最近仕事が忙しくて帰宅時間が遅いせいか、帰宅途中の車窓から「佇む人」を見る機会が増えた。「佇む人」とは、道端の電柱や信号の脇などに居て、というか、居ないんだけど見える人のことである。
経験値も上がっているから、うっかり見かけてもさらりと無視できるように今やなっている。うっかり目があったりしても、軽く目礼してやはりさらりと流す。ここで反応を間違えると厄介なことになる可能性がある。寝てる布団の上に乗られたり、夜中にふと目が覚めたら目の前に覗きこむ顔があったりする経験はもう願い下げだ。
今住んでいるアパートの間取りは、部屋内の風の流れ方、窓の向きとそれらの組み合わせなどを勘案したうえで選んだというのは真面目な話だ。「通り過ぎる人」も結構厄介なのである。中途半端に風水やお経の知識があったりするのは、それらが平穏な生活のために必要だからだと言いきってしまおう。
幸いにして、今回はオチはありません。
2013/05/17
2013/05/16
「喪失感」と「ビューティフルドリーマー」、「Thatness and Thereness」
今回は完全に個人的な話。
私の好きな映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と好きな楽曲「Thatness and Thereness」は個人的に奇妙な「喪失感」と不可分だ。
「うる星2」は高校生の時分にリアルタイムに劇場で観た。夢邪鬼が「終わらない夢があってもエーんとちゃいまっか」とあたるに語るシーンで、劇場で泣いてしまったことを告白しよう。泣いてしまった理由は簡単、「自分の高校生生活もやがて終わってしまうのだ」ということを図らずも自覚してしまったからだ。同時に、「今観ている映画もやがて終わるのだ」ということも自覚してしまったからだ。その感覚は実際に失ってしまう前に感じた奇妙な「喪失感」だ。まさに「諸行無常」、どんなに望んでも楽しい時間は永遠に続かない。
映画館で過す時間は楽しいものだ。他方、自分の高校生時代が楽しい時間だったかは今でも判断を保留せざるを得ない。試験の多い高校だったので、とにかく試験勉強と部活でいっぱいいっぱいだったこと、そしてやがて失われてしまったことは確かだ。ちなみに、当時は「ドラマ編」なる映画の音声のみを収めたLPレコードがあり、勉強のBGMとして何回も聞いているうちにメガネの有名なモノローグを完全に覚えてしまった。
「うる星2」が面白い映画か、という判断も保留せざるを得ない。今でも客観性を持てないからだ。言えることは、「星勝氏の音楽は素晴らしい仕事」、「原作者の不興をかったらしい、という点はむしろ評価ポイント」といったところだ。「うる星やつら」の世界観を突き放したように見えて、その世界観の強靭さに頼らないと成立しないギリギリのところでのストーリー展開。そのバランスを絶妙と見るか、たまたまと見るか、それほどまでに「うる星やつら」の世界観が強靭と見るか。
いずれにしてもタイトルはエンディングで現れる。それに気付いた瞬間、「この映画もやがて終わる」という私が上映中に感じた「喪失感」は完全に行き場所を失ってしまった。DVDで何度か見直したが、その「喪失感」の行き場所はまだ見つけられずにいる。
「Thatness and Thereness」は大学生になってから、「AVガーデン」という深夜番組でたまたま流れたのが出会いだ。とにかく気になった。当時は歌詞の内容も背景も知らなかったが、曲自体に「喪失感」を強く感じた。
「Thatness and Thereness」の歌詞は、坂本龍一氏自身の学生運動の経験を反映したものだという。坂本氏にとって、学生運動の終焉が「喪失感」を伴うものだったかどうかは分からない。しかし、本楽曲から私が感じるのは一種の「喪失感」、そして「勝ち/負け、成功/失敗といった結果が保留された状態が維持されている」という感覚だ。後者の感覚は、まるで人が走り出した一瞬を捉えたセピア色の写真にでも例えられよう。古くて、止まっているような動いているような、が、絶対動きださない。
映画「うる星2」のエンディングが、映画が終わっても劇中人物とってのストーリーはまだ続くこと、つまり「うる星2」は終わらないことをまるで示唆したかのように、楽曲「Thatness and Thereness」のリズムは何処から始まって何処で終わるのか時々分からなくなる。「終わらないこと」に気付く前に感じてしまった「終わることを自覚することで生まれた奇妙な喪失感」は、20年以上の時を経ても変わらない。今の自分の一部は「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「Thatness and Thereness」からできているんじゃないかとすら思う。
私の好きな映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と好きな楽曲「Thatness and Thereness」は個人的に奇妙な「喪失感」と不可分だ。
「うる星2」は高校生の時分にリアルタイムに劇場で観た。夢邪鬼が「終わらない夢があってもエーんとちゃいまっか」とあたるに語るシーンで、劇場で泣いてしまったことを告白しよう。泣いてしまった理由は簡単、「自分の高校生生活もやがて終わってしまうのだ」ということを図らずも自覚してしまったからだ。同時に、「今観ている映画もやがて終わるのだ」ということも自覚してしまったからだ。その感覚は実際に失ってしまう前に感じた奇妙な「喪失感」だ。まさに「諸行無常」、どんなに望んでも楽しい時間は永遠に続かない。
映画館で過す時間は楽しいものだ。他方、自分の高校生時代が楽しい時間だったかは今でも判断を保留せざるを得ない。試験の多い高校だったので、とにかく試験勉強と部活でいっぱいいっぱいだったこと、そしてやがて失われてしまったことは確かだ。ちなみに、当時は「ドラマ編」なる映画の音声のみを収めたLPレコードがあり、勉強のBGMとして何回も聞いているうちにメガネの有名なモノローグを完全に覚えてしまった。
「うる星2」が面白い映画か、という判断も保留せざるを得ない。今でも客観性を持てないからだ。言えることは、「星勝氏の音楽は素晴らしい仕事」、「原作者の不興をかったらしい、という点はむしろ評価ポイント」といったところだ。「うる星やつら」の世界観を突き放したように見えて、その世界観の強靭さに頼らないと成立しないギリギリのところでのストーリー展開。そのバランスを絶妙と見るか、たまたまと見るか、それほどまでに「うる星やつら」の世界観が強靭と見るか。
いずれにしてもタイトルはエンディングで現れる。それに気付いた瞬間、「この映画もやがて終わる」という私が上映中に感じた「喪失感」は完全に行き場所を失ってしまった。DVDで何度か見直したが、その「喪失感」の行き場所はまだ見つけられずにいる。
「Thatness and Thereness」は大学生になってから、「AVガーデン」という深夜番組でたまたま流れたのが出会いだ。とにかく気になった。当時は歌詞の内容も背景も知らなかったが、曲自体に「喪失感」を強く感じた。
「Thatness and Thereness」の歌詞は、坂本龍一氏自身の学生運動の経験を反映したものだという。坂本氏にとって、学生運動の終焉が「喪失感」を伴うものだったかどうかは分からない。しかし、本楽曲から私が感じるのは一種の「喪失感」、そして「勝ち/負け、成功/失敗といった結果が保留された状態が維持されている」という感覚だ。後者の感覚は、まるで人が走り出した一瞬を捉えたセピア色の写真にでも例えられよう。古くて、止まっているような動いているような、が、絶対動きださない。
映画「うる星2」のエンディングが、映画が終わっても劇中人物とってのストーリーはまだ続くこと、つまり「うる星2」は終わらないことをまるで示唆したかのように、楽曲「Thatness and Thereness」のリズムは何処から始まって何処で終わるのか時々分からなくなる。「終わらないこと」に気付く前に感じてしまった「終わることを自覚することで生まれた奇妙な喪失感」は、20年以上の時を経ても変わらない。今の自分の一部は「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「Thatness and Thereness」からできているんじゃないかとすら思う。
2013/05/12
今秋公開予定の映画「キャプテン・ハーロック」について雑感
敢えて触れずにきたネタだが、思うところだけは書いといた方が健康には良い。「実際に公開されたら出来が良かった」、なんてうれしい誤算な展開はエニタイム・ウェルカムなので念の為。
「作品に対して何か語るのは実際にその作品を観てから」が個人的なルール、今回は投資リスク的な観点で思うところ。要は監督、脚本家である。
私個人は"APPLESEED"、"EX MACHINA"、"STARSHIP TROOPERS: INVASION"を全く評価していない。興行的にも決して成功したとは言えない筈だ。ハリウッドでは3作もコケればもはやメガホンは握れないと聞く。これは監督に興行的観点からもプロフェッショナルであることを要求する風土と、監督予備軍の層の厚さという少なくとも二つの要素を念頭に置いて理解する必要がある。
個人的意見としては、荒牧伸志氏は監督として一度干され、本作は別の人間が監督すべきだったと思う。別の人間が「今」思いつけないなら作らない(企画として温存する)事自体が投資となる可能性すらある。私が投資側なら、「今の」荒牧伸志氏にはこのレベルの大きな投資は絶対しない。もし荒牧氏が諸般の権利関係を処理して
「本家"Genesis Climber MOSPEADA"ってやつを見せてやるぜ!(ホントは海外では"ROBOTECH"って呼んじゃうけどさ:P)」
なんてことを言い出したら、1/3ぐらいの額は出しちゃうかもしれない。カッコ内書きの海外での取り扱いも重要な要素である。この場合の投資はむしろその次の作品への投資のための繋ぎ料であり、「自分に投資する価値あり」とあらためて示す機会の提供である。それでもコケればホントの終わりである。
脚本家でクレジットされている福井晴敏氏はマンガやアニメに理解があり、ハズしてこない所は評価されるべきだが、出来上がりに対してまだ定評があるわけではない。
自作小説の映画化作品「ローレライ」「亡国のイージス」の出来も踏まえたうえで、どういう姿勢で本作に臨んでいるのか、作品の出来はそのあたりも問われることになるはずである。自作の映画化作品が口を出してもああだったのか、全部投げ渡してああだったのか、寡聞にして私は知らないが、本作では原作者が別にいる映画の脚本である。自作の映画化とは全く逆の立場に立っていることにどのくらい自覚的かは気になるところ。
余談ながら、アルカディア号の船首にはいわゆる髑髏のマークがあしらわれているが、トレーラーでみる限り、安物の金属アクセサリにありがちな最も下品な方向性での造形が為されているやに見ゆる。このような造形を選ぶ人間とは絶対話が合わないなぁ、と心から思う。つまり、この造形を選んだ映画製作サイドの人間はもとより、劇中のハーロックともきっと私は友達になれないのだろう。
いやぁ、あの造形は本当にセンスないと思うよ。
「作品に対して何か語るのは実際にその作品を観てから」が個人的なルール、今回は投資リスク的な観点で思うところ。要は監督、脚本家である。
私個人は"APPLESEED"、"EX MACHINA"、"STARSHIP TROOPERS: INVASION"を全く評価していない。興行的にも決して成功したとは言えない筈だ。ハリウッドでは3作もコケればもはやメガホンは握れないと聞く。これは監督に興行的観点からもプロフェッショナルであることを要求する風土と、監督予備軍の層の厚さという少なくとも二つの要素を念頭に置いて理解する必要がある。
個人的意見としては、荒牧伸志氏は監督として一度干され、本作は別の人間が監督すべきだったと思う。別の人間が「今」思いつけないなら作らない(企画として温存する)事自体が投資となる可能性すらある。私が投資側なら、「今の」荒牧伸志氏にはこのレベルの大きな投資は絶対しない。もし荒牧氏が諸般の権利関係を処理して
「本家"Genesis Climber MOSPEADA"ってやつを見せてやるぜ!(ホントは海外では"ROBOTECH"って呼んじゃうけどさ:P)」
なんてことを言い出したら、1/3ぐらいの額は出しちゃうかもしれない。カッコ内書きの海外での取り扱いも重要な要素である。この場合の投資はむしろその次の作品への投資のための繋ぎ料であり、「自分に投資する価値あり」とあらためて示す機会の提供である。それでもコケればホントの終わりである。
脚本家でクレジットされている福井晴敏氏はマンガやアニメに理解があり、ハズしてこない所は評価されるべきだが、出来上がりに対してまだ定評があるわけではない。
自作小説の映画化作品「ローレライ」「亡国のイージス」の出来も踏まえたうえで、どういう姿勢で本作に臨んでいるのか、作品の出来はそのあたりも問われることになるはずである。自作の映画化作品が口を出してもああだったのか、全部投げ渡してああだったのか、寡聞にして私は知らないが、本作では原作者が別にいる映画の脚本である。自作の映画化とは全く逆の立場に立っていることにどのくらい自覚的かは気になるところ。
余談ながら、アルカディア号の船首にはいわゆる髑髏のマークがあしらわれているが、トレーラーでみる限り、安物の金属アクセサリにありがちな最も下品な方向性での造形が為されているやに見ゆる。このような造形を選ぶ人間とは絶対話が合わないなぁ、と心から思う。つまり、この造形を選んだ映画製作サイドの人間はもとより、劇中のハーロックともきっと私は友達になれないのだろう。
いやぁ、あの造形は本当にセンスないと思うよ。
映画「椿三十郎(2007)」、あらためてTVで観ましたよ。
まぁ、間の取り方は何回観てもやはり上手くて、編集の妙はあり。森田芳光氏の監督作としてはちゃんとしている方ではないかと思うよ、なんたって脚本もネタもストーリーも彼じゃないものね。
だが、「オリジナルの脚本をそのまま使う」っていう手法の意図は全く理解不能。
オリジナル製作時期の黒澤明氏の監督作なら主要な俳優は決まっているのも同然で、脚本はほぼアテ書きの可能性が高い。アテ書きとは「俳優に合わせてセリフを書く」こと。つまり、椿三十郎のセリフは三船敏郎氏が演じることを前提に書かれている可能性が高いということ。室戸半兵衛のセリフは仲代達矢氏が前提、というあたりまではまず間違いないでしょう。
どうでも良いけど室戸半兵衛って室戸文明の元ネタなのかなぁ。
三船氏や仲代氏のセリフ回しにはけっこうアクが強いところがあります。三船氏のモノマネさせられてるみたいにしか見えず、主演俳優には今回も不憫さを禁じ得ませんでした。ありゃきっついよ。
だが、「オリジナルの脚本をそのまま使う」っていう手法の意図は全く理解不能。
オリジナル製作時期の黒澤明氏の監督作なら主要な俳優は決まっているのも同然で、脚本はほぼアテ書きの可能性が高い。アテ書きとは「俳優に合わせてセリフを書く」こと。つまり、椿三十郎のセリフは三船敏郎氏が演じることを前提に書かれている可能性が高いということ。室戸半兵衛のセリフは仲代達矢氏が前提、というあたりまではまず間違いないでしょう。
どうでも良いけど室戸半兵衛って室戸文明の元ネタなのかなぁ。
三船氏や仲代氏のセリフ回しにはけっこうアクが強いところがあります。三船氏のモノマネさせられてるみたいにしか見えず、主演俳優には今回も不憫さを禁じ得ませんでした。ありゃきっついよ。
2013/05/11
有難う、レイ・ハリーハウゼン
カラー映画時代においては文句なくストップ・モーション・アニメーションの巨星、レイ・ハリーハウゼン氏が最近亡くなったとのこと。素晴らしい作品群を有難う。
個人的には映画「アルゴ探検隊の冒険」のガイコツ兵が印象深い、日曜洋画劇場(だったかな?)で何回観たことか。合成技術の未熟さに足を引っ張られている作品が少なくないのが残念だが、「彼の技術があればこんな映画も作れるね」って感じで陽の目を見た作品も決して少なくない筈。彼のアニメーションをフューチャーしたミュージカル映画がない、というのもとっても残念。
カリも良いよね。
個人的には映画「アルゴ探検隊の冒険」のガイコツ兵が印象深い、日曜洋画劇場(だったかな?)で何回観たことか。合成技術の未熟さに足を引っ張られている作品が少なくないのが残念だが、「彼の技術があればこんな映画も作れるね」って感じで陽の目を見た作品も決して少なくない筈。彼のアニメーションをフューチャーしたミュージカル映画がない、というのもとっても残念。
カリも良いよね。
"Honest Trailers - Star Trek (2009) "に大笑い
「正直な予告編」ってとこ。
「そして、レンズフレア(AND... LENS FLARES)」、「さらにさらにフレア(AND... EVEN MORE FLARES)」に大笑い。レンズフレア、ぶれるカメラアングルなど、本作は「カメラや照明の下手さ」を一生懸命お金をかけてシミュレートした、とってもおバカな作品という側面もあることは明言しておこう。
まぁ、ドキュメンタリー映画風のぶれるカメラアングルや過剰なレンズフレアの導入は2003年の"Battlestar Galactica"でいきなり完成形で現れた。しかも、監督本人がその一回で「飽きた」という手法である。J. J. エイブラムスは製作として同様の手法を先鋭化してい用いた「クローバーフィールド/HAKAISHA」に関与、飽きるどころの騒ぎじゃないはず。それでもやっちゃうってのはウケ狙い以外に何か目的あるかいな。
NHK大河ドラマ「平清盛」でもそんな演出を感じさせる回があって観てる方が恥ずかしかったが、今時その種の手法をスタイリッシュなんて思っている人は「(少なくても)10年古い!」とバカにしてあげよう。
ピンポイントでさらっと上手く使ってる人は今も昔もいるんですからね。
「そして、レンズフレア(AND... LENS FLARES)」、「さらにさらにフレア(AND... EVEN MORE FLARES)」に大笑い。レンズフレア、ぶれるカメラアングルなど、本作は「カメラや照明の下手さ」を一生懸命お金をかけてシミュレートした、とってもおバカな作品という側面もあることは明言しておこう。
まぁ、ドキュメンタリー映画風のぶれるカメラアングルや過剰なレンズフレアの導入は2003年の"Battlestar Galactica"でいきなり完成形で現れた。しかも、監督本人がその一回で「飽きた」という手法である。J. J. エイブラムスは製作として同様の手法を先鋭化してい用いた「クローバーフィールド/HAKAISHA」に関与、飽きるどころの騒ぎじゃないはず。それでもやっちゃうってのはウケ狙い以外に何か目的あるかいな。
NHK大河ドラマ「平清盛」でもそんな演出を感じさせる回があって観てる方が恥ずかしかったが、今時その種の手法をスタイリッシュなんて思っている人は「(少なくても)10年古い!」とバカにしてあげよう。
ピンポイントでさらっと上手く使ってる人は今も昔もいるんですからね。
今さらながら「伝説巨神イデオン 劇場版」のこと
「今さらながら」シリーズは評論でも批評でもありませんよ、念の為。
Youtubeで「伝説の巨神 イデオンの絶望と希望」というタイトルの5分ほどのビデオがレコメンドされた。おそらくファンが編集したビデオなのだろうが、個人的に引っかかったのだタイトル中の「希望」という言葉。
「イデオン」の何処に「希望」があったのか?
地球人とバッフクランがまさに接触しようとしたとき、「イデ」は「希望を期待」したかもしれない。が、その期待は地球人とバッフクランの「殺し合い」の発生という形であっけなく裏切られる。しばらく様子をみていたものの両者の敵対関係に改善の兆しはなく、「イデ」は両者ともに「種」としては滅ぼすことを決断する。我々が漠然と口にする「命」というものに「イデ」が頓着している風情はない。映画「発動編」のラストが示唆する内容は、「知的生命体の命とは生命体個人の死をもって失われるもの」ではないと、少なくとも「イデ」は認識しているということである。イデオンでは「種の有り様」と「イデの価値観に基づいて善きものか否か」とがほぼ等価に取り扱われている。劇中で使われる言葉、「業」の位置付けも同様である。
「イデ」は地球人とバッフクランという「種」に対してはおそらく絶望した。「メシア」の存在には「次世代の種」への「期待」を持ったかもしれないが、「希望」と呼べるものではない。まだ誕生もしていない「メシア」はそれでも「悪しき種」の一個体に過ぎず、かといって「善き有り様」を示す機会も与えられない。「イデ」は問答無用に二つの「種」を葬り去るのである。
地球人とバッフクランとの不幸なファースト・コンタクトは、カララ・アジバの軽はずみな行動が原因となっている。理想家肌で「善きもの」に近い存在であったかもしれないカララの行動が「二つの種の殺し合い」、ただし「イデ」の立場からは両者は「単一の種」に過ぎない、を引き起こすという発端は誰もが考えるように極めて皮肉なものである。が、ラスト近く、「メシア」に『皆を導いてあげなさい』と語る資格があるのはカララだけである。それは「メシア」の母であるためではなく、「善きもの」であろうとし続けた存在だからである。
だから、敢えてイデオンの何処に希望があったかと問われれば、「カララは死んでもやっぱりカララだった」という点を挙げよう。「業」とは「こだわり」である。カララのともすれば天然っぽく見えるまでの「こだわりの無さ」は、「メシア」を体内に宿すことになるまでに純粋だ。ただし、「業」を「業」として理解したうえで、さらに「己れの業」を互いに乗り越えるべくドバ・アジバと対峙する。これこそ「善きもの」としての一つの有り様である。ドバ自身も「業」を理解しているものの、カララとは対照的に「己の業」に従う道を選ぶ。
イデオンにおいて、「業を持つこと」は「知的生命体」にとって不可避のものとして描かれる。「イデ」は「知的生命体」に「業」を持つことを求めつつ、それでも「業」を乗り越える「種」の誕生を望んでいるようだ。それは「イデ」自身を超える存在への希望だからだ。
「善きもの」の希求…それは「イデ」の「業」じゃないですか。
--------------------------------
「イデ」が「知的生命体」の「業」を喰うことで存在できるなら、強い「業」を持ちつつ「業」に縛られない「知的生命体」は良い食料ですなぁ。
Youtubeで「伝説の巨神 イデオンの絶望と希望」というタイトルの5分ほどのビデオがレコメンドされた。おそらくファンが編集したビデオなのだろうが、個人的に引っかかったのだタイトル中の「希望」という言葉。
「イデオン」の何処に「希望」があったのか?
地球人とバッフクランがまさに接触しようとしたとき、「イデ」は「希望を期待」したかもしれない。が、その期待は地球人とバッフクランの「殺し合い」の発生という形であっけなく裏切られる。しばらく様子をみていたものの両者の敵対関係に改善の兆しはなく、「イデ」は両者ともに「種」としては滅ぼすことを決断する。我々が漠然と口にする「命」というものに「イデ」が頓着している風情はない。映画「発動編」のラストが示唆する内容は、「知的生命体の命とは生命体個人の死をもって失われるもの」ではないと、少なくとも「イデ」は認識しているということである。イデオンでは「種の有り様」と「イデの価値観に基づいて善きものか否か」とがほぼ等価に取り扱われている。劇中で使われる言葉、「業」の位置付けも同様である。
「イデ」は地球人とバッフクランという「種」に対してはおそらく絶望した。「メシア」の存在には「次世代の種」への「期待」を持ったかもしれないが、「希望」と呼べるものではない。まだ誕生もしていない「メシア」はそれでも「悪しき種」の一個体に過ぎず、かといって「善き有り様」を示す機会も与えられない。「イデ」は問答無用に二つの「種」を葬り去るのである。
地球人とバッフクランとの不幸なファースト・コンタクトは、カララ・アジバの軽はずみな行動が原因となっている。理想家肌で「善きもの」に近い存在であったかもしれないカララの行動が「二つの種の殺し合い」、ただし「イデ」の立場からは両者は「単一の種」に過ぎない、を引き起こすという発端は誰もが考えるように極めて皮肉なものである。が、ラスト近く、「メシア」に『皆を導いてあげなさい』と語る資格があるのはカララだけである。それは「メシア」の母であるためではなく、「善きもの」であろうとし続けた存在だからである。
だから、敢えてイデオンの何処に希望があったかと問われれば、「カララは死んでもやっぱりカララだった」という点を挙げよう。「業」とは「こだわり」である。カララのともすれば天然っぽく見えるまでの「こだわりの無さ」は、「メシア」を体内に宿すことになるまでに純粋だ。ただし、「業」を「業」として理解したうえで、さらに「己れの業」を互いに乗り越えるべくドバ・アジバと対峙する。これこそ「善きもの」としての一つの有り様である。ドバ自身も「業」を理解しているものの、カララとは対照的に「己の業」に従う道を選ぶ。
イデオンにおいて、「業を持つこと」は「知的生命体」にとって不可避のものとして描かれる。「イデ」は「知的生命体」に「業」を持つことを求めつつ、それでも「業」を乗り越える「種」の誕生を望んでいるようだ。それは「イデ」自身を超える存在への希望だからだ。
「善きもの」の希求…それは「イデ」の「業」じゃないですか。
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「イデ」が「知的生命体」の「業」を喰うことで存在できるなら、強い「業」を持ちつつ「業」に縛られない「知的生命体」は良い食料ですなぁ。
2013/05/10
2013/05/04
"EVANGELION:3.33 YOU CAN (NOT) REDO. "、観ましたよ:補足
補足というより居酒屋での馬鹿ネタ。連休で実家に帰る列車の中で、ふと頭をよぎる。
次作:アシュラ男爵
今作:ブロッケン伯爵(首なしMark 09、ちょっと無理あり)
前作:ピグマン子爵(仮設5号機、かなり無理あり。まぁ、ガンヘッドだろうけどさ)
前作ではパラシュート降下時のマリの恰好が「ふりむかないで」の歌詞まんまで大笑いしてしまったが、今回はその手の小ネタは見つけられず。ちなみにザ・ピーナッツ主演の東宝映画「私と私」のラストは…
次作:アシュラ男爵
今作:ブロッケン伯爵(首なしMark 09、ちょっと無理あり)
前作:ピグマン子爵(仮設5号機、かなり無理あり。まぁ、ガンヘッドだろうけどさ)
前作ではパラシュート降下時のマリの恰好が「ふりむかないで」の歌詞まんまで大笑いしてしまったが、今回はその手の小ネタは見つけられず。ちなみにザ・ピーナッツ主演の東宝映画「私と私」のラストは…
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