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2016/05/08

「不戦」が「戦略文化」な訳が無い

  国際関係論の枠組みにおける戦略論と言えばエドワード・ルトワック氏が有名、でもこれまで何故か彼の著作物は読んだことがなかった。文春新書「中国4.0」は氏へのインタビューを編集、翻訳したものなので厳密には著作ではないのだが、他者による編集作業が挟まっている分だけとっつき易くはなっているかもしれない。本質的なものが抜けちゃうかも知れないので、内容についてはここで安易にまとめることはしない。興味があれば是非一読をお勧めする。

 個人的には特に目新しい事は書かれていなかった。とは言え、幾つかの便利なキーワードが得られたのは重要だ。例えば、「海洋パワー」とか「戦略文化」がその例だ。どちらも概念としては存在していたが、(専門家はさておき、職場の喫煙所などでの素人の会話においては)広くコンセンサスが得られたそれら概念を直接指すタームは無かった。今後は「ルトワック氏の**」でOKにできるということだ。

 一国、または同盟国家群の海軍力を指すタームとして「シーパワー」があるが、このタームは主にハードウェアや人員の質、量で規定される海軍力を指す。対して「海洋パワー」は「シーパワー」を包含する概念だ。ポイントの一つは、「シーパワー」はその概念外の因子で無効化され得る存在であり、「海洋パワー」はそれら因子までも含んだ概念であるという点だ。

 最盛期の大英帝国は地中海の出入口であるジブラルタル海峡とスエズ運河を抑えた。これにより地中海内の敵対的な「シーパワー」が如何に強大であっても、地中海から出られないため大英帝国の海岸に近づけないという一点で実質的に無効化されているに等しい。ロシアは不凍港を常に求めてきた。米海軍は太平洋の両岸だけでなく大西洋にも.活動拠点を確保して手放さない。これら歴史的経緯は「海洋パワー」の概念からは至極当然の帰結となる。また、「負担なければ在日米軍撤退」といった暴言王時代のトランプ氏の発言の不毛さ具合や、「偉大な米国の復活を目指す」という発言との矛盾も、「海洋パワー」(エア・シー・バトルを念頭に置けば空も含むことになるのだろうが。)の考えに基づけば明確だ。

 「戦略文化」の概念はサクッと説明するのは難しい。ルトワック氏は「近現代線においてドイツが負け続ける理由」の一つして「ドイツの戦略文化」を挙げている。「戦闘の勝利を戦争の勝利にきっちりと結びつける文化がなければ結局戦争には勝てない」というような話だ。

 さてそんな「中国4.0」だが、編集・訳者による解説に目を通してがっくりしてしまった。編集・訳者は戦後日本の「不戦」姿勢を「戦略文化」またはそれに準ずるものとして解説内で触れている。私に言わせれば戦後日本のそれはイデオロギーもどきに過ぎず、文化なんて呼べるようなものではない。「この編集・訳者は大丈夫か?」と正直思うとともに、「状況は未だ相当マズイなぁ(具体的な内容は察して欲しい)」との思いも再確認することになったのが正直なところだ。

2014/09/20

「誅韓論」、読了

 読了、と言うか良い意味で分かり易い本なので、昼過ぎに買って1時間ちょいで読み終えた。

 当ブログでもファンタジーとしての半島統一について記した事がある。このファンタジーでは第二次朝鮮戦争は米中日露の出来レース、あっと言う間に片付いて統一朝鮮は中国の柵封体制下に入るというものだ。米国参加は半島非核化が絶対条件であるが、その実現には中国の同意が必要だ。さらに中国もその政策に対して人民からの支持をある程度は得る必要があるし、中国が出来レースに関わっていないというアリバイも作らなければならない。故に、北朝鮮の中国寄り勢力は弾道ミサイルの一発も中国に向けて打っておかなければならない。

 要は「彼らに核は持たせちゃ駄目」というコンセンサスがその出来レースを可能とする、という見立てだ。

 「誅韓論」の内容は、第二次朝鮮戦争勃発前に一方の国を疲弊させ、むしろ第二次朝鮮戦争勃発のおぜん立てを日本が「して差し上げるための御品書」みたいなものだ。実現可能性については「?」とさせておいてもらおう。できる、とはそう簡単には言わないよ、言わない、絶対言わない、やって欲し・・・いやいや。でも、こうもあからさまに書いちゃうのは、それらをやりたい、実はやろうとしている人達にとっては手の内を明かすみたいでマイナスでは?という気もする。でも出てしまった以上、多くの日本人に読んでおいて欲しい気もする。

 竹島の件はサプライズ的に狙ったタイミングで、と思ってたけど、サプライズ色は本書の登場で無くなっちゃいました。ちょっと残念。

 「有事対韓三原則」の"法制化"は、個人的には新視点。先のファンタジーでも日本の行動はほぼ「有事対韓三原則」に従うものだが、戦後処理に関してはやはり私のファンタジーの何十倍も現実的だ。あと、周辺事態法についてはもう一度真面目に読まないと・・・

2014/08/15

クリスティアン・アングラオ著「ナチスの知識人部隊」読了。

 博士論文に筆を入れたものとのことで、読み物としては重い。

 テーマはナチス政権下でのドイツの東方進出の正当化に重要な役割を果たし、さらに東方進出後には行動部隊(虐殺も行うことになる)の指揮にも関わった博士を含む大学出身者の行動、言動である。内容についてはちょっとやそっとでは纏め切れないので具体的には触れないが、まずナチズム有りきではないこと、第一次世界大戦の敗北~戦後の混乱期が当時のドイツの学生の目にどう捉えられていたか、どう彼らの思考に影響したかという視点が特徴の書と言える。第一次大戦で一部ドイツ人が感じた「民族絶滅の危機」が如何にその後の行動の正当化と繋がっていくか、そしてそれが実は姿、主体を変えて繰り返され、現在もなお繰り返されつつある、という視座を読んだ者に残すだろう。つまり本書は意外にもナチズムを扱ったものではない。が、ナチズムと総称されるものの一部、かつナチズム無しでも存在できたひとつの思想、の正体を明らかにしている。それ故に恐ろしくもあり、示唆に富む内容となっていると思う。

 もし太平洋戦争敗戦時に「国体」が外科的に解体されていれば、日本でも一周遅れで起きたかもしれない、と覆わせる部分も多々あるやに思う。

 少し脱力してしまったのは翻訳者のあとがき。無用な修辞を不用意に使ったせいで、まるで本書を読まなくても書けるような奥行きの無い内容となっている。うっかりあとがきだけ読んで「つまらん」などとは思わぬように、翻訳はきっちりとしたものです。

2014/04/13

「大研究!中国共産党」読了

 沈才淋氏の「大研究!中国共産党」(角川SSC新書, 2013/3)読了。一気に読める語り口はお勧め。ただ、二点ほど気になったところがあったので触れておこう。

 一点目は「バナナ族」のくだりと中共の現状とのギャップだ。

 「バナナ族」とは、欧米からの帰国子女や欧米で高等教育を受けたエリート集団を指す。見かけは中国人だが思考方法は欧米人という事を、外見は黄色(アジア系)だが中身は白い(欧米系)バナナに例えているとのことだ。

 現在の習近平総書記体制においても、バナナ族は要所要所に配置されている。が、この一年程の中共の対外政策には、ほとんど「欧米的」な思想が感じられないというのが実感だ。沈氏は経済、技術開発分野へのバナナ族の登用について特に触れているが、軍事も含む外交分野ではどうなのだろうか。この期に及んで韓国の「反日」に肩入れしたり、日米の軍艦船に挑発的な行動をとったりする様は合理的、戦略的思考が感じられない。中共は良くも悪くももっとえげつなくはなかったか、大局的視点から政策を進めてこなかったか。

 二点目は、第8章「中国の尖閣諸島問題に対する本音」の冒頭において、日中の衝突を「2種類のナショナリズムのぶつかり合い」と断じていること。

 「ナショナリズム」という言葉はマスコミなどで余りに安易に使われるため、実態として意味が曖昧となっている。故に(古いエントリで触れているように)、本ブログでは「ナショナリズム」という言葉は基本的に使わないとにしている。個人的に引っかかった点は、ぶつかる日本側のナショナリズムを「国粋的な、日本という国家と不可分なナショナリズム」ではなく、「長引く不景気により衰退期のナショナリズム」としている点である。そもそも「ナショナリズム」という言葉が曖昧なところにきて、たたみかけるように国家観とは全くリンクしない曖昧な「何か」を取ってつけたように持ってきた、という感がぬぐえない。

 もちろん、尖閣諸島の領有権問題が日中関係正常化時に「棚上げ事項」となった歴史的事実は把握している。「将来の知恵で解決」≒「中国が十分に軍事力を獲得したら軍事的に解決」とか一般的な日本人なら考えもしない、という点は話を単純化するために意図的に無視している点は察して欲しい。

 私見を述べさせて頂くなら、沈氏の呼ぶ「何か」は日本人の気質に根付くものに過ぎず、仰々しく「ナショナリズム」と呼ぶべきものでも、不景気とも関係ない。単に「嘘が嫌い、嘘つきが嫌い」、「曲がったことが大嫌い、筋が通らないことが大嫌い」、加えて「力を背景に嘘や曲がったことを通そうとする主体を軽蔑する」という文化的価値観である。文化的価値観に基づく国民感情のベクトルの一致とうねりの形成は「ナショナリズム」と呼べなくもないが、そうであっても不景気とは関係ない。ましてや、「国内の不景気」は現在のグローバル化した経済環境においては、自国民にとっても単なるローカルな話に過ぎない。確かに自営業の方々は大変だが。

 狂乱地価、バブルの崩壊は確かに日本に経済的にダメージを与えたが、同時に「ポストバブル時代」においては日本経済の「等身大の力の認識」の獲得に一役かったと思っている。従って「長引く不景気」は織り込み済み、明確な前提であり、それ故に「衰退期」などという状況なぞ受け入れない。

 一般的な日本人の気質として、「座して死を待つのみ」なんてまっぴらご免なのである。「無駄なあがき」と言われようが、あがくのである。それでも前を向いて、上を目指すのである。あらゆる「道(どう)」と同様に、極めれば極めるほどさらに先があることを明確に知るのである。ゴールは無いし、「衰退期」が避けられないと悟ればそれを前提として新たな道を求めるのである。

 それも皆で、力を合わせて。日本の「平等感」には欧米的なそれに較べると多少歪んだところがあるが、「読み書きそろばん」は皆が一緒に先に進む上での基盤なのだ。

 故に、「うで蛙状態」を受け入れているように見える他国の有様を「皆が」訝しく思う。

 繰り返しになるけれど、本書は一読をお勧めする。日本外部からの視点、それを自らに新たに視座として「追加」できれば、それだけ自分が強くなる筈だ。

2014/01/05

2014年初っ端は本の話

 この年末年始は4日程自由な時間が取れたので読書三昧、遺憾ながら豪快に体重増加しました。

 まずは倉山満氏のシリーズ3冊一気読み。
  • 嘘だらけの日中近現代史
  • 嘘だらけの日韓近現代史
  • 嘘だらけの日米近現代史
時刻歴でのイベントのディテールはかなり端折られているので、事前に他の書籍などでキーとなる歴史イベントの順番、経緯を知っていないとおそらく面白さは半減。個人的な収穫は、ハンガリー動乱と日本の国連加入との関係、米国南北戦争の経緯、ハリマンvsモルガンの構造に対する日本の国策方針など。中曽根康弘氏が「憲法改正には議論が必要」との旨の発言をしたとの報道がつい最近あったけど、スッと落ちる感じがあったのはもちろんこれらの本を読んだおかげ。自分の中に新たな視座が加わるのは楽しい。

 Sci-Fiは1冊だけ。
  • 孤児たちの軍隊 ガニメデへの飛翔 / ロバート・ブートナー
面白くて気楽に読めるのは間違いないが、「21世紀の『宇宙の戦士』」というコピーには偽りあり。説得力のないマンガチックな展開はコメディすれすれだが、キャラの立て方は上手くて(上手く紋切り型に落とし込んでいるという意味で決して誉めている訳ではない)一気に読ませるパワーはある。

 原文はあたってないけど、抒情的な部分の翻訳は結構工夫されたものではないかと思う。この辺りがいい加減だと、上述したようにコメディになってしまった可能性が高い。その甲斐もあってか、プーさんの最期はちょっと切ない。もしマンガ化するなら(はい~?)荒川弘氏に是非お願いしたい。

 その他の小説は3冊。
  • シブミ / トレヴェニアン
  • パラダイス・ロスト / 柳広司
  • アンドロギュノスの裔 / 渡辺温
シブミは訳がやや硬い。柳広司氏のD機関シリーズは安心して読める。渡辺温氏の作品には出会えたことが僥倖。

 その他ノンフィクションなどは3冊。
  • 日本とシナ 一五〇〇年の真実 / 渡部昇一
  • E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」 / D. ボダニス
  • 完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者 / M. ガッセン
「日本とシナ」では「コミンテルン史観」なる概念が提示され、倉山満氏の著作と緩やかにリンクする。ヴェノナ文書に関する書籍は既に2冊読んでいるので、著者らが言いたいことは良く分かった。

2013/04/20

さんざん脱線、結局中華人民共和国の女性兵士パレード

 最初はちょっと固いお話。

 2年ほどまえから朝鮮戦争について色々調べていて、本を読んだりYoutubeなんかにアップロードされているドキュメンタリーなどをワッチしている。

 本ではやはりディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」が出色で、最近文庫化されたので少しでも興味があれば是非読むことをお勧めする。題材はもちろん朝鮮戦争だが、当時のアジア地域の米軍総司令官でもあり、GHQのトップとして日本の戦後に影響力を行使したダグラス・マッカーサーの戦争対応のみならずその有り様そのものへの批判の書でもある。「自虐史観」を是とする人も非とする人も、マッカーサーの個性が色濃く反映されたGHQの行動原理の一端でも理解する上で読んでおいて損は無い。

 「ダイバーシティ」なんて難しい用語が説明なくTVで使われた始めた昨今、自分で訓練してでも同一の事項を多方面から理解、解釈する能力を身につけねばね。得られるものは「偏見」からの(相対的なより)自由ですよ。

 ちなみに15年ほど前は、フランス方面から「パリティ」という表現が良く聞こえてきた。「パリティ」は原子核物理や素粒子論などでも用いられている用語だが、ここでは「同一の社会的地位を男性が占めようが女性が占めようが、性別(ジェンダー)ごとに良さがある」というニュアンスで使われていた。要は「この地位は男性(または女性)でなければならない、という考え方は一種の偏見である」という考えを反映した用語と言える。結局、社会的意味での「パリティ」は日本には上陸せず、「性別、宗教、年齢、人種その他含めた多様性を認めるところからはじめよう」というニュアンスで「パリティ」の考えをも包含する「ダイバーシティ」という用語がいきなり上陸したのだ。

 「男女雇用機会均等法」は「パリティ」という用語の発祥と呼応してたんじゃないの?、という考え方はおそらく時期的には正しい。が、この法律は雇用「機会」を「均等」とするだけであって、雇用後の処遇については立ち入っていない。つまりこの法律では「パリティ」の考えの実現は保証されないのである。「パリティ」という用語の上陸はその概念の上陸も不可避に許すことになるのだが、個人的に色々調べた結果として日本国内に「パリティ」の概念の上陸を望まなかった勢力があったやに思われる。

 この種の用語には大抵明確な定義(ただし、一つではない場合もある)があるので、政治家や官僚が間違った意味で使ったときに笑うためにも、一度は自分で定義を調べてみることをお勧めする。TV番組でメインキャスターを張っているようなジャーナリストでも、この種の用語を間違った意味で結構使ったりしてますよ。間違った解釈の引用もまた然り、馬鹿キャスターの間違った発言や主張は笑ってあげましょう(キャスター本人を笑うかどうかはまた別問題なので念の為)。

 さて、本題。朝鮮戦争ドキュメンタリーを試聴していた流れなのか、Youtubeから下のビデオがレコメンドされましたよ。「パリティ」の概念から言えば「女性兵士」という表現は微妙。「男性兵士」という表現が併置されればうやむやになってしまいますが、「兵士」が併置された場合は微妙です。「兵士=男性」は偏見か否か、「偏見」とは何か、以前のエントリで触れたことのある「文化的コード」もからんで何気に奥は深いですよ。

 このビデオでのひとつのポイントは「女(性)民兵」。濃いピンクの制服に白いブーツ、手袋と帽子、そして旧式サブマシンガン。なんか、80年代の東映特撮TV番組をほうふつとさせられます。当人達はこのファッションスタイル(敢えてこの表現)をどう思っているのでしょうか?制服のデザインを変えたら入試の競争率が跳ね上がったという女子高がかつてありましたけど…。

2013/04/08

映画「ARGO」を観て思い出したこと。

 予告編を観て劇場で是非観たかった「ARGO」だが、とにかく仕事が忙しくて時間が作れなかった。遅まきながらiTunesでレンタルで観た。
 ベン・アフレックは「なんか頭悪そうな役」が多いという印象が強く、どういうキャリアを目指しているのか他人事ながら心配していたのだが、どうも「出来上がりをきっちり読める」映画監督としての地位は掴んだように見える。同様に俳優、映画監督との二足のわらじを履いているクリント・イーストウッドはインタビューで「撮影前に全てのカットは頭の中に有る」とはっきり言っている。そういう観点からは、「ARGO」冒頭の一連のカットとラストカットの処理が脚本段階から想定されていたものなのか監督の意図なのかはちょっと気になる。「ARGO」という映画に関しては、一か所だけ音楽の使い方に引っかかりがあったが、純粋に楽しんで観た。ただし誰かがどこかで書いていた通り、名字が「メンデス」という主人公をベン・アフレックが演じるのにはやはり無理がある(個人的な印象では、「メンデス」はブラジル系っぽい名前である)。主人公の名前ぐらいは変えても良かったのではないかと思う。

 「ARGO」を観て思い出したのは、かつて「アラビックSF」なんて呼ばれた一連のSF小説群があったことだ。時期的には1980年代である。

 結局のところ「サイバーパンク」なんて呼ばれていたSF小説群の大部分は、新しいガジェットを導入することで(SF的ではないものも含む)古典的なストーリーをさも新しいもののように提示しただけであった。個人的には「サイバーパンク」には価値なんか見出せない。むしろ「サイバーパンク世代の作家」と呼ばれた作家群の中から一味違うと思わされた作家のみが見事に生き残り、「サイバーパンク」ではない新しい作品を生み出していった点の方が重要だ。「サイバーパンク」はマーケティング用語に過ぎず、ムーブメントなどでは無いとしか思っていない。

 「アラビックSF」も同様の観点から見ればアラビアンナイトの(当時の)今日的翻案に過ぎなかった。が、こちらは明確にエンターテインメントであることを示すマーケティング用語であった。大部分の著者が当然ながらイスラム文化圏の人間ではない。何冊も読んだはずなのだが、タイトルを一つも思い出せないという辺りはさもありなんというところだ。

 映画のタイトルでもある劇中のニセ映画「ARGO」には、そこはかとなく「アラビックSF」のニュアンスを感じる。時期的にも「アラビックSF」作品が米国で登場し始めた時期とほぼ一致する。そういう脚本があってもおかしくないのだ。

 「アラビックSF」のことを思い出した原因はもう一つある。「ダークマター(暗黒物質)」の存在を示唆するとされる国際宇宙ステーションでの陽電子測定結果に関する報道だ。とあるアラビックSF作品では、宇宙船が用いるエネルギーは「空間」から取り出される。「ダークマター」「ダークエネルギー」「零点エネルギー」などなど、その作品にはジャーゴン(専門用語を指すネガティブな表現、「訳の分からん専門家の戯言」が源)があふれていた。

 劇中の映画「ARGO」は、もし作られても間違いなく駄作となる運命にあった。映画「ARGO」、或いは「ハリウッド作戦」の欠点を敢えて挙げるならばそこなのかもしれない。

2013/03/10

成程、船戸与一「夢は荒れ地を」は力作、傑作

 これまで最後に読んだ船戸与一氏の小説は「蝦夷地別件」だった。初版で読んだので、もはや15年以上前になる。本当は「満州国演義」を買うつもりだったのだが、あいにく近所の大型書店に在庫すらなく、船戸与一リハビリのつもりで昨年12月に手に取ったのが「夢は荒れ地を」だった。

 船戸与一氏の小説タイトルは、内容が想像できる割とストレートな場合と漠然とし過ぎて内容がさっぱり読めない場合がある。「夢は荒れ地を」は後者だろう。と言うこともあって、読み始めたのは買ってから3ヶ月ほど経った今朝になった。文庫で約800ページ、比較的大著かとも思うがほぼ3時間半で読了、文句なく力作、傑作。

 船戸与一氏の作品との出合いはもうかれこれ25年前、「猛き箱舟」になる。当時は3冊ぐらいの小説を常に平行して読んでいたのだが、同時に読んでいたのが村上龍氏の「愛と幻想のファシズム」、小林久三氏の「皇帝のいない八月」だったことをはっきり覚えている。「5日ほどのめったにない濃密な読書体験」の記憶の中でも「猛き箱舟」の輝きは褪せない。

 しまった!「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」、「ユダの覚醒」、「宙の地図」なんてつまらん作品を読んでる場合じゃなかった!