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2018/07/02

ひそねとまそたん、終わり

 らしいっちゃらしいが、もう何も説明はしないまま終わりにしちゃうんですか。なるほど分らん。そういう方向では面白くなかった・・・のか、何か大事なものを見逃しているのか。すとんと落ちる、またはコペルニクス的転回、というカタルシスは皆無、嗚呼。

 「当たり前」を「価値観を伴うもの」ではなく「個人の単なる認識、形式的な解釈、思い込み」というレベルでしか描いていないので、人物像が薄っぺらくなるし、ひそねによる「『当たり前』の破壊」もカタルシスが無い。「価値観の破壊」なら大インパクトだが、単に「誤解が訂正された」みたいな展開ではねぇ。実際のところ、ひそねとまそたんの周りで「運命の転回」や「再生(=Re-birth、個の死の初の意識的な拒絶)」が多数発生した訳なんだけど、描き方が淡白と言うか、もったいないと言うか。

 映画や小説の「帝都物語」や「陰陽師」をご存知の方なら直ぐにお分かりの通り、こういう儀式上の「贄」は1000年以上前に「式(式神)」や「ヒトガタ」で十分に置き換えられ得る訳で、現代においてもあの形態、儀式化の進んで無さというのは1000年以上ぶりとかならともかくもやっぱり良く分らん、と言うか納得いかんと言うか。

 結局肝は鈴やんけ、誰でもええんやで、龍といっしょなら何も失うことなく帰還できるんやで(なぜか三カ月必要だが)、では尚更「生贄」が必要との説得力が無く、なんとも筋が通っていない、一貫した思想が見えない。これでは「ひそねの機能」は「神(超越者)」か「英雄」になってしまっている・・・あ、「英雄」ならアリなのか、ルーク・スカイウォーカーとアーキタイプを共有するような西洋的な英雄ではあるのだが。

 まぁ、古神道と陰陽五行思想は別物だから、道教とかも交じってるから、とか思いつつも、陰陽五行思想的・正方形+中心点のシンボル(龍達の配置)、五芒星的シンボル(祭壇、これも陰陽五行思想的?)、六芒星的シンボル(楔女銭選定儀式で用いた図版、加茂家ではなく安倍家系?)ともに使われるとか、これは何らかの混乱や適当なだけなのか意図されたものなのかどうか・・・真面目に考えたら負けっぽいですけどね。

 ひそねの帰還がイザナミの黄泉がえりとはなってなかった?(画では見せてくれてないからね)かのようなので、まずはめでたし。後はジミーとキングダム(汗)になんかあるかな、ぐらい。

2018/06/24

あ、結構ふつー(続)

 アニメ「ひそねとまそたん」11話を観ていない方にとってはネタバレを含みます。

 うん、少なくとも11話終了までの描写では、「マツリゴト」が 「ゴジラ」でも引用された「禍神の鎮めの儀式の変遷過程」ともまた違った、なんか訳の分からないものと神道儀礼っぽいものとの混交物であることが分かった。「ガメラ3」が近いのかもしれないが、あれもさる筋との牽連性は思わせぶりなだけだったし、矛盾だらけだったし。何れにしても「華夷思想に合わせた日本の歴史、皇室解釈」みたいな居心地の悪さ、適当さは辛い(あれだ、欧米研究者の歴史学関係書籍で頻出する「・・・と中国の研究者は主張しているが、全ての研究者が賛同している訳ではない」ってやつに近い)。

 「ゴジラ」の場合、最初の舞台となる孤島・大戸島では、映画でも描かれているように禍神を鎮めるために雅楽の奉納が行われる。この儀式形態はかなり神道的である。一方、土俗的な鎮めの手順として、若い娘を筏に乗せて海に放つ、という風習が以前は為されたとされる。これはまごうことなく生贄の儀式であり、神道とも関連しない。

 一般的に両者がどちらも行われることは無い。理由は簡単、目的を同一としつつも、上述した通りに儀式と風習の起源が全く違うためである。生贄を伴う土俗的風習が(後からやってきた)神道的儀式に置き換えられたというのが、ありがちな歴史的流れだろう。ゴジラを作った世代の人、特に原案を担当した作家・香山滋さんなどはこの辺りがちゃんと分かっていた筈だ。もっと言えば観客の多くも分かっていた筈だ。「大魔神」シリーズでも神(大魔神)はそれが生贄は求めない(生贄の代替である兵士型の埴輪の形をした御神体が生贄を求めるとか、なんという有り得ないシチュエーションか)。

 そもそも、生贄を伴う土俗的風習にも発生起源がある筈だ。時代の推移とともに数を減らしつつも、大戸島の周辺には以前から後にゴジラとなる生物群が生息していた。生物群の食料は回遊魚だが、回遊量が少ない年には漁師の船が襲われたり、大戸島へ上陸して家畜や住民すら襲うこともあったかもしれない。そんな状況下で漁獲量が少ない年に筏で生贄を海へ送り出すことを繰り返したところ、生物群による被害の低減や根絶といった実効がみられたため、生贄は土俗風習化した。その後も風習は続くが、おそらく件の生物数の更なる減少を原因として、風習の実行性は実は失われていた(不要になっていた)。この段階まで至れば、生贄を伴う風習を「生物群を禍神と見做し(宗教普及のためにそういうことにして)、それらを鎮めるための雅楽の奉納」に置き換えてもなんら実害は生じない・・・実益は土俗宗教の神道化、神道の勢力拡大くらいである。そして生贄の風習が失われて幾星霜、「ゴジラ」登場直前までの日常が形成された訳だ。生物群はひっそりと絶滅していた、或いは絶滅する筈だった。が、核兵器開発競争が全てを変える。それが「ゴジラ」という物語のスタートラインだ。

 劇中、ジョアおばさんは「生贄」という表現を使う、「人柱ですらなかったのか」と正直驚かされた。「柱」は神の数を数える時の単位でもあることから分るように、神扱いとして祀る対象ともなる。個人的理解では神道的には人柱もアウト、生贄は論外。まぁ、「楔女が人柱である必然性すら否定した」先行するエントリの妄想内容は壊滅的に大外ししたということになる。

 いやはや、「マツリゴト」にこれほど神道色が無いとは思わなかった。「龍が出てくるんだからしょうがない」と言ってもね、宮内庁の名前を引っ張り出してまでこれはどうなのかな。宮内庁の登場は「生贄」や「人柱」の封印宣言と解釈していたのでどう持っていくのか楽しみでね(生贄は安易すぎるでしょ?)、どちらも神道とはなじまないので・・・と12話で大逆転ですか!?(まだ諦めていない)

2018/06/17

大妄想、「ひそねとまそたん」

 今回はただの妄想。ちなみに9話段階です(追記(2018/6/19):やっと10話が見れました。ジョアおばさんの口から「想い人」という言葉が出てきてビビり、予告も一見微妙・・・さて?)。

 五行、四神がらみになるともはや宮内庁管轄になり得ない、手順が分からないからである、とオカルト好きの間では80年代には既に言われていました。

 これは、「皇室の五行関係、特に風水に関わる秘術書類を江戸幕府が江戸整備時に借り出し、そのまま返さなかった。いわんや、それら秘術書類はその後行方不明となっている」なる話があったからです。もちろん、真偽のほどは定かではありません。なお、最終的に日光東照宮に家康公を祀ったのが、上記の秘儀書類の内容に基づく最後の祀りごととも言われていました。

 秘儀書類は皇室秘伝、かつそれらに含まれる智こそ皇室の力の源泉と見做す向きには、
  • 秘儀書類を返さなかったことにより、皇室の力(特殊性)を削ぐことに成功
  • 秘術書類中の智に基づき、風水的にも治水などに優れた都市を構築
  • 秘術書類中の智に基づき、家康公による江戸幕府、都市としての江戸の守護体制を構築
という具合に、江戸幕府の皇室に対する陰湿な仕打ちと解釈する人達もいます。ちなみに中華起源でオリジナルに近い風水では火山(そもそも中華には無い)、大地震(そもそも中華には無い、広州や四川は別地域)が考慮される筈もないので、江戸同様に東京も当然これらの災害への風水的な備えは著しく貧弱なのです。そもそも湿地帯と海浜埋め立て地ですからね、河川をいじっても地震や火山噴火後の降灰、更には大量降雨に対しても脆弱です。これらもあり、個人的には香港、台湾、沖縄経由の風水/家相学が好きです。海洋、台風、地震も考慮されていますので。

 と言う背景も更にあったため、例え「まそたんが青龍に見えようとも」(嗚呼、認めるとまるで平成ガメラシリーズになってしまう・・・)、「マツリゴトが宮内庁管轄とはなり得ない」旨を以前のエントリでは述べました。うんまぁ、うまく誤魔化されていたのか、こっちが真面目に考え過ぎていたのか、とか色々あるんでしょうが。ちなみに防衛省内や自衛隊内では「防衛事務次官」を「事務次官」と省略して呼んでいるのでしょうかね?(学生、学者、チーフエンジニア・・・秘密の陰には色々な呼び名が使われますからね、再軍備宣言前のナチスドイツ、ロケット開発競争時のソビエト連邦・・・)

 で、それでもなお宮内庁管轄と言うならば、マツリゴトの起源を中華に求めず、日本で咀嚼した五行の考えに基づく手順を加えた日本起源の「祀りごと」とでも解釈するしかありません。

 ならば古事記などの国生み神話にでも起源を求めましょうか。例えば、既に劇中に登場した孤島こそが「オノゴロ島」だった・・・とかね。

 国生み神話をベースとすると、一組の男女神、イザナギノミコトとイザナミノミコト、が祀りごとに必要となりそうですね。劇中での候補は、イザナギノミコト(男神)役はほぼ決定(順当に考えれば。が、本エントリ最後まで読むと2人になります)、イザナミノミコト(女神)役は2人(順当に考えれば。が、本エントリ最後まで読むと3人になります)って感じですか。

 「祀りごと」において「男女間」の恋愛感情が「一時的にでも」許容されるのはイザナギノミコト役とイザナミノミコト役だけになります。彼らは依り代である必要はあっても、人柱となる必然性はありません。ただし「楔女」という表現はおどろおどろしいので、「楔女」の帰還は次回の「祀りごと」となる(つまり70年以上後)ぐらいのことは覚悟しないといけないかもしれません。ジョアおばさんの生きがいは「かつての想い人であった『楔女』との再会」かもしれないのです。

  対して、イザナギノミコト(男神)役は「家」が受け持ちます。つまり「祀りごと」において帰還することが前提の可能性が高いと考えられます。これはいわゆる「イザナギノミコトとイザナミノミコトとの結婚(汗」が起きないということであり、換言すれば「国生み」失敗以外の何物でもありません。イザナミノミコトは儀式として失恋を強制され、最後の最後で「黄龍/麒麟のための作られたDパイ」とでも言うべきものになります。

  ならば「祀りごと」の手順として、
  • 新たな位置にオノゴロ島、またはオノゴロ島と成り得る存在を置く
  • オノゴロ島、またはオノゴロ島と成り得る存在の上で、イザナギノミコト役とイザナミノミコト役は天御柱巡りまでの「国生み」の過程を演ずる/舞う
  • イザナギノミコト役とイザナミノミコト役は「結婚」せず、オノゴロ島、またはオノゴロ島と成り得る存在イザナミノミコト役(楔女)のみが残る
  • 文字通り「楔女」を楔とし、オノゴロ島を固定する
 という可能性が考えられます。

 「国生み」の「失敗」により、「すでに現存する日本」は破壊されたり消滅したりすることも無く安泰となります。 まぁ、自国消滅の可能性があるのなら、「祀りごと」の予算がどうのこうのという議論になる筈も無いので、そこまでラジカルな話では無いのでしょうけどね。それでもなおリスクはあります。その一つは、楔女が「儀式における自分の役割」を全うしない、むしろ拒絶する場合です。このとき黄龍/麒麟は楔女を受け入れず、望まない形での「国生み」の「失敗」するのか、逆に黄龍/麒麟は楔女を受け入れて「国生み」のプロセスが再現されたことになるのか。

 再確認。ここで言う「祀りごと」とは、「国生み」のプロセスを模して儀式化された、「国生み」とは別の、或いは全く無関係な一種の祈祷儀礼であるということ。中華から輸入した龍を用いているものの歴史的に日本で為されてきた祈祷儀礼故に「国生み」と関連付けられているが、オリジナルの(中華での)祈祷儀礼の視点からは劇中の孤島は北極星(天)の地上への転写(例えば遷都や都作りの一手順に対応するかの如き手順と言うことに過ぎず、当然儀式上の意味は全く違う)と見るべきかもしれない。まるで彗星を見ながらの占星術や、川のある古都の発掘となると必ず北斗七星や北極星に相当する地形や建築物を見つけてしまう/見つかってしまう某大陸国みたいですけどね。

 では、上記の「国生みごっこ」を前提とした場合のこの先の物語展開として、どんなことが考えられるでしょうか。まず大事なのは「ひそねとまそたん」という作品が、「今回の祀りごとが終わる」までの話なのか「最後の祀りごと」の話なのかです。

 前者については、今回の楔女の暴走によって「国生みごっこ」が成功しそうになるなど、様々にクライシスな状態が想像できますね。でも可能性が多すぎてここで書いたところでねぇ・・・と言う訳で、超妄想版の後者のケースの一例のみを書いておきましょう。
  • 「国生み」プロセスの再現は手順として完遂され、「祀りごと」は失敗する
  • 「国生み」のプロセスは完遂されるも、「国生み」自体は進行しない(=「祀りごと」失敗のペナルティは発生しない、と言うか文字取り進行しないのでペナルティ発生がペンディング状態となる)
  •  ペンディング状態におけるイザナギノミコト役とイザナミノミコト役は、ジョアおばさんと先の祀りごとにおける楔女である
 まぁ、「結婚」の意味を広く捉えましょう、最後は愛が勝つ!ってね。

 でも我ながら全然こんな感じになる気がしないのは、どこか前提が間違っているし、考えていない足りない要素もあるからでしょうね。

2018/06/08

あ、結構ふつー(のぞみはまだ捨てない)

 「ひそねとまそたん」、「龍」ねぇ・・・ということで当初予測していた展開に明らかに近づいていって、う~ん、どんどん意外性の無いふつーな展開になっていくという・・・。

 私の世代は「帝都物語」が流行った時代なども経た関係で、東洋史(というか中国史という変な構造)や五経、 陰陽道に詳しかったり影響を受けた人間が、他の世代に比べれば多いのではないかと思います。私は天文(=陰陽道)、および易経と風水と神道系の祈祷(「神道祈祷体全」なる本もあったりしましてね・・・)を中心に兎に角書籍を収集し、読破し続けた過去があり、龍神信仰周りも守備範囲となります。その代わり、密教とか仏教系は全然知識がありませんし、「国家神道」などと呼ばれる意味の分からない存在は「私にとっては神道とは無関係」なので歴史・社会的な意味でしか知識はありません。あ、古事記、日本書紀、宇治拾遺などの怪異譚集、更に朝鮮半島を経由していない(つまり本来のままに近く、意図的に曲解に曲解を重ねたような変形を伴っていない)儒学もお忘れなく。

 ですので、思うにこの種の同じような(オカルティックな?)知識バックボーンを持ち、同じようなアニメ含む映像、文章作品に触れていると、似たようなアイディアに行きつく可能性は否定できないと思います。

 伝説中の巨獣の胎内に取り込まれた少女による操縦(と、服は解けちゃう♡または服着てちゃ駄目♡)までは約30年前に同人誌の漫画で私もやりましたが、(これは面白いと思った)自衛隊機への偽装とか思いつく筈も無く、当然ながら「龍」を宮内庁管轄の神事の対象とすることも考えませんでした。これは、「龍神」は禍つ神に含めずに神道外の存在とし、「神道系祈祷」の力(または礼)によって神として祀り上げると同時に、その力を封じたものとの当時の私の解釈に基づきます(所謂「国学」は学問でも無く、神道本体とも関係無いので無視)。またこの構造、実は「ゴジラ」を「禍つ神」、或いは「璽の守護神」として神道、と言うより日本の国体に関わる枠組み(ここは意図的に曖昧な表現とします)に取り込もうとした(プロのアニメ制作者を含む)とある人らのアイディアを余りに不快に思ったため、アンチテーゼとしてのアマチュアなりの抵抗の意味合いもありました。

 まぁ、「ひそねとまそたん」では「禍つ神」の存在に関する伏線が最初から張られまくっていたので、「どんどん意外性の無いふつーな展開になっていく」こと自体は十分に予想できていた訳ですが・・・ですからね、逆にそうじゃないって信じたかったんですよ・・・あ~あ、巫女まで出てきちゃいましたよ・・・

 ですので、宮内庁の登場で上記のようなかつての「ゴジラ再解釈」に近いニュアンスが「ひそねとまそたん」に加わったのは、個人的には実は結構不愉快だったりします・・・単純でつまらなく、もしかすると知が欠如しているかもしれないからです。

 映画「ゴジラ」では、最初の舞台となる大戸島でゴジラを神とみなしての雅楽や舞が行われるシーンがあります。しかし、神事として雅楽や舞の奉納と、禍封じの神道系祈祷としての雅楽や舞の奉納は全くの別物ですので注意が必要です。私の父方の実家は基本的に神道ですが、土俗宗教との混交があるため一部の祭事は変形しています。変形された祭事自体は未だ「神道の枠内」ではありますが、手順などが違う訳ですから「宮内庁の管轄」にはなり得ませんよね。

 この期に及んでは、

「ひそねとまそたん」が「ゴジラ」になりませんように

ひそねとまそたん」が「ゴジラのリメイク」と作り手が言い出しませんように

「ひそねとまそたん」が「平成ガメラ3」になりませんように

「ひそねとまそたん」が「大魔神(土俗信仰との混交、人身御供の要求)」になりませんように  

とお祈りすることぐらいしかできません・・・かの存在が「実は禍つ神では無かった、故に・・・」という展開の可能性もまだ残っている・・・きっと・・・きっと・・・ まだ・・・せめて封ずると奉ずるの違いを正しく・・・あ、「マツリゴト」に祖語が出ないとドラマにならないということは ・・・「トップをねらえ2」もやめてねお願い・・・

2018/06/02

「黒い恋人」ったぁ穏やかじゃぁねぇよなぁ

 「銀河英雄伝説 Die Neue These」はすぱーん!と切ったので、リアルタイムで追いかけているアニメシリーズは「ひぞねとまそたん」だけになりました。

 もう折り返しですか。最新回は、小ネタはともかく、本筋からみのネタはちょっと盛り込過ぎかも・・・今後急ぎ足感が出ないと良いのですが。莉々子の行動描写のケレン味具合は最新回ぐらいが好みで、無人島回の雨乞いの祈り?踊り?未満で抑え続けていただきたい。

 さてこの楽曲、「テヘペロ!」とかやっても違和感の無い声質、演技の方向性のキャラ程向いているという思いが個人的にありました。予測は、名緒(セクスィーーーーージャガー!)はそのままテンションでOK、ひそねは照れを振りきるようなひと頑張りが要(か、頑張り切れないままという方向性を意図的に狙う)、真弓は如何にものそのままのテンションで真弓流の出来(良い意味でのやってみました~やり切ってしまいました感を狙う)、という感じでした。では莉々子と絵瑠は・・・想像はできたのですが商売上はどうかなぁ・・・といった微妙なものに。

 で、最新回のED曲 Le temps de la rentrée~恋の家路(新学期)は「莉々子ver.」・・・「いやぁ、莉々子単独だとやっぱりこうなるか(こうするか)」って感じで100%良い意味でのたうち回りながら聞かせていただきました。ピンポイントで良いトコ直撃。

 一方、少なくともiTunesで購入できるCDシングル(という電子データのパッケージ)には「絵瑠ver.」がありません。これは物理的実体としてCDシングルでも変わらない様です。で、私がここで言いたいことは 、「絵瑠『単独』ver.」が欲しいっとか無いのがおかしいってことではなくて、

 この楽曲に(劇中のキャラとしての)絵瑠の声質は合わない!合わなすぎる!

という確信が私には端からあったので、もしや・・・と思ってしまったということです。すべてが善意に基づく行動や頑張りの結果であろうと、誰も幸せにならない結果が生まれ得るのがこの世界です、嗚呼。

 ちなみにパッケージはインスト込み11曲収録予定との事前情報もあった中、リリース版の収録曲数が10曲と1曲少ない事実はあるんですよ・・・誰か理由知りませんか?

p.s.
 さて、日本発紹介時には”la rentrée”を「新学期」ではなくて「帰り道」と誤訳、タイトルに”(新学期)”が付いていなかったという話は本当ですか?この辺りの真偽も誰か知りませんかねぇ?

 この話の面白いところは、「タイトルの間違いを正さず、”(新学期)”を付け加えることで間違いを誤魔化そうとした結果、エラく不自然なタイトルになった」可能性があるってところ。恥の上塗りを2回やった上で未だ、そしてこれからも恥ずかしい状態な訳です・・・ちなみにブログ主が歌詞の訳に挑んだところ「今はバカンスで会えない彼と、新学期にはいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしちゃうんだからね!」って感じの結果を得たのですが、真相は一体・・・

2018/05/26

「ヤクルトおばちゃん」じゃなくて・・・

「ジョアおばさん」でした。あ、アニメ「ひそねとまそたん」でのことです。このエントリ中でDパイの可能性ありと触れた際に「ヤクルトおばちゃん」と呼んでます。

 ドラゴンが5匹になったら(陸軍新司偵?追加?!)空中にスモークで五輪描けますね、おばさん抜きでもDパイは既に5人いる訳ですし・・・「白い恋人たち」説、実はまだいける?

 ・・・まぁ、「あの夢」はかってはジョアおばさんの心の一部であって、ドラゴンを介してあの無人島に封じられたもの・・みたいなところではないかと解釈してますけどね。

2018/05/19

白い恋人「たち」にならず

 アニメ「ひそねとまそたん」、まぁ赤塚不二夫チックな部分は作品上必要なんだと納得することとし・・・が本題ではなくて、「白い恋人」ネタ→ED曲がフレンチポップ曲のカバー→フランス繋がりでフランス映画「白い恋人たち」ネタといった流れを予測していたら全くの大外し、あっさり別のお菓子が出てきてしまって完全に別方向・・・残念。

 映画「白い恋人たち」は冬のオリンピックの記録映画で、原題の日本語訳は「フランスの13日(13日間)」。オリンピックも一種の祭りじゃん、とか考えてたんですがねぇ・・・無念。

 まかり間違って「鉄雄」とか「28号」とか出てきたらどうしよう、とも不安になっていたので・・・一安心。

 防衛事務次官は特別職であり単純に事務次官と呼ばれることは無い(「特別」が不要な人の前で付け忘れたら、「キミ、防衛、を付け忘れてるよ」なんて下衆顔でご指導されちゃいそうですなぁ)・・・とちょっと古めの記憶が警報発令中・・・う~ん、宮内庁に事務次官はいないしなぁ・・・ええっ!総省って国防総省!?ぐらいの実は別世界?

2018/04/23

TVアニメ『ひそねとまそたん』EDがですね・・・

結構おいしい曲持って来たなぁって感じ、編曲もFrance Gall版からはあまりいじってきてないみたい。歌詞中の「・・・モ・ナムール」の最後の「ル」は、France Gall版並みに続く音とはっきり切って発音してもええんやで(と思います)。
 ま、こちらのFrance Gall版を先に知っている身としては・・・画も含めたEDの元ネタ感がですね・・・