2013/06/26

今さらながら 「『オタク・イズ・デッド』@ロフトプラスワン 」を観る。

 Youtubeにupされている岡田斗司夫氏の「『オタク・イズ・デッド』@ロフトプラスワン」を観る。話の分かり易さは両刃の剣だが、真面目に聞く限りは誤解は生まないだろう論展開はやはり見事。

 コメント欄に「(最後で)なぜ、泣いてるんだろうか?」とのコメントがあるが、「オタク」でありながらそこが分からない或いは理解できないというなら、やはり「オタク(という文化的グループ)の消滅」は本当なのだろう。

 岡田氏の話の中で、「オタク」は三世代に分類される。
  • 第一世代:貴族的、求道的。「かくあるべし」という有様が共通認識としてあり、グループ内での切磋琢磨もある。グループ内に共通認識に基づく結社的な結束が存在し得、かつグループ外部に対しては閉鎖的な傾向も持つ。後者故に「差別的」扱いを受けることがあるが、当事者は「貴族の気持ちは貴族にしか分からない」と基本的に気にしない。他方、一部のメンバーがグループ間のコミュニケーション及びグループ外への情報発信を積極的に開始、旧来の「かくあるべし」との有様への反発も含みつつ第二世代への移行を加速することになる。
  • 第二世代:選民的(エリート的)。「かくあるべし」という有様が多様化、相対化するとともに、求道的な態度は消滅していく。「なぜ、***の良さ、面白さが分かってもらえないのか」といった類のグループ外部とのコミュニケーションギャップ故に「差別的」扱いを受けることがあるが、当事者は「***の良さ、面白さが分からないなんて可哀想だな」と自分を納得させられるだけの理論武装、主張は持つ。評論家などにより主張がすくい上げられ、グループ外部の人間による代弁すら起きた世代。
  • 第三世代:「かくあるべし」という核となる共通の価値観は消滅し、「萌え」に代表される曖昧な概念でカテゴライズされる。包括的な類型化はもはや不可能。
第三世代では核となる共通価値観がないことが、他の世代との重要な違いだろう。ある歴史学者は「10歳までに自分の民族に伝わる神話を教えなくなった民族は100年内に滅びる。」と書いたと聞く。ここで「滅びる」という言葉が指すのは「固有の民族文化の消滅」、周囲との同化である。

 岡田氏は「かつて『オタク文化』と呼ばれた、個人が『好きだ、面白い、素晴らしい』と感じたものへの接し方、取り組み方のひとつの作法」が消滅していしまったことを悲しんでいるのではないかと思う。第一世代はひたすら高みを、先端を目指して研鑚し、その多くは自分の得たものを次世代に向けて披歴した。第二世代は同人活動などを通じて対象に能動的に迫ろうとし、自分の言葉で語るべく、時に悶々とせざるを得なかった。これら両世代の有様に共通するものは、「なぜそれが好きなのか?」という自己への問いを不可避とする態度である。

 理由も語らず「だって好きなんだも~ん。」という一言で片づける人達の登場は、個人的にも衝撃だった。今の自分の大部分が「一銭にもならない、生きる上では必要ない、他人にとっては意味が無い事ごと」に対する思索でできているような身としては、「自分の好きなものについて何も考えない、手放しで自らの嗜好を肯定するのみ」といった態度は解せない。「自分探し」なる理解不能な行動が陽に語られ始めたのと同時期のことである。

 個人的には、図らずも「オタク文化」として突出して語られた態度は、程度の差こそあれ如何なる分野にでも存在する作法だと考える。プロフェッショナルな仕事というのは、少なくとも私のような凡人にあっては、「オタク文化」的なアプローチを対象に適用しない限りは達成できない。

 「オタクの死」という状況を一般化することの愚は承知の上だ。だが、「自分の好きなものに対して何らの考えを持たない」人間に、「興味の無いことについて考えられる」ことを期待できるだろうか。上から下までのあらゆるレベルにおける創意工夫は、かつての日本の高度経済成長を支えた一要因と信じるに足る証拠がある。いわゆる"Kaizen"である。

 「オタクの死」は致し方ないとしても、「オタク文化」とかつて呼称された「対象に向きあう態度」までも死んでしまったとなれば失なわれたものは余りに大きい。「ネ申」を平気で頻出させる態度、またリクルーターとしての活動経験にも照らすと、少なくとも「考え、行動する者」と「考えない、行動しない者」との二極分化は最近とみに顕著になって来たやに見える。

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