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2021/05/10

35年越しに某映画に登場した「THOR計画」の命名理由に思い当たる

 本エントリは何時にも増してブログ主にしか意味ないよ。

 米国映画「ブルーサンダー(1983)」は好きな映画で、DVDはまだ手放してはいない。初見はTV放映された吹き替え版で、音楽の処理に東北新社っぽさ(他の映画の楽曲を使ったり、オリジナルから抜いたりする)もあったし、高島忠夫氏が「監督のジョン・バダムはハイテク・スリラー映画の鬼才と呼ばれる」と紹介しているみたいな朧げな記憶もあるから、1986年のゴールデン洋画劇場版でほぼ間違いない。

 私の見るところ、当時ですら「もはや失われつつある」と当の米国人にも認識されつつあっただろう「古き良きナイーブ(初心な)な米国」流の正義漢を描く映画である。主要な二人の正義漢の名前に「フランク=正直者」、「グッド=良い人」といった、「やっていることは正しいのだが、融通の利かない人」っぽい感じを与える単語が入っているのは過剰なまでに意図的なものだろうと思う。

 さて、映画のタイトルにもなっている「ブルーサンダー」は、ロサンジェルスオリンピックを目前に警察に導入された紺色に塗られた対テロヘリコプターの愛称である。暴動鎮圧用と言うものの機首下にはガトリング砲が装備され、素人目には軍用戦闘ヘリコプターと区別はつかないだろう。映画のストーリーは、「ブルーサンダー」導入の本当の目的、上記の正義漢らにすれば「悪の陰謀」にしか見えない「実験計画」を軸に展開する。

 ここでやっと本エントリの本題に入る。その「実験計画」こそが「THOR計画」だ。当時の吹き替え版では「ソア」と発音されたそれは、"Tactical Helicopter Offensive Reaction"の略だ。本題とは関係ないので計画の内容にはここでは踏み込まないが、当時、吹き替え版を見ながら「ソア」と言う発音にも省略前の文章(劇中のブラウン管ディスプレイに表示される)にもイマイチ無理矢理感を感じてしっくりこなかったのだ。

 アクロニム(文章を構成する単語の頭文字を並べて作った語句)の作成に挑んだことのある人なら分かると思うが、最終的に得られるアクロニムが格好良くなるなら、元の文章が多少変になっても気にしないだろう。"THOR"にもそんな座りの悪さを感じたのだ。裏を返せば「"THOR"ありきなのは何故か?」と言う印象を持ったということだ。

 それから約35年、ついに理由っぽいものに気づいた。

 きっかけは何のことはない、「ブルーサンダー」のサントラを久しぶりに聞いたことだ。映画冒頭に主人公が「自分が正気かどうかを確認するシーン」があるが、 そのシーンの楽曲を耳にした瞬間に閃いた。

 "thor"の発音の日本語への置き換えは、かつては「ソア(ソゥア)」が主流だったが、現在は「ソー」が増えている。"Thor"は「マイティ・ソー」の「ソー」、米語においても固有名詞として北欧神話の雷神「トール」を指すと同時に「雷」の意味も持つ。もっと言えば、英語の"thunder(雷)"の語源ですらある。なお、米語でもそれぞれの日本語表記に対応した2つの発音がある。

 なんともはや、「ソア計画」は「雷計画」又は「雷神計画」だったのだ。「"THOR"ありきなのは何故か?」の答えはきっと、脚本家、監督、或いは「ソア計画」に携わっている劇中人物の何れかが「雷づくし」を意図したのだろう。だから"The special"とも呼ばれた「THOR計画」のキーアイテムたるヘリコプターは、「トールのハンマー」が放つ「青い雷」と名づけられたのだ・・・なんてね。

 なんとも何かをこじらせた感がある結論になっちゃったなぁ。

 「そんなのとっとと気づけ」とは言わないで欲しい。80年代に「ソア」と来ると、トヨタの「ソアラ」あたりを連想してしまうのだ。そうなると雷どころか太陽の方に意識が行ってしまう。ただし、ソアラと太陽とを関連付けるのは、日本語での語感に引っ張られた勘違いに過ぎないことを後に知る。また当時ファンタジー系書籍を読んでいた人間にとって雷神トールの綴りは、北欧系の「TOR」が普通だったのだ。

 ちなみに80年代前半のアクション映画の主人公にはベトナム戦争帰還者が多い。「ブルーサンダー」もそうだし、「ランボー」や「ファイヤーフォックス」もそうだ。彼らは時に「ベトナムでの記憶」に苦しめられる(所謂、ナム・フラッシュバック)が、実戦経験を生かしてかちょっとやそっとの逆境には動じずに迷わず的確な手を打つ。そこに「有り得ないこと」を劇中で何とか成立させるマジックが生まれた時代だったんだねぇ。

2018/06/25

"BEST GUY"っつーおしい奴

 映画"Best Guy"の一部シーンの動画が、なぜかYoutubeでレコメンドされました。

 "Best Guy"とは航空自衛隊を舞台とした映画です。所謂"Top Gun"もどきに分類されるでしょう。製作は東映で、大泉撮影所の壁に製作中作品としてタイトルが表示されたりして(当時、練馬区民でした)、明らかに大作扱いでした。F-15やF-1といった自衛隊の実機映像が結構てんこ盛り、領空侵犯したソ連機に対してロシア語で警告を出すシーンあり、登場するソ連戦闘機も配備開始後間もないSu-27と、シチュエーションに対する誤魔化しが少なくていろいろと説得力がありました。

 でも、合成がどーもいけなかった。ここばかりは劇場でも失笑が起きていたのを思い出します。当時は映画にもビデオ合成が使われ始めた時期で、本先でも多く使われていたと記憶しています。 精細度が足らないというのもあるのですが、当時の手法ではどうも撮影素材のスケール感が出てしまう、模型が模型に見えてしまうのです。スクリーンで見ると違和感が半端なく凄いですよ。このため、F-15の空撮シーンはとても良いのですが、ソ連機、特に大型機のカットはお世辞にも・・・ね。

 同じく模型を使った合成でも、Su-27戦闘機の画面奥行方向の動きなどはスピーディで良い味出てるし、空撮カットとの合成も意欲的だと思うのです。そして個人的には、Su-27をちゃんと出したことも高く評価しているのです。HUDの表示も良いしね。とは言え、シナリオと時折見られるセット内撮影カットの光量不足、お前らは駄目、コクピット内カットが特にダメすぎますね。

 映画"Top Gun"では「F-5戦闘機にミグなんとかを演じさせる」ことで空撮による戦闘シーンを実現しましたが、それなりに軍事に詳しい人間にとっては残念な誤魔化し、興ざめです。また、ミサイルでミグなんとかが撃墜されるカットは当時の典型的な低予算VFXの画で更に興ざめしました。屋外で撮るんですよ、まずガラス板に模型を張り付けてですね・・・安く、それなりにリアルなんですが、意欲の欠片もないつまらない画にしかならない、と言うね。

 さてCG全盛な昨今、更に兵器の無人化も進み、この種の映画が撮られる可能性は下がる一方です。下手をすると、仏映画の"Les Chevaliers du Ciel"が空撮を駆使して作られた最後の戦闘機パイロットを描いた映画になるのでは、とすら思ったりします。監督はもちろん飛行免許持ちです。流石に撃墜シーンやパリ上空のシーンはCGや合成が多用されていますが、ミラージュ2000を中心に実際のフランス空軍機が多数でてきますよ。

 あ、これは1967年ごろに制作された同名作でした、ミラージュ違いですね。こっちが、ミラージュ2000です。

 あとオマケ。8年ぐらい前に制作されたトルコ映画"Anadolu Kartalları"の予告編です。トルコ空軍の戦闘機パイロット候補生の青春群像?を描いた映画です。

 国際演習への参加が劇中最後のイベントなので撃墜シーンはありませんが、主人公がF-16でアグレッサー(仮想敵機)を担当しての模擬空戦シーンなど、逆に実機映像を使わんでなんとするか!って内容です。また劇中では、主人公ら憧れのトルコ空軍のアクロバットチーム"Türk Yıldızları"やソロアクロバット機"Solo Türk"の飛行シーンも登場します。

2017/07/20

ガルパン劇場版、やっと観たわ

 経緯は省くけど、要は「観る?」と聞かれたので「観ます!」というだけの話。「いやぁー、(観んでも)いいわ」ではなかったあたりにも、そこはかとなく病気からの回復の兆しを感じなくもないです。

 全体の感想なんかつらつら書こうものならベタ褒め不可避なので、その辺はサクッと流して進めましょう。

 とは言え一点だけ気に入らないところはあって、バミューダアタックの下りにはカチューシャにちょっとした見せ場を与えても良かったんじゃないかなぁ・・・と。エキシビジョン(劇中ではエキシビション、現行はどっちも使うみたいだなぁ)戦のラストでのカチューシャの大局観あふれる振る舞いがあったからこそ、山頂からの撤退時のクラーラ、ノンナ、ニーナらの振る舞いやセリフに説得力があり・・・と上手く繋がっていたと思うんだけどね。だからこそ、カチューシャが彼らの振る舞いに答えるシーンとしての見せ場が有るべきだったと思う訳です。

 作劇、構成における緊張と弛緩の配置は見事です。オーソドックスと言えばそうなのですが、伏線張りやその回収ときっちりリンクさせてくるなど、手際として非凡だと思います。上でも触れたクラーラ、ノンナ、ニーナらの下り、「人死にが出ない、眼鏡の玉が割れるのがせいぜいというのがお約束」なのは観る側も分かっているのに、どうしてあそこまでの悲壮感が出せちゃうかなぁ・・・っつー話ですよ。観客が緊張すべきか弛緩すべきかはBGMの有無とBGM自体が結構教えてくれます。使い方に寄り添った感が強い映画版のBGM群ですが、寄り添うにしても楽曲の作り手にはl器量と力量が必要です。昨今増えたBGM鳴らしっぱなしの作り手さん方には、自身への振り返りをお勧めします。

 さて、観てみて意外に思ったのは、映画からの引用と言うか、映画を元ネタとする(と思った)ネタがとっても多かったこと、多分音楽も含めてね。ただそこにはリスペクト(ときっちりとした伏線張り)があります。っつーか、劇中の登場人物間だけでなく、他作品への愛(?)も含め、TVシリーズの時点からガルパンはリスペクトの塊みたいなところがありますので。「シャンと背筋の伸びた、品の良さ」は劇場版でも健在です。

 私の思い違いでなければ、観覧車の元ネタはスピルバーグ監督の「1941」でしょう。この映画、スピルバーグにコメディを二度と撮らせなくしたという非常に重要な役割を果たした、その一点においては二心無く評価に値するとともに存在理由が明確過ぎる迷作です。実のところ、観覧車の最初のカットを観た時点で「あれやるのかなぁ・・・潜水艦ネタなんだけどねぇ」。まぁ、例えば「第三の男」には元ネタになりそうな要素を見いだせなったということでもあります。

 緊張-弛緩の緩急と不可分のガルパンの重要な作劇要素と言えば、作劇上の「やりたいこと、こらからやること」に不要な要素を順を追って削っていくところ。TVシリーズで言えば所謂「学園要素」はそれこそ1、2回使っただけで打ち捨てられていきます。教師は声だけしか出なかった、学園長もちゃんといるらしいが車が出てきておしまい、教室や学食もすぐに出なくなります。BGM(のフレーズ)も結構早い段階で整理されていきますしね。結果、ガルパンは脂肪も筋肉も削ぎ落してしまった白骨みたいなものです。でもね、それはとっても骨太、髄には作り手や登場キャラクターの自他ともへ向けたリスペクト(と鉄と油?)がぎっしり詰まってます。 

 劇場版はTVシリーズが前提、裏を返せばスタート時点で骨太白骨状態な訳です。だからと言うか、劇場版での追加要素はほぼ冒頭で出そろいます。「知波単」と「継続」のなんとなく妖精っぽい2つのチームですね。主人公たちに代わる成長要素担当と、「もしかしたら今日の友は明日の敵」の将来展開すら予感させる(大ボスキャラ的)レベルの謎担当、或いは常に主人公達との間に意思を持って一線を引くほぼ唯一の存在担当です。

 まず知波単、こちらは「人間と関わることで変わっていく妖精」ですね。ポイントは突撃そのものではなく、突撃して撃破された後のセリフに必ず含まれる「敢闘及ばず・・・」といった類の「意味の無い枕詞の使用」かと思います。実際、この種の「意味の無い定型表現を使っても平気な大人」はいっぱいいて例外無く迷惑かつ面倒な訳ですが、そんなものを使わなくなる、使わなくても済むように振る舞いや考え方を変えていくというのは明らかに「成長」でしょう。他者からのリスペクトを得、他者をリスペクトできるようになることで、骨の一部となっていきます。

 この先、知波単には

 「吶喊!・・・・・・・・・・・・・・・・なんちゃって(テヘペロ)」

なんてことをやっちゃってくれることを個人的には期待。 

 で、継続。「基本的には人間と関わらないけど、どっこいちゃんとそこに居る妖精」で、もうエルフちっくさが溢れ出てます。内々では意外に語るし、色々見えているのですが、見えてるものを決して人間には教えないし語りかけもしない。実は骨の髄の住人なのかも、TVシリーズの最初っから居ましたみたいな勢いすらあります。ただ、観ている早い段階で「妖精」っぽく感じてしまったため、車長がスナフキン、砲手がムーミントロール、操縦手がミィに見え始めてしまったのはなんとも。

 継続には「風で流れて大洗最強の敵(本人には敵と言う意識は無いが、人生には必要な時が来たとの認識は有り)」という今後の展開もアリかと。劇場版には今後そういう展開になってもおかしくない要素がけっこう埋め込まれているような気が・・・まぁ、これは願望。

 最後も白骨と言う話。あれですよ、対大学選抜チーム戦の最後の戦場と言うか戦闘が行われた場所ですよ。一見して、もうネタとして使うものしか置いていない空間以外の何物でもなかったですね。潔過ぎるぐらいの不要な物を削ぎ落した空間・・・ガルパンの作劇の真骨頂かと思います。

2015/07/27

かってにセレクト、ライムスター宇多丸さんの宇宙戦かんああと評

 いつも的確と思います、っつーかしゃべってる内容が他人のものとは思えないんですが。ネタは古いですが、再評価には耐えられないだろう作品に対する評は人類が滅びても変わらないでしょう。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」評・・・タイトルが違うとかは小さいこと。駄目なものが何故駄目なのかはそもそも駄目だからということが駄目な作品の共通因子。要は「力の無い人間の覚悟」なんて「覚悟ですらない」が故に意味が無いということ。「Sport man ヤマダ」にも共通しますが、作り手の「志の低さ」は作品に明確に宿ります。
 「Sport man ヤマダ」評

2015/02/24

映画「コマンド戦略」のモデル、第一特殊部隊のドキュメンタリー

 映画「コマンド戦略」は、米国-カナダ連合部隊である第一特殊部隊の編成からイタリア戦線での活躍までがモデルとなっている。映画の原題の"The Devil's Brigade"は直訳すれば「悪魔の旅団」だが、これは実際にドイツ軍が第一特殊部隊を「黒い悪魔」と呼んだことにちなむと言う。

 これはその第一特殊部隊のドキュメンタリーだ。訓練キャンプの実際の光景など、映画中のそれらのイメージとほとんど違和感が無いのには少し驚かされましたよ。

2015/02/12

殲十出撃!

 殲十、或いはJ-10は中共人民解放軍の主力戦闘機。デザインの類似性から、イスラエルが一時期開発していた軽量戦闘機「ラビ」の技術が入っているのでは、と良く言われます。ちなみに「ラビ」は米国の圧力などもあり敢え無く開発中止、代替として米国からF-16シリーズが導入されます。その後のイスラエルにおけるF-16の進化、魔改造ぶりはけっこう凄く、オリジナルに取り込まれた技術すらある程。

 さて、エントリタイトルの「殲十出撃」は人民解放軍(赤い星に八一ですな)が製作した映画。色々と突っ込みどころはあるのですが、相当暇な人だけ観て下さいな。っつーかCGじゃなくてもっと実機の映像使えば良いのにね。

2015/02/07

帰って来た、一回は観とけ!

 不勉強で汗顔の至り、本作については何も知らなかった。

 ひょんなことからアニメ劇場版「鉄人28号 白昼の残月(2007)」を観る。もっと評価されて良い作品だと素直に思う。監督は今川泰宏氏。

 同氏監督のOVA「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」では一種独特のケレン味が多少鼻についたが、本作ではそれが作品全体を上手く引き締める味になっていると感じた。同時に、氏のケレン味は実は当人の映画鑑賞歴も関係していて、かつかなりの数の映画を観てきたのではないか、とも思った。

 ここで言うケレン味とは、「見せ方を工夫することで、一切の余分な説明を排して何かを観客に理解させる」演出法を指す。例えば、特撮ヒーローが必殺技を決めるシーンを「物理法則とか科学的説明とかは一切すっ飛ばして、なんか凄そうに見える『画』」で演出するといった具合の話だ。 一時期流行った「トンデモ本」の内容は、概してこの種のケレン味あふれた演出内容を「荒唐無稽と問答無用に捉えた上で、演出を優先してすっ飛ばした、或いは誤魔化した内容」を白日の下にさらしたものと言って良い様に思う。「いい大人」が「納得づく」でやったことを「いい大人」が「納得づく」でいじるという、構造自体は面白いが中身には当然ながら意味がない。

 が、ケレン味あふれる演出が常にトンデモかと言うと当然そうではない。ここでの「ケレン味あふれる演出」の一つの効能は、「一瞬で視聴者に作り手側が伝えたいことを理解させる」ことにある。映画というのは、実質1時間半~2時間で物語の最初から終わりまでを最低限語らなければならないし、その時間内で視聴者をドキドキさせたり感動させたりと大変だ。となれば、ここぞと言うところで「一瞬で視聴者に何かを理解してもらい、それまでの映画の展開で心に積った疑問など一切のもやもやしたものを解消する」という大技を決めることができれば、映画全体が締まったものとできる。

 本作では物語の転換点に複数の小さなケレンを仕込み、謎解きのそのまさに直前に最大のケレンを仕掛け、そのケレンを生かしつつ物語を終焉に導く。映画の最初と最後は途中のケレンを一切排しても理解できる。作品が語る物語は、映画の最初と最後の間に挟まれた「一人の少年の成長のための通過儀礼」とでも位置づけられる内容だ。本作におけるケレンの数々はすべて映画、作品自体に奉仕している。娯楽作品で有る以上様々な要素を盛り込まなければならないが、上映時間には制限がある。故に「多くて3カット、セリフ多くて3つ、音楽一曲」で具体化した「画」で視聴者を納得させるケレンは、上映時間と娯楽要素と物語を全て過不足無く成立させるための技術、ひとつの武器なのである。今川氏の映画鑑賞歴が気になったのは、このような映画製作における一種のツボみたいなものが本作にはある、と感じたからであろう。映画の教科書は映画なのだ。

 最初の楽曲が流れ出してから10秒程度で確信した通り、音楽のクレジットは伊福部昭氏であった。ただし新作ではなく、氏の既存の作品からチョイスしてきたものの様だ。 ゴジラ映画などの関係もあって伊福部氏の楽曲は勇壮なものの方が良く知られているが、陰鬱ではないもののメランコリックな曲調の楽曲も多い。本作では特に後者にあたる楽曲のチョイスにまず唸らされるとともに、弦の音の処理、或いは録音方法に明確に意図的なものを感じた。そもそもヴァイオリンなどの弦楽器は弓の凹凸で弦を弾いているので、弦からの音はノイズとして弾かれた瞬間の音を含み、かつそれに続く弦振動由来の音よりも大きな音となることがある。本作の楽曲での弦楽器の音では件のノイズが明らかに抑えられており、「微かに聞こえる弦の音」が実現されている。ノイズを含む音では、ノイズレベルに合わせて弦の音の音量を下げるとノイズしか聞こえなくなってしまう。「微かに聞こえる弦の音」が実現は、使用した伊福部氏の楽曲の魅力を引き出すことはあっても損ねるものではない。正直、OSTが欲しくなった。

 鉄人28号自体をある程度は知っているなら絶対お勧め、極めて映画的な一本だ。

2015/01/31

三谷幸喜氏の脚本は・・・

基本的に上手いし、目の付けどころとかは出色な物が多い。が、それがTVや映画向きかって言うと別の話、というのが従来までの結論だし、これからも良くも悪くも変わらないんじゃないかと思う。

 小ネタがその見つけ方から見せ方までは基本的に上手いのだが、小ネタを小ネタとして単独で提示することができない性分のように見える。所詮小ネタは小ネタに過ぎないので、うっかりオーラスへの伏線として取り込んでしまうと、オーラスが一気にこじんまりとしてしまう。

 三谷脚本作品にはこの種の「一見尻すぼみ」なものが多い、というか90%ぐらいがそう。残り10%は何かというと、視聴者、酷い場合は映像作品の監督すらおいてけぼりで、せっかくの面白い脚本が理解されないままで終る場合だ。後者は、近日公開予定の三谷脚本、或いは監督映画の宣伝TV特番でやってしまう事が多かったが、さすがにその辺りは本人ももう気づいていると思う。

 一般的な日本人は欧米のコメディ(或いはスケッチ)TV番組のフォーマットなんて知らないから、そのフォーマット有りきで書かれた脚本や映像作品は本質的に理解される道理が無い。十代前半でそこらへんが分かってしまった場合には「三谷すげー!!!(って分かる俺すげー!!!)」ってことになるのかもしれないが、歳をとってから分かる場合には「分かってない人間の評価が的外れ」となる事を予測してうんざりし、やっぱり的外れな評価が出てきて二度うんざりという目に合う事となる。本人が止めたのか、周りが止めているのかは分からないが、幸いにして最近はそれが無い。

 ところが監督作品となると小ネタを小ネタとして使うということをやってしまう。しかし、小ネタを小ネタとして使う事に慣れたいないためだろう、小ネタという事は観ていて分かるが「ほぼ」面白くない。じゃあ面白い場合は?と聞かれれば、映画的或いはTV的でない小ネタ、カメラアングルやカット割に頼らずとも成立する小ネタの場合はなかなか侮れない。小演劇場だと割れんばかりの大爆笑となる可能性が高い。

 そう、基本はやっぱり演劇の人なのだ。

 演劇場というのは特殊な空間だ。TVや映画では当たり前の「空間を切り取るフレーム」、カット割は存在しない。演者のみによる時間の制御は不可能であり、回想シーンに相当するような演出を成立させるためには実は観客の共犯関係が求められる。そして、観客は演劇が始まる前に劇場に入り、劇が終ってから劇場を後にするのが基本だ。これは、たまたま、途中から観始めた人も極力視聴者として取り込みたいTVプログラムとは本質的に異なる。またTVプログラムは「ながら観」も許容しないといけないので、伏線は伏線、小ネタは小ネタできっちり割り切った方が良い。結局、TVドラマシリーズでは「キャラクターの決め台詞などの特定のセリフの反復」ぐらいしか小ネタとしては使えない状況になって久しい。これは吉本新喜劇の芸人のお約束芸と同じようなものだ。

 三谷脚本にはフォーマット(見た目を含む形式、或いはコンセプト)へのこだわりを強く感じるが、使われるフォーマットは現行の日本のTVプログラムが獲得、マンネリ化させたものとは異なる。この点は実はとっても評価しているのだが、如何せん映像化の段階でそれがスポイルされることが多い。氏の脚本を嬉々として使う割には、NHKにその辺りが分かっている製作者が居る様にも思えない。一見「人形劇TVプログラム」との相性は良さそうにも思えるが、これまた如何せん、現在の人形劇TVプログラムのフォーマット(フレーム構成やカット割)はライブアクションのそれとほぼ同じになってしまっている。つまり、現行の人形劇のフォーマットは三谷脚本向きではない。

 だから三谷脚本は三谷氏が望むようなフォーマットで映像化すべきではない、と断言してしまおう。三谷氏が脚本の形で提示したフォーマットを「理解した」上で、マンネリ化した業界のフォーマットとも異なる別のフォーマットで映像化、提示すべきである。それをしない限り、面白い脚本は面白い脚本で終ってしまう。基本的に三谷脚本はフォーマット、或いはコンセプトが明確で、コンパクトに出来上がっていると思う。だから同じフォーマットの枠組み内であれこれ考えても、オリジナルの脚本よりも面白い脚本にできる人間はそうはいない(フォーマットと独立した小ネタは例外)。でなければ三谷氏には才能がないことになってしまうが、決してそんなことはないと思う。

 プランBは、三谷氏が既存のフォーマットを放棄し、自ら新しいフォーマットを提示することである。最適なフォーマットの選定と先鋭化に関する氏の才能にはほぼ疑問の余地はない。ただ裏返しとして、必要ないので新しいフォーマットは使わない、という姿勢をとっている様にも見える。「あ、アレね(あ、刑事コロンボね、とか、あ、サタデ―ナイトライブね、とか)」と誰からも言われない三谷脚本はまだ存在していないのではないかと疑う。

 プランCは、三谷氏が明確に既存フォーマットにこだわりつつ、脚本のコンパクトさを追求し、かつ脚本自体をきっちりと後世に残すことである。「隠し砦の三悪人」が「スターウォーズ」になるには、元ネタのコンパクトさ(無駄の無さ)とコンパクトさを追求した映像化、加えてそのコンパクトさを理解してより強靭な(弾力性に富む、本質的な)別フォーマット内に落とし込むことが出来た人間の存在が欠かせない。つまり、想定外の発生に備えておくべきかも、と言う事だ。

2014/11/02

やっと「宇宙戦艦ヤマト 復活編」を観ました。

 「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」にギリギリ引っかかっているオッサン世代の視点からは、実写版「Space Battleship Yamato」、「2199」とは較ぶべくもなく遥かに「ヤマトらしさ」を感じてしまう作品。ヤマトの無双ぶりは気持ち良いぐらい。

 作品として特筆すべき点のひとつは3DCGカットの他のカットとのなじみの良さ、画作りのセンスがあるとこうなるのか、という好例ではないかと思う。

 「Space Battleship Yamato」は悪い意味でCG屋の手癖、実は安く上げるための合理的ワークフロー、の枠をはみ出すことが無く、結果的にクリエイティビティは今二つ。明らかに参考としたであろう米国TVシリーズ「Battlestal Galactica(リメイク版)」の洗礼を浴びていた身としては、質はTVシリーズレベルと同等か及ばないとの印象を持たざるを得ない。画として具体的に見せる、という観点のクリエイティビティにも乏しい。動きにアニメ的なタメが無いのは当然としても、ゲーム用物理エンジン的な「慣性力」感を払拭できなかった点は単純に製作側の汚点であろう。使ったレンダリングエンジン(CGソフトによって意外に癖がある。特に点光源の処理結果)がアマチュアの私にも分かるのはポスト処理に余り手をかけていない、或いはレンダリング画像で良しとしたとも考えられるが、「それで良いのか(誰にでも作れる画で良いのか)?」という話。

 「Battlestar Galactica」の3DCGカットにしても、VFX専門スタジオZoicとUniversal社のインハウスVFXチームとの画の質の違いは歴然で、Lightwave3D丸出しのインハウスVFXチームの仕事は決して褒められるものではない。「安かろう悪かろう」の典型例、或いはアイディアを持つアーチスト集団と想像力に欠けるエンジニア集団との違いとでも例えられようか。

 また「2199」は結局のところ手書きの焼き直しに過ぎず、レイアウトは基本的に非凡。モーション付けはタメがあったり無かったりのバラつきが大きく、アウトラインシェーダーとセルシェーダー(輪郭線とセル塗りをシミュレートするもの)の使用が他のカットとの断絶感をむしろ強調してしまうというのは皮肉な話だ。

 「宇宙戦艦ヤマト 復活編」でも全ての3DCGカットが良いとは当然言わないし、言えない。個人的には「どういう順番で3DCGカットが製作されたのか?」がかなり気になる。大雑把に言って、ストーリーの進展とともに3DCGカットのなじみがどんどん良くなっていくからだ。これは単に後半に集中しがちな重要なカットに時間をかけたというだけなのかも知れないが、一作の中で「地球の3DCGカットの出来」にあんなに落差のある作品は個人的には初めてだ。レンダリングエンジン一世代(3~4年)分ぐらいのギャップがある。

 「宇宙戦艦ヤマト 復活編」の3DCGカットではアウトラインシェーダー、セルシェーダーともに使用していない。このため、火焔、煙、水などの処理には悩まなくても良く、特に煙は完全にリアリティ重視と言える。他方、爆発に伴う閃光が周囲に及ぼす影響は、無視されるか細部を省略したかのような大雑把な表現になっている。換言すれば、3DCGを使いながらも光の処理は(おそらく意図的に)極めて手描きアニメ的であると言える。これを3DCGでやるということは、むしろ一手間も二手間も余計に手間をかけたということに他ならない。しかし、手描き背景の緻密さとアニメ的な嘘(例えばメタリックな構造物への写り込みが無い)との相性は格段と良くなることを期待して良い。

  「Space Battleship Yamato」は光の媒介物(真空なのか、ガスがあるのか)の効果をレンダリングの時点で作りこめていないので、ポスト処理で頑張ってもスケール感や重量感の表現には制限が多い。点光源の光が遠くまで届いてしまっては、(真空中ではそうだと言っても)巨大感はスポイルされてしまう。また、Universal社のインハウスVFXチームと同様に「何が光源なのか分からない環境光」を強くするという愚を犯しており、宇宙空間での光と影のリアリティはほぼ無いと言って良い。船体表面などの凹凸、微細構造は影があってこそ見た目のリアリティに寄与する訳で、影を積極的に使わないのであればモデリングの頑張りは意味がない(影を使わないならバンプマップやノーマルマップで十分で、単にメモリの無駄でもある)。「2199」はアウトライン、セル塗り調でありながら光(と影)の表現が突出してリアル寄りであるため出来上がりの画が内在する違和感の排除は不可能だ。結局、「宇宙戦艦ヤマト 復活編」のヤマトが重量感という観点からは突出して見栄えが良い。特に逆光のなか海上に佇むヤマトの姿は、「重量感」を越えて「戦艦感」とでも言うべき風情すら感じてしまった。それは単に止め絵であるからではなく、ヤマトが登場する3DCGカットのほぼ全てにわたって共通する光の処理への考え方に負うところが大きいと思うのだ。

 ちなみに「キャプテン・ハーロック」のモデリング+テクスチャに極端に頼った方向性では影が使えない。結果、画で使えるコントラスト幅、色の彩度幅は著しく制限され、光と言えば白色しか使えず(白色しか使わないだけでも見るべき見識はあると言える)勢い画は単調とならざるを得ない。

2014/09/25

本質外し!韓国軍兵士死亡の捕虜訓練

 韓国軍で訓練中に兵士が死亡した。原因は通気性のない袋を頭に被らされことによる窒息死だ。正直言って全く意味不明だった。だが事はそれだけでは終わらなかった、ハンギョレの記事「韓国軍兵士死亡の捕虜訓練は映画『ブラヴォー・ツー・ゼロ』が見本だった」を読んでもはや言葉を失った。

 一部引用。
特戦司令部幹部の即興的な指示が明らかに  

今月初めに特殊戦司令部(特戦司)の副士官2人の命を奪った“捕虜体験訓練”が、外国の特殊部隊の活躍を描いた映画を見て拙速に真似た訓練だったと、ユン・フドク新政治民主連合議員(国防委幹事)が17日に明らかにした。

ユン議員はこの日、「今年4月3日に特戦司令部で開かれた“戦闘映画祭”で幹部が英国特殊部隊を扱った映画『ブラヴォー・ツー・ゼロ』を兵士らと一緒に観た後、茶の席で映画に登場した“特性化訓練”に言及し、『我々にはどうしてあんな訓練がないんだ。我々もやってみよう』と意見を出して用意されたという報告を軍当局から受けた」と話した。『ブラヴォー・ツー・ゼロ』は1991年の湾岸戦争でイラクに特殊任務を帯びて投入された英国のSAS隊員の話を扱った映画だ。
これぞ命がけの本質外し、記事タイトル中の「見本」という表現も見事に本質を外しているというか、この期に及んで現実直視もできんまま誤魔化しに徹するのかと開いた口が塞がらない。ちなみに厳密には 「ブラヴォー・ツー・ゼロ」はTV番組。

 実はショーン・ビーン好きなんですよ、ゴールデン・アイの彼も良かったねぇ。大事なことなので敢えて書いておきましょう、「子供は絶対マネしちゃいけません!子供未満も同じです!」

2014/04/07

一回は観とけ!四度!

 好食!(広東(カントン)語の挨拶です。やあ元気!みたいな感じ)

 かつて「香港映画」というジャンルがあった。広東語、或いは広東語と英語のちゃんぽんで撮られる映画群は、その言語の響きの異質さも手伝って、独特のトーンを持っていた。今回は、香港の中共返還を控えて撮られた2作をご紹介。

 まずはフルーツ・チャン監督の「メイド・イン・ホンコン 香港製造」(1997)だ。主人公を演じたサム・リーは後に邦画「ピンポン」(2002)で「チャイナ」を演じている。

 ストーリーはやや安っぽいのだが、登場人物達の設定が「背伸びしている子供達」であるが故のアンバランスさと微笑ましさを内在する。が、ストーリーを急展開させるのは自殺、殺傷などの他者や自己に向けての容赦ない暴力である。チャン監督の暴力に対する描写はドライだが、その辺りが実際の大陸人気質を反映したものなのか、監督の資質かどうかは分からない。

 盗作防止のため、脚本を書かずに出来上がりは監督の頭の中にしかなかった香港映画では、ストーリー展開は時としてグダグダとなる。本作のストーリー展開は一般的な日本人の感覚におけるリアリティをギリギリはみ出しているため、ついて行けないかもしれない。が、なんとか破綻を免れている。これは、「主人公達とは何の面識もない自殺した少女の遺書」を小道具とし、劇終間際の一種の力技で成し遂げられる。

 後味は悪いが、どしっとした重い物が心に残る作品だ。十代で観てはいけないかもね。

 二つめは「アンナ・マデリーナ(安娜瑪徳蓮娜/Anna Magdalena)」(1997)だ。公開当時、なんの予備知識も無く劇場に足を運んだところ、劇場が若い女性客ばかりでびっくりした記憶がある。主演(の一人)は当時人気が高かった金城武、ヒロインはドラえもん主題歌の香港版も歌っていた香港明星、ケリー・チャンだ。いやはや、ケリー・チャン系の顔には実はとっても弱い私です。監督はハイ・チョンマン、個人的にはちょっと影が薄い感じが残念な癖の無い作風だ。

 本作では、ざっくり三つのストーリーが語られる。ストーリーのひとつは劇中劇、別の登場人物達による二つのストーリーを無理やり繋げる小道具となる「小説本」のストーリーそのものだ。先に監督の作風には癖がないと書いたが、それはあくまで「香港映画」でのお話。ハリウッド的な分かり易さは最初からない。本作のストーリー展開、構成について行けるかはちょっとした試金石であり、追いて行けないならば「香港映画」はジャッキー・チェン映画までで止めておいた方が良い。「香港映画」のマナー、語り口は一見とても複雑だ。

 「アンナ・マデリーナ」にしたところで、下の予告編から映画の内容が推測できるかな?音楽はまんまテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」だしね(本編でもそのまま使われている)。夢みたいな夢、現実と見まごうばかりの現実が描かれた映画、そんな身も蓋もない映画と言えばその通りだ。そのくせ、劇中の夢と現実の境界は登場の必然性が読みとれない雑多な要素のせいで曖昧だ(実は、押井守監督の初期実写作品群には同じ匂いを感じている。「紅い眼鏡」、「トーキング・ヘッド」や「ケルベロス」でその印象が強い。ただし、押井監督の場合は絵作りとして様式化をやり過ぎ、一般的な「映画っぽさ」から逸脱してしまっているやに見ゆる。香港映画に慣れた感性では、十分に映画の枠組みに収まっているようにしか見えないのだが)。

 根幹を成すストーリーは当たり障りのないもので、男女の出会いと別れ、直接語られない思い、といったもの描かれるだけだ、以上。しかし、本作はほぼ最後の「香港映画らしい香港映画」と言え、劇終間際のもの寂しさと「香港映画の終焉」のもの寂しさが私の中では完全に一体化してしまっている。なんと言っても香港の中共への委譲は1997年なのだ。

 香港の委譲後、フルーツ・チャン監督の作風もやや変わり、癖の強さや雑多さはどぎついままに主人公をじっくり追うような作品を撮っていく。だが、「香港映画」、或いは「香港電影」の持っていた特殊なトーンは徐々に失われた。

 「アンナ・マデリーナ」で顕著なように、一見雑多な要素を多数含む「香港映画」の佳作群の持つマジックは、「雑多であってもこれは一本の映画である」ことを意識せざるを得ない「映画館での2時間」でこそ発揮される。だから、DVDなんかで観てもなかなかそのマジックに触れることは難しい。

 愛しき「香港映画」或いは「香港電影」特有の映画体験はもはや失われたと言って良い。が、それでも作られた作品は新たな観客に観られることを今でも欲している筈だ。

2014/03/31

ポール・バーホーベン監督の「ブラックブック」からあれこれ

 最近リメイクされた「ロボコップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」などの作品で知られる映画監督、ポール・バーホーベン氏がハリウッドを去ってから久しい。

 バーホーベン監督の飄々とした作風は一筋縄でなく、ハリウッド的な分かり易さ、ストレートさとは基本的に肌が合わなかったのではないかと思う。職業監督ならば「白く撮れ」と言われれば白で、「黒く撮れ」と言われれば黒で撮るが、氏の場合は「確かに白で撮れと言ったが、これは本当に白なのか?」と言われるものを撮ってしまうというイメージだ。如何にも欧州風とも解釈されがちな作風ではあるが、ドライさ加減が半端じゃなく、やはりはみ出してしまっている様に思う。

 書籍"The making of STARSHIP TROOPERS"を読むと、そのドライさの原因の一端も見えてくる。

 氏はオランダ出身だが、氏が幼少期のオランダはナチス・ドイツ占領下にあった。そのため、道端に遺体が転がる様など、平均的な日本人ならば映画の中でしか目にしたことがない光景を幾つも目にしたという。「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグ達に惨殺された民間人や兵士の描写や、「ロボコップ」における「人を銃で撃ちまくる」、いや「銃器で人の身体を破壊していく」描写などで感じられるドライ感は、氏が類似の光景を目撃したことがあるためかも知れない。死や「人が人の身体を破壊していく」様をウェットなものと捉えるのは単なる約束であり、送り手と受け手の共犯関係によって「実は今だって世界で起きてるかも知れない事を見て見ぬふりしている」だけなのかも、などと思いは跳ぶ。

 現実はそんなもんじゃない。常に白なんてない。常に黒なんてこともない。ならば、そう撮って何が悪い。そんな声が聞こえないか。

 映画「ブラックブック(Zwartboek)」(2006)は氏のオランダ帰国後の最初の作品だ。舞台はずばりナチス占領下のオランダ。登場人物はストーリーの進行とともにに白から黒へ、また黒から白へと目まぐるしく変わる。それは、登場人物の誰もが常にグレーなのに、その時その時に白か黒かの二分法でしか観客が登場人物を捉えていないことの裏返しなのかも知れない。氏の一筋縄でないところは、そのような二分法による判断を登場人物にも求めているところにある。容赦なく緊張感のあるフィルムだ。だが後味はすこぶる悪い。

 「人が人の身体を破壊していく」という行為の結果は、氏の作品にあっては時に寒々しく、祭の後のような寂しさすら帯びることがある。「人が人の身体を破壊していく」行為が常に「悪意」から生ずるものなんて認識で、今日を生きることが許されるものだろうか。その逆もしかりだ。

 氏は私と同様に「熱狂」を恐れているのかも知れない。他者の「熱狂」を警戒し、自らの「熱狂」を抑え込む。

 映画「スターシップ・トゥルーパーズ」は「わざとらしい熱狂」で始まり、やはり「わざとらしい熱狂」で終わる。だが、登場人物達は成長し、そのような「熱狂」に利用されるつつも、もう自らはその「熱狂」には加わらないだろう。原作者のハインライン氏も「熱狂」を恐れていたのではないか、「熱狂する庶民が大多数を占める状況での民主主義」を恐れたのではないか。「責任ある市民」は、決して「熱狂」には加わらないことが求められるということではないか。

2014/03/29

アジアワッチ、再び:補足

 ちょっと思い出したので補足。

 私の「いや韓」の根っこは2000年ごろに遡る。「韓流」なんて言葉も無かった時代である。

 1990年代後半は邦画の低迷をしり目に韓国映画に佳作、秀作が多かった時代だ。だが、映画製作に国が資金と口を出し始めた時点から迷走が始まる。リアリズムをファンタジーが駆逐するのである。映画「ユリョン(幽霊)」(1999)はそんな時代の幕開けを告げた映画と言える。

 予告編の冒頭、「21世紀 すべての韓国映画はここから始まる」と表示される、そうだ、私の「いや韓」はこの映画から始まったのだ。「恨(ハン)」と「ファンタジー」の結合は既に完成されている。劇中で「歴史、歴史」と繰り返されるが、その中身には一切立ち入らない。いや、立ち入ったら都合のいい夢から目が覚めてしまうからだろう。

 この映画を観た直後に仕事で韓国に行った際、反日機運があることをふと感じさせられる場面に複数回遭遇することになる。こちらが日本人と分かった瞬間に相手の対応が無愛想となる、といった類の話ではあったのだが(韓国語の挨拶だけは覚えて行ったので、先に韓国語で挨拶すると多くの人に韓国人か在日同胞と思われた模様。何で下手な英語でしゃべるんだ、と聞かれて実は…という展開)。

 映画の中身もさることながら、こんな映画が作られることの「異常さ」が衝撃だった。タダなら観よう。

2013/12/30

アクセス解析:検索ワードラウンドアップ:その5

 本年最後のエントリとなります。皆さま良いお年を。

 さて、
  • 高出力電磁で嫌がせした人
    完全に意味不明…

  • フィアット500 ツインエア ツインエアエンジン etc.
    ツインエアはかなり癖があります。FIREエンジンとは別物です。
    単純に燃費やら動力特性やらでバランスが良いエンジンと言うならば、文句なくFIREエンジンに軍配が上がります。ツインエアエンジン車に乗っている身でナンですが、ツインエアエンジンはあまり好きではありません、でも楽しい、燃費もそこそこ。
    おそらく、ドライバーとしては楽しくて、エンジニアとしては癖の強さに疑問を持ってるんだと思います。マニュアル車やDualogic車でも積極的にシフトチェンジする人にはFIREエンジンはつまらない。アクセルとブレーキしか使う気のない人はFIREエンジンを選ぶべきでしょう。排気管以外は見た目変わりませんしね。

  • SynthMaster
    音作りをし、かつCPU負荷も気にする人には絶対お勧め、プリセットだけ使うという人には面白みに乏しいかも知れません。
    直ぐに音が出てしまうのも良し悪しですが、実は音作りの最初の敷居は高いかも知れないと最近思うようになりました。私はオシレータ部以外はほぼ同様のインターフェース構造を持つZ3TA+で散々苦労したので一目で何処を如何すればどうなるかが分かったのですが、これはピンポイントな幸運以外の何物でも無さそうです。だって、他のソフトシンセ操作には、Z3TA+の苦労なんてほとんど役に立ちませんから…フィルタ特性が全く違うが故にZ3TA+2ですら役に立ちませんでしたからね。

  • 3ds エラーコード 002-4
    気持ちは良く分かりますが、3dsと
    Lightwave3Dの相性は最悪です。っつーか3dsの規格自体が酷いものです。高価なファイルコンバータが売れたのもむべなるかな、と言ったところでしょう。
    Lightwaver(死語)には、3dsで作られた既存のモデルに頼らない覚悟が求められました。つまり、かつてのLightwave3Dユーザは「自分に必要なモデルは全て自分で作っていた」のです。

  • itunes11.1.3  同期 できない
    自分には無関係、かと思っていましたが、iPod touchの容量不足から「チェックした曲だけ同期する」オプションを使い始めた途端、転送エラーが頻発するようになりました。たいがいは3回目で同期に成功します…十分に不良アプリ?

  • piapro studio vocaloid editor 使いやすい
    Piapro StudioはVer.1.2からクリプトン社以外のボーカロイド製品も使えるようになり、個人的にはやっと用途が出てきました。ソフトとしての出来はVocaloid Editor 3を遥かに凌ぐもので、操作感は良い意味で別物です(あくまでCubase7上での話、他のDAWは分かりません)。ただし、以下の点は注意が必要です。
    まず、Windowsユーザの観点からは操作がやや煩雑です。これはコンテクストメニュー(マウスの右ボタンクリック)を積極的に使うユーザインターフェースとはなっていないことによるところが大きいです。その代わり、操作感はMac版と共通かもしれません。かといってコンテクストメニューが完全に使われていない訳では無いため、ユーザインターフェース設計にロジックなり思想なりを感じることはできません。そういう意味では、酷い部類のユーザインターフェースではないかと。あと、日本語、英語ボーカロイドでの歌詞入力には問題ありませんが、少なくともスペイン語歌詞の入力はボーカロイドがスペイン語版でも音素記号に変換されません。結局、スペイン語などの場合はVocalod Editorを使わなくてはいけないようです(現状は)。
で、お約束です。
  • ヤマト 出淵 頭悪い、宇宙戦艦ヤマト2199 酷い、宇宙戦艦ヤマト2199 つまらない!!、ヤマト 2199 駄作
    まぁ、普通の検索エンジンならここへのリンクを表示しますわな。
    ただし、個人名を挙げて「頭悪い」とは書いたことはない筈。頭の良し悪しは社会に出れば直ぐに周囲には分かるもので、どの種の頭の良さが求められるかは分野によって違います。
    本ブログでは「プロとしての自覚の有無」、「論理性の有無」、「オリジナリティの有無への姿勢」の3点には突出してカラいのですが、頭の良し悪しは問いません。そもそも面識の無い人のことは分かりませんしね。でも、お金を払って入手した作品に対しては言いたいこと言っても罰は当たらない筈。
    アニメも作るとある監督は「絵のクオリティを下げてでも作品の納期を守る」訳ですが、これは「作品としてのクオリティ」を下げない限りにおいては正論であり有能ということになります。裏を返すと、「作品のクオリティが上がらないのに絵のクオリティを上げるために納期を守れない」のはその分野においては少なくとも有能とは言えないでしょうねぇ。

  • イデオン 絶望
    何故毎日?


 でわ、2014年までさようなら。

2013/12/28

2013年を振り返ってみる

 まだ今年も何日か残ってますが、会社も休みになりますし、もはや年末年始まったりモードです。

 会社の同僚が「正月攻勢と称して某国が某線を越えるのではないか」と心配していますが、個人的にはこの時期に動くことは賢明とは思えません。が、ちょっと某国に関する報道が以前と較べて減っているのが気になります。要は、中共と上手くいっていないのではないかという点が懸念事項ではある訳です。

 とは言え、2015年には朝鮮半島国連軍の戦時統制権が米国から韓国へ完全委譲されることは決まっており、また米国が非核化を条件に某国との不可侵条約締結も考えていることは米国自身が明言しています。事実関係として、某国、米国、中共は休戦条約を結びました(韓国は休戦していない)が、この休戦条約、今年になって某国が一方的に破棄を宣言し、米国もそれを公式に認めています。戦時統制権に韓国への委譲、休戦条約の実質的破棄という事実関係の文脈からは、「不可侵条約締結」はあながち想定されないシナリオでもない様なのです。ポイントは「半島非核化」、北から南まで全てですよ、もちろん。

 この辺りは裏取りしていくと、国内では報道されていない話がポンポン出てきて面白いです。

 で、我が国はというと、首相が靖国参拝したかと思うと仕事納めということで。まぁ国家100年の計の一部である筈だと信じてますからね。少なくとも事大主義はマジアカンでしょう、というのが今年の最大の教訓、国家も経済も仕事もね。米国の「残念」の意味ですが、TV報道での解説の説得力無さったらありません。米国はロジカルに怖いですからね、キャンペーン(大抵は褒め殺し)が始まったらもう手遅れですよ、おそらくここまでは想定通りの展開と思われますが。

 良くも悪くも来年は今年以上に国際情勢、世界経済に色々動きがありそう、との認識は同僚とも共有してますが、内容については云わぬが華ということで。IMF(国際通貨基金)とかEU(欧州連合)の公開資料とかに目を通しているとちょっとドキドキしますよ。アジアの事は、アジアだけ見てては理解できません。

 後は気のまま。
  • 9月以降は出社拒否も起こさず、時折PCを前に寝オチする始末。
     そもそも職場で倒れた原因が不眠症で、睡眠導入剤も飲まずに「寝オチ」なんてのはここ3年ほど無かったこと。きっと体調良くなっているって思いたいのが人情ではありますが。ただ仕事以外への粘りと言うかやる気は明らかに減退、まぁ歳のせいでしょうけどね。

  • 車の乗り換え。
     気が付けば9年乗ってたのねFIAT Nuova Panda(2004年型)、良い車でした。2004年型は色々と原価低減策をする前の型式なので、実は外見が一緒でも後の年代の同型車よりもインテリアはしっかりしていたのです。
     一応プレミアムコンパクトとの位置付けのFIAT 500シリーズですが、「インテリアにおける原価低減策」はしっかり継承されているのはちょっと残念。TwinAirエンジンはちょっと回し気味でナンボって感じですねぇ。

  • 「宇宙戦艦ヤマト2199」良いところ無く完全撃沈、覚悟の心中。
     酷い出来でしたけれども最期まで付き合いました、Blu-rayプレーヤーもわざわざ買ったのにねぇ。あの素材で事前の予想を大幅に凌ぐ物語の薄っぺらさ、いつもの事とは言えあの素材でアレが平気でできるって辺りが「性根がプロじゃない」って証拠かと。金出す人も相手は選ばないとさ。
     一部報道では「市場規模なんとか億年!」なんて報道もありましたが、ゆるキャラ「くまモン」の経済波及効果(推定、活動開始からの積算)の1/10以下ですからねぇ…「くまモン」にしても「ふなっしー」にしても、中の人の「ゆるキャラとしてのプロ魂」みたいなものを感じますよ、マジで。

  • 「パシフィック・リム」に救われる。
     ツッコミ所満載という点は認めるけど、理詰めの構成力は凄い。労作にして傑作、シナリオが酷いという人は映画の読み方を知らないと思うべき、カットの一つ一つまでがなんと饒舌なことか!VFXとライブアクションを同じ人間がデシジョンすることで、何故作ったか、どんな作品を作りたいかから始まって実際の作品までが理詰めの一品。
     あこがれや思い入れを理に落とし込めた時点で、某2199とは別次元になったと言えよう。米国では不評とのことだが、それはかなり映画リテラシーのレベルの問題じゃないのか。「スターウォーズ」の興行的成功による「映画における新たなるイマジネーションの不在」をウン十年ぶりに打破した作品であり、その意味では「2001年の宇宙の旅」の直系かと思う。イマジネーションだけならば「インデペンデンス・デイ」っつーミッシングリンクがあるにはあるのだが、あれはシナリオが良い意味で馬鹿過ぎるもんなぁ。
     あと「マーズ・アタック」は「どこかで見たことがあるような感じのちょっと曖昧だけどそれっぽい一連のイメージ」を具体化したという点で、「スターウォーズ」の流儀を尖鋭化したと言って良いのではないかと思う。問題は、そこを尖鋭化しただけでは面白くなる理由がないことで、その辺りが確信犯的に作られている点を面白がれるかどうかという意味で、やはり観客を選ぶ映画ではないかと思う。

  • キャプテン・ハーロック…ん?
     気になって調べてみたら国内興行収入5億円程度とか、やっぱり大赤字。「くまモン」との比較は…ケタが違うね。某2199と同じで、金出す人間は相手を選ばなきゃだめっつーか、どうしてこんな企画に大金が投じられたのか?存在自体がファンタジーな感じ。
     今時モーションキャプチャーとか「作り手にイマジネーションありません」と言ってるも同然で、面白い物が出来るはずもない。「ロボットもカイジューも動きは全て手付けです、それがこの作品にとって必須なのです」と監督が言いきってしまう「パシフィック・リム」とは雲泥の差。作品の有様やら金の使い方やら色々間違ってる点では「デビルマン」の再来かもよ東映さん。
     世間のレビューを見るに、映画リテラシー的な観点からは評価が二分、シナリオ、或いは物語展開をきっちり追えている人とそうでない人との意識差が歴然。フランスではシナリオは受けるかもしれんが、小説同様マンガっぽさは余計かと思います。

  • 3Dモデリング封印、海外ネットコミュニティとの断絶。
     体調優先のため、一応「病気にて休みます」と仁義は切っておいて3Dモデリング関係のコミュニティからいったん断絶。まぁ、英語でやり取りすることが多少負担になっていたし、自分の3Dデータの商用利用差し止めとかでてんやわんやした経験も大きい。
     参加していたコミュニティはポライトであることを基本としつつも押しつけがましくないフランクな側面をも持ちバランスの良いところなのだが、時折その辺りの空気を読まないニューカマーが現れて「浮きまく」っていたりするのは(日本人っぽかったりして)ご愛嬌。ちなみに私は一部の人間に米国人だと思われていた模様、やはりカナダ人や英国人とは物言いが違うようです。

  • PC更新せず、3Dモデリングから音楽寄りにシフト。
     もうメモリも売ってないようなロートルPCなのだが、取り敢えず困らないのでそのまま。かつては毎年のように更新していたのが嘘のよう。PCアップデートに使っていたお金は音楽関係のソフト購入費にシフトした感じ。
今日のところはこんな感じかな。

2013/12/15

映画「パシフィック・リム」、成程。

 手放しで誉めよう。DVDで観たのだが、映画とはこういうもんだ、ということを本当に久しぶりに再確認した次第だ。エポック・メイキングかと問われると国内外の評価の落差もあって言葉を濁さざるを得ないが、非常にレベルの高いベンチマークが登場したのは間違いない。

 つまり、「パシフィック・リム以降/以前」という尺度が生まれたということだ。そして、実はスターウォーズ以降で失われたある重要な因子の再興とも位置づけられる、というのが個人的な評価だ。

 徹頭徹尾ロジカルかつ客観的な絵作りは、やはりロジカルなシナリオ/ストーリー展開と相まって小気味良い。作り手側の視点に立てば、おそらく妥協を極力排した、或いは妥協したところは捨ててでも全体として成立させられた真摯な作品というところではないかと思う。

 「ストーリー展開が弱い」との国内評もあるが、それは「絵作りやシナリオにおける高い客観性」に観た側が慣れていない、或いは単に付いて行けていないだけではないかと思う。ストーリーは重くは無いが骨太だ。だが、観客に対しては優しくないので、「あなたはちゃんと映画を読めますか?」という意味でもベンチマークと言える。

 一人称の小説に反吐が出る類の人間としては、セリフの一言一言までもが物語の全体像を形作るべく意味を持って積み上がっていく様が実に気持ち良い。カット一つ一つも同様で、スタイリッシュさといった「どうでも良い」ところをバッサリ落とした誤魔化しの無さは清々しいまでに美しい。「パシフィック・リム」という作品は、一部分を取り出してきたところで意味はない。全体を一つとして捉えたとき、私の脳内ではまるで球体のように見える。それは、素晴らしい論文の記載内容を頭の中で整理した時と同様の脳内の光景だ。

 ただ、ロジカルであるが故に、セリフやカットの意味をちゃんと追っていれば、最後の展開は2/3ぐらいまで進んだところでほぼ読める。それでもなお楽しめるのは、徹頭徹尾ロジカルだからだ。とは言え、エンディングのスタッフロールに挟まれる1カットをやっぱりやらざるを得なかったのはロジカルさを徹底するが故の代償とも言える。どう考えてもあれは必要なのだ。

 本作はレイ・ハリーハウゼン氏と本多猪四郎氏に捧げられている。両氏ともに一つ一つのカット自体だけでなくそれらの繋がりへの意味付けが明確なロジカルな作風であったことは重要だ。本多氏の作風は「ドキュメンタリータッチ」とも評されるが、本来荒唐無稽な怪獣映画でドキュメンタリータッチが成立すること自体に矛盾があり、論理的/ロジカルと捉えるべきだというのが以前からの持論だ。スターウォーズの商業的成功を機に絵作りにおけるロジカルさが映画から一旦失われるが、"Kaiju/Monster Master"たらんとすればロジカルであることは必須なのだろう。

 ジョージ・ルーカス氏の感性はあまりにカートゥーン的であるが故に、絵作りにおいて形態やシルエットを優先して嘘を許容し過ぎている。モーションコントロールカメラ全盛期のエピソードIVとCG期のエピソードIIIで絵作りに差が無いのは、氏にとって絵作りにおいて使われる技術の発達に意味がない、つまり絵作りにおいて「突き詰め、可能な限り肉薄すべき対象がない」ことの証左と言えよう。

 対照的に、「パシフィック・リム」はCG技術の成熟を待たねばならなかった作品とは言えるが、実は決して簡単な話ではない。CG技術自体が終始ロジカルなもの、というのは現代にあっては完全な間違いである。そこではスループットを上げるためのあらゆる誤魔化し(=冴えたやり方)が駆使されており、「リッチでありながら無味乾燥な絵」を作ることはむしろ困難なのだ。

 "Battlestar Galactica"は後半でストーリーにおけるロジカルさと骨太さを同時に失った。某2199は徹頭徹尾ロジカルではなかった。エヴァはロジカルでは成立させられない(まだ完結していないので言い過ぎかもしれないが)。作品におけるロジカルさの欠如を起因とするここ数年のうんざり感を一気に解消した「パシフィック・リム」、この1本を観ただけで2013年は良い歳だったと言っちゃえそうなのが実に幸せだ。

追記(2013/12/15):

 ただイェーガーの一部の名称は頂けない。ちょっと無神経ではないかと思うところもある。

2013/10/19

アクセス解析:検索ワードラウンドアップ:その2

 さて、第2回です。
  • KORG M01dと相性の良いDAWソフト
    KORG M01DはNintendo 3DSソフト、PC上のDAWソフトとの相性とは?3DS持ってないのでなんとも。

  • korg SQ-8 取扱説明書
    さる情報によると、KORG SQ-8の取扱説明書のオリジナルはKORG社内にも今や存在していないとか。海外のオークションサイトに英語版が13ドル程度で出品されています。

  • 宇宙戦艦ヤマト2199 オリジナルサウンドトラック rar
    違法ダウンロードが狙いならその行為自体が罰則対象ですよ。"yamato 2199 ost download"の方が効率良いかも、あ、独り言です。
    ちなみに楽曲データの違法ダウンロードを刑罰化してもCD売り上げは回復していないそうで。レンタルで失われている売上の方が大きいのでは?レンタルを許してるからCD価格が下げられないんじゃないの?レンタルによる損失分も上乗せされた定価なんてのは客を馬鹿にしています。定価販売が保証される再販制度に胡坐をかいてちゃ文字通り座して死を迎えるだけかも、音楽業界の都合は理解に苦しみます。
    iTunnes Storeが先鞭をきって開けた風穴のひとつは、「欲しい1曲の為につまらない他の曲の分のお金まで客は払わなくても良い」ことかと思います。裏を返すと、売れる楽曲と同じCDに収録されれば、そのCDが売れる限りつまらない楽曲であってもその著作者には一定の印税が入ります。でも曲単位での購入が可能となると、売れる楽曲にパラサイトすることによる印税収入はもはや望めません。
    通信カラオケも含めて、今や音楽は曲単位で消費される時代になっているのかも。古いとか新しいとかではなくて、CDという媒体自体が「曲単位で消費される」ことに向いていないのは明らか。そうは言っても「所有」することを客が欲する楽曲は、音質も考慮すればCDなどの媒体で供給される意味も価値もあるでしょう。CD売り上げの回復には、「所有」に耐えうる楽曲の提供が必要なだけじゃないのかなぁ。

  • ios702 起動してるアプリを消せなくなった
    音楽ライブラリの肥大化で私はアプリ使わなくなりました。iPhone5Sでは"Blue screen of death"で勝手にリブートとかまで発生しているらしく、一週間で使うのをやめた"Windows ME"を思い出さざるをえません。「今時ブルースクリーン?」って辺りはまさに想定外級、「有り得ない」という言葉は今も昔もAppleのためにあるような言葉です。

  • 宇宙戦艦ヤマト2199 ギャラクティカ
    本ブログ狙い撃ち?某アニメ監督とその周辺狙い?どうでも良いけど"Blood and Chrome"を誉める人のセンスは理解できないっす…

  • ヤマト 出淵 バカ
    ノーコメント。ほんーっとに検索した人がいるのです、それも一人じゃな…

  • スマホユーザー 迷惑行為
    ほんーっと困るのよ。

  • ipod touch ios7.0.2 気に入らない
    iOS7.0.2はかなり良いと思います。音楽プレーヤーで使っている「赤」を目にする度にiPod touch自体を叩き折りたいぐらいの衝動を今も感じますが、大っきらいなだけで、気にいっていない訳ではありません。

2013/07/28

「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.6まで来ましたな

 流通量の大幅減は明らか、TV放送も始めてしまった今となっては映像ソフトパッケージなんて売れないだろうという判断はおそらく妥当。TV放映開始も当初の想定よりも早かったのではないかとも思う。送り手側が賞味期限切れと判断したとなればコンテンツが余りに哀れだ。もしそうなら、「送り手側にも賞味期限切れ、乃至はそもそも作品作りに取り組む能力が無かった、という認識も同時に持てよ」と声を大にして言いたい。

 当ブログのアクセスログに残る検索キーワードも、最近は「ヤマト2199 おもしろくない」「ヤマト2199 つまらない」「ヤマト2199 ひどい」となかなか容赦ない。

 さて、まずは訂正。ガミラス帝国にとって「バラン」は豪快に辺境だったことが判明。あはは、ゲシュタムジャンプでも本星まで30日とか。「ゲシュタムの門」ネットワークは弾力性が低いようですなぁ…あと「コスモなんとか」が有るようです、名前からは波動砲よりもヤバそうな代物に思えます。

 で、Vol.5までは結構真面目に観てたんだけど、本ヴォリュームの4話は心底キツくて、ツッこむ気も完全に失せてしまったのよ、実際んとこ。こんな展開だと最初から分かってたらトレースなんてしなかった、この期におよんで自分に腹が立ってしまう。

 ご都合主義を超えて、本4話はもはや「全く面白くないコメディ」だ。これは演出とか表層的なレベルの話じゃない、物語の論理的構造と作品の有様の問題だ。各話のタイトルの選択も元ネタの手垢の付き具合が半端じゃなくてうまくない感じ。また作画レベルが時折下がるのも悪い兆候、作品がもはや作り手に愛されていない可能性を感じさせてしまいます。

 本ヴォリュームは充分に事故、いや事件ですよ。

2013/05/11

今さらながら「伝説巨神イデオン 劇場版」のこと

 「今さらながら」シリーズは評論でも批評でもありませんよ、念の為。


 Youtubeで「伝説の巨神 イデオンの絶望と希望」というタイトルの5分ほどのビデオがレコメンドされた。おそらくファンが編集したビデオなのだろうが、個人的に引っかかったのだタイトル中の「希望」という言葉。

 「イデオン」の何処に「希望」があったのか?


 地球人とバッフクランがまさに接触しようとしたとき、「イデ」は「希望を期待」したかもしれない。が、その期待は地球人とバッフクランの「殺し合い」の発生という形であっけなく裏切られる。しばらく様子をみていたものの両者の敵対関係に改善の兆しはなく、「イデ」は両者ともに「種」としては滅ぼすことを決断する。我々が漠然と口にする「命」というものに「イデ」が頓着している風情はない。映画「発動編」のラストが示唆する内容は、「知的生命体の命とは生命体個人の死をもって失われるもの」ではないと、少なくとも「イデ」は認識しているということである。イデオンでは「種の有り様」と「イデの価値観に基づいて善きものか否か」とがほぼ等価に取り扱われている。劇中で使われる言葉、「業」の位置付けも同様である。

 「イデ」は地球人とバッフクランという「種」に対してはおそらく絶望した。「メシア」の存在には「次世代の種」への「期待」を持ったかもしれないが、「希望」と呼べるものではない。まだ誕生もしていない「メシア」はそれでも「悪しき種」の一個体に過ぎず、かといって「善き有り様」を示す機会も与えられない。「イデ」は問答無用に二つの「種」を葬り去るのである。

 地球人とバッフクランとの不幸なファースト・コンタクトは、カララ・アジバの軽はずみな行動が原因となっている。理想家肌で「善きもの」に近い存在であったかもしれないカララの行動が「二つの種の殺し合い」、ただし「イデ」の立場からは両者は「単一の種」に過ぎない、を引き起こすという発端は誰もが考えるように極めて皮肉なものである。が、ラスト近く、「メシア」に『皆を導いてあげなさい』と語る資格があるのはカララだけである。それは「メシア」の母であるためではなく、「善きもの」であろうとし続けた存在だからである。

 だから、敢えてイデオンの何処に希望があったかと問われれば、「カララは死んでもやっぱりカララだった」という点を挙げよう。「業」とは「こだわり」である。カララのともすれば天然っぽく見えるまでの「こだわりの無さ」は、「メシア」を体内に宿すことになるまでに純粋だ。ただし、「業」を「業」として理解したうえで、さらに「己れの業」を互いに乗り越えるべくドバ・アジバと対峙する。これこそ「善きもの」としての一つの有り様である。ドバ自身も「業」を理解しているものの、カララとは対照的に「己の業」に従う道を選ぶ。

 イデオンにおいて、「業を持つこと」は「知的生命体」にとって不可避のものとして描かれる。「イデ」は「知的生命体」に「業」を持つことを求めつつ、それでも「業」を乗り越える「種」の誕生を望んでいるようだ。それは「イデ」自身を超える存在への希望だからだ。

 「善きもの」の希求…それは「イデ」の「業」じゃないですか。

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 「イデ」が「知的生命体」の「業」を喰うことで存在できるなら、強い「業」を持ちつつ「業」に縛られない「知的生命体」は良い食料ですなぁ。

2013/05/04

"EVANGELION:3.33 YOU CAN (NOT) REDO. "、観ましたよ:補足

 補足というより居酒屋での馬鹿ネタ。連休で実家に帰る列車の中で、ふと頭をよぎる。

 次作:アシュラ男爵
 今作:ブロッケン伯爵(首なしMark 09、ちょっと無理あり)
 前作:ピグマン子爵(仮設5号機、かなり無理あり。まぁ、ガンヘッドだろうけどさ)

 前作ではパラシュート降下時のマリの恰好が「ふりむかないで」の歌詞まんまで大笑いしてしまったが、今回はその手の小ネタは見つけられず。ちなみにザ・ピーナッツ主演の東宝映画「私と私」のラストは…