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2012/12/07

宇宙戦艦ヤマト2199 OST Part 1を試聴したのですが…

 「コスモタイガー (Wan・Dah・Bah)」には興ざめですよ。ワンダバ欲しけりゃ自分で付けるし、つーか全く要らない。それに全然ハネてないのはなぜ?ストリングスのぐっーーーと入ってくる感じとのコントラストがこの曲のポイントのひとつだと思うのだが。あと「イスカンダル」に相当する曲が無いのも個人的には×。

 全体にコンプレッサ/リミッタ効かせすぎなのか(つまり、音圧重視の今時のポップスのマスタリング。オーケストラに対してそんなマスタリングはもったいないだろう)、もともと音の強弱をつけない演奏としたのか、どの曲も表情が乏しい感じで残念過ぎ。ピッチコレクト効かせすぎて全然面白くなくなったVocaloidの歌の如し。アホ毛もそうだが、なんか変にアマチュアっぽい方向にブレかつ中途半端に過ぎるのが2199のとっても変なところ、もしかしたら本質的にダメなところ。

 一応3秒ほど悩んでみましたが結局買わずに帰宅。今、「不滅の宇宙戦艦ヤマト」のレコード聴いてマス。「イスカンダル」最高。

2012/11/25

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.3でましたよ。

 「宇宙戦艦ヤマト2199/第7話~第10話」のDVD/Blu-rayが発売、さっそく購入しましたよ。

 個人的には、第1話~第6話は制作者側の目指すところが全く見えず、とにかくフラストレーションがたまった。対して、第7話~第10話では印象が大きく変わった。善し悪しは別にして、今時の作り方或いは語り口が押し出され、ストーリー構成はそれとマッチしている。

 第6話までとの差は何かと問われれば、「ヤマトらしさ=ヤマト的アイコン」≒「ああ、これはヤマトだよなぁ的アイテム」への明確な回帰、明確な再持ち込みである。表層的にはオープニングとエンディングの曲の変更、劇中BGMの選択傾向の変化が挙げられる。効能は極めて簡単、「既存のヤマトらしさ」の枠組みは極めて強靭であるから、その中で制作者が多少暴走しようが「ヤマト」であることは保証されることになる。当初の予定通りとは言え、エンディング曲が「真っ赤なスカーフ」になったことを象徴的に捉えざるを得ない。

 第1話~第6話の座りの悪さは、製作側の「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」への距離感がふらふらしているからだ。それもその距離感が、論理的ではなく、感性或いは感覚的過ぎるように感じられる。

 第7話~第10話は、当然「2199」らしさを獲得していくフェーズである。ストーリー的にはオリジナルから離れて「2199のオリジナル」へと向かうことになるが、「2199のオリジナル」故に「既存のヤマトらしさ」との距離感は希薄となり、ふらふら感は出なくなってくる。この状況は第3話以降でも充分達成可能であった筈だが、そうではなかった所にはどうしても断絶感がぬぐえない。「2199のオリジナル」を推し進めていけば「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」との軋轢は無くなっていくものの、それでも「ヤマト」であろうとすると「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」が機能すべく前面に出てくる、そんなところだろうか。「枠組みとしての既存のヤマトらしさ」を有効活用していく方針ならば、これは正のスパイラルである。

 「ユリーシャ=森雪」説はとっくに一般教養化していると思うが、第7話~第10話では、「ユリーシャのこころ・意志=ヤマトの女神=ヤマトのこころ」と「ユリーシャの肉体=森雪の肉体」或いは「森雪の肉体=ユリーシャの肉体のコピー」といった可能性が強く示唆される。スーパーナチュラルな「ヤマトの女神」の描写は論理性に乏しく安易にしか見えないが、それが今時の作法ならばしようが無い。で、私が読みとったものが正しければ、残りの「森雪のこころ」が物語的にどう回収されるのかが興味あるところだ。「友よ」ではなく「私よ」となるのか、それとも「森雪のこころ」は切り捨てられるのか?「森雪のこころ」の表層的な消失、一時的な回復、カタストロフ的状況による一見真の消失、真の回復または回復への希望(アニメ映画「メトロポリス」の展開がこの構造の一バリエーション)なんていう展開は手垢が付き過ぎているので勘弁願いたいが。

 記憶があいまいなので間違っているかもしれないが、アニメ「エルガイム」のプリプロ段階でデザイナーの永野護氏が「へヴィーメタルの頭部には実は人間(女の子)が取り込まれている」という設定を出し、監督の冨野氏が拒絶したという話をどこかで読んだことがある。個人的には永野氏のアイディアは極めて薄気味悪く、生理的に受け付けられない。「人間=機械」論に近い立場を取る私ですらである。この種の設定は世界観に取り込んだ上で物語的にきっちりと回収しない限り、見世物小屋のキワモノみたいなもので終わってしまう。「自動航行装置=女の子=人形」的小道具に終わらないことを切に願う。例えば「事故によって植物状態⇒当人の命を救うため生命維持装置と接続」までなら救いがあるが、さらに自動航行装置への接続なんてのは「植物状態の女の子≒人形」が透けて見えてしまう実に変態的な取り扱いですよ。

 それと、対ガミラス反乱勢力または反デスラー勢力とヤマトとの共闘の可能性もうっすら示唆されているやに思う。「名将ドメル、二等臣民艦隊/軍内の反デスラー勢力の反乱によりテロン艦に敗れる」、とかね。「ヤマト一隻であの大帝国が倒せる筈ないでしょ」ってあたりについては制作者側も何か考えてるはずでしょうから。

2012/11/04

今さら「SPACE BATTLESHIP YAMATO」について「BSG」も絡めて

 「SPACE BATTLESHIP YAMATO」は説明するまでもなくキムタク主演のあの映画のこと。中古DVDを入手して今さらながら、ただし真面目に観た。

 「BSG」はBATTLESTAR GALACTICA(バトルスター・ギャラクティカ、宇宙空母ギャラクティカ)のことで、ここでは21世紀になってリメイクされたTVシリーズを指す。日本では全くブレークしなかったが、シーズン5まで作られて無事に完結した。日本でブレークしなかった原因についての考察はBSGのスタッフとのメールのやり取り内容を踏まえて改めて書くつもりだ。

 YAMATOを観てとにかくまずいと思ったのは、BSGの影響が陽にそこここに見られたこと。

 パイロットが首に付けている銀色のリングやパイロットスーツはほぼBSGそのまんま、少しはデザイン捻れば良いのにというのが正直なところだ。YAMATOがイスカンダル/ガミラス星に急降下して地表面近くでワープするシーンは劇中の見せ場の一つだが、すでに同様のシーンがBSGのニューカプリカ戦で描かれている。

 また、放射能除去装置の当てもないのにYAMATOでイスカンダルに向かう沖田艦長の行動は、伝説の星・地球が存在する当てもないのに「その星は有る!場所は軍の最重要機密として隠されてきた!」と言い放ったBSGのアダマ司令の行動に似ていると言って良い。沖田艦長の行動はストーリー上の重要などんでん返しであり、これまでのヤマトに対して新規性なり差異化の胆になる要素にも関わらず、そこにオリジナリティが無いとなればダメージは大きい。

 YAMATOでは沖田艦長の賭けが実を結ぶ形で放射能除去装置に比するものを手に入れることに成功する。他方、BSGではアダマ司令達はストーリー上の後世で「地球」と呼ばれることになる惑星に辿り着く。が、BSGにおいてGALACTICAが地球に達するまでの経緯はグダグダで実際のところ全く感心できない。このような観点からは、沖田艦長なりアダマ司令なりの当初の行動の結果をストーリー的にちゃんと回収しているのはむしろYAMATOの方だ。とは言え、共にストーリーまたは脚本に残念な点が有る事実は変わらない。

 YAMATOにおけるイスカンダル/ガミラスの取り扱いは英国のSFTVシリーズの多くを知る身からは陳腐としか言えないアイディアだが、ストーリー上は充分に機能していると思う。ただし、セリフによる説明にほぼ全て頼った点は先達と同様で、特段新しい何かを為したわけではない。この手のややこしい状況の説明をセリフに極力頼らずに描くことに成功したのは映画「マトリックス」ぐらいだろう。

 個人的には、「イスカンダル」と呼ばれるモノが「イスカンダルという呼び名は沖田という男が勝手につけたもの」という旨の発言をしたところが面白かった。この手の「そりゃそうだ」という設定上の必然が、これまでの多くの映画やTVシリーズの脚本で無視されてきたのも事実だからだ。同時に、「私はイスカンダルのスターシャ」「私はテレザート星のテレサ」といった従来のヤマトにおけるセリフの機能の一つが「目的地が必ず存在することを劇中の人物のみならず視聴者にも保証すること」と見なすこともできそうだ。西遊記の登場人物や読者はまず「天竺」の存在を疑わない。

 「『イスカンダル』は実は無かった。が、それに相当するモノはあった。」と従来ヤマトのお約束ストーリーとの一応の差異化には成功したかにも見えるYAMATO。しかし、「『地球』は実は無かった。が、それに代わる惑星に到達することができた。」というBSGに限りなく近い。

2012/11/03

奥さん、コスモゼロですよ。

 コスモゼロの3Dモデルがだいたい出来上がり。松本零士原案-スタジオぬえクリーンアップの最初のデザインに対する幼少時からのイメージと私のモデリングテクニックとの妥協点の産物故、「マイコスモゼロ」化は避けらない訳ですが。

 もともとアニメのメカだし…とか言い訳しながらテクスチャーは少なめです。と言うか、そもそも私の脳内のコスモゼロにはほとんどマーキングやパネル割りなんて無い訳で、テクスチャーを追加する度に違和感が増すというのが本当。ざっくり10分ぐらいででっち上げたパイロットの頭部がわりと古代進っぽくできてちょっとばかり幸せ。

 製作過程で少し驚いたのは、コスモゼロのデザインに対して海外含めてロッキード F-104 スターファイターを連想する人が多いこと。私自身は「機体銀色→センチュリーシリーズ(F-100~F-106)」程度の感覚は持ちつつも、むしろ「機体断面が円形じゃない、何か機首付近が複雑で訳分からないことになってる→F-104とは別物、いやこれはF-104的デザイン(いわゆる三菱鉛筆)に対するアンチテーゼだ!」という感覚の方が強いのですよ。キャノピーフレームとかはMiG-19の方がよっぽど近い気もするしね。

2012/09/18

「宇宙戦艦ヤマト2199」のどうでもいい所が気になるという話

 タイトル通りのお話です。オリジナルのヤマトを知ってる年齢なのですっかりものぐさ者、本編(BD)と公式サイトしかチェックしてませんので為念。うっかり「コスモファルコンは1式」などとボケてしまわないようにチョイとググっててみたのがきっかけです。

 コスモファルコンは実は99式、2199年正式採用の新鋭機ですね。エンジンノズル形状は約200年前の古いデザインに見えなくもないですが。零式のコスモゼロと100式偵察機は2200年正式採用決定済みで、ヤマトには最新鋭機として初期生産機をとにかく搭載した、というあたりで個人的には納得。零式と100式の呼称の混在についてはここでは取り合えずスルー。あ、SC97輸送機は2197年正式採用ですね、きっと。

 で、3式実体弾。

 2103年正式採用のほとんど100年前の設計ってことで宜しいでしょうか?それならそれでも良いですけどね。「3号弾」だったらミリタリー系に詳しくない者としてはスルーしてましたが。

 ショックカノンが捻じれたり捻じれなかったりより、3式弾という呼称が引っかかる今日このごろ。