内容盛りだくさん+新たな伏線張りに終始する感じで、Vol.3や4みたいにダレたところがなく、全体としては好印象。総統暗殺事件はやっぱりやったか。
森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。
第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。
ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。
艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。
個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)
「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。
詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。
念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。
以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。
ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。
オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。
細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。
ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。
あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。
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