2013/07/14

3DCGにおけるカメラの回転軸についてのメモ

 Youtubeなどにアップロードされているアマチュア製作の3DCGムービーを観てしばしば感じるのは、「カメラの動き」への意識が低いこと。善し悪しではなくて、勿体ないという話である。

 今回はカメラの回転軸についてだけ、思うところを書いておこう。

 まず以下の話で必要なカメラの要素をはっきりさせておこう。カメラにはフィルムなりCCDなり、レンズを通して入射してきた光を受ける部分がある。これを便宜上「受光面」と呼ぼう。受光面の中心からレンズの中心に向かう直線の向きを同様に「カメラの向き」と呼ぼう。これら二つがあれば事足りる。

 さて、私が使っている3DCGアプリLightwave3D(以下、LW3D)のカメラのデフォルトの回転中心は受光面の中心に相当する位置にある。他のアプリでも同様かと思う。だが、実際にそんなカメラセッティングは可能なのだろうか。上述の「勿体なさ」の原因はデフォルトの回転軸をそのまま使うところにある。

 例を挙げよう。砂漠の中の直線道路を車が疾走しているカットを作ることを考える。より具体的に言うと、カメラマンが道の脇でカメラを構えている設定で、「遠方から高速で迫って来る車→目の前を通過する車→高速で遠ざかっていく車」をカメラの向きを車の位置に合わせてを回転させながら、いわゆるパンさせながら、撮影したようなカットを作ることを考える。さらに、車や背景のモデル、ライティングは完璧、静止画で見る限りはリアルそのものという条件、車の動きもリアルそのものという条件を加えよう。

 LW3Dでは、カメラが特定のオブジェクト(ここでは、車のモデルで良い)の中心位置に常に向くように設定できる。こうしておくと、カメラは車の動きに合わせて自動的に回転する、つまりカメラの向きは常に車の方向に向く。このような設定で作られたカットでは、意外と違和感は出ない。別の言い方をすると、意外にCGっぽくはならない。

 出来上がったカットを観た製作者は、例えばこんなことを考える。

 「カメラマンは家庭用ビデオカメラを使っているのだ。カメラの手ぶれの効果でカットに臨場感を加えよう。」

 「手ぶれ」のシミュレート方法はここでは問わないこととして、とにかくカメラの位置は変えずに、カメラの向きが良い塩梅に揺れるように設定できたとしよう。が、その結果得られたカットは逆に「リアリティ」を失ってCGっぽさを獲得し、勿体ない状態となる。それは何故か?

 ここで「家庭用ビデオカメラ」はカメラマンの右手で構えられており、さらにカメラマンは「家庭用ビデオカメラ」の左側面から立ちあがっている液晶画面を正面から見ているとする。このとき、カメラの受光面はカメラマンの腰の回転軸(軸の向きが上下方向)に対して右前にあることになる。このような状況下では下記のように「リアリティ」が失われる。
  • 「手ぶれ」があるならば、ぶれの回転軸は手首、肘、肩などとなるが、いずれにしてもぶれの「回転軸」は受光面中心をまず通らない。つまり、「手ぶれ」によって受光面の中心位置が変わらなければならない。
  • 「手ぶれ」があるならば、カメラはカメラマンの手で構えられている。この場合、車の通過に合わせてカメラの向きが変わる際の回転軸は腰の回転軸でなければならず、パン時の「回転軸」は受光面中心を通らない。
つまり、「手ぶれ」を導入するとカメラの回転軸が複数あることが露わとなるため、「手ぶれ」とパンの回転軸相互の関係を適切に設定しておかないと「あり得ないカメラセッティング」と認識されてしまうということだ。

 対して、「手ぶれ」効果を加える前のカットには、「あり得ないカメラセッティング」を視聴者が認識するような情報が基本的に含まれていない。もっと言えば、「カメラという物理的な存在が無くても」成立する、或いは「カメラという存在があってはならない神の視点」とでも呼ぶべきカットなのである。「手ぶれ」効果は「カメラという物理的な存在」無くしては成立しないし、パンの回転軸が受光面中心を通るような精巧なカメラセッティングと「手ぶれ」の発生は「リアリティ」として相容れない(想定が実質的に困難という意味)。

 昔の8mmカメラによるホームメイドムービーのパンなどの回転軸は、基本的に受光面の後方にある。これはカメラマンがファインダーを覗いており、左右・上下方向への回転軸は首及び腰にあるためである。回転軸が受光面の後方にあるため、パン操作時には回転に合わせて「受光面の向きだけでなく位置も動く」。カメラの動きにリアリティを与えるためには回転軸の設定に心を砕く必要があるということ、逆に言えば、例えば「8mmカメラによるホームメイドムービー」風のカットにするひとつの方法論は、カメラの回転軸の位置と向きを「リアリティ」としての8mmカメラにまず合わせて設定することである。

 "Battlester Galactica"の初期エピソードのVFXカットでは、カメラ回転軸設定に「リアリティ」を感じさせるカットが多々あった。このような「専門のカメラマンではない人間によって撮影されたドキュメンタリー」風の絵作りはその後流行り、相当の時間遅れを伴ってNHK大河ドラマでも見られるまでになる。しかし、実際に多く見られたのは「『専門のカメラマンではない人間によって撮影されたドキュメンタリー』風」風の映像に過ぎず、国内外のプロにあっても本質的なところを外しちゃうんだという状況が露わになっただけのようだ。本家"Battlester Galactica"もVFX製作体制の変更(予算縮小により、VFX専門会社へ外注できなくなったのが原因とされる。)などを経るうちにカメラ回転軸の「リアリティ」は完全に失われる。"Blood & Chrome"のVFXカットの酷さ(神の視点か、カメラの存在という「リアリティ」を備えた映像か、といった意味での明確な方向性の無さ)は、過剰なレンズフレアの使用も相まって、心有る人ほどがっかりさせたようだ。

 8mmカメラには8mmカメラの、映画カメラには映画カメラの「リアリティ」がある。ここで「リアリティ」とは、受光面と回転軸の向きや位置の相対関係が映像に与える効果である。更に言えばレンズ焦点距離(或いは画角)の設定もカメラやカメラセッティングの「リアリティ」に関わる重要な要素だろう。

 アニメなどで、フレームが固定された状態では極めて映画的な絵(映画鑑賞体験の記憶と一致する絵という意味)なのに、フレームが動いた途端に映像が映画的でなくなるという経験をしたことがないだろうか。個人的には上述の「リアリティ」の欠如が原因である場合が多いように思うのだ。

 TVドラマや日本の旧来のセルアニメの方法論は、「神の視点」に寄っている。まずフレームがあり、その中に登場人物をどのように配置するかというアプローチ寄りということである。片や少なくとも「私の記憶における映画」の方法論は、出演者の演技する空間の一部をどのようにカメラのフレームで切り取るかというアプローチに寄っている。いわゆる「カメラ固定の長回し」でも映画にあってはアプローチは同様である。

 TVドラマはカメラに合わせるが故に映像にカメラの存在感が希薄となり、「私の記憶における映画」ではカメラが合わせるが故に映像におけるカメラの存在感が増す、とも言える。これは、相対的に短時間でカット数をこなさなければいけなかったTVドラマと、出演者の演技と相互作用しながらのカメラセッティング調整を当たり前としていた映画との如実な違いかと思う。映像というアウトプットに影響しないならば、カメラセッティングに時間をかける必然性はないよね。

 まぁ、黒澤明氏や岡本喜八氏などはちょっと例外ではあるんだけどね。

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