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2022/07/24

裏切りのサーカス?

 最近ね、とみに記憶がダメになっているわ、と言うお話。

 某見放題サービスで英・仏・独製作の映画「裏切りのサーカス」を見る。ビジュアルのフロントは明らかに仏俳優のゲイリー・オールドマンだし、製作に入っているSTUDIOCANALだか(既に記憶が怪しい)は仏資本だしで、フランス映画かぁなどと暫くほっぽり出していた作品だった。とは言え、ビジュアル中の俳優の顔触れや衣装を観れば、舞台が冷戦期の英国だろうことは明らかだった。スパイ小説は一時期読みまくったから「サーカス」が何を指すかも知っている。

 作品を観た感想については置いておくが、映画好きなら時間の無駄だとは思わないだろう。

 で、本題はここから。

 アバンに続くオープニングタイトルで原題”Tinker Tailor Soldier Spy”を見てまず「アレか!」と合点。ストーリーは思い出せたし、画面も地味なまま(アバンが一番派手かもしれない)ことを覚悟した位だったが、原作小説の作者名が思い出せなかったのだ。

 答え合わせをすれば「ジョン・ル・カレ」なのだが、この作家名が思い出せなかった人間が「スパイ小説は一時期読みまくった」とは我ながら片腹痛くもなる。とは言え単純に忘れていたのかと言えばさに非ず、他の作家、小説作品との多少の混乱があった。混乱の先は「レン・デイトン」、"Twinkle, Twinkle, Little Spy"で、同時期に読んだスパイ小説、という辺りにしか共通点は無さそうなんだけどね。

 因みにレン・デイトン作品は第二次世界大戦のノンフィクション「爆撃機」、「戦闘機」、「電撃戦」も出版されているが、個人的には「爆撃機」が一押しだ。

2021/08/01

ソ連/ロシア映画 "The Dawns Here Are Quiet(А зори здесь тихие…)"

 ソ連/ロシア映画にたまにある、こういうウェットと言うか、センチメンタルな作りは日本人にも受け容れやすいのではないかと思う。この土日はネットで同じタイトルの作品のリメイク映画(日本語字幕)、リメイクTVシリーズ版(英語字幕)、そしてオリジナル映画かそれに基づくTVシリーズ(英語字幕版)を観た。やっぱり映画はスクリーンで観るかどうかに拘らず、機会を作ってでも観続けなきゃいかんなぁ。なお、原作小説を始め、この作品はソ連/ロシアでは根強い人気があるらしい。

 作品のタイトルはエントリタイトル記載の通り、"The Dawns Here Are Quiet(А зори здесь тихие…)"で、独ソ戦開戦初期のお話だ。一言で言えば戦争映画である。

 主人公は激戦地に挟まれたとある村に駐屯する対空砲撃部隊の男性指揮官(曹長)だ。ただし主人公は「村に配属されている状態」で、部隊が入れ替わっても彼が常に指揮官になる。村は沼沢地も含む起伏の激しい自然環境に囲まれているため戦場とはなっていないが、上記のように激戦地の間故にドイツ軍機がたまに通過する。このため対空砲が配備されている訳だ。だが裏を返すとこの地域は、後方かく乱などを狙った小部隊にとっては戦線の途中にぽっかりと開いている格好の侵入路だ。

 物語冒頭での主人公の悩みは戦争中としては牧歌的とも言えるものだ。ヒマがちな対空砲撃部隊の兵士たちは酒を飲んでは村人らとトラブルを頻繁に起こすのだ。ついに「酒を飲まない兵士の部隊」の配属を求めた主人公に対する上官の答えは、「女性兵士のみで構成された対空砲撃部隊」の配属だった。そして、そんな女性兵士の一人が村の近くで二人のドイツ兵を目撃したことから物語が本格的に動き出す。舞台が「沼沢地も含む起伏の激しい自然環境」であることがドラマの展開においても十二分に生かされている辺りは心憎いまでにそつがない。

 最初に観たのはGYAO!で無料配信されているリメイク映画版(日本語字幕、2015年)で、タイトルは「レッド・リーコン1942 ナチス侵攻阻止作戦」(2021/8/20まで)だ。「観たい!」と思う人がいたなら、これを勧める。2時間近い作品で、展開はゆっくりしているが、個人的にはダレることなく一気に観れた。「15+」とレーティング付きだが、これは女性兵士の入浴(サウナ)や川での水浴びシーンがあるためだろう。

 YouTubeには、上記映画の撮影フィルムに基づくTVシリーズ(全4エピソード、第1エピソード)が製作会社の公式チャンネルで公開されている。各エピソードが45分弱なので尺は映画の1.5倍あるが、ストーリーは同じものだ。追加の尺は、過去エピソードなどによる登場人物の造形の掘り下げや登場人物の関係性の強化を中心に使われている。映画版ではセリフだけで処理したり描写がそっけなかったりで分かりにくい部分に上手く手が入っている。映画とTVとの視聴環境の違い、視聴者のコンテントへの集中具合の差の観点からは、定番中の定番の処理とは言える。また、連続モノには必須のクリフハンガー(エピソードのラストで主人公大ピンチ!)のための進行調整にも使われているだろう。字幕は英語、ロシア語のみだが、CC機能を使っているのでユルユルで良ければ自動翻訳の日本語も選べる。

 最後はオリジナル映画版かそれに基づくTVシリーズ(1972年)で、英語字幕版をYouTubeで観ることができた。権利関係が?なのでリンクは控える。モノクロ主体でカラーが限定的に使われていることが一つの特長だが、良くも悪くも演出レベルでの使い分けであろう。カラーの発色具合を見てもしやと思ったが、やはり映画「惑星ソラリス」と同年の作品だった。

2021/04/11

映画「王立宇宙軍」は実質的に日本語吹き替え版か?

 二つほど前のエントリで、映画「王立宇宙軍」に触れた。その際に頭を掠めた事を書いておく。「王立宇宙軍」では主人公たちは日本語をしゃべるが、敵対する共和国の人間は全く異なる言葉をしゃべり、字幕が出る。劇中の世界の作りこみへのこだわりを感じさせる処理だ。だが待てよ・・・という話だ。

 ここからは朧げな記憶を起点とする話なので、記憶違いだと前提が壊れて以下は全て無意味になる。が、まぁ聞いてくれ。結論から言おう、「吹き替え版でなければおかしい」。

 プロデューサーの岡田斗司夫氏によれば、主人公たちが使っているのは12進数だそうだ。ならば、10が「じゅう」なのはともかく、11や12が「じゅう+1」、「じゅう+2」を思わせる「じゅういち」や「じゅうに」と発音されるのはなかなかに不自然だ。カウントダウンでは「じゅうご」なども用いられているが、この場合は「10+5」ではなく「12+3」を思わせる発音の方がふさわしいだろう。従って、少なくとも数字に関しては、10進数を使う我々でも分かるように「吹き替えられている」とはならんかねぇ。

 以上。

 ちなみにクリント・イーストウッド監督の映画「ファイアフォックス」では英語(と米語とロシア語訛りの米語)とロシア語が使われているが、各シーンでどちらの言語を使うかのルールはあらためて考えるとややこしくて混乱する。ただこれ、英語を母語とする観客の分りやすさを思っての計算ずくのものと思われるので、むしろ気にしない方が良い。観てても気にならない、気にしない人も多いと思われる。細けぇことはいいんだよ。

 ロシア人しかいないシーンでのロシア人同士の会話は基本的に英語である(ストーリー理解に会話内容の理解が不要なソ連旅客機のコクピット内の会話はロシア語だが、ソ連ミサイル巡洋艦リガのクルーは英語をしゃべっている)。だが実際にはロシア語をしゃべっているので、吹き替え相当の処理だ。このようなシーンではソ連第一書記も普通に英語をしゃべる。ところが無線で米国人に「英語で話しかける」シーンでは、件のソ連第一書記は「ロシア語訛り」の米語をしゃべる。単語が区切られ、特に"r"の発音に癖がある(ミスター→ミスタル、プロパティ→プロパルティ、ユー・アー→ユー・アルみたいな感じ)。前世紀にロシア人研究者の英語による研究結果プレゼンを聞いたことがあるが、まさにこんな感じだった。ここではそれまでの流暢な英語はどっかに行ってしまっている、すなわち英語への吹き替え相当の扱いはされていない。

 と言うような例もあるので、まあね。

2020/02/10

「パラサイト」アカデミー賞受賞からつらつら

 今年のアカデミー作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が受賞した。私は観てないので作品自体については何も語れないが、個人的には懐かさも感じる名前がみられたので、昔語り含めて思うところをつらつらと書いてみようと思う。

 ポン・ジュノさんが関わった映画作品との最初の出会いは「ユリョン(幽霊)(1999)」だった。担当は脚本である。脚本家なんて普通覚えることは無いが、ストーリーが当時親韓寄りの一日本人であった私からしてみてもあんまりなものだったから、結構ネガティブな意味で名前を憶えてしまったのだ。はっきり言って観ていて不愉快になった映画だった。本映画では、「借金のかたにロシアから核ミサイル原潜(艦名が「ユリョン」)と核ミサイルを入手したから、日本の諸都市を核攻撃しよう。海上自衛隊の潜水艦も撃沈してやったぞ!」という反乱勢力と、「日本を核攻撃するべきは今ではない、今は止めろ!」という主人公との、核ミサイル原潜内での戦いが描かれる。そして、日本を核攻撃する理由を主人公に問われた反乱勢力のリーダーの回答は、「これは我々の恨(ハン)だ」の一言だった。

 これを観て、日韓は絶対に安定した友好的関係を維持できない理由がある確信した。観た時期が日韓共催サッカーワールドカップと重なったことで、その思いは尚更強くなった。

 「恨」に対応する概念は日本には無いとされるのが一般的だ。2000年ごろに、日本人には「恨」は絶対分からないと本で書いた日本人や韓国人もいた。「恨」に対する私の印象は「相手が悪いんだと決めつけることが許されるという、日本で言うところの空気みたいもの」であり、「甘えの論理」の発露以外の何物でもない。「恨」は韓国人同士でも発動するし、「国民情緒法」や韓国左派の志向、とにかくマウントを取りたいという欲求などとの親和性が実に高い。「ユリョン」では韓国原潜は米国原潜には全く手を出さないが、映画とは言えさすがに日本と同じ扱いはできなかったのだろう。だから余計に「日本への甘え」に見える。

 「恨」を否定も肯定もせず、極端な仮想的状況下で「恨」を振り回す人々の様と「恨」の発露の様を描いた映画、というのが私にとっての「ユリョン」だ。この視点からは、韓国人にとっては何気に自虐的な映画、「恨」の構造そのものの映像化にも見える。全てが「恨」の上に構築された物語であるため、「恨」が無くなると全てが意味を失う。多くの韓国人には「反日エンターテインメント大作」に見えるんだと思うんだけれども、僅かにしかない日本要素の描き方(沈没し、深海で圧壊寸前の海上自衛隊潜水艦から聞こえてくる日本語など)は反日ニュアンスなど含まないかなりニュートラルなものである。とは言え、一日本人に言わせてもらえれば、劇中の反乱勢力や主人公の言行は押し並べて幼稚で不愉快だ。主人公も「恨」を克服している訳ではなく、おそらく「反乱勢力の言行に対する若い正義感に基づく反発」みたいな別の理由によって、結果として「『恨』にどっぷり浸かる楽な態度」から距離を置くことになっているようにしか見えない。どこまでが計算ずくの脚本だったのだろう。

 ちなみにポン・ジュノ監督と韓国保守派との関係は良くない。少なくともとある保守政権では、問題ある人物のリストに含めたことがある。裏を返せば現在の政権は、必要と見れば国を挙げて彼と彼の作品を押すのは間違いない。政府が業界に金を落としている昨今、韓国映画は重要な輸出商品であるとともに政治的な武器とも言える。政権が変われば作られる映画のトーンも変わる。

 とは言え、とある韓国ウォッチャーの文章を読んでいると、政治性の無いエンターテインメント作品や一見左派好みの作品でさえも政権批判(とも取れなくもない要素)や反北朝鮮要素をこっそり忍び込ませる、といったことは最近でも少なからずあるのだそうだ。映画が政治化しようとしているのではなく、政治化されたことに対する映画からの反抗っぽいところがミソだと思う。が、それは作り手がどちらかと言うと保守派寄りである場合の話であって、左派、革新派寄りの場合は時の政権に寄らず、批判の原因である政治や社会の問題の描写がまんまむき出しであることが多い。その代わり、陰にも陽にも政権批判はまぁしない。少なくとも2006年までの作品のポン・ジュノ監督の作風もそんな感じだった。

 むき出しにできるってのは骨があるのか生真面目なのか、個人的にこの辺はもう20年来の謎なのだが、理想家肌の作り手と保守派の反りが悪いことと、保守派でなければこっち側だろうと二分法的に考えている風が見える昨今の左派や革新派の挙動も併せて考えると、話が逆な気もしてきた。左派、革新派だからむき出しなんじゃなくて、むき出しにするから左派、革新派から左派、革新派認定される、むき出しにしなければ左派、革新派から保守派認定される、ということだ。そして、作り手の政治的信条とは関係なく、保守派は左派、革新派の反応を見て、敵味方の判定をする。結局相対的なのだ、「恨」にも似て。

 そもそも中道がない、存在できないとか、保守派もさっぱり頭良さそうな感じがしないとか、脇から見える韓国国内状況からならそんなこともありそうにも思えるから困る。「政治問題、社会問題をむき出しで描くなんて、時の政権であれば左派だろうが革新派だろうが嫌がるでしょ」と思うでしょ?「政治問題、社会問題の原因は全て過去の保守政権」と「悪いのは全て他人」とできるから左派とか革新派なんてやってられるんですよ、「悪いのは朝鮮戦争に介入した米軍」とか何時はっきりと言い出すか分かったもんじゃないですよ・・・きっと、多分、もしかすると・・・まぁ、可能性が全く無いわけじゃないぐらいの話として、ね。

 ここで韓国の映画産業がらみで、さらに脱線する。

 90年代中、後期に韓国映画業界は自ら力をつけた。制作プロセスのデジタル化を一気に進め、ハリウッド作品を彷彿させる画作りをあっと言う間に修得した。強くなった経済力を背景にエンターテインメント大作が作られるようになり、主に軍政時代の事件(例えば、光州事件)を題材とした韓国独自・固有のテーマに基づくやや内省的な作品群も生まれた。短い期間ではあったが、韓国映画は自国の近い歴史を時に批判的に、時に中立的にシリアスに描く作品を生み続けたのだ。私が韓国映画に興味を持ったのがこの時期である。

 そんな一種の自由な制作環境は、映画産業に国が資金を投入し始めた21世紀になって変質していった。「シュリ(1999)」はそんな過渡期最終期の雰囲気をたたえる作品だ。エンターテインメント大作であり、南北分断・対立という朝鮮半島固有の状況を背景とし、デジタル技術を生かした画作りと日本の90年ごろのトレンディドラマ風の画作りが共存する、今見るとちょっとちぐはぐさも感じるサスペンスメロドラマである(私はトレンディドラマとやらを観たことがないので、この辺りの言及は当時一緒に本作を観た人間の感想である。私は時折画が古くさくなるなとしか思っていなかった)。金大中拉致事件を扱った日韓合作「KT(2002)」が後に作られたが、(何時何処で読んだか思い出せないのだが)とある人によれば「この映画の制作時期が、事件当時の乃至は公開当時の政権批判を含む作品が韓国で製作可能だった最後の時期」とのことである。まぁ、もうそういう映画に観客は入らなくなってもいたのだが。

 ポン・ジュノ監督の活動開始時期は、そんな業界の変化と同時期である。韓国近代史上の事件やリアルタイムな国内の政治問題、社会問題をシリアスに描くことが、主張の左右上下に関わらずリスキーなった時代の監督なのだ。後でも少し触れるが、私は韓国のコメディー映画がさっぱり笑えない、面白くない。これは私が韓国の政治や社会のリアリティを知らないせいなのかもしれない。

 他方、朴正煕大統領暗殺事件を扱った映画「ユゴ 大統領有故(2005)」は、ついさっき読んだWikipediaの記事によるとブラックコメディとのことなのだが、初見以来全くそのような認識がなかったので本当に驚いた。本事件に関しては何冊もの本を読み(事件に続く粛軍クーデターの顛末も含め、最初に読んだJICC出版のムック「軍部!」の内容が余りに面白過ぎた)、事件自体の展開が行き当たりばったりなものであることを知っていた。このため「全体として重苦しい画作りで、演出はあるものの、そもそもコメディがかった要素の多い事件経緯をほぼ再現した映画」としか見てなかったのである。今でも「コメディとして作られている」なんて思わない。劇中、「下半身に人格はないからな(笑)」みたいなセリフが日本語で飛び出すが、韓国の観客がどういう思いでそのセリフを聞いていたのかは分からない。

 なお、朴正煕政権内の同世代との内緒話では、うっかり若い世代の人間に聞かれても話の内容が分からないように、日本語を使うことが少なくなかったようである。この点は、世代も、ナショナリズム意識の基盤または国に対するアイデンティティの置き方も違う全斗煥政権以降とは異なるらしい。朴正煕政権は経済発展をテコに「日本の呪縛≒反日≒大きな恨のひとつ」からの精神的自立(≒克日)を、全斗煥政権は軍の米国からの自立をテコに米国からの精神的・政治的自立を、それぞれ志向していたというのが私の理解である。盧泰愚政権以降は・・・うん、一気に「反日」、「反米」の姿勢を取り戻すと言うか、ほとんど再創造してしまった。北朝鮮の「反米」は歴史的経緯から理解は簡単だが、韓国のそれは、例えば米国にはほぼ理解不能だろう。それは士官学校の教官に米国軍人が含まれていた時代を侮辱的と捉えた全斗煥のスタンス(これも「恨」の構造である。自分達が士官学校の教官が全て韓国人となった最初の士官学校生であったことを理由に、全斗煥らは自らを真の「韓国軍士官候補第一期生」と称し、他世代に対してマウントを取ろうとした)を利用した勢力により、政治問題として再創造された側面も持つものだからである。この辺り、戦時統制権に絡む韓国「内」のゴタゴタの筋の悪さと無関係ではないだろう。

 軌道修正。

 北朝鮮の主体思想の立ち上げは、私には「『恨』を乗り越えようとする試み」、「自立への試み」にも見えた(ただし、北朝鮮外で「主体思想」と呼ばれるものの大部分は政治工作用の別物で、「恨」をむしろ利用している)。朴正煕政権の開発独裁手法も、上述したように同じ方向性を持つものと見えた。が、北朝鮮は後に「先軍政治」を叫び、相対的に「主体思想」の影響を国内で薄めた。その結果なのか、北朝鮮の日本への態度に「恨」的な甘えっぽいものを感じることが増えた。 今やその甘えは米国にも発動しているやに見える(年を越えてから良く分からなくなっているが)。片や韓国は盧泰愚政権以降に「恨」は完全に息を吹き返し、その反動として誕生したとも見えた朴槿恵政権(1000年変わらない発言に見るように、アンチ「恨」の体は取らなかったが)も改めて押し流してしまった。

 と言う訳で、韓国の現行政権の中心である左派、場合によっては革新派は、「恨」すら克服できないというか逆にどっぷり浸かった守旧派乃至は単なるポピュリスト、もしかすると50年遅れの北朝鮮であることが明らかとなってしまった。ただ当人たちにその自覚が無い。金日成の大勝利どころか、間違いなく想定外の完全勝利だ。

 この2~3年は南北共に同じ相手(主に日本、米国)に「恨」を発動している状態にいったんなったが、それでもなお北朝鮮には「恨」から距離を取ろうという姿勢はあり(でなければ金日成否定となる)、「北朝鮮が韓国を見下すような態度を取る」根拠となっているというのが私の見立てだ。北朝鮮には現在の韓国政権の精神性が「自分達が50年前に乗り越えたもの」に見えるのである、まともに相手をしようとは思わないだろう。とは言え、そのような北朝鮮の態度も韓国への「恨」の発動とも見えなくもなく、北朝鮮がまともに見えることはあっても、十分にまともな訳ではないだろうという思いは変わらない。目くそ鼻くそを笑う、というやつである。「恨」の呪縛はかくも強烈なのである。

 さて、

ぺ・ドゥナさんというかつての私のお気に入り韓国女優さんがいる。10年代になって「クラウドアトラス(2012)」や「ジュピター(2015)」に出演し、今やハリウッド女優である。日本映画「リンダリンダリンダ(2005)」ではバンドのボーカルを務める韓国人留学生役を演じ、日本のTVCMに起用されたこともある。舞台活動もしている。映画の出来は今二つだが、「春の日のクマは好きですか?(2003)」での彼女が個人的には一番可愛く魅力的だった。

 ポン・ジュノさんの監督デビュー作「吠える犬は咬まない(フランダースの犬)(2000)」はコメディであったが、さっぱり笑えず、面白さが全く分からなかった。が、主役級で出演していたぺ・ドゥナさんを見つけられたのは個人的に大収穫だった。ぺ・ドゥナさんの出演映画は「リング・ウィルス(1999)」から「グエムル(2006)」まで日本で視聴機会のあったものは全て観たが、「グエムル」はポン・ジュノ監督作である。

 ぺ・ドゥナさんは「TUBE(2003)」で「ちょっといい女」っぽい役を演じたりもしているのだが、多少なりとも当たったのがコメディ映画ばかりだったせいか、少なくとも2010年ごろまではワールド・ムービー・データベースで「コメディエンヌ」と書かれていてちょっと可哀そうだった。なお、00年代のぺ・ドゥナさんは明らかに出演作に恵まれていない(婉曲表現)が、観ていないなら、「リンダリンダリンダ」と「グエルム」はまぁ、お勧めできる。「パラサイト」がコメディとして始まりホラーに変わっていく構造と人から聞いたのだが、ならば「グエルム」と似た構造とも言えるかもしれない、知らんけど。

 ソン・ガンホさんは今もお気に入りの韓国男優である。 低予算コメディからシリアスな大作までもこなす、個人的印象としてとても器用な俳優さんである。役を自分に寄せるタイプではない。初見は「シュリ」で、「パラサイト」では主演を務めている。お勧めの出演作は肩の凝らない「反則王(1999)」と胃もたれするかもしれない「殺人の追憶(2003)」だ。

 「殺人の追憶」は今やアカデミー賞タッグとなった監督ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ作品で、最初から最後まで緊張感のあるフィルムだった。同監督の「吠える犬は咬まない」も同主演の「反則王」もコメディだったので侮り、心の準備なく初見に臨んで劇場でちょっと茫然としてしまった。カメラワークなどに、主人公らの経験を観客にも共有させるようとしているといった意図を感じる映画だった。私にとってのポン・ジュノ監督作品は、今も「殺人の追憶」に尽きる。ただ結構重苦しく後味も良くない映画なので、万人にはお勧めしない。

 最後に「パラサイト」の受賞だが、(後出しだから説得力はないけど)個人的にはかなり確率が高いと見ていた。ここまでの追い風はなかなか望めないからだ。トランプ政権の支持基盤は共和党右派で主流派よりも右寄りである。アカデミー協会の政治的逆張り体質は折り紙付き、ポリコレに対する態度はもう敏感を通り越し異常とも言えるレベルであり、更に昨今の海外会員の増加の少なくない部分を韓国人会員が占めている可能性も高い。おそらく韓国政府の働きかけも方々であっただろう。監督がNETFLIXからの投資を受けた経験も、もはやアカデミーでは問題とはされない。NETFLIXも何らかの賞は取らせたいと考えていたのではないか・・・「アイリッシュマン」との兼ね合いはあるが。

 「パラサイト」はノミネートされた時点で映画として一定レベル以上の出来である評価が定まっており、社会的テーマを取り扱うとともに、(観てはいないがおそらく従来通り)左派視点が盛り込まれているか強く影響した描き方となっているだろう。故に受賞を逃すようであれば、「人種差別を叫ぶ会員が出てきても驚かない」レベルと見ていた。映画としてOK、アカデミーが好きなテーマ性、アンチトランプ(厳密にはアンチ現米国政権なのでざっくりアンチ保守、つまり左派・革新支持)、ポリコレ(アジア人監督作)・・・もうここまででも十分な数の受賞に有利な因子がある。繰り返すが、これまでの受賞歴、評論家のみならず観客からも得た高い評価から、映画としての出来は折り紙付きなのである。アカデミー作品賞受賞の可否は、もう政治マターだったようなものだ。

 もちろん、そうではあっても、アカデミー賞受賞が「パラサイト」の価値を上げることはあっても下げることはないのは当然だ。そしてもう一つ大事なこと。賞は作品なり、監督なり、脚本なり、俳優なりが取ったものであって、国は基本的に関係ないんだ。だから(馬鹿々々しいので以下省略)

2020/01/01

アニメ「映像研には手を出すな!」のPVを観る!

 もう1年以上病気でまともに動けない状態もあって今日になって知った、大童澄瞳さんのマンガ「映像研には手を出すな!」のTVアニメ化。「半年ぐらい前が最初のアニメ化に良い頃合いだったよなぁ」と突如閃いて元旦にググってみたら・・・。

 原作は飛ばし飛ばしで数としても10話も読んでないという体たらくだが、第1話を一読した時点から映像化されたときの「俺イメージ」と言うか、「演出プランもどき」と言うか、が明確にあった。そういうものを喚起させられる、どうすれば良いだろうかと一度は考えてしまう、私にとって稀有なマンガなのだ。健康上の問題が無ければ、少なくとも単行本はリアルタイムで追いかけていただろうと思う。

 で、最新のPVを観る。

 ん~彩度が高めの色彩設計だなぁ、というのが一見しての印象、例えば制服の上着の青さとかね(黒のラインとのコントラストが出なくて、見にくい気もする)。これは批評とか好みとか言う話とは無関係で、要はマンガから喚起された「アニメ化時の俺イメージ」との差分以外の何物でもない。もうちょっと正確に書いておくと、「日常世界」シーンは敢えてもっと色をくすませていてもいいんじゃないかなぁ・・・と言うこと。「日常世界」シーンと所謂「最強の世界」シーンとの演出上の区別のために彩度差も使えるようにしておこう、という意図が裏にあるよーな気もする、我ながら。

 じゃぁ「俺イメージ」の源流はどこにあったんだろうと考えてみると、日常側は16コマ/秒の8mmフィルム(Fuji)のライブ映像、「アニメ内アニメ」たる「最強の世界」側は16mmフィルムで撮影されたかつての普通のTVアニメの映像なんじゃないかなぁと。原作マンガを読んでいた時、8mmフィルムで映画を撮っていた若いころのことを思い出していたのかもね。とは言えあくまで「フィルムの持つ色味の風合い」の記憶を喚起されたのではないかと言うだけであって、実際のカメラやレンズの限界や絵作りは別問題。もちろん日常側で粒子の粗い画を使うという意味じゃない、色だけの話。

 第1話をベースに考えても「映像研には手を出すな!」は、ざっくりと言って「日常世界」と所謂「最強の世界」と両世界の「遷移過程(トランジション)」を連続的に描く必要があり、このあたりをTVアニメがどう取り扱うかには興味を持たざるを得ない。アニメ版における所謂「最強の世界」シーンは言わば「アニメ内アニメ」、「アニメでアニメの画を表現するシーン」であるため、特定の画が「日常世界」のものなのか所謂「最強の世界」のものなのかの正しい判断を、作り手側からのサインなど無くして、視聴者に期待することは必ずしもできない。

 本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?

 「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。

 対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。

 ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。

 ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。

 PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。

 ちなみに「俺イメージ」にはアニメ化版だけでなく当然のように実写化版もある。むしろ「映像研には手を出すな!」は実写の方が演出的なハードルは低い。これはライブアクションによる「日常世界」とアニメによる所謂「最強の世界」とが、その見た目から否応なく別物となる点にある。「遷移過程」はアイディア勝負で、作り手のセンスが問われそうだ。

 出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。

・・・あ、実写版も製作中?えー・・・「遷移過程」は例えば手描き絵と切り抜いたスチール写真での低フレームレートのアニメとかでもいいけどさ、製作費はいくらなんだろう?

追記(2020/1/2):
 NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。

 まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。

 ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。

 もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。

 「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。

 作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。

2019/12/08

「岡田斗司夫ゼミLive 宮崎駿『On Your Mark』特集」を観る

 YouTubedeでの無料版だけの視聴だけど尺は2時間弱で内容も充実。下記リンク先は編集版です。


 または


 岡田氏はCHAGE and ASKAの楽曲のPV「On Your Mark」と言う作品を、見た目の展開(≒ストーリー)から始めて、暗喩や構成などの視点から6階層(レベル1~6)で「読む」ことができるとし、無料版ではレベル1(≒見た目のストーリー展開)および2(=岡田氏曰く「宮崎氏が描き、作品に込めた3つの悪意」)について説明した。

 レベル1の説明を聞きながら、なんか一度だけ、それも部分的に観たことがあるようなないような、変な感じに襲われた。

 レベル2に関しては「ほぼ見えている≒さりげなく画面で描かれている」ものなので、レベル1の説明の段階で半分以上は私も読み取れていた。私が宮崎氏の原子力利用に対する姿勢を知っていたり、スリーマイル島及びチェルノブイリ原発事故やその後についての知識があることは、当然「レベル2の読み取り」に大きく寄与している。

 レベル2までの説明なので、岡田氏の分析に対する私の意見などは保留とするのが妥当だろう。特に反対意見とかは無いんですけどね。レベル3が構成に関わるものとなるらしく、個人的にはキモとなるのではないかと予想。レベル2までの説明だとラストで描かれている内容は「空想側」の筈だが、「現実側」としないとせっかくの「悪意」がスポイルされるしまう。「空想側」としても誰の「空想」なのかが不明だ(主要登場人物は途中で死んでいる、と岡田氏はうっかり?口にしてしまっている)。この辺りを「構成」レベルの読み込み(レベル3?)で明らかにしてくれるとかなりすっきりしそう・・・レベル6までの説明を聴くため、ゼミの有料会員になっても良いかなとちょっと思う。まぁ、とっとと体調戻さないと金銭的にね・・・

 最後に一言。

 「描かれたイメージ、引用元」、「表面的な構成・現実と空想との対立や、ラストまで大部分があやふやななままの現実と空想との境界」や「悪意の存在とそれらの紛れ込ませ方」、そしてもしかしたら「構成は、空想-現実ではなくて空想-悪夢-現実かも」などは、テリー・ギリアム監督の映画「未来世紀ブラジル」っぽくないですかね?

2016/07/19

「ローグ・ワン」、大丈夫?

 トレーラーは後半です。

 何と言うか、どのカットもとてもTV的で映画感、スケール感がほぼ皆無・・・大丈夫?

 フォレスト・ウィテカーさん好きなんだけど、どっかなー。

2016/01/24

シン・ゴジラのビジュアル現る

 東宝ゴジラがリブートされた80年代には、当然80年代の空気ってものがあった。要はアニメやら特撮の製作を多少なりとも意識した人間達の間で、どういう訳か共有されていた素材や方向性である。とある映像制作者達の持つ方向性にも同じ空気がときたま感じられる。

 最近公開された「シン・ゴジラ」の「ゴジラのバストショット」を見て、その空気、と言うか当時の中学生~高校生世代の私や仲間達が考えていたことを思い出した。

 空気その1は「テクノロジーの生み出した巨人を主軸とした物語」である。

 私の場合は大学生時代に同人誌向けに書いた小説もどきのネタとした。その漫画での巨人は、世界中に次々と現れる竜やグリフォンといった「神話上の存在とされていた超常的能力を持つ巨大怪物」への最後の対抗兵器だ。この巨人の設定は仲間達との「ジャイアントロボ・リメイク企画ごっこ」の結果の変形だった。当初は「不思議な宝石(勾玉じゃない、残念)」持った少女(この辺りが実に80年的)の口頭での指令に従って巨大怪物と戦っていた巨人は、最後に少女の命を守るために自らの意志で巨大怪物を倒す。何故なら巨人の正体はその少女の母親だからである。 

 おっ?

 空気その2は「ゴジラの身体は核兵器のために傷だらけ」である。

 東宝リブート2作目の「ゴジラ対ビオランテ」の製作段階では原案が一般公募された。ストーリーがさっぱり思い浮かばなかったので応募なんてできなかったが、作った設定はこんな感じだった。
  • 仮タイトル「ゴジラの逆襲」、怪獣対決路線
  • ゴジラは2匹出てくるが、最後にゴジラ同士の対決となるまで「ゴジラは1匹」と思っている登場人物達は翻弄され続ける
  • 主人公は、唯一「ゴジラが2匹」との事実に肉薄する人物
  • 2匹のゴジラA、Bはともに身体に少なからず核兵器による傷を負っている.
  • ゴジラAは核兵器によって右目を失っており、残る左目は狂気の光をたたえている
  • ゴジラAが暴れた場合のみゴジラによる直接の人的被害が発生(つまり明らかに人間を襲っている)、ゴジラBが暴れた場合は直接の人的被害無し
  • 自衛隊はゴジラBとしか結局交戦しない
  • 最後はゴジラA対ゴジラBの対決、人間達は為す術なし
  • ゴジラBがゴジラAの首筋に喰い付き、そのまま白熱光を吐いてゴジラAを屠る
  • 劇終直前、アップとなったゴジラBの目はそれまでと違ってゴジラAの左目と同じ光をたたえている
 こんにちに至っては「傷」「目を失っている」などと多少穏やかな表現を選ばざるをえないが、元々のアイディアが核兵器絡みだし、元ネタのひとつが「墓場鬼太郎」の鬼太郎登場シーンなので具体的なビジュアルは押して知るべしだ。

 身体の傷以外にも被らないかなぁ・・・

2016/01/15

要はJJが基本に忠実だということ

 「フォースの覚醒」が「風の谷のナウシカ」に似てるとか。以前のエントリでも触れたとおり、JJは映画の基本に忠実な作りができるということに過ぎないんだろう。「TVドラマみたいな映画」しか撮れない監督は単にそういう基礎もできていないというだけじゃないかと思う、ましてや破壊なんてできる筈もない。JJは今回、おそらく「基本に忠実」であることを積極的に選択した筈だ(きっと、もう小手先の「破壊もどき」には飽きているんでしょ)。

 基本に忠実という点では「風の谷のナウシカ」も同様で、上段は「風の谷のナウシカ」、下段は白黒時代の黒澤作品だけでも半分以上は埋められそうだ。さすがに空中戦そのものは無理だけどね。

2015/11/13

The force, it's calling to you. Just let it in.

 「フォースはあなたに呼びかけている。ただそれを受け入れればいい」

って感じでしょうか。公開が迫ってきた映画「フォースの覚醒」の宣伝コピーとしても使われている、少なくとも予告編では聞けるセリフですね。

 ワイヤード・ジャパンが「フォースの覚醒」公開に合わせてスペシャルページを設けています。無料で読める記事としては良質、興味深いものもありました。

 ただし、一つ重大な問題が・・・"it's"であるべきところが"its"になっている!アポストロフィが抜けたせいで「英文じゃなくなっている(意味の無いアルファベット列になっている)」んだよねぇ、もったいない。
 まぁ、意味消失してる時点で"lts (LTS)"という可能性も生まれてるわけですけど。

2015/10/24

ガメラ記念映像

 ワーナーブラザースのプレスリリースによると、所謂ハリウッド版ゴジラは今後3本が予定されていて、3本目が「キングコング対ゴジラ(Kong vs Godzilla)」ということらしい。近年のゴジラの動きと関係あるのかどうかは不明だが、ガメラも新作が準備中らしい。

 平成ガメラ三部作は、傑作群とは手放しでは褒められないが、どれも劇場で拍手しそうになったのは事実だ。肝は脚本と監督の演出姿勢で、それらがばっちり決まっているところは問題無いのだが、逆に大人の事情なのかそれらを外してきたところで一気にグダってしまう。外したところ、は、まぁ日本映画全般に見られるところだ。結構苦々しく思っている監督業の方もいらっしゃるのではないかとは思う。

 え、特撮?まぁ、頑張ってたんじゃないですか?どうやって撮ったか分かりやすいし。「手法としての特撮」であることは良く理解しております

 さて、ガメラ生誕50周年記念映像とやらが公開されている。

 お、と思うところもあるのだが、結局外したところが余りにグダグダすぎるので全体が全然締まらない。誰を俳優に使おうが「目を覆わんばかりにグダグダな合成画面を作る」必要は、「映画作品」という視点からはあり得ない。他の合成カットが「今日的な意味でごく普通」にできているだけに、それら一連のカットの出来の悪さ、と言うか「志の低さ」は唾棄すべきレベルだと思う。どんな名優を使おうが、「作品の出来のためなら」サクッと処理するべきところはサクッと処理してしまえるハリウッド流は誰がなんと言おうが正しい。

 リリー・フランキー氏を使うのは良いけど、使いこなせてる監督がいったい何人いるんですか?っつー感じのレベルの低~い低~い話ですよ。あと、「シン・なんとか」ってや…

2015/10/20

WE TRUST JJ

 「JJ、俺達はあんたを信頼しているぜ」

海外のスターウォーズファンが着ていたTシャツのプリントだ。JJは「フォースの覚醒」の監督、JJ エイブラムスを指すことは言うまでもない。

 さて、予告編の第二弾が公開された。世代的に「期待するな」というのが無理な話だ。

 スターウォーズ・エピソード1~3はある意味とっても不幸、とてつもないハンデを背負っての制作だった筈だ。エピソード4~6の前日譚であるから、ヨーダなどの例外を除けば「おなじみに顔ぶれ」は出ることができない。加えて、シリーズのラストは誰もが知っていた、「ダースベーダーの誕生」だ。二分法における正邪の正、ジェダイは邪たる帝国と皇帝に敗れるのだ。このような縛りの下では、観客にカタルシスを与えることは根本的に困難と言える。残念がらエピソード1~3は最後までこの縛りを克服できなかったと思う。

 対して、これからのエピソードにはこの種の縛りはほとんど無い。 それだけでも期待してしまう。ほんの二、三カ月前までは「JJかぁ~」と斜に構えていたのだが、今は根拠も無いままワクワク感が抑えられない(とは言え、予告編は「JJ風カット、カメラワーク」がテンコ盛りで、正直間口の狭い監督だなぁとは思う)。「おなじみの顔ぶれの今」と「劇中の時間経過」がシンクロしたとき、それだけでもちょっとした魔法が生まれるかもね。

 実際、このカットにはグッとくるんだよなぁ。

2015/07/27

かってにセレクト、ライムスター宇多丸さんの宇宙戦かんああと評

 いつも的確と思います、っつーかしゃべってる内容が他人のものとは思えないんですが。ネタは古いですが、再評価には耐えられないだろう作品に対する評は人類が滅びても変わらないでしょう。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」評・・・タイトルが違うとかは小さいこと。駄目なものが何故駄目なのかはそもそも駄目だからということが駄目な作品の共通因子。要は「力の無い人間の覚悟」なんて「覚悟ですらない」が故に意味が無いということ。「Sport man ヤマダ」にも共通しますが、作り手の「志の低さ」は作品に明確に宿ります。
 「Sport man ヤマダ」評

2015/07/19

ふぁっ!The Man from U.N.C.L.E.?

 リメイク(Remake)、リ・イマジンド/リ・イメージド(re-imagined/re-imaged)、リブート(reboot)、どのニュアンスが近いのかは不明だが、米国の往年のTVシリーズ"The Man from U.N.C.L.E."と同タイトルの新作映画が公開間近らしい。

 コミック・コン用予告編を見る限り、旧作との別物感はハンパ無い。だが、その印象とは裏腹に、劇中の時代は1960年代あたり、つまり旧作が製作された時代だ。

 "The Man from U.N.C.L.E."は日本では「0011/ナポレオン・ソロ」のタイトルでTV放映され、劇場映画(再編集版)も公開されている。主人公である「ナポレオン・ソロ」の命名者にして人物造形の原案者は、007シリーズの原作者であるイアン・フレミングだそうだ。イアン・フレミングの命名センスはちょっと独特で(007シリーズに登場する女性の名前は変なのが多い)、さらっと「ナポレオン」なんて使ってしまうあたりはフレミング節とも言える。

 上の予告編の別物感のひとつの原因は、音楽に旧作テーマ曲との接点がまったく無いところが大きいように思う。旧作のテーマ曲は5拍子が基本で、これはスパイ大作戦("Mission Impossible")のテーマ曲も同様だ。

2015/04/19

次は合成、ライティング?

 昨夜TVで放送していた映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」は、映画としての出来はともかく、日本映画での3DCGの習熟度を計る上でひとつのマイルストーンだったと思う。

 日本の特撮映画において水、ひいては海は鬼門だった。水は表面張力という曲者のせいで代表的な物理的スケールがあり、そのスケール単独での縮小が不可能故にミニチュア特撮の敵と言える。ここで物理的スケールとは液滴や液塊、気泡の大きさや波の大きさと速度との関係などである。私達は水の挙動を経験的に知っているため、例えば球形で存在できる水の塊の大きさなどを基準に、画面の中の物体の大きさを無意識に測っている。ミニチュアがミニチュアに急に見えるようになる瞬間は、往々にして水がらみであることが多い。裏返せば、水側のスケールをコントロールしてやれば画面内の物体の大きさを錯覚させられると言うことであり、3DCGによる水表現によるトリックの肝中の肝と言える。 「聯合艦隊司令長官 山本五十六」は、この部分に関しては成功作と言え、感心もしたものだ。

 一方、煙とライティング(すなわち影)はかなり不味く、特にライティングはプロの不在を思わせる。水と同様に煙も物理的スケールを持っているが、物理シミュレーションで作成されているだろうから水同様にスケールの問題はほぼ発生していない。しかし、煙が自分自身に落とす影や透過度の表現はゲーム画面レベルの低次元のものだ。画作りのワークフロー上は合成(コンポジット)作業過程の不手際と言えるだろうか、本質はライティングのディレクション不在にあると思う。

 終盤の山本五十六搭乗機の撃墜CGシーンは完全にライティングで失敗している。影の不在は援護の零戦をミニチュア然と見せるばかりだし、そもそもライブアクションシーンのライティングともマッチしていない。山本五十六搭乗機の撃墜は、ブーゲンビル島上空、4月18日の午前8時ごろである。ライブアクションシーンのライティングは日の出直後乃至は日の入り近くと思われるオレンジがかった低い太陽のものである。

 ところが、CGカットのライティングは方向が不明確で照度が均一、白色光である。このような状況は、現実には晴天時に存在しない。朝とは言え太陽光は強く、機体の反射光や照り返し光が飽和して画面上で白く抜けるような状態が現れもおかしくないのが現実だ。強い太陽光に照らされた機体があの明るさならば、空中から見えるジャングルは黒く見えなければならない。だが、画面上のジャングルは青々としていた。

 山本五十六搭乗機の撃墜シーンは本映画のクライマックスのはずだが、ライティングに関わる2つの問題のせいでそれがスポイルされている。一つ目はCGカットとライブアクションカットのライティングが一致していないこと、二つ目が上述のCGカットのライティングの不自然さである。欧米のCGインダストリーではライティングはクレジットされる専門職であり、プロフェッショナルな仕事が求められると言える。 映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」はライティングの出来にムラが大きすぎ、一貫性が無いのは返す返すも残念だ。

 さて、 ブーゲンビル島上空、4月18日午前8時の晴天時の状態をシミュレートすると下の図の如くなる。太陽光が強いので、手前主翼端付近はほとんど輪郭が見えないぐらい一部が明るくとんでしまっている。また、光はややオレンジがかっている。ライブアクションカットのライティングは、やや照度不足と言う気はするけど、かなり正確と言えよう。ならばCGカットのライティングは出鱈目と言う事になる、残念ながら。

2014/11/29

STAR WARS Ep.7のティーザー公開


Xウィングファイター、TIEファイター、ミレニアムファルコンが地球型惑星の大気圏内どころか地表や水面すれすれで高機動運動・・・スターウォーズの世界観も大変更ですか、作り手の知的な感じ(ちゃんと考えてる感)が下がる一方ですなぁ。

2014/10/30

ゴジラの映画音楽と言えば…

まずは伊福部昭氏、でも佐藤勝氏も忘れちゃいけない。両氏ともにリズミック、かつ一種の日本テイストを備えた楽曲を特徴とするが、方向性は全く違う。ざっくり、伊福部氏は西洋楽器を使いつつ日本(更にはアイヌ楽曲)的なリズムやメロディーを導入するという方向性、対して佐藤氏は和太鼓などの日本のパーカッションを積極的に使う方向性、と言えるんじゃないかと思う。

 ゴジラシリーズに絞れば、佐藤氏は「ゴジラの逆襲」と「ゴジラ対メカゴジラ」の劇音を担当している。前者ではメインタイトル、後者ではゴジラの皮(?)がはがれてメカゴジラが全身を表すシーンに使われた楽曲がそれぞれお気に入りだ。

 まず「ゴジラの逆襲」。黒澤明映画っぽいと思ったあなた、そう、その通りですよ。
 で、メカゴジラ。
 で、今日初めて知ったの事が!この曲に歌詞付きのバージョンがあったとは!

2014/10/16

アパッチ!

 以前に職場の喫煙室で同僚と「ニコラス・ケイジ主演の映画『アパッチ』は全然TVとかでやらなくなったよね、DVDも見たことないしね」なんて話していた事がありました。

 宇宙人ジョーンズがなんか若いねぇ。お約束のデイル・ダイ大尉(退役)も登場!

2014/08/25

FIAT500≠ルパン三世

 昨日の昼間、映画「ルパン三世」の特番をTVでやっていた。で、たまたま観たのがFIAT500を使ったカーチェイスシーンがらみの部分。監督が出てきて「FIAT500でのカーチェイスは皆観たかったでしょ」みたいな事をドヤ顔でしゃべっていたが、実は凄い違和感。個人的には全く観たくもないし、ルパンらしくもない。

 「FIAT500は某映画の監督や作画監督の趣味であって、ルパンの趣味じゃないでしょーよ」、と言うのが正直なところ。

 ルパンが拳銃連射するシーンにも凄い違和感。私にとってのルパンは一発必中、しかも「狙いはそこか!」ってならないとつまらないし、カッコ良くもないよね。

 それはさておき、今度の映画では富士山は噴火しない・・・よね?

2014/08/08

バック・トゥ・ザ・フューチャー、やっぱり上手いね

 TVで久しぶりに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を試聴。脚本始め本当に幸せな映画。小ネタの効き具合がハンパじゃない。デロリアンが未来に帰る瞬間のカットとターミネーターが未来からやってきた瞬間のカットはともにチリチリ、85年ごろの米国映画を代表する実にアイコニックなカット。

 主題歌がヒューイ・ルイス&ザ・ニュースってのも実に80年代的。分かる人はここで笑って頂戴。

 で、オマケ