイ成分も打ちこんじゃう)っぽいと言えばぽいけど、本質は違う。
結局、曲は「FLMASK」の名で完成(?)。仔細は省くけど、「(会社で)佐野さん!取れましたぁ!」に大爆笑。ちなみに「QなんとかMASKとかFLMASK」が分かる人は現在どのくらいいるのかなぁ…現在のインターネットは(ほぼ)国境無き実質的な無法状態だからね。若い人はきょと~んだろうねぇ。
来週のゲストは松武秀樹氏。分かる人には直ぐ分かる、何なのこの一連の凄い展開は!来週も逃せませんよ。
「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。:補足の補足
「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来についてネガティブな態度を取ると、ごくたまに「オリジナル原理主義者」なるレッテルをすぐ貼る人がいる。実に困ったものだ。
私は少なくとも「オリジナル原理主義者」ではないし、そういう態度に出る人に限って「宇宙戦艦ヤマト2199」の良さや好きなところを「自分の言葉」では語ってくれない。引用を用いて権威主義的な態度に出てくる場合もある。「オリジナル原理主義」なんて曖昧な言葉を使うのは独裁政権のスローガンを鵜呑みにするようなもので、思考停止を正当化する誤魔化しにしか思えない。「オリジナル原理主義者」と「そうでない者」との二分法、相対化は分かり易さにおいては究極的なのだが、ほぼ例外なく間違いであるため、それを選択的に用いる場合は確信犯でない限り嘲笑の対象にしかならない。
「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来については、ちゃんと追っかけてる人でも結構もやもやしてるんじゃないかなぁ。私は最初っから最後まで見届ける覚悟だから、声無き途中脱落者の思いの一部なりとも言葉にして代弁できれば本望なのだ。
敢えて私の立場を表明すれば「物語至上主義」。ヤマトのファンでもアニメ好きでもないから視点はかなり客観的なつもりだし、作品の好き嫌いで言えば「宇宙戦艦ヤマト2199」は好きなのである、個人的にはイマイチ面白くないとか光るところもトンと見かけないとか思いは複雑なのだが。「好き嫌い」、「良し悪し」、「好みとかツボ」はそれぞれ別次元の話であり、私の中ではこれらは完全に切り離されている。
私の視点は、全ての設定や考証は「一貫性のある物語性の獲得」の観点から選択されるべきであり、逆に影響がないなら別の観点からの選択で良いということにすぎない。以前に「三式弾」への引っかかりについて触れたことがあったけど、これは上げ足取りのつもりは全く無く、作品タイトルにも冠されている西暦2199年との整合性があまりに取りにくいからだ。同様の観点から、「コスモゼロ」という呼称を単なるペットネーム(宇宙零戦)とするのか、まさに零年(2200年)採用の機体故とするのかは、作り手側の態度や立ち位置を考察する上での重要な手掛かりなのである。
「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は基本的に誉めまくるけど、他の映画やTVシリーズにはヤマトであろうが苦言を呈せざるを得ない。オリジナルTVシリーズは、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」を成立させるためのプロローグに過ぎなかったのではとすら思うぐらいだ。
私の意見は、「一貫性のある物語の構築」という「一種の知的作業の完成度」という尺度で較べた場合、「宇宙戦艦ヤマト2199」はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」やヤマト以外の他の作品と較べても低い部類に入りませんか、ということだ。ちなみに、私は「駄作」という表現はよっぽどのことがない限り使わない。自分の中に「駄作」の明確な定義が無いからだ。まぁ「金返せ」「時間返せ」と言わずにいられない場合は、個人的な尺度では「駄作」ということになるのだろう。
プロフェッショナル「の」仕事というのは基本的に結果の世界だ。私はプロフェッショナル「な」仕事と呼べる結果を極めて尊ぶことを基本としているだけで、「全てのプロフェッショナル『の』仕事」が「プロフェッショナル『な』仕事」とはなっていないのではないか、という極個人的な問題提起を出発点としている。
じゃ、近いところで高評価のTVアニメとかあるの?と問われれば…「天元突破グレンラガン」かなぁ。最終話の最後にふらっと出てくるオッサンのセリフの重みとその重み自体をひらりとかわす距離感の取り方ってのは、第一話から積み重ねてきた物語があってこそ合点がいくし、説得力を持つことになるんじゃないかなぁ。あ、全然最近の作品じゃないですね。
私は少なくとも「オリジナル原理主義者」ではないし、そういう態度に出る人に限って「宇宙戦艦ヤマト2199」の良さや好きなところを「自分の言葉」では語ってくれない。引用を用いて権威主義的な態度に出てくる場合もある。「オリジナル原理主義」なんて曖昧な言葉を使うのは独裁政権のスローガンを鵜呑みにするようなもので、思考停止を正当化する誤魔化しにしか思えない。「オリジナル原理主義者」と「そうでない者」との二分法、相対化は分かり易さにおいては究極的なのだが、ほぼ例外なく間違いであるため、それを選択的に用いる場合は確信犯でない限り嘲笑の対象にしかならない。
「宇宙戦艦ヤマト2199」の出来については、ちゃんと追っかけてる人でも結構もやもやしてるんじゃないかなぁ。私は最初っから最後まで見届ける覚悟だから、声無き途中脱落者の思いの一部なりとも言葉にして代弁できれば本望なのだ。
敢えて私の立場を表明すれば「物語至上主義」。ヤマトのファンでもアニメ好きでもないから視点はかなり客観的なつもりだし、作品の好き嫌いで言えば「宇宙戦艦ヤマト2199」は好きなのである、個人的にはイマイチ面白くないとか光るところもトンと見かけないとか思いは複雑なのだが。「好き嫌い」、「良し悪し」、「好みとかツボ」はそれぞれ別次元の話であり、私の中ではこれらは完全に切り離されている。
私の視点は、全ての設定や考証は「一貫性のある物語性の獲得」の観点から選択されるべきであり、逆に影響がないなら別の観点からの選択で良いということにすぎない。以前に「三式弾」への引っかかりについて触れたことがあったけど、これは上げ足取りのつもりは全く無く、作品タイトルにも冠されている西暦2199年との整合性があまりに取りにくいからだ。同様の観点から、「コスモゼロ」という呼称を単なるペットネーム(宇宙零戦)とするのか、まさに零年(2200年)採用の機体故とするのかは、作り手側の態度や立ち位置を考察する上での重要な手掛かりなのである。
「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は基本的に誉めまくるけど、他の映画やTVシリーズにはヤマトであろうが苦言を呈せざるを得ない。オリジナルTVシリーズは、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」を成立させるためのプロローグに過ぎなかったのではとすら思うぐらいだ。
私の意見は、「一貫性のある物語の構築」という「一種の知的作業の完成度」という尺度で較べた場合、「宇宙戦艦ヤマト2199」はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」やヤマト以外の他の作品と較べても低い部類に入りませんか、ということだ。ちなみに、私は「駄作」という表現はよっぽどのことがない限り使わない。自分の中に「駄作」の明確な定義が無いからだ。まぁ「金返せ」「時間返せ」と言わずにいられない場合は、個人的な尺度では「駄作」ということになるのだろう。
プロフェッショナル「の」仕事というのは基本的に結果の世界だ。私はプロフェッショナル「な」仕事と呼べる結果を極めて尊ぶことを基本としているだけで、「全てのプロフェッショナル『の』仕事」が「プロフェッショナル『な』仕事」とはなっていないのではないか、という極個人的な問題提起を出発点としている。
じゃ、近いところで高評価のTVアニメとかあるの?と問われれば…「天元突破グレンラガン」かなぁ。最終話の最後にふらっと出てくるオッサンのセリフの重みとその重み自体をひらりとかわす距離感の取り方ってのは、第一話から積み重ねてきた物語があってこそ合点がいくし、説得力を持つことになるんじゃないかなぁ。あ、全然最近の作品じゃないですね。
2013/06/08
近況、五度。
- 現在の抗うつ薬は合っているみたいで日中はかなり好調。一方、睡眠導入剤はなんか効き目が無くなってきたみたいで早朝覚醒が再発、毎日昼間が眠い。酷くなるようなら来週は病院に行こう。
- 昨日は人間ドック。身長は1cm伸びた(笑)。血中のコレステロール値がやはり高いが、体脂肪率は昨年より低下して20%を切る。まぁ、昨年が酷過ぎたといえば酷過ぎた。
- 職場の課内会議で課長曰く、
「分からないことを分からないままとする人が多い、『~的』という表現を使う人はきっと分かってない。」
さすが、分かってらっしゃる。 - 同僚の一人がいつまで経っても「誤差」の本質的なところを理解してくれない。まだ若いのに頭が固いのか、頭の良い人にありがちな一種のグズなのか。早く一皮剥けないと今の職場には居られないよ、マジで。同世代のデキる人間にはもうプロフェッショナル×プロフェッショナルという立ち位置で接しているんだけど、そこら辺は気付いてるかな?あせらず、慌てず、単純に自分を変えていこうよ。
俺はまだまだ変わるよ。 - 愛用のDAWアプリ Cubaseをバージョン6から7へ発売から半年遅れでアップグレード。遅れた理由は「勘違い」。競合製品Sonar X2のX1からの変更点をネットで調べた際、とにかく使いにくそうとの印象を持ったのだが、何時の間にやらCubaseの変更点と頭の中でごっちゃにしていたのだ。
アップグレード後の最初の起動でカラースキームの変更に愕然、お世辞に見易い配色とは言えない。だが、新しいミキサーは良い、というか私の使い方なら絶対こちらの方が便利だ。イコライザーにリアルタイムにスペクトラムが表示されるのも便利。
ちなみにバージョン7.0.4にアップデートするとカラースキームは穏当なところに変更される。やはりバージョン7のカラースキームは評判が悪かったんだろうなぁ。
Win 64bitでまだバージョン6を使ってるなら、バージョン7へのアップグレードを真面目にお勧めする。チャンネル読み込みや動作全般はむしろ軽くなってるよ。
2013/06/07
奥さん、論文査読お願いします。:アフターサービス
さて、査読したうえで私が「掲載不可」と回答した論文が、某学会の論文誌に最近になって掲載された。何処をどう直したのか気になって、面白くないことは知りつつも内容をチェックした。というか、タイトルが査読時と同じで馬鹿丸出しのままだったので、何が起きたのかを確認する必要があったというのが正しい。
結論から言うと、論旨破綻は解決されておらず、論文としては失格だ。このような論文が掲載されたという事実は、論文の出来を遥かに超えた高いレベルの問題を浮き彫りにしたと言える。
論文では、ある現象をモデル化する際に、「パレメータAの影響は無視できる」と仮定した上で独自のモデルパラメータを決めている。まぁ、ここまでは良い。実際にパラメータAの効果が小さいのは40年以上にわたる試験データの積み重ねから明確だ。問題は、「開発したモデルは、パラメータAの影響を*%以内で予測できる。」と結論に誇らしげに書いていること。はい~(↑)?
百歩譲っても、執筆者は技術的或いは科学的な見地からは「馬鹿」である。
纏めると、
-----------------------------------------------------------------
このブログを読んでる人は、私を「直ぐに他人を馬鹿扱いする」人間と思うかもしれない。しかし、とある女性に「人の悪口をほとんど言わない珍しい人、人の良いところを見つけるのが上手いよね。」とまで言われたことがある、という事実は明記しておこう。私が「馬鹿」と呼ぶ相手は、本当にどこに出しても「恥ずかしいぐらい底抜けの」馬鹿だと思ってもらっていい。
とはいえ「馬鹿、馬鹿言う奴が馬鹿。」というのも世の理の一端を上手く捉えている。「馬鹿」という表現を使うことで楽しちゃいかん、と言うことだ。ここはきっちり反省した上で、今後の姿勢を明確にしておこう。
本エントリでの文脈における「馬鹿」は、「研究者失格」や「技術屋失格」とでも言い換え可能で、「プロフェッショナルでなければならない人間がプロフェッショナルではない行動、言動を取ることで良しとしており、かつ、それを当人が自覚できていないとしか見えない」状態を指す。個人的には「自覚の有無」がとても重要で、多少なりとも自覚があればそれだけで将来に期待して良いし、「馬鹿」と呼ぼうなんて思いもしない。
また、今後書かれるブログエントリでは、「馬鹿」という表現は「馬鹿としか表現できない」場合しか使わないことにしよう。これまでのブログエントリにおける大部分の「馬鹿」は、「プロ作家失格」「プロクリエーター失格」などのように、文脈に沿っての上記の考え方に従う解釈をお願いしたい。もちろん、これまでも、これからも本ブログで個人の人格を攻撃することは有り得ない。この点、明言するとともにご理解を重ねてお願いしたい。
結論から言うと、論旨破綻は解決されておらず、論文としては失格だ。このような論文が掲載されたという事実は、論文の出来を遥かに超えた高いレベルの問題を浮き彫りにしたと言える。
論文では、ある現象をモデル化する際に、「パレメータAの影響は無視できる」と仮定した上で独自のモデルパラメータを決めている。まぁ、ここまでは良い。実際にパラメータAの効果が小さいのは40年以上にわたる試験データの積み重ねから明確だ。問題は、「開発したモデルは、パラメータAの影響を*%以内で予測できる。」と結論に誇らしげに書いていること。はい~(↑)?
百歩譲っても、執筆者は技術的或いは科学的な見地からは「馬鹿」である。
纏めると、
- この論文の主筆者は(自粛)だ。名前は覚えたぞ。
- この論文の連名者は(自粛)だ。良く知ってるぞ。(自粛)先生、あなたの名前を連名にして、酷い論文が出されましたよ、知ってますか?
- この論文誌の担当編集委員は(自粛)だ。そんなんじゃだめだよ、ちゃんと査読手順に従わなきゃ。査読時の著者への質問の回答を、私は見せてもらってないぞ。
- この論文を掲載した論文誌は、日本のごく一部でではあるが大きく信頼を下げた。今後、商売上の価値がない限り、私はこの論文誌には論文を投稿しないだろう。
-----------------------------------------------------------------
このブログを読んでる人は、私を「直ぐに他人を馬鹿扱いする」人間と思うかもしれない。しかし、とある女性に「人の悪口をほとんど言わない珍しい人、人の良いところを見つけるのが上手いよね。」とまで言われたことがある、という事実は明記しておこう。私が「馬鹿」と呼ぶ相手は、本当にどこに出しても「恥ずかしいぐらい底抜けの」馬鹿だと思ってもらっていい。
とはいえ「馬鹿、馬鹿言う奴が馬鹿。」というのも世の理の一端を上手く捉えている。「馬鹿」という表現を使うことで楽しちゃいかん、と言うことだ。ここはきっちり反省した上で、今後の姿勢を明確にしておこう。
本エントリでの文脈における「馬鹿」は、「研究者失格」や「技術屋失格」とでも言い換え可能で、「プロフェッショナルでなければならない人間がプロフェッショナルではない行動、言動を取ることで良しとしており、かつ、それを当人が自覚できていないとしか見えない」状態を指す。個人的には「自覚の有無」がとても重要で、多少なりとも自覚があればそれだけで将来に期待して良いし、「馬鹿」と呼ぼうなんて思いもしない。
また、今後書かれるブログエントリでは、「馬鹿」という表現は「馬鹿としか表現できない」場合しか使わないことにしよう。これまでのブログエントリにおける大部分の「馬鹿」は、「プロ作家失格」「プロクリエーター失格」などのように、文脈に沿っての上記の考え方に従う解釈をお願いしたい。もちろん、これまでも、これからも本ブログで個人の人格を攻撃することは有り得ない。この点、明言するとともにご理解を重ねてお願いしたい。
2013/06/06
「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。:補足
Q.ビーメラ4は辺境か?
まず事実を確認しよう。
第15話「帰還限界点」の開始時点で地球滅亡まで最長310日、終了時点で298日である。つまり、第15話のストーリーは最長12日間内の話となる。劇中でドメル上級大将はバランで作戦を部下に説明しているから、ガミラス艦のバランからビーメラ4周辺宙域への移動時間は12日以下ということになる。また、ヤマトは60日プラスアルファで地球からビーメラ4周辺宙域に到達していることにもなる。
これらの数値に間違いはないよね?
テロン、すなわち地球はガミラス帝国の版図の中では辺境とされる。つまり、ガミラス帝国から見て辺境と呼べる宙域までの航宙時間は、ゲシュタムジャンプを使えばバランから60日とかからないことになる。ヤマトの航宙は紆余曲折を伴ったものだから、トラブルなく移動できれば30日でもお釣りがくるのかも知れない。実際、島大介は「35日の遅れ」を劇中で口にしている。
て~ことは、「バランから到達に30日かかる宙域は辺境」で間違いないだろう。では12日かかる宙域はどうか?航宙に要する時間の観点からは判断材料が無い、というのが実態だ。が、天の川銀河への版図拡大を図りながらビーメラ星系内の亜空間ゲートを使用していないということは、バラン~ビーメラ星系の移動にはさして苦労は無いと考えるのが合理的だ。
つまり、ビーメラ4はガミラス帝国にとって辺境とは見なし難い。で、本題。面倒臭いので遠まわしはやめよう。
Q.「イズモ計画派」は馬鹿ばかりなのか?
少なくともヤマトに乗り込んでいる連中は馬鹿ばかりとしか思えない。想像力に欠けるか、自分で考えることを止めて(誰かの言うままに動いて)いるかのどちらかに見える。
ガミラス軍はバランに1万隻の戦闘艦艇を簡単に集結させられるのみならず、バランからビーメラ4への移動も苦にしない。となれば、地球からビーメラ4に地球人類が移住したとしても、発見されれば2週間と保たずに壊滅させられるのがオチだ。壊滅を免れるためには軍の再建が必須だが、移住開始までの猶予はせいぜい270日、最初の移民のビーメラ4到達からどのくらいガミラス帝国の目を逃れられるかは全く分からない。というより、逃れられる筈もない。軍の再建に使える時間など無いのだ。おそらく、大型ミサイルの20発もあれば地球人類はこの宇宙から消え去ってしまう。つまり、ビーメラ4への移住を考えるという一点だけで、「イズモ計画派」の理性や想像力の欠如を指摘するに十分なのである。
まぁ、ヤマトクルーがガミラス帝国の勢力範囲を把握していないだろうことは間違いないのだが、そういう状況を視聴者に陽に伝えるような描写は劇中になく、逆にガミラス帝国の勢力範囲をクルーが気にする描写もない。ただし、新見情報長がガミラス帝国の勢力範囲を把握できていないことや、ヤマトの航宙がガミラス帝国の勢力圏により深く入っていくことと等価である可能性を考えていないことは、劇中の行動や言動から明らかだ。亜空間ゲートの情報が、ガミラス帝国の中心宙域、或いは支配宙域のコア宙域の推定に使える筈で、今後の真田副長の分析に期待しよう。
ついでに地球はどうなってるの、という点にも思いを巡らしてみよう。
ヤマトとの戦闘で太陽系内のガミラス軍の拠点は全て壊滅した。遊星爆弾が落下することは無くなり、人類滅亡まで1年の猶予を確実なものとしたことになる筈だ。で、次は?
確かに地球人類は絶滅の危機に瀕しているのだが、それは地球に居る限りにおいてのみ正しい。火星のテラフォーミングがどの程度のレベルなのかは不明だが、劇中で火星の海ははっきりと描かれ、総監督がオーディオ・コメンタリーでもそれに触れたことは無視できない。少なくとも火星の一部では人類が生存できる可能性が大なのだ。
もう言いたいことは分かるよね?
「大局的視点からの物語への一貫性、論理性の付与」、その踏み絵のひとつは踏まれるどころか大きく踏み外され、新たな踏み絵も先に控えているのである。
まず事実を確認しよう。
第15話「帰還限界点」の開始時点で地球滅亡まで最長310日、終了時点で298日である。つまり、第15話のストーリーは最長12日間内の話となる。劇中でドメル上級大将はバランで作戦を部下に説明しているから、ガミラス艦のバランからビーメラ4周辺宙域への移動時間は12日以下ということになる。また、ヤマトは60日プラスアルファで地球からビーメラ4周辺宙域に到達していることにもなる。
これらの数値に間違いはないよね?
テロン、すなわち地球はガミラス帝国の版図の中では辺境とされる。つまり、ガミラス帝国から見て辺境と呼べる宙域までの航宙時間は、ゲシュタムジャンプを使えばバランから60日とかからないことになる。ヤマトの航宙は紆余曲折を伴ったものだから、トラブルなく移動できれば30日でもお釣りがくるのかも知れない。実際、島大介は「35日の遅れ」を劇中で口にしている。
て~ことは、「バランから到達に30日かかる宙域は辺境」で間違いないだろう。では12日かかる宙域はどうか?航宙に要する時間の観点からは判断材料が無い、というのが実態だ。が、天の川銀河への版図拡大を図りながらビーメラ星系内の亜空間ゲートを使用していないということは、バラン~ビーメラ星系の移動にはさして苦労は無いと考えるのが合理的だ。
つまり、ビーメラ4はガミラス帝国にとって辺境とは見なし難い。で、本題。面倒臭いので遠まわしはやめよう。
Q.「イズモ計画派」は馬鹿ばかりなのか?
少なくともヤマトに乗り込んでいる連中は馬鹿ばかりとしか思えない。想像力に欠けるか、自分で考えることを止めて(誰かの言うままに動いて)いるかのどちらかに見える。
ガミラス軍はバランに1万隻の戦闘艦艇を簡単に集結させられるのみならず、バランからビーメラ4への移動も苦にしない。となれば、地球からビーメラ4に地球人類が移住したとしても、発見されれば2週間と保たずに壊滅させられるのがオチだ。壊滅を免れるためには軍の再建が必須だが、移住開始までの猶予はせいぜい270日、最初の移民のビーメラ4到達からどのくらいガミラス帝国の目を逃れられるかは全く分からない。というより、逃れられる筈もない。軍の再建に使える時間など無いのだ。おそらく、大型ミサイルの20発もあれば地球人類はこの宇宙から消え去ってしまう。つまり、ビーメラ4への移住を考えるという一点だけで、「イズモ計画派」の理性や想像力の欠如を指摘するに十分なのである。
まぁ、ヤマトクルーがガミラス帝国の勢力範囲を把握していないだろうことは間違いないのだが、そういう状況を視聴者に陽に伝えるような描写は劇中になく、逆にガミラス帝国の勢力範囲をクルーが気にする描写もない。ただし、新見情報長がガミラス帝国の勢力範囲を把握できていないことや、ヤマトの航宙がガミラス帝国の勢力圏により深く入っていくことと等価である可能性を考えていないことは、劇中の行動や言動から明らかだ。亜空間ゲートの情報が、ガミラス帝国の中心宙域、或いは支配宙域のコア宙域の推定に使える筈で、今後の真田副長の分析に期待しよう。
ついでに地球はどうなってるの、という点にも思いを巡らしてみよう。
ヤマトとの戦闘で太陽系内のガミラス軍の拠点は全て壊滅した。遊星爆弾が落下することは無くなり、人類滅亡まで1年の猶予を確実なものとしたことになる筈だ。で、次は?
確かに地球人類は絶滅の危機に瀕しているのだが、それは地球に居る限りにおいてのみ正しい。火星のテラフォーミングがどの程度のレベルなのかは不明だが、劇中で火星の海ははっきりと描かれ、総監督がオーディオ・コメンタリーでもそれに触れたことは無視できない。少なくとも火星の一部では人類が生存できる可能性が大なのだ。
もう言いたいことは分かるよね?
「大局的視点からの物語への一貫性、論理性の付与」、その踏み絵のひとつは踏まれるどころか大きく踏み外され、新たな踏み絵も先に控えているのである。
2013/06/05
ウルトラホーク1号発進できず。
冬木透氏によるウルトラセブンの音楽はそりゃもう最高で、当然iTunesのライブラリに加えてある。ちなみに音源はアナログレコードだ。サッカー日本代表のブラジルワールドカップ出場決定を見届けた後、ふと聞きたくなって今まさに聞いている。
で、曲名を何気に眺めていて、突如重大なことに気付いて愕然としてしまった。
ウルトラホーク1号の発進シーケンスでは、なんかもっともらしく英語のアナウンスが使われている。分かる人はすぐ分かるだろうけど、「フォース・ゲート・オープン!」で始まるなんかカッコいい一連のアレだ。私の持っているウルトラセブンのアルバムには、SEとしてウルトラホーク1号の発進シーケンスの全ての英語アナウンスが入っている。タイトルは「ウルトラホーク発進(SE Forth Gate Open!)」である。
……………………ん?!
中学で英語を習って以降、実は「フォース・ゲート・オープン!」はずっと"Fourth gate open!"だと思っていたのだ。"Forth(前へ)"ではなく"Fourth(4番目の)"である。
まぁ、"Fourth gate open!"でも厳密には翻訳不能なのだが、"(The) Fourth gate (will) open!"とか、"(The) Fourth gate (is about to) open!"とか補えばなんとか文脈上の解釈は可能だ。しかし、"Forth gate open!"ではそれすらも不可能なのだ。 "Forth(前へ)"は副詞なので"gate(ゲート)"を修飾することはない、むむぅ。
聖なる牛!
我々の世代の中学英語なら、"(A) Front gate (will) open!"または"Open the front gate!"という辺りが本当のところなのではないかな。山手線とか乗ってると、"Car's doors on the left side will open.(左側のドアが開きます。)"って感じの英語アナウンスが聞こえるよね?うろ覚えで申し訳ないのだが。
で、曲名を何気に眺めていて、突如重大なことに気付いて愕然としてしまった。
ウルトラホーク1号の発進シーケンスでは、なんかもっともらしく英語のアナウンスが使われている。分かる人はすぐ分かるだろうけど、「フォース・ゲート・オープン!」で始まるなんかカッコいい一連のアレだ。私の持っているウルトラセブンのアルバムには、SEとしてウルトラホーク1号の発進シーケンスの全ての英語アナウンスが入っている。タイトルは「ウルトラホーク発進(SE Forth Gate Open!)」である。
……………………ん?!
中学で英語を習って以降、実は「フォース・ゲート・オープン!」はずっと"Fourth gate open!"だと思っていたのだ。"Forth(前へ)"ではなく"Fourth(4番目の)"である。
まぁ、"Fourth gate open!"でも厳密には翻訳不能なのだが、"(The) Fourth gate (will) open!"とか、"(The) Fourth gate (is about to) open!"とか補えばなんとか文脈上の解釈は可能だ。しかし、"Forth gate open!"ではそれすらも不可能なのだ。 "Forth(前へ)"は副詞なので"gate(ゲート)"を修飾することはない、むむぅ。
聖なる牛!
我々の世代の中学英語なら、"(A) Front gate (will) open!"または"Open the front gate!"という辺りが本当のところなのではないかな。山手線とか乗ってると、"Car's doors on the left side will open.(左側のドアが開きます。)"って感じの英語アナウンスが聞こえるよね?うろ覚えで申し訳ないのだが。
2013/06/03
映画"EUROPA REPORT" トレーラー
全くノーチェックだった映画"EUROPA REPORT"のトレーラーが公開に。カット切り替え時に「でーーーん」って音を入れるのは最近のトレーラーでは定番、観てる方は飽きちゃうよね。
近未来、リアル指向のSci-Fiとのこと。タイトル中の「エウロパ」は木星の衛星のひとつ。表面を覆う氷の下には海があると考えられており、太陽系内で地球以外に生命が発生するならばまずエウロパだろうとの見解を持つ人は少なくない。
トレーラーでは、人類初の有人エウロパ探査機「エウロパ・ワン」の打ち上げから船内の様子、エウロパ表面やエウロパの海中から見上げた氷原などのカットを見ることができる。最後付近の処理はリアリスティックなそれまでのカットとは少しちぐはぐなホラータッチだが、やや似た構造の「プロメテウス」のトレーラーと較べても、こっちの方が面白そう。
とはいえ、トレーラー中で使われているモニタリングカメラの映像を本編でどの程度用いているのかは気になる。別エントリで書いた通り、カットのリアリスティック感をこの種の映像に頼る作りだと、映画体験としての面白みには欠ける可能性があるからだ。
"3D"との表記が出てこないのは好感。TVで観た「バイオハザード/アフターライフ」が余りに「映画ではない」ことに実は驚かされたのだが、冷静に観てみるとカメラアングルやカット割り、音響効果や視覚効果に至るまでが「3Dに奉仕させられている」様が露わでガックリしてしまった。「映画たらしめん」とする意思と行動が作り手側にないと、3Dはすぐにアトラクション映像になってしまうということかな?
まぁ、観てちょ。
近未来、リアル指向のSci-Fiとのこと。タイトル中の「エウロパ」は木星の衛星のひとつ。表面を覆う氷の下には海があると考えられており、太陽系内で地球以外に生命が発生するならばまずエウロパだろうとの見解を持つ人は少なくない。
トレーラーでは、人類初の有人エウロパ探査機「エウロパ・ワン」の打ち上げから船内の様子、エウロパ表面やエウロパの海中から見上げた氷原などのカットを見ることができる。最後付近の処理はリアリスティックなそれまでのカットとは少しちぐはぐなホラータッチだが、やや似た構造の「プロメテウス」のトレーラーと較べても、こっちの方が面白そう。
とはいえ、トレーラー中で使われているモニタリングカメラの映像を本編でどの程度用いているのかは気になる。別エントリで書いた通り、カットのリアリスティック感をこの種の映像に頼る作りだと、映画体験としての面白みには欠ける可能性があるからだ。
"3D"との表記が出てこないのは好感。TVで観た「バイオハザード/アフターライフ」が余りに「映画ではない」ことに実は驚かされたのだが、冷静に観てみるとカメラアングルやカット割り、音響効果や視覚効果に至るまでが「3Dに奉仕させられている」様が露わでガックリしてしまった。「映画たらしめん」とする意思と行動が作り手側にないと、3Dはすぐにアトラクション映像になってしまうということかな?
まぁ、観てちょ。
2013/06/01 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」
ゲームの音楽にはとんと疎いので、今回のゲストのお二人、来兎氏と山岡晃氏については全くの予備知識なし。どんな感じになるかと思えば、お二方ともお話が面白い!充実の2時間ですよ、U-stripライブを視聴しててほんとに良かった。
とても名古屋のタクシー運転手さん達向けのAM放送の内容じゃない。パーソナリティの佐野電磁氏、ディレクターらスタッフ一同を称賛すべきなのか、や、どうなのよ!って話ですよ。初の配信フル参加で私の「奇妙な喪失感」もあっさり発動。名古屋に土曜日に出張したもののラジオを持ってくるのを忘れ、仕方ないので9:00PMごろにタクシー捕まえて「2時間、適当に流してくれ。ラジオはCBCで頼む。」とか、さらっと変な妄想。タグも追加。
来兎氏は沖縄在住のゲーム音楽作曲家とのことだが、そもそもトラック自体をクライアントに納入する訳だから、編曲、音色編集/選択、音声/MIDIデータ編集、ミキシングほかもやってることになる。肩書きと実態との乖離が激しいのはフリーランスのプロでは良くあることだが、実態に即した相応しい肩書を誰か思いついてくれないものか。
来兎氏のお話は、ゲーム製作に関わる同人活動から現在に至る経緯、パッケージが凄すぎる「もえちん(萌えるちんすこう)」への関わりなど多岐にわたり、ステムミックス、とろ美氏、ベーマガ(Basicマガジン)、Basicのmusic文、SHARP mz-1500、クイックディスク、NEC PC-88、カモンミュージックなどの濃いキーワードが飛び交う展開。
某学会の大会を沖縄でやってくんないかのぅ、「もえちん」買ってくるから。あ、ひらがな4文字なのな、やっぱり。
ちなみに「ステムミックス」は言葉は知っていたが、実際にどういう形態なのかが分かったのはちょっとした収穫。ステムミックスというのは、クライアントに音楽を納入する際にドラム、ベース、メロディなど個別のパートを独立した音声トラックデータとしておくことらしい。いったんステレオなり5.1チャンネルなりでミックスしてしまった音声トラックデータだけを納入した場合、「ここではドラムパートだけ使いたい。」といった時にクライアント側では対応できないからだという。「クライアントは神様です。」というのは悲しいかな事実ではあるのだが、ステムミックスを納入した場合は、作った人間の意図しない使われ方をされる可能性もあるということだ。
Stemは名詞としては「茎」、動詞としては「茎を接ぐ」或いは全く逆の「茎を取り去る」という意味がある(動詞の場合の両者の意味は目的格の前置詞で決まる)。ざっくり「剪定」「草刈り」或いは「枝葉を取り去る」というニュアンスで捉えれば、ステムミックスとは特定のパートのミックスのみを取りだしてきたものと解釈するのではなく、特定のパートだけとなるように完成品のミックスからそれ以外のパートを取り除いたものと解釈すべきなのかも知れない。まぁ結果は一緒なんだけど、この種のニュアンスを曖昧にしない癖を付けておくと、外国語の学習は少しは楽になるよ、実際。
閑話休題。
面白かったと書きながら、来兎氏のパートの話の中身に踏み込めないのには理由がある。二人目のゲストである山岡氏のお話がさらに面白かった、というか、どう言や良いんだ?
山岡晃氏はPSゲーム「サイレントヒル」の音楽、効果音などサウンド全般に関与、続編へ進むにつれて肩書きはプロデュース寄りに変わりながら、実態はよりゲームの具体的中身に関与を深めていったということらしい。来兎氏に輪をかけて肩書き不明、挙句にはパーソナリティの佐野電磁氏から「『人間』・山岡晃氏をゲストに迎えてお送りしております。」と紹介されることになるのだが、それもむべなるかな。
「誰でもフェラーリが買える」(実際の話ではピンク色のランボルギーニ・ガヤルド?のオープンカー)の話は触りの触りということと、この話の大枠は自分も20年以上前からやってることにほぼ等しいので置いておくとして、UnityやUnreal(ともに3Dゲームエンジン兼ゲーム製作ツール)を触るのが大好きだとか、コード(和音)名や楽譜も読めないのに作る音楽のレベルや完成度の高さが半端無いとか、「サイレントヒル」の関わっていたころは1日20時間働いていて「時給はマクドナルド(のバイト)より安かったんじゃないか。」とか、とにかくデキる人が大抵二つぐらい備えている資質や有り様を五つも六つも備えている「ある種トンデモない人」であることが良く分かった。
「え、未だにそんなことやってンですか?」という佐野氏の問いにさくっと「だって、楽しいじゃん。」って返せる辺り、私の目指してる有り様がそのまま目の前のPC画面内で展開されてるのは、いやはや、愉快を通り越してただただ驚愕するのみである。お話の内容についてはキーワードぐらいは書けるけど、とても文章では伝えられない濃さと痛快さ、本ブログなんかでは絶対伝えられないのでそれに挑みもしませんよ。
一つだけ山岡氏の発言に触れておくと、「グラフィッカーなので、4、5分の音楽は絵みたいに捉えられる。」とのこと。一種の可視化、見える化であって、言葉(音楽では楽譜が相当するのだろう、少なくともクラシカルは。)に頼らないが故に全体と部分を一気に把握、理解できるということだろう。加えてのポイントは、頭の中に既にあるものを我々が聞くことができるサウンドの形に落とし組む作業を「楽しむ」ことが当たり前にできるところだろう。
デキる人の一部は、頭で分かった時点で当人にとっては終わってしまい、具体的な出力は面倒臭がってやらないことがままある。そういう人といっしょに働いていると、そりゃ聞き上手になっちゃいますよ。気持ち良く出力させることさえできれば周囲も本人も幸せですからね。そういう観点から見れば、山岡氏はまさに生き物でありながら価値発信装置、価値を生み出すだけではなくそれを周囲に送出し続ける(しかも本人は楽しい)というやっぱりトンデモない人としか思えないのだ。
来週のU-strip配信も楽しみですなぁ。
とても名古屋のタクシー運転手さん達向けのAM放送の内容じゃない。パーソナリティの佐野電磁氏、ディレクターらスタッフ一同を称賛すべきなのか、や、どうなのよ!って話ですよ。初の配信フル参加で私の「奇妙な喪失感」もあっさり発動。名古屋に土曜日に出張したもののラジオを持ってくるのを忘れ、仕方ないので9:00PMごろにタクシー捕まえて「2時間、適当に流してくれ。ラジオはCBCで頼む。」とか、さらっと変な妄想。タグも追加。
来兎氏は沖縄在住のゲーム音楽作曲家とのことだが、そもそもトラック自体をクライアントに納入する訳だから、編曲、音色編集/選択、音声/MIDIデータ編集、ミキシングほかもやってることになる。肩書きと実態との乖離が激しいのはフリーランスのプロでは良くあることだが、実態に即した相応しい肩書を誰か思いついてくれないものか。
来兎氏のお話は、ゲーム製作に関わる同人活動から現在に至る経緯、パッケージが凄すぎる「もえちん(萌えるちんすこう)」への関わりなど多岐にわたり、ステムミックス、とろ美氏、ベーマガ(Basicマガジン)、Basicのmusic文、SHARP mz-1500、クイックディスク、NEC PC-88、カモンミュージックなどの濃いキーワードが飛び交う展開。
某学会の大会を沖縄でやってくんないかのぅ、「もえちん」買ってくるから。あ、ひらがな4文字なのな、やっぱり。
ちなみに「ステムミックス」は言葉は知っていたが、実際にどういう形態なのかが分かったのはちょっとした収穫。ステムミックスというのは、クライアントに音楽を納入する際にドラム、ベース、メロディなど個別のパートを独立した音声トラックデータとしておくことらしい。いったんステレオなり5.1チャンネルなりでミックスしてしまった音声トラックデータだけを納入した場合、「ここではドラムパートだけ使いたい。」といった時にクライアント側では対応できないからだという。「クライアントは神様です。」というのは悲しいかな事実ではあるのだが、ステムミックスを納入した場合は、作った人間の意図しない使われ方をされる可能性もあるということだ。
Stemは名詞としては「茎」、動詞としては「茎を接ぐ」或いは全く逆の「茎を取り去る」という意味がある(動詞の場合の両者の意味は目的格の前置詞で決まる)。ざっくり「剪定」「草刈り」或いは「枝葉を取り去る」というニュアンスで捉えれば、ステムミックスとは特定のパートのミックスのみを取りだしてきたものと解釈するのではなく、特定のパートだけとなるように完成品のミックスからそれ以外のパートを取り除いたものと解釈すべきなのかも知れない。まぁ結果は一緒なんだけど、この種のニュアンスを曖昧にしない癖を付けておくと、外国語の学習は少しは楽になるよ、実際。
閑話休題。
面白かったと書きながら、来兎氏のパートの話の中身に踏み込めないのには理由がある。二人目のゲストである山岡氏のお話がさらに面白かった、というか、どう言や良いんだ?
山岡晃氏はPSゲーム「サイレントヒル」の音楽、効果音などサウンド全般に関与、続編へ進むにつれて肩書きはプロデュース寄りに変わりながら、実態はよりゲームの具体的中身に関与を深めていったということらしい。来兎氏に輪をかけて肩書き不明、挙句にはパーソナリティの佐野電磁氏から「『人間』・山岡晃氏をゲストに迎えてお送りしております。」と紹介されることになるのだが、それもむべなるかな。
「誰でもフェラーリが買える」(実際の話ではピンク色のランボルギーニ・ガヤルド?のオープンカー)の話は触りの触りということと、この話の大枠は自分も20年以上前からやってることにほぼ等しいので置いておくとして、UnityやUnreal(ともに3Dゲームエンジン兼ゲーム製作ツール)を触るのが大好きだとか、コード(和音)名や楽譜も読めないのに作る音楽のレベルや完成度の高さが半端無いとか、「サイレントヒル」の関わっていたころは1日20時間働いていて「時給はマクドナルド(のバイト)より安かったんじゃないか。」とか、とにかくデキる人が大抵二つぐらい備えている資質や有り様を五つも六つも備えている「ある種トンデモない人」であることが良く分かった。
「え、未だにそんなことやってンですか?」という佐野氏の問いにさくっと「だって、楽しいじゃん。」って返せる辺り、私の目指してる有り様がそのまま目の前のPC画面内で展開されてるのは、いやはや、愉快を通り越してただただ驚愕するのみである。お話の内容についてはキーワードぐらいは書けるけど、とても文章では伝えられない濃さと痛快さ、本ブログなんかでは絶対伝えられないのでそれに挑みもしませんよ。
一つだけ山岡氏の発言に触れておくと、「グラフィッカーなので、4、5分の音楽は絵みたいに捉えられる。」とのこと。一種の可視化、見える化であって、言葉(音楽では楽譜が相当するのだろう、少なくともクラシカルは。)に頼らないが故に全体と部分を一気に把握、理解できるということだろう。加えてのポイントは、頭の中に既にあるものを我々が聞くことができるサウンドの形に落とし組む作業を「楽しむ」ことが当たり前にできるところだろう。
デキる人の一部は、頭で分かった時点で当人にとっては終わってしまい、具体的な出力は面倒臭がってやらないことがままある。そういう人といっしょに働いていると、そりゃ聞き上手になっちゃいますよ。気持ち良く出力させることさえできれば周囲も本人も幸せですからね。そういう観点から見れば、山岡氏はまさに生き物でありながら価値発信装置、価値を生み出すだけではなくそれを周囲に送出し続ける(しかも本人は楽しい)というやっぱりトンデモない人としか思えないのだ。
来週のU-strip配信も楽しみですなぁ。
2013/06/02
「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。
内容盛りだくさん+新たな伏線張りに終始する感じで、Vol.3や4みたいにダレたところがなく、全体としては好印象。総統暗殺事件はやっぱりやったか。
森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。
第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。
ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。
艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。
個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)
「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。
詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。
念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。
以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。
ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。
オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。
細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。
ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。
あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。
森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。
第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。
ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。
艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。
個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)
「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。
詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。
念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。
以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。
ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。
オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。
細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。
ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。
あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。
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